パソコンに囲まれて仕事をし日曜日には妻と買い物をし、夜と昼が逆であっても、暦はめくれていく。もう5月末なのだから、夏休みをいつ取るか会社に申請してもおかしくない。
しかし、夏休みという語に開放感を覚えない自分がいる。
妻と2人で旅行することが、何かしら嫌な宿題のような、そんな気分になっている自分を見つけて、笑いたくなった…男女の愛とはまことに、簡単に冷めるのだな、と。
だが、僕の愛は冷めたのではなく…どうやら変質していったのだと、そんな白々としたことを考える。そう、妻のことは愛している。
だけど、崇拝し憧憬している相手は、違う女性だ。
ほぼ毎朝、妻が出勤してから僕はいそいそとスカーフを取りのけ、彼女と向かい合う。
写真の人物がまばたきするはずは無い。だが、僕が頭の中で、彼女が生きていて、呼吸もすると考えるのは自由ではないか? だって美しいものを眺めるのは誰だって好きだろう。
…何と完璧な。この顔もだが、すんなりと伸びた指を合わせた手の形が。
その手首の手錠に至っては、ものすごい妄想を呼び覚まされる。なせ、彼女はこのように自由を奪われているのか? 自由を奪われていながら、これほど驕慢な、残忍な、嬉しそうな笑いをたたえているのか?
その笑みは、確かに扇情的と言えなくもない。男を誘っているのだ。一緒に楽しみましょう、と。
その楽しみは、いかばかり目もくらむようなどぎつい快楽であるだろうか。僕は、確かに彼女に手錠をかけ、自由を奪って、服を脱がしてゆく自分を空想し、頭がぐらぐらするのを感じた。
ほんの1時間ほどのセクシュアルな妄想。人には決して言えない楽しみ。
しかし、その楽しみの後で会社に行くのは結構しんどかった。そんな歳でもないはずだが、この「彼女」とさしで向かい合い、妄想した後の消耗度合いはひどかった。めまいすらした。昼12時の出勤で本当に良かった、と思わずにいられない…座ってゆけるからだ。
35歳にして、こんなに体力が落ちるものなのか? と不安がたまに心にきざした。
ところで、この写真を撮影した作家は、結局分からずじまいだったのである。あのギャラリーに電話を入れたところ、初老の店長が話してくれたのだが、作者は写真家ではなく画家ということで、しかも最近亡くなったそうだ。「その方は、亡くなる前に、趣味で撮影していた写真のいくつかを画廊で売りに出して、売り上げはチャリティに寄付して欲しいと遺言を残してたんですわ」
「…そりゃあ変わった方だ」
「で、代理の方がやって来たのですが、その方のお名前を聞いても教えてくれないのです。『作者名が分からないとお客さんが納得しない』といくら言っても駄目。だから私どもも申し訳なくて」僕はそこまで聞いて、ちょっと彼の言うことは真に受けていいものか、と思った。
そんなわがままな「代理の方」だったら、うちでは売りません、といって断ればすむのに……論理がおかしい気がする。作者名は知っているが、言えない事情があるので話を作っている、と言う印象を僕は持った。それならそれで、構わなかった。
作者を捜すよりは、モデル本人に会えた方が嬉しいと思ったからだ。だが、その気持ちよりはじつは、もっと他の欲望があった。
それをかなえるにはいささか冒険をせねばならず、僕は妻を送り出した後、眠い目をこすってネット逍遙を始めた。