ロックス・アンド・チェインズ

【SCENE  THREE】( 1 / 1 )

SCENE  THREE

「あなた、作者名も知らないのに買ったの? 」

僕は、自分が店側に作者名を聞きもしなかったことに、初めて気がつき、ええっ、おれって、作者のことも気にせずに買っちゃったのか、とそのことにちょっと驚いた。そういえば、絵画ならば梱包の中に「作者略歴」とかが入っているものだ。いや、そのまえに、陳列されている時に、作者名も一緒に添えられているのが通常だ。

そう考えると、写真作品と言うのは、なんとも著作権者の扱いが軽いものだ…と、変な感慨を持ってしまう。

だが、今問題になっているのは、作者も知らないのに、お手頃とはいえ数万円のお金を払ってしまうくらいにこの写真に魅せられてしまった僕を、我が妻が快く思っていないということだ。

 

僕の妻は、ちょっと有名な作曲家の事務所で契約社員として働いている。そんな彼女が作品の著作権者について注意が向くのは自然なことだ。

 

というか、明らかに僕は、これを撮影した人間については完全に眼中に無かったのだ。要するにどうでも良かった。

興味があったのは、写真本体と、その中の女性だけ…黒髪の、白いブラウスの、手錠に手首を巻かれてうっとりと微笑んでいる美女。

 

見つめていると何か誘われているような、妙な気分になるのは、何故なのか。

そう、僕はこの彼女の姿を手元にとどめたい、見えるところにおきたいからこそ、購入したのだ。だが妻にはそんな微妙な、説明の難しい心情をわざわざ言う気になれない…

どうやら妻は、僕の「彼女」への思いを嗅ぎ付けてそれで嫉妬めいた不愉快さをもっているのだ。そうに違いない……とするとどうなるのだろうか?この写真は飾るのは断念し、押し入れにでもしまうのが良いのか?

【SCENE FOUR】( 1 / 3 )

SCENE FOUR

当初の予定では寝室に飾りたかったその写真は、妻がどうしても見たくないと言うので、結局僕のパソコンデスクの足元に置くことになった。妻の派手なスカーフをかぶせて。

パソコンスペースはリビングの隅なので、これならば、もし来客にお見せしたい時にはスカーフを取れば良いので簡便だからだ。押し入れや物置とまでは言いはらなかった妻に僕はほっとした。

 

だが、頭では妻の理解をありがたいと思おうとしたが感情はまた別のこと。心の数パーセントは、なんで隠さないといけないんだ、自分のものを家に飾れないなんて、と、釈然としなかったから。もっとも、僕と妻とでは、出勤時間がかなりずれている。彼女は8時に仕事に出かけるが、僕は早出の時以外は午後出勤だ。僕が家で一人でいる時間は、かなり多い。まあそのことが救いかな、と僕はこっそりうなずいたのだった。

 

僕の勤めている会社は、FX (外国為替証拠金取引)の会社である。リーマン・ショックを境に業績は右肩下がりだが、それでも健闘しているほうであろう。

僕は大切なお客様に、損をさせないように市場の雲行きを流す天気予報士みたいなものだ。

 

Cash selling rateだのCash buying rateだの、電信買相場(でんしんかいそうば)だのといった、お金ではなく「通貨の情報」ばかりを流して、こちらも受け取るという世界にいると、実態と、憶測との落差とを感じられなくなる人間になるのでは、と時々怖くなる。

実態が、自分が情報をかき集めてつくりあげた「憶測」と少々違っていても、無理矢理実態の、憶測と合致している部分をとりあげて「ほら、やはりこれはドイツの消費者物価指数の上昇幅と、リンクしているではないか。おれ様の思った通りだ」と言いはる人間になる、そんな奇態なことになりそうな予感がつきまとう。

 

というのは、現実にそんな奴らこそが、この世界で金融アナリストとかコラムニストなどという肩書きで活動しているからだ…僕はそんな虚名は要らない。

だが、お金は欲しい。なので、少しでも「実態を予測する手がかりになる」記事を残そうと励んで来たのだ…35歳の今日まで。

【SCENE FOUR】( 2 / 3 )

ECB の職員は、今こうしている間にも粛々と仕事しているだろう…ギリシャの問題を無事解決するために…とはいえ、ユーロはドルに対しておよそ14パーセント下落してしまった。EUREER=ECBF(貿易加重平均ベース)では、ユーロは10パーセント超下落した。このままでは、ユーロ圏はかなりの確率でリセッションに陥るだろう。これは、相当まずい事態なのだが、まずい割にはマーケットは静観している…2008年9月のリーマン・ショックの時ほどには大騒ぎしない。

かくいう僕も、レポートに書く内容はここのところ、「市場はリセッションは織り込み済みなので静観するに越したことは無い」みたいなことばかり書いている。グラフだのなんだのを駆使して。

 

憶測を理路整然とした文章にし、それによって人を説得するのが僕の仕事だが、それが外れようと、当たろうと、日本の自殺者の数が減る訳ではないし、日銀がちぐはぐなオペレーションをやる体質は、何も変わりはしない、とも言いたくなる。そうなると、僕の為替レポートを心の底から鵜呑みにしている人が、世の中にたくさんいると言うことが、あってはならないことのように思えてくる。

 

ともあれ、平日の朝、妻が出かけてしまってから一人で飲むエスプレッソは美味だ。

 

日の当たるリビングで、僕は食卓に「その姿」をそっと置いてみた。

写真の中の女は、やはり美しかった。大きな黒い瞳が、一直線に僕に向かっている。手首の手錠を、まるで勲章を見せびらかすように、堂々とかざしているようなのは、気のせいか…

 

写真はモノクロなのだが、彼女の爪だけが真っ赤に彩られていて、その少量の赤が、確かに妻の思うように、エロな感じがしないでもなかった。エロチック、あるいは危険な欲望をかきたてる…

 

彼女の姿は、腰までしか写真に映っていないが、あるいはその足首にも、足かせがはまっているのかもしれない…そう、これを撮影した人間は確かにそれを望んでいたろうと僕は思った。

【SCENE FOUR】( 3 / 3 )

まだ、あのギャラリーの閉店までには日がある。ちょっと電話して、写真家がどんな人か聞いてみることにしよう。そう思って、にっこりと写真の「彼女」に笑いかけた。

 

その時、「彼女」の目がぱちぱちとまばたきをした(ように見えた)。

思わず僕は目をこすり、視力でも落ちたのかな、と思ってスカーフをかけた。もう通勤の準備をしなくてはならない。僕は両手で額を持ち、では、しばしお別れだね、と冗談めかして話しかけた。


深良マユミ
ロックス・アンド・チェインズ
5
  • 200円
  • 購入

4 / 17