生き延びるためのメディアと信頼ネットワークの再構築

メディアを通しては見えない被災の全貌

東北6県の祭りを集めた「東北六魂祭」では、71617日の2日間で延べ366300人が仙台を訪れたという。仙台は東北の中心都市であり、その活況は望ましい限りだが、震災復興を願って、遠方から訪れた観光客に<被災地>が、どこにあったのかが見えただろうか? 否、問うまでもないだろう。そもそも、その全貌も、細部も、政府や自治体さえいまだ把握できていないのだ。今回の震災の特徴は、その規模が大きいだけでなく、広範囲でかつ分散的で、個別の被災状況が多様な上に、原子力発電所事故が重なったために、複合的かつ複雑で、全貌が把握しづらい点にある。そもそも、3.11から4カ月を過ぎた仙台駅前の都市機能は回復しており、被災地の様相は見た目にわずかしか残っていないのである。

しかしながら、被災は目に見えないだけで、実は、街の隅々に陰を落としている。例えば、仙台駅前の歓楽街・国分町を歩いて、前から歩いて来る幸せそうなカップルや友人グループのうち何人かが、家族や親戚、自宅や財産をすべて失っていたとしても、それは見た目には分からない。自宅のたった100m手前で津波が引いたのか、それとも100m近かったがゆえに全てを飲み込まれてしまったのかは推測することもできない。またご機嫌なお兄さんたちが、実は過酷な遺体捜索作業に従事している自衛隊員や医師、警官たちで、つかの間の息抜きに飲みに来たのかは見ただけでは分からない(自衛隊は極力被災地で目立たないよう命令されており、任務の内容を家族に話すことも許されない。自衛隊員や米軍でさえ見たことのない数の水死体を検死するにあたってかり出された地元の歯医者も想像し難いストレスに悩まされたという)。

このように、震災によるストレスは、放射能汚染と同じくどこにあるのかは目に見えないのだが、膨大な量が生まれ続けていて、3.11直後から減りつつあるとは言えない。それらは拡散しつつ、ところどころに沈着し、ホットスポットを形成し、人々の心や生活の糧を圧迫しているのだ。一体これらの状況をいつになれば詳細を把握することができるのだろうか? その上で復興を促進する方法はあるのだろうか?

被災の多様性とデジタル・ジェノサイド

繰り返しになるが、東日本大震災は、過去の巨大地震災害とは違った事態の複雑さによって、復興を遅れさせている。複雑さとは、まず複合災害によって起こった<被災の多様性>にある。例えば、仙台市では、建物や家財が損害に遭ったことを証明する罹災証明書を発行していて、不動産でも被害程度の判定のために「東日本大震災被災建物被害判定シート」を各種用意している。しかし、住宅と工場では見た目の損壊が同じでも、被害程度は違う場合がある。印刷工場では地盤が少しずれただけでも業務に差し支える場合があるが、そのような区別はされない。そもそも、これらの支援金は生活支援に過ぎず、個別の資産や業務継続のための支援ではない。印刷会社が貴重なリース機材やローンで購入した機械を津波で失った場合、施設を復旧するには二重ローンを組むことになる(返済留保期間については検討されている)。

また、IT業界の媒体でもこの方面の指摘が少ないが、16年前の阪神淡路大震災の頃と今とでは、印刷会社のコンピューター化の浸透は全く違っている。印刷データの大半はデジタルデータとしてハードディスクに格納されていたはずである。またハードディスクの大容量化によって、それらのデータのバックアップができていたかどうかによって被害の大きさも違ってくる。このようにデジタルデータの復旧対応が放置される状況は<デジタル・ジェノサイド>と呼ばれている。

石巻の松弘堂の本社社屋は地震と津波で大きな被害を受けたが、現在は石巻日日新聞社の会議室に仮事務所を設けて業務を再開している。松本俊彦社長は、事業継続を決心した理由の一つとして、防火用金庫にデジタルデータが残されていたことを挙げている。

コミュニティーのあり方が問われる時代

さらには、被災地が広域な上に、人口密集地以外の被災状況、自ら情報発信ができない生活圏の詳細が把握できないために、救援にばらつきが生まれ、二次的な被害が生まれる場所も多かったようだ。マスメディアに取り上げられやすい場所には救援物資も、ボランティアも集まるが、自前のメディアや中央にパイプを持たない小さな自治体や市民は、情報的にも物質的にもライフラインが途絶した。買い占めに走る東京のニュース映像を被災地で目にしながら、自分たちの窮状が伝えられないことに、より強い飢餓感やストレスを感じたに違いない。

また、元々地域への愛着から、より利便性の高い都市部へ移り住むことを拒否していたこともあり、地元の復興を諦めて、どこかにすぐ疎開するというわけにもいかない。これは、都市部の人間や、故郷を離れて都会へ望んで引っ越した人間には想像がつかない心情だろう。特に東北の人にはそういった土地への愛着や執着が強いことが、今後、中央が策定する合理的な復興計画(これを機に先進的なスマートシティやエコタウンを構想している人たちの考え)と相反することになると懸念される。これは、非中央(周縁)の生き方を国家がどう尊重するかの試金石であり、<東北というアイデンティティー>を認識させる闘いになるだろう。

最も深刻だと感じた問題は、悲しいかな、こういった混乱に対し、強い意思決定のできる<リーダーシップ不在による複雑さの増幅>である。これは日本政府だけの問題ではない。自治体や組合など、本来相互扶助する関係であった無数のコミュニティーが時代とともに希薄化することで、小さなコミュニティーのトップが情報をまとめて、上位のコミュニティーに情報を伝達するルートが形骸化してしまったのだと推測される。

例えば、孤立化しないように、他府県から自治体ごとの疎開を受け入れるとの提案を受け、被災地の自治体もそう勧告したものの、隣近所の付き合いのない新興住宅地でいきなりグループをつくって疎開するというのは無理な提案だったことに気が付いたのは、提案者も当事者もそれを実施しようとしてからのことだった。人と人との結びつきが変わり、ある意味制約や強制力のない自由な付き合いになったことで、緊急時に統制力が働かなくなったのは自明のこととはいえ、考えさせられる課題である。

また、自治体にとって大きなお祭りの動員への対応は、災害時のシミュレーションになる。「東北六魂祭」でも予想の4倍の集客から、一部イベントが実施できなかったようだが、当然4倍の確率で病人が出たり、トイレの数が足りなかったり、いろいろなトラブルが発生する。祭りがあることで地域の結び付きが確認されたり、いつもとは違う状況への想定訓練になったりと、昔ながらの慣習には多様な意味と価値があるものだと再認識した。

避難所となる大学やメディアそのものも被災した

震災後、初めて被災地を訪れたのは、5月に東北大学医学部で行われた科学技術コミュニケーションの研究会に参加するためで、それは10年前に開館した日本で最も先進的な図書館・メディアセンターとして名高い「せんだいメディアテーク」での講演以来のことであった。同大学の被災状況は、本江正茂准教授たちから説明を受けても、現場を見ずに理解するには困難なほど深刻であった。数字だけ言えば、まず建て替えが必要になった28棟と実験機器約7000台の損壊の被害総額だけで770億円。特に高台である青葉山にあった工学部や建築学部の高層校舎の揺れは凄まじく、コンクリートに打ちつけた本棚のワイヤーは1G近い横揺れのためちぎれ、スチール製の机もひしゃげ、研究室内には、左右に揺さぶられた鉄筋コンクリートの内部が吹き出すように散乱した。当然ながら、それらの校舎は立ち入り禁止となり、資料の持ち出しもできず、新入生を受け入れるどころか、学部生も他大学で授業を受けさせ、追って単位を与えるという非常措置を取らざるを得なくなった。何とか地震を耐えた新築の講堂やカフェテリアは、当面青葉山キャンパスの教師や学生1000名の居住空間となったのであった。

その後、長神風二准教授の先導で、津波に襲われた地域に車で近づくにつれ、テレビを通じて伝わっていた倒壊した工場やひしゃげた車、がれきの山が面前に広がり始めた。そして、運命の分かれ目であり、津波の防波堤の役割を果たした高速道路の土手を越えると、一般人立ち入り禁止区域に入った。かつての農地や住宅地が砂漠のような砂地となり、強い潮風によって黄色の砂塵が舞う荒涼とした風景が遠くに見える松林がある海岸線まで続いていた。そして、ところどころで作業をしている消防団員や警察らしき集団は遺体の捜索を続けているのであった。

医学部は市街地なので倒壊を免れたものの、長時間の電源喪失により非常用バッテリーも使えなくなり、ALS筋萎縮性側索硬化症)の患者の人工心肺を家族が手で24時間ポンプを押し続けたという。冷蔵管理が必須であった貴重なサンプルなども、もう少し非常用電源に近い場所にあればと悔やまれたことが多々あったという。また、自衛隊や緊急用のヘリコプターが到着してから、機種によっては医療機器のために必要な長時間の電源を備えていないことが分かるなど、想定外の電源喪失に脆弱な現代の医療現場の課題も垣間見られた。

國廣
作家:國廣
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