ロックス・アンド・チェインズ

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【SCENE FOUR】( 1 / 3 )

SCENE FOUR

当初の予定では寝室に飾りたかったその写真は、妻がどうしても見たくないと言うので、結局僕のパソコンデスクの足元に置くことになった。妻の派手なスカーフをかぶせて。

パソコンスペースはリビングの隅なので、これならば、もし来客にお見せしたい時にはスカーフを取れば良いので簡便だからだ。押し入れや物置とまでは言いはらなかった妻に僕はほっとした。

 

だが、頭では妻の理解をありがたいと思おうとしたが感情はまた別のこと。心の数パーセントは、なんで隠さないといけないんだ、自分のものを家に飾れないなんて、と、釈然としなかったから。もっとも、僕と妻とでは、出勤時間がかなりずれている。彼女は8時に仕事に出かけるが、僕は早出の時以外は午後出勤だ。僕が家で一人でいる時間は、かなり多い。まあそのことが救いかな、と僕はこっそりうなずいたのだった。

 

僕の勤めている会社は、FX (外国為替証拠金取引)の会社である。リーマン・ショックを境に業績は右肩下がりだが、それでも健闘しているほうであろう。

僕は大切なお客様に、損をさせないように市場の雲行きを流す天気予報士みたいなものだ。

 

Cash selling rateだのCash buying rateだの、電信買相場(でんしんかいそうば)だのといった、お金ではなく「通貨の情報」ばかりを流して、こちらも受け取るという世界にいると、実態と、憶測との落差とを感じられなくなる人間になるのでは、と時々怖くなる。

実態が、自分が情報をかき集めてつくりあげた「憶測」と少々違っていても、無理矢理実態の、憶測と合致している部分をとりあげて「ほら、やはりこれはドイツの消費者物価指数の上昇幅と、リンクしているではないか。おれ様の思った通りだ」と言いはる人間になる、そんな奇態なことになりそうな予感がつきまとう。

 

というのは、現実にそんな奴らこそが、この世界で金融アナリストとかコラムニストなどという肩書きで活動しているからだ…僕はそんな虚名は要らない。

だが、お金は欲しい。なので、少しでも「実態を予測する手がかりになる」記事を残そうと励んで来たのだ…35歳の今日まで。

【SCENE FOUR】( 2 / 3 )

ECB の職員は、今こうしている間にも粛々と仕事しているだろう…ギリシャの問題を無事解決するために…とはいえ、ユーロはドルに対しておよそ14パーセント下落してしまった。EUREER=ECBF(貿易加重平均ベース)では、ユーロは10パーセント超下落した。このままでは、ユーロ圏はかなりの確率でリセッションに陥るだろう。これは、相当まずい事態なのだが、まずい割にはマーケットは静観している…2008年9月のリーマン・ショックの時ほどには大騒ぎしない。

かくいう僕も、レポートに書く内容はここのところ、「市場はリセッションは織り込み済みなので静観するに越したことは無い」みたいなことばかり書いている。グラフだのなんだのを駆使して。

 

憶測を理路整然とした文章にし、それによって人を説得するのが僕の仕事だが、それが外れようと、当たろうと、日本の自殺者の数が減る訳ではないし、日銀がちぐはぐなオペレーションをやる体質は、何も変わりはしない、とも言いたくなる。そうなると、僕の為替レポートを心の底から鵜呑みにしている人が、世の中にたくさんいると言うことが、あってはならないことのように思えてくる。

 

ともあれ、平日の朝、妻が出かけてしまってから一人で飲むエスプレッソは美味だ。

 

日の当たるリビングで、僕は食卓に「その姿」をそっと置いてみた。

写真の中の女は、やはり美しかった。大きな黒い瞳が、一直線に僕に向かっている。手首の手錠を、まるで勲章を見せびらかすように、堂々とかざしているようなのは、気のせいか…

 

写真はモノクロなのだが、彼女の爪だけが真っ赤に彩られていて、その少量の赤が、確かに妻の思うように、エロな感じがしないでもなかった。エロチック、あるいは危険な欲望をかきたてる…

 

彼女の姿は、腰までしか写真に映っていないが、あるいはその足首にも、足かせがはまっているのかもしれない…そう、これを撮影した人間は確かにそれを望んでいたろうと僕は思った。

【SCENE FOUR】( 3 / 3 )

まだ、あのギャラリーの閉店までには日がある。ちょっと電話して、写真家がどんな人か聞いてみることにしよう。そう思って、にっこりと写真の「彼女」に笑いかけた。

 

その時、「彼女」の目がぱちぱちとまばたきをした(ように見えた)。

思わず僕は目をこすり、視力でも落ちたのかな、と思ってスカーフをかけた。もう通勤の準備をしなくてはならない。僕は両手で額を持ち、では、しばしお別れだね、と冗談めかして話しかけた。


【SCENE FIVE】( 1 / 1 )

SCENE FIVE

パソコンに囲まれて仕事をし日曜日には妻と買い物をし、夜と昼が逆であっても、暦はめくれていく。もう5月末なのだから、夏休みをいつ取るか会社に申請してもおかしくない。

しかし、夏休みという語に開放感を覚えない自分がいる。

妻と2人で旅行することが、何かしら嫌な宿題のような、そんな気分になっている自分を見つけて、笑いたくなった…男女の愛とはまことに、簡単に冷めるのだな、と。


locksasie.jpg


だが、僕の愛は冷めたのではなく…どうやら変質していったのだと、そんな白々としたことを考える。そう、妻のことは愛している。

だけど、崇拝し憧憬している相手は、違う女性だ。

 

ほぼ毎朝、妻が出勤してから僕はいそいそとスカーフを取りのけ、彼女と向かい合う。

写真の人物がまばたきするはずは無い。だが、僕が頭の中で、彼女が生きていて、呼吸もすると考えるのは自由ではないか? だって美しいものを眺めるのは誰だって好きだろう。

…何と完璧な。この顔もだが、すんなりと伸びた指を合わせた手の形が。

 

その手首の手錠に至っては、ものすごい妄想を呼び覚まされる。なせ、彼女はこのように自由を奪われているのか? 自由を奪われていながら、これほど驕慢な、残忍な、嬉しそうな笑いをたたえているのか?

その笑みは、確かに扇情的と言えなくもない。男を誘っているのだ。一緒に楽しみましょう、と。

その楽しみは、いかばかり目もくらむようなどぎつい快楽であるだろうか。僕は、確かに彼女に手錠をかけ、自由を奪って、服を脱がしてゆく自分を空想し、頭がぐらぐらするのを感じた。

 

ほんの1時間ほどのセクシュアルな妄想。人には決して言えない楽しみ。

 

しかし、その楽しみの後で会社に行くのは結構しんどかった。そんな歳でもないはずだが、この「彼女」とさしで向かい合い、妄想した後の消耗度合いはひどかった。めまいすらした。昼12時の出勤で本当に良かった、と思わずにいられない…座ってゆけるからだ。

35歳にして、こんなに体力が落ちるものなのか? と不安がたまに心にきざした。

 

ところで、この写真を撮影した作家は、結局分からずじまいだったのである。あのギャラリーに電話を入れたところ、初老の店長が話してくれたのだが、作者は写真家ではなく画家ということで、しかも最近亡くなったそうだ。「その方は、亡くなる前に、趣味で撮影していた写真のいくつかを画廊で売りに出して、売り上げはチャリティに寄付して欲しいと遺言を残してたんですわ」

「…そりゃあ変わった方だ」

「で、代理の方がやって来たのですが、その方のお名前を聞いても教えてくれないのです。『作者名が分からないとお客さんが納得しない』といくら言っても駄目。だから私どもも申し訳なくて」僕はそこまで聞いて、ちょっと彼の言うことは真に受けていいものか、と思った。

そんなわがままな「代理の方」だったら、うちでは売りません、といって断ればすむのに……論理がおかしい気がする。作者名は知っているが、言えない事情があるので話を作っている、と言う印象を僕は持った。それならそれで、構わなかった。

作者を捜すよりは、モデル本人に会えた方が嬉しいと思ったからだ。だが、その気持ちよりはじつは、もっと他の欲望があった。

 

それをかなえるにはいささか冒険をせねばならず、僕は妻を送り出した後、眠い目をこすってネット逍遙を始めた。

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深良マユミ
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