偸 盗

      4

 猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺りゅうほんじの門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落はくらくした朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高いかわらにさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花あおれんげを踏みながら、左手のきねを高くあげて、胸のあたりにつばくらふんをつけたまま、寂然せきぜん境内けいだいの昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
 日の光は、相変わらず目の前の往来を、照りしらませて、その中にとびかうつばくらの羽を、さながら黒繻子くろじゅすか何かのように、光らせている。大きな日傘ひがさをさして、白い水干すいかんを着た男が一人、青竹の文挾ふばさみにはさんだふみを持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた築土ついじの上へ、影を落とす犬もない。
 次郎は、腰にさした扇をぬいて、その黒柿くろがきの骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――
 なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分をかたきのように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と沙金しゃきんとが、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながらいとまごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。
 しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋のかたきだと思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。
 自分は、沙金しゃきんに恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえためらうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしくはだを任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。
 この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金しゃきんとほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身はだみけがす事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬しっとをする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………
 次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かんだかい女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。
 が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、小路こうじを南へ歩いて来た二人の男女なんにょが、彼の前を通りかかった。
 男は、樺桜かばざくら直垂ひたたれ梨打なしうち烏帽子えぼしをかけて、打ち出しの太刀たち濶達かったついた、三十ばかりの年配で、どうやら酒に酔っているらしい。女は、白地にうす紫の模様のあるきぬを着て、市女笠いちめがさ被衣かずきをかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない沙金しゃきんである。――次郎は、石段をおりながら、じっとくちびるをかんで、目をそらせた。が、二人とも、次郎には、目をかける様子がない。
「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」
「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、大船おおぶねに乗った気でいるがいい」
「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」
 男は赤ひげの少しある口を、のどまで見えるほど、あけて笑いながら、指で、ちょいと沙金のほおを突っついた。
「おれのほうも、これで命がけさ。」
「うまく言っているわ。」
 二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が猪熊いのくまのばばと別れたつじまで行くと、そこに足をとめたまましばらくは、人目も恥じず、ふざけ合っていたが、やがて、男は、振りかえり振りかえり、何かしきりにからかいながら、辻を東へ折れてしまう。女は、くびすをめぐらして、まだくすくす笑いながら、またこっちへ帰って来る。――次郎は、石段の下にたたずんで、うれしいのか情けないのか、わからないような感情に動かされながら、子供らしく顔を赤らめて、被衣かずきの中からのぞいている、沙金しゃきんの大きな黒い目を迎えた。
「今のやつを見た?」
 沙金は、被衣かずきを開いて、汗ばんだ顔を見せながら、笑い笑い、問いかけた。
「見なくってさ。」
「あれはね。――まあここへかけましょう。」
 二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。
「あれは、藤判官とうほうがんの所の侍なの。」
 沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、市女笠いちめがさをぬいで、こう言った。小柄な、手足の動かし方にねこのような敏捷びんしょうさがある、中肉ちゅうにくの、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野性と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかなほおと、あざやかな歯とみだらなくちびると、鋭い目と鷹揚おうようまゆと、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、つめばかりの無理もない。が、中でもみごとなのは、肩にかけた髪で、これは、日の光のかげんによると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、からすの羽根と違いがない。次郎は、いつ見ても変わらない女のなまめかしさを、むしろ憎いように感じたのである。
「そうして、お前さんの情人おとこなんだろう。」
 沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」
「何がさ。」
「何がって、藤判官とうほうがんの屋敷の様子がよ。そりゃひとかたならないおしゃべりなんでしょう。さっきなんぞは、このごろ、あすこで買った馬の話まで、話して聞かしたわ。――そうそう、あの馬は太郎さんに頼んで盗ませようかしら。陸奥出みちのくで三才駒さんさいごまだっていうから、まんざらでもないわね。」
「そうだ。兄きなら、なんでもお前の御意ぎょい次第だから。」
「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」
「そのうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」
「それは、どうだかわかりゃしない。」
 沙金しゃきんは、またかんだかい声で、笑った。
「おこったの? じゃ、来ないって言いましょうか。」
内心女夜叉ないしんにょやしゃさね。お前は。」
 次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。
「そりゃ、女夜叉にょやしゃかもしれないわ。ただ、こんな女夜叉にょやしゃにほれられたのが、あなたの因果だわね。――まだうたぐっているの。じゃわたし、もう知らないからいい。」
 沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。
「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」
「いい事?」
「ええ」
 女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。
「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」
「何を?」
「今夜、みんなで藤判官とうほうがんの屋敷へ、行くという事を。」
 次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬のあいだに消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
 沙金しゃきんは、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。
「わたしこう言ったの。わたしの寝る部屋へやは、あの大路面おおじめん檜垣ひがきのすぐそばなんですが、ゆうべその檜垣ひがきの外で、きっと盗人でしょう、五六人の男が、あなたの所へはいる相談をしているのが聞こえました。それがしかも、今夜なんです。おなじみがいに、教えてあげましたから、それ相当の用心をしないと、あぶのうござんすよって。だから、今夜は、きっと向こうにも、手くばりがあるわ。あいつも、今人を集めに行ったところなの。二十人や三十人の侍は、くるにちがいなくってよ。」
「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」
 次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、沙金しゃきんの目をうかがった。
「よけいじゃないわ。」
 沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、
「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
 こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
 沙金しゃきんは、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。
「殺しちゃ悪い?」
「悪いよりも――兄きをわなにかけて――」
「じゃあなた殺せて?」
 次郎は、沙金の目が、野猫のねこのように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、麻痺まひさせようとするのを感じた。
「しかし、それは卑怯ひきょうだ。」
「卑怯でも、しかたがなくはない?」
 沙金しゃきんは、扇をすてて、静かに両手で、次郎の右の手をとらえながら、追窮した。
「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」
 こう言いながら、次郎は、しまったと思った。狡猾こうかつな女はもちろん、この機会を見のがさない。
「一人やるのならいいの? なぜ?」
 次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、沙金しゃきんの前を、右左に歩き出した。
「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」
 沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。
「おばばはどうする?」
「死んだら、死んだ時の事だわ。」
 次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、侮蔑ぶべつと愛欲とに燃えて炭火のように熱を持っている。
「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」
 このことばの中には、さそりのように、人を刺すものがある。次郎は、再び一種の戦慄せんりつを感じた。
「しかし、兄きは――」
「わたしは、親も捨てているのじゃない?」
 こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。
「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
 その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、沙金しゃきんの手をとらえた。
 彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。
 
       5

 白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
 見ると、広くもない部屋へやの中には、くりやへ通う遣戸やりどが一枚、斜めに網代屏風あじろびょうぶの上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく土器かわらけが、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、ふとった、十六七の下衆女げすおんなが一人、これも酒肥さかぶとりにふとった、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の単衣ひとえの、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた瓶子へいしを、空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけるほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へはいった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――
 太郎は、草履ぞうりを脱ぐももどかしそうに、あわただしく部屋へやの中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく瓶子へいしをもぎはなしながら、怒気を帯びて、一喝いっかつした。
「何をする?」
 太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
 太郎は、瓶子へいしを投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸やりどの上へ蹴倒けたおした。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃あこぎはあわてて、一二けんいのいたが、老人のしりえへ倒れたのを見ると、神仏かみほとけをおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎だっとのごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊いのくまおじを、太郎が再び一蹴いっしゅうして、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷びわの木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
 老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風あじろびょうぶをふみ倒して、くりやのほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂えんびをのべて、浅黄の水干すいかん襟上えりがみをつかみながら、相手をそこへ引き倒した。
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
 太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいるうなじを、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した太刀たちのきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀のつかへ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、葛巻つづらまきの太刀のつかへのばさせた。
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
 猪熊いのくまおじは、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。
「おぬしは、なんで阿濃あこぎを、あのような目にあわせた。さあそのしさいを言え。言わねば……」
「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」
「うるさい。言うか、言わぬか。」
「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」
 太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。
「言うか、言わぬか。」
「言う。」と、猪熊いのくまおじは、声をふりしぼって、まだはね返そうと、もがきながら、「言うともな。あれはただ、わしが薬をのましょうと思うたのじゃ。それを、あの阿濃あこぎ阿呆あほうめが、どうしても飲みおらぬ。されば、ついわしも手荒な事をした。それだけじゃ。いや、まだある。薬をこしらえおったのは、おばばじゃ。わしの知った事ではない。」
「薬? では、堕胎薬おろしぐすりだな。いくら阿呆でも、いやがる者をつかまえて、非道な事をするおやじだ。」
「それ見い。言えと言うから、言えば、なおおぬしは、わしを殺す気になるわ。人殺し。極道ごくどう。」
「たれがおぬしを殺すと言った?」
「殺さぬ気なら、なぜおぬしこそ、太刀たちつかへ手をかけているのじゃ。」
 老人は、汗にぬれたはげ頭を仰向あおむけて、上目に太郎を見上げながら、口角にあわをためて、こう叫んだ。太郎は、はっと思った。殺すなら、今だという気が、心頭をかすめて、一閃いっせんする。彼は思わず、ひざに力を入れながら、太刀たちつかを握りしめて、老人のうなじのあたりをじっと見た。わずかに残った胡麻塩ごましおの毛が、後頭部を半ばおおった下に、二筋のけんが、赤い鳥肌とりはだの皮膚のしわを、そこだけ目だたないように、のばしている。――太郎は、そのうなじを見た時に、不思議な憐憫れんびんを感じだした。
「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」
 猪熊いのくまおじは、つづけさまに絶叫しながら、ようやく、太郎のひざの下からはね起きた。はね起きると、すばやく倒れた遣戸やりど小盾こだてにとって、きょろきょろ、目を左右にくばりながら、すきさえあれば、逃げようとする。――その一面に赤く地ばれのした、目も鼻もゆがんでいる、狡猾こうかつらしい顔を見ると、太郎は、今さらのように、殺さなかったのを後悔した。が、彼はおもむろに太刀の柄から手を離すと、彼自身をあわれむように苦笑をくちびるに浮かべながら、手近の古畳の上へしぶしぶ腰をおろした。
「おぬしを殺すような太刀は、持たぬわ。」
「殺せば、親殺しじゃて。」
 彼の様子に安心した、猪熊いのくまおじは、そろそろ遣戸やりどの後ろから、にじり出ながら、太郎のすわったのと、すじかいに敷いた畳の上へ、自分も落ちつかないしりをすえた。
「おぬしを殺して、なんで親殺しになる?」
 太郎は、目を窓にやりながら、吐き出すように、こう言った。四角に空を切りぬいた窓の中には、枇杷びわの木が、葉の裏表に日を受けて、明暗さまざまな緑の色を、ひっそりと風のないこずえにあつめている。
「親殺しじゃよ。――なぜと言えばな。沙金しゃきんは、わしの義理の子じゃ。されば、つながるおぬしも、子ではないか。」
「じゃ、その子をにしているおぬしは、なんだ。畜生かな、それともまた、人間かな。」
 老人は、さっきの争いに破れた、水干すいかんそでを気にしながら、うなるような声で言った。
「畜生でも、親殺しはすまいて。」
 太郎は、くちびるをゆがめて、あざわらった。
「相変わらず、達者な口だて。」
「何が達者な口じゃ。」
 猪熊いのくまおじは、急に鋭く、太郎の顔をにらめたが、やがてまた、鼻で笑いながら、
「されば、おぬしにきくがな、おぬしは、このわしを、親と思うか。いやさ、親と思う事ができるかよ。」
「きくまでもないわ。」
「できまいな」
「おお、できない。」
「それが手前勝手じゃ。よいか。沙金しゃきんはおばばのつれ子じゃよ。が、わしの子ではない。されば、おばばにつれそうわしが、沙金を子じゃと思わねばならぬなら、沙金につれそうおぬしも、わしを親じゃと思わねばなるまいがな。それをおぬしは、わしを親とも思わぬ。思わぬどころか、場合によっては、打ち打擲ちょうちゃくもするではないか。そのおぬしが、わしにばかり、沙金を子と思えとは、どういうわけじゃ。にして悪いとは、どういうわけじゃ。沙金をにするわしが、畜生なら、親を殺そうとするおぬしも、畜生ではないか。」
 老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。
「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、左兵衛府さひょうえふ下人げにんをしておったころからの昔なじみじゃ。おばばが、わしをどう思うたか、それは知らぬ。が、わしはおばばを懸想けそうしていた。」
 太郎は、こういう場合、この酒飲みの、狡猾こうかつな、卑しい老人の口から、こういう昔語りを聞こうとは夢にも思っていなかった。いや、むしろ、この老人に、人並みの感情があるかどうか、それさえ疑わしいと、思っていた。懸想した猪熊いのくまおじと懸想された猪熊のばばと、――太郎は、おのずから自分の顔に、一脈の微笑が浮かんで来るのを感じたのである。
「そのうちに、わしはおばばに情人おとこがある事を知ったがな。」
「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」
情人おとこがあったとて、わしのきらわれたという、証拠にはならぬ。話の腰を折るなら、もうやめじゃ。」
 猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。
「そのうちに、おばばがその情人おとこの子をはらんだて。が、これはなんでもない。ただ、驚いたのは、その子を生むと、まもなく、おばばのかたが、わからなくなって、しもうた事じゃ。人に聞けば、疫病えやみで死んだの、筑紫つくしへ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、奈良坂ならざかのしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それからにわかに、この世が味気なくなってしもうた。されば、酒も飲む、賭博ばくちも打つ。ついには、人に誘われて、まんまと強盗にさえ身をおとしたがな。あやを盗めば綾につけ、にしきを盗めば、錦につけ、思い出すのは、ただ、おばばの事じゃ。それから十年たち、十五年たって、やっとまたおばばに、めぐり会ってみれば――」
 今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙にほおをぬらしながら、口ばかり動かして、黙っている。太郎は、片目をあげて、別人を見るように、相手のべそをかいた顔をながめた。
「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の沙金しゃきんを見れば、昔のおばばがまた、帰って来たかと思うほど、おもかげがよう似ているて。されば、わしはこう思うた。今、おばばに別れれば、沙金ともまた別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思えば、おばばといっしょになるばかりじゃ。よし、ならば、おばばをにしよう――こう思い切って、持ったのが、この猪熊いのくま痩世帯やせじょたいじゃ。………」
 猪熊いのくまおじは、泣き顔を、太郎の顔のそばへ持って来ながら、涙声でこう言った。すると、その拍子に、今まで気のつかなかった、酒くさいにおいが、ぷんとする。――太郎は、あっけにとられて、扇のかげに、鼻をかくした。
「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の沙金しゃきん一人ぎりじゃよ。それを、おぬしは、何かにつけて、わしを畜生じゃなどと言う。このおやじがおぬしは、それほど憎いのか。憎ければ、いっそ殺すがよい。今ここで、殺すがよい。おぬしに殺されれば、わしも本望じゃ。が、よいか、親を殺すからは、おぬしも、畜生じゃぞよ。畜生が畜生を殺す――これは、おもしろかろう。」
 涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた悪態あくたいをつきながら、しわだらけの人さし指をふり立てた。
「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、卑怯者ひきょうものじゃな。ははあ、さっき、わしが阿濃あこぎに薬をくれようとしたら、おぬしが腹を立てたのを見ると、あの阿呆あほうをはらませたのも、おぬしらしいぞ。そのおぬしが、畜生でのうて、何が畜生じゃ。」
 こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた遣戸やりどの向こうへとびのいて、すわと言えば、逃げようとするけはいを示しながら、紫がかった顔じゅうの造作ぞうさくを、憎々しくゆがめて見せる。――太郎は、あまりの雑言ぞうごんに堪えかねて、立ち上がりながら、太刀たちつかへ手をかけたが、やめて、くちびるを急に動かすとたちまち相手の顔へ、一塊のたんをはきかけた。
「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」
「畜生呼ばわりは、おいてくれ。沙金しゃきんは、おぬしばかりのかよ。次郎殿のでもないか。されば、弟のをぬすむおぬしもやはり、畜生じゃ。」
 太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席をって去ろうとする――すると、その後ろから、猪熊いのくまおじはまた、指をふりふり、罵詈ばりを浴びせかけた。
「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」
 老人は、こう唾罵だばを飛ばしながら、おいおい、呂律ろれつがまわらなくなって来た。が、なおも濁った目に懸命の憎悪ぞうおを集めながら、足を踏み鳴らして、意味のない事を叫びつづける。――太郎は、堪えがたい嫌悪けんおの情に襲われて、耳をおおうようにしながら、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう猪熊いのくまの家を出た。外には、やや傾きかかった日がさして、相変わらずその中を、つばくらが軽々と流れている。――
「どこへ行こう。」
 外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が沙金しゃきんに会うつもりで、猪熊へ来たのに、気がついた。が、どこへ行ったら、沙金に会えるという、当てもない。
「ままよ。羅生門らしょうもんへ行って、日の暮れるのでも待とう。」
 彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいるには、好んで、男装束おとこしょうぞくに身をやつした。その装束や打ち物は、みな羅生門の楼上に、皮子かわごへ入れてしまってある。――彼は、心をきめて、小路こうじを南へ、大またに歩きだした。
 それから、三条を西へ折れて、耳敏川みみとがわの向こう岸を、四条まで下ってゆく――ちょうど、その四条の大路おおじへ出た時の事である。太郎は、一町いっちょうを隔てて、この大路を北へ、立本寺りゅうほんじ築土ついじの下を、話しながら通りかかる、二人の男女なんにょの姿を見た。
 朽ち葉色の水干すいかんとうす紫のきぬとが、影を二つ重ねながら、はればれした笑い声をあとに残して、小路こうじから小路へ通りすぎる。めまぐるしいつばくらの中に、男の黒鞘くろざや太刀たちが、きらりと日に光ったかと思うと、二人はもう見えなくなった。
 太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。
「どうせみんな畜生だ。」
 
     6

 ふけやすい夏のは、早くも上刻じょうこくに迫って来た。――
 月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っているきょうの町は、加茂川の水面みのもがかすかな星の光をうけて、ほのかに白く光っているばかり、大路小路の辻々つじつじにも、今はようやく灯影ほかげが絶えて、内裏だいりといい、すすき原といい、町家まちやといい、ことごとく、静かな夜空の下に、色も形もおぼろげな、ただ広い平面を、ただ、際限もなく広げている。それがまた、右京左京うきょうさきょうの区別なく、どこも森閑と音を絶って、たまに耳にはいるのは、すじかいに声を飛ばすほととぎすのほかに、何もない。もしその中に一点でも、人なつかしい火がゆらめいて、かすかなものの声が聞こえるとすれば、それは、香の煙のたちこめた大寺だいじの内陣で、金泥きんでい緑青ろくしょうところはだらな、孔雀明王くじゃくみょおうの画像を前に、常燈明じょうとうみょうの光をたのむ参籠さんろうの人々か、さもなくば、四条五条の橋の下で、短夜を芥火あくたびの影にぬすむ、こじき法師の群れであろう。あるいはまた、夜な夜な、往来の人をおびやかす朱雀門すざくもん古狐ふるぎつねが、かわらの上、草の間に、ともすともなくともすという、鬼火のたぐいであるかもしれない。が、そのほかは、北は千本せんぼん、南の鳥羽とば街道のさかいを尽くして、蚊やりの煙のにおいのする、夜色やしょくの底に埋もれながら、河原かわらよもぎの葉を動かす、微風もまるで知らないように、沈々としてふけている。
 その時、王城の北、朱雀大路すざくおおじのはずれにある、羅生門らしょうもんのほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠こうもりの羽音のように、互いに呼びつ答えつして、あるいは一人、あるいは三人、あるいは五人、あるいは八人、怪しげないでたちをしたものの姿が、次第にどこからか、つどって来た。おぼつかない星明かりに透かして見れば、太刀たちをはくもの、矢を負うもの、おのを執るもの、ほこを持つもの、皆それぞれ、得物えものに身を固めて、脛布はばき藁沓わろうずの装いもかいがいしく、門の前に渡した石橋へ、むらむらと集まって、列を作る――と、まっさきには、太郎がいた。それにつづいて、さっきの争いも忘れたように、猪熊いのくまおじが、物々しくほこの先を、きらりとやみにひらめかせる。続いて、次郎、猪熊いのくまのばば、少し離れて、阿濃あこぎもいる。それにかこまれて、沙金しゃきんは一人、黒い水干すいかん太刀たちをはいて、※(「竹かんむり/祿」、第3水準1-89-76)やなぐいを背に弓杖ゆんづえをつきながら、一同を見渡して、あでやかな口を開いた。――
「いいかい。今夜の仕事は、いつもより手ごわい相手なんだからね。みなそのつもりで、いておくれ。さしずめ十五六人は、太郎さんといっしょに、裏から、あとはわたしといっしょに、表からはいってもらおう。中でも目ぼしいのは、裏のうまやにいる陸奥出みちのくでの馬だがね。これは、太郎さん、あなたに頼んでおくわ。よくって。」
 太郎は、黙って星を見ていたが、これを聞くと、くちびるをゆがめながら、うなずいた。
「それから断わっておくが、女子供を質になんぞとっては、いけないよ。あとの始末がめんどうだからね。じゃ、人数にんずがそろったら、そろそろ出かけよう。」
 こう言って、沙金は弓をあげて、一同をさしまねいたが、しょんぼり、指をかんで立っている、阿濃を顧みると、またやさしくことばを添えた。
「じゃ、お前はここで、待っていておくれ。一刻いっとき二刻ふたときで、皆帰ってくるからね。」
 阿濃は、子供のように、うっとり沙金の顔を見て、静かに合点がてんした。
「されば、こう。ぬかるまいぞ、多襄丸たじょうまる。」
 猪熊いのくまおじは、ほこをたばさみながら、隣にいる仲間をふり返った。蘇芳染すおうぞめ水干すいかんを着た相手は、太刀たちのつばを鳴らして、「ふふん」と言ったまま、答えない。そのかわりに、おのをかついだ、青ひげのさわやかな男が、横あいから、口を出した。
「おぬしこそ、また影法師なぞにおびえまいぞ。」
 これと共に、二十三人の盗人どもは、ひとしく忍び笑いをもらしながら、沙金しゃきんを中に、雨雲のむらがるごとく、一団の殺気をこめて、朱雀大路すざくおおじへ押し出すと、みぞをあふれた泥水どろみずが、くぼ地くぼ地へ引かれるようにやみにまぎれて、どこへ行ったか、たちまちのうちに、見えなくなった。……
 あとには、ただ、いつか月しろのした、うす明るい空にそむいて、羅生門らしょうもんの高いいらかが、寂然せきぜんと大路を見おろしているばかり、またしてもほととぎすの、声がおちこちに断続して、今まで七丈五級の大石段に、たたずんでいた阿濃あこぎの姿も、どこへ行ったか、見えなくなった。――が、まもなく、門上の楼に、おぼつかないがともって、窓が一つ、かたりとあくと、その窓から、遠い月の出をながめている、小さな女の顔が出た。阿濃は、こうして、次第に明るくなってゆく京の町を、目の下に見おろしながら、胎児の動くのを感じるごとに、ひとりうれしそうに、ほほえんでいるのである。
       7

 次郎は、二人の侍と三頭の犬とを相手にして、血にまみれた太刀たちをふるいながら、小路こうじを南へ二三町、下るともなく下って来た。今は沙金しゃきんの安否を気づかっている余裕もない。侍は衆をたのんで、すきまもなく切りかける。犬も毛の逆立った背をそびやかして、前後をきらわず、飛びかかった。おりからの月の光に、往来は、ほのかながら、打つ太刀をたがわせないほどに、明るくなっている。――次郎は、その中で、人と犬とに四方を囲まれながら、必死になって、切りむすんだ。
 相手を殺すか、相手に殺されるか、二つに一つより生きる道はない。彼の心には、こういう覚悟と共に、ほとんど常軌を逸した、凶猛な勇気が、刻々に力を増して来た。相手の太刀を受け止めて、それを向こうへ切り返しながら、足もとを襲おうとする犬を、とっさに横へかわしてしまう。――彼は、この働きをほとんど同時にした。そればかりではない。どうかするとその拍子に切り返した太刀を、逆にまわして、後ろから来る犬のきばを、防がなければならない事さえある。それでもさすがにいつか傷をうけたのであろう。月明かりにすかして見ると、赤黒いものが一すじ、汗ににじんで、左の小鬢こびんから流れている。が、死に身になった次郎には、その痛みも気にならない。彼は、ただ、色を失った額に、ひいでたまゆを一文字にひそめながら、あたかも太刀たちに使われる人のように、烏帽子えぼしも落ち、水干すいかんも破れたまま、縦横にやいばを交えているのである。
 それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の脾腹ひばらを斜めに、腰のつがいまで切りこんだのであろう。骨を切る音が鈍く響いて、横にいだ太刀の光が、うすやみをやぶってきらりとする。――と、その太刀が宙におどって、もう一人の侍の太刀を、ちょうと下から払ったと見る間に、相手はひじをしたたか切られて、やにわにもと来たほうへ、敗走した。それを次郎が追いすがりざまに、切ろうとしたのと、狩犬の一頭がまりのように身をはずませて、彼の手もとへかぶりついたのとが、ほとんど、同時の働きである。彼は、一足あとへとびのきながら、ふりむかった血刀の下に、全身の筋肉が一時にゆるむような気落ちを感じて、月に黒く逃げてゆく相手の後ろ姿を見送った。そうしてそれと共に、悪夢からさめた人のような心もちで、今自分のいる所が、ほかならない立本寺りゅうほんじの門前だという事に気がついた。――
 これから半刻はんときばかり以前の事である。藤判官とうほうがんの屋敷を、表から襲った偸盗ちゅうとうの一群は、中門の右左、車宿りの内外うちそとから、思いもかけず射出した矢に、まず肝を破られた。まっさきに進んだ真木島まきのしまの十郎が、太腿ふともも箆深のぶかく射られて、すべるようにどうと倒れる。それを始めとして、またたくに二三人、あるいは顔を破り、あるいはひじを傷つけて、あわただしく後ろを見せた。射手いてかずは、もちろん何人だかわからない。が、染め羽白羽のとがり矢は、中には物々しいかぶらの音さえ交えて、またひとしきり飛んで来る。後ろに下がっていた沙金しゃきんでさえ、ついには黒い水干すいかんそでを斜めに、流れ矢に射通された。
「おかしらにけがをさすな。射ろ。射ろ。味方の矢にも、やじりがあるぞ。」
 交野かたの平六へいろくが、おのをたたいて、こうののしると、「おう」という答えがあって、たちまち盗人の中からも、また矢叫やたけびの声が上がり始める。太刀たちつかに手をかけて、やはり後ろに下がっていた次郎は、平六のこのことばに、一種の苛責かしゃくを感じながら、見ないようにして沙金の顔を横からそっとのぞいて見た。沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、弓杖ゆんづえをついたまま、口角の微笑もかくさず、じっと矢の飛びかうのを、ながめている。――すると、平六が、またいら立たしい声を上げて、横あいから、こう叫んだ。
「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」
 太腿ふとももを縫われた十郎は、立ちたくも立てないのであろう、太刀たちつえにして居ざりながら、ちょうど羽根をぬかれたからすのように、矢を避け避け、もがいている。次郎は、それを見ると、異様な戦慄せんりつを覚えて、思わず腰の太刀をぬき払った。が、平六はそれを知ると、流し目にじろりと彼の顔を見て、
「おぬしは、おかしらに付き添うていればよい。十郎の始末は、小盗人こぬすびとでたくさんじゃ。」と、あざけるように言い放った。
 次郎は、このことばに皮肉な侮蔑ぶべつを感じて、くちびるをかみながら、鋭く平六の顔を見返した。――すると、ちょうどそのとたんである。十郎を救おうとして、ばらばらと走り寄った、盗人たちの機先を制して、耳をつんざく一声いっせいつのを合図に、粉々として乱れる矢の中を、門の内から耳のとがった、きばの鋭い、狩犬が六七頭すさまじいうなり声を立てながら、夜目にも白くほこりを巻いて、まっしぐらにいて出た。続いてそのあとから十人十五人、手に手に打ち物を取った侍が、先を争って屋敷の外へ、ひしめきながらあふれて来る。味方ももちろん、見てはいない。おのをふりかざした平六を先に立てて、太刀やほこが林のように、きらめきながら並んだ中から、人ともけものともつかない声を、たれとも知らずわっと上げると、始めのひるんだけしきにも似ず一度に備えを立て直して、猛然として殺到する。沙金しゃきんも、今は弓にたかうすびょうの矢をつがえて、まだ微笑を絶たない顔に、一脈の殺気を浮かべながら、すばやく道ばたの築土ついじのこわれを小楯こだてにとって、身がまえた。――
 やがて敵と味方は、見る見るうちに一つになって、気の違ったようにわめきながら、十郎の倒れている前後をめぐって、無二無三に打ち合い始めた。その中にまた、狩犬がけたたましく、血に飢えた声を響かせて、戦いはいずれが勝つとも、しばらくの間はわからない。そこへ一人、裏へまわった仲間の一人が、汗とほこりとにまみれながら、二三か所薄手を負うた様子で、血に染まったままかけつけた。肩にかついだ太刀の刃のこぼれでは、このほうの戦いも、やはり存外手痛かったらしい。
「あっちは皆ひき上げますぜ。」
 その男は、月あかりにすかしながら、沙金の前へ来ると、息を切らし切らし、こう言った。
「なにしろ肝腎かんじんの太郎さんが、門の中で、やつらに囲まれてしまったという騒ぎでしてな。」
 沙金しゃきんと次郎とは、うす暗い築土ついじの影の中で、思わず目と目を見合わせた。
「囲まれて、どうしたえ。」
「どうしたか、わかりません。が、事によると、――まあそれもあの人の事だから、万々ばんばん大丈夫だろうと思いますがな。」
 次郎は、顔をそむけながら、沙金のそばを離れた。が、小盗人こぬすびとはもちろんそんな事は、気にとめない。
「それにおじじやおばばまで、手を負ったようでした。あのぶんじゃ殺されたやつも、四五人はありましょう。」
 沙金はうなずいた。そうして次郎のあとから追いかけるように、険のある声で、
「じゃ、わたしたちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。
 次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、くびすをめぐらす様子がない。(実は、人と犬とにとりかこまれてめぐらすだけの余裕がなかったせいであろう。)口笛の音は、蒸し暑い夜の空気を破って、むなしく小路こうじの向こうに消えた。そうしてそのあとには、人の叫ぶ声と、犬のほえる声と、それから太刀たちの打ち合う音とが、はるかな空の星を動かして、いっそう騒然と、立ちのぼった。
 沙金しゃきんは、月を仰ぎながら、稲妻のごとくまゆを動かした。
「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」
 そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むらむらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に弓返ゆがえりの音がして、まっさきに進んだ白犬が一頭、たかうすびょうの矢に腹を縫われて、苦鳴と共に、横に倒れる。見る間に、黒血がその腹から、斑々はんぱんとして砂にたれた。が、犬に続いた一人の男は、それにもおじず、太刀をふりかざして、横あいから次郎に切ってかかる。その太刀が、ほとんど無意識に受けとめた、次郎の太刀の刃を打って、鏘然そうぜんとした響きと共に、またたくあいだ、火花を散らした。――次郎はその時、月あかりに、汗にぬれた赤ひげと切り裂かれた樺桜かばざくら直垂ひたたれとを、相手の男に認めたのである。
 彼は直下じきげに、立本寺りゅうほんじの門前を、ありありと目に浮かべた。そうして、それと共に、恐ろしい疑惑が、突然として、彼を脅かした。沙金しゃきんはこの男と腹を合わせて、兄のみならず、自分をも殺そうとするのではあるまいか。一髪のかんにこういう疑いをいだいた次郎は、目の前が暗くなるような怒りを感じて、相手の太刀たちの下を、脱兎だっとのごとく、くぐりぬけると、両手に堅く握った太刀を、奮然として、相手の胸に突き刺した。そうして、ひとたまりもなく倒れる相手の男の顔を、したたか藁沓わろうずでふみにじった。
 彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先があばらの骨に触れて、強い抵抗を受けたのを感じた。そうしてまた、断末魔の相手が、ふみつけた彼の藁沓わろうずに、下から何度もかみついたのを感じた。それが、彼の復讐心ふくしゅうしんに、快い刺激を与えたのは、もちろんである。が、それにつれて、彼はまた、ある名状しがたい心の疲労に、襲われた。もし周囲が周囲だったら、彼は必ずそこに身を投げ出して、飽くまで休息をむさぼった事であろう。しかし、彼が相手の顔をふみつけて、血のしたたる太刀を向こうの胸から引きぬいているうちに、もう何人かの侍は、四方から彼をとり囲んだ。いや、すでに後ろから、忍びよった男のほこは、危うくきっさきを、彼の背に擬している。が、その男は、不意に前へよろめくと、鉾の先に次郎の水干すいかんそでを裂いて、うつむけにがくり・・・と倒れた。たかうすびょうの矢が一筋、颯然さつぜんと風を切りながら、ひとゆりゆって後頭部へ、ぐさと箆深のぶかく立ったからである。
 それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る太刀たちの中に、獣のようなうなり声を出して、相手を選まず渡り合った。周囲に沸き返っている、声とも音ともつかない物の響きと、その中に出没する、血と汗とにまみれた人の顔と――そのほかのものは、何も目にはいらない。ただ、さすがに、あとにのこして来た沙金しゃきんの事が、太刀からほとばしる火花のように、時々心にひらめいた。が、ひらめいたと思ううちに、刻々迫ってくる生死の危急が、たちまちそれをかき消してしまう。そうして、そのあとにはまた、太刀音と矢たけびとが、天をおおういなごの羽音のように、築土ついじにせかれた小路こうじの中で、とめどもなくわき返った。――次郎は、こういう勢いに促されて、いつか二人の侍と三頭の犬とに追われながら、小路を南へ少しずつ切り立てられて来たのである。
 が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物いちもつで、子牛もこれにくらべれば、大きい事はあっても、小さい事はない。それが皆、口のまわりを人間の血にぬらして、前に変わらず彼の足もとへ、左右から襲いかかった。一頭のあご蹴返けかえすと、一頭が肩先へおどりかかる。それと同時に、一頭のきばが、すんでに太刀たちを持った手を、かもうとした。とまた、三頭ともともえのように、彼の前後に輪を描いて、尾を空ざまに上げながら、砂のにおいをかぐように、あごを前足へすりつけて、びょうびょうとほえ立てる。――相手を殺したのに、気のゆるんだ次郎は、前よりもいっそう、この狩犬の執拗しゅうねい働きに悩まされた。
 しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆くうを切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、一縷いちるの望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、わらでもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を蹴上けあげながら真一文字に追いすがった。
 が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって虎口ここうにはいるような事ができたのである。――次郎は立本寺りゅうほんじつじをきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月にしらんだ小路こうじをふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、餌食えじきを争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に※(「けものへん+言」、第4水準2-80-36)ぎんぎんの声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の渦巻うずまきの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、獰猛どうもうな野犬の群れが、ここに捨ててあった疫病えやみの女を、よいのうちから餌食にして、互いにきばをかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。
 犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、太刀たちの上をおどり越えると、尾のないきつねに似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりとほおにさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めにまゆの間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、太刀たちを回しながら、急に、猪熊いのくまのばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、のどをかもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうちに、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに多い野犬の群れが、あるいは芒原すすきはらの向こうから、あるいは築土ついじのこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――
 次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥いちべつしながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や沙金しゃきんの事を、一度に石火せっかのごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより至極しごくな天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の太腿ふとももに、鋭いきばの立ったのを感じた。
 するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに戞々かつかつたる馬蹄ばていの音が、風のように空へあがり始めた。……

―――――――――――――――――

 しかしその間も阿濃あこぎだけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門らしょうもんの楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空なかぞらに上ってゆく。それにつれて、加茂川にかかっている橋が、その白々しらじらとした水光すずびかりの上に、いつか暗く浮き上がって来た。
 ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人しびとのにおいを蔵していた京の町も、わずかのに、つめたい光の鍍金めっきをかけられて、今では、こしの国の人が見るという蜃気楼かいやぐらのように、塔の九輪や伽藍がらんの屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすいもやの上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花のうぜんかずらのにおいがした。門の左右をうずめるやぶのところどころから、簇々そうそうとつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになったかわらの上や、蜘蛛くもの巣をかけたたるきの間へ、はい上がったのがあるからであろう。……
 窓によりかかった阿濃あこぎは、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親ふたおやを覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門らしょうもんのような、大きな丹塗にぬりの門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。ある時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みのとがで、裸のまま、地蔵堂のうつばりへつり上げられた。それがふと沙金しゃきんに助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼女にも、苦しみを、苦しみとして感じる心はある。阿濃あこぎ猪熊いのくまのばばの気に逆らっては、よくむごたらしく打擲ちょうちゃくされた。猪熊のおじには、酔った勢いで、よく無理難題を言いかけられた。ふだんは何かといたわってくれる沙金しゃきんでさえ、かんにさわると、彼女の髪の毛をつかんで、ずるずる引きずりまわす事がある。まして、ほかの盗人たちは、打つにもたたくにも、用捨はない。阿濃は、そのたびにいつもこの羅生門らしょうもんの上へ逃げて来ては、ひとりでしくしく泣いていた。もし次郎が来なかったら、そうして時々、やさしいことばをかけてくれなかったら、おそらくとうにこの門の下へ身を投げて、死んでしまっていた事であろう。
 すすのようなものが、ひらひらと月にひるがえって、いらかの下から、窓の外をうす青い空へ上がった。言うまでもなく蝙蝠こうもりである。阿濃は、その空へ目をやって、まばらな星に、うっとりとながめ入った。――するとまたひとしきり、腹の子が、身動きをする。彼女は急に耳をすますようにして、その身動きに気をつけた。彼女の心が、人間の苦しみをのがれようとして、もがくように、腹の子はまた、人間の苦しみをめに来ようとして、もがいている。が、阿濃は、そんな事は考えない。ただ、母になるという喜びだけが、そうして、また、自分も母になれるという喜びだけが、この凌霄花のうぜんかずらのにおいのように、さっきから彼女の心をいっぱいにしているからである。
 そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもいるのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動きは、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。阿濃あこぎは、窓を離れて、その下にうずくまりながら、結び燈台のうす暗いにそむいて、腹の中の子を慰めようと、細い声で歌をうたった。
君をおきて
あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
 うろ覚えに覚えた歌の声は、のゆれるのに従って、ふるえふるえ、しんとした楼の中に断続した。歌は、次郎が好んでうたう歌である。酔うと、彼は必ず、扇で拍子をとりながら、目をねむって、何度もこの歌をうたう。沙金しゃきんはよく、その節回しがおかしいと言って、手を打って笑った。――その歌を、腹の中の子が、喜ばないというはずはない。
 しかし、その子が、実際次郎のたねかどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃あこぎ自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗しゅうねく黙ってしまう。そういう時は、必ずあかじみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛まつげにも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆あほうな彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。――阿濃は、この時、歌をうたいながら、遠い所を見るような目をして、蚊に刺されるのも知らずに、うつつながら夢を見た。人間の苦しみを忘れた、しかもまた人間の苦しみに色づけられた、うつくしく、いたましい夢である。(涙を知らないものの見る事ができる夢ではない。)そこでは、いっさいの悪が、眼底を払って、消えてしまう。が、人間の悲しみだけは、――空をみたしている月の光のように、大きな人間の悲しみだけは、やはりさびしくおごそかに残っている。……
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
 歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない呻吟しんぎんの声が、やみを誘うごとく、かすかにもれ始めた。阿濃あこぎは、歌の半ばで、突然下腹に、鋭い疼痛とうつうを感じ出したのである。


 相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、中門ちゅうもんを打って出た侍たちに、やはり手痛い逆撃さかうちをくらわせられた。たかが青侍の腕だてと思い侮っていた先手せんての何人かも、算を乱しながら、そびらを見せる――中でも、臆病おくびょう猪熊いのくまおじは、たれよりも先に逃げかかったが、どうした拍子か、方角を誤って、太刀たちをぬきつれた侍たちのただ中へ、はいるともなく、はいってしまった。酒肥さかぶとりした体格と言い、物々しくほこをひっさげた様子と言い、ひとかど手なみのすぐれたものと、思われでもしたのであろう。侍たちは、彼を見ると、互いに目くばせをかわしながら、二人三人、きっさきをそろえたまま、じりじり前後から、つめよせて来た。
「はやるまいぞ。わしはこの殿の家人けにんじゃ。」
 猪熊いのくまおじは、苦しまぎれにあわただしくこう叫んだ。
「うそをつけ。――おのれにたばかれるような阿呆あほうと思うか。――往生ぎわの悪いおやじじゃ。」
 侍たちは、口々にののしりながら、早くも太刀たちを打ちかけようとする。もうこうなっては、逃げようとしても逃げられない。猪熊の爺の顔は、とうとう死人しびとのような色になった。
「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」
 彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい太刀音たちおとと叫喚の声とが、一塊ひとかたまりになった敵味方の中から、ひっきりなしにあがって来る。――しょせん逃げられないとさとった彼は、目を相手の上にすえると、たちまち別人のように、凶悪なけしきになって、上下じょうげの齒をむき出しながら、すばやくほこをかまえて、威丈高いたけだかにののしった。
「うそをついたがどうしたのじゃ。阿呆あほう外道げどう。畜生。さあ来い。」
 こう言うことばと共に、ほこの先からは、火花が飛んだ。中でも屈竟くっきょうな、赤あざのある侍が一人、衆に先んじてかたわらから、無二無三に切ってかかったのである。が、もとより年をとった彼が、この侍の相手になるわけはない。まだ十合じゅうごうを合わせないうちに、見る見る、鉾先ほこさきがしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていたほこを、みごとに半ばから、切り折った。と、また一太刀ひとたち、今度は、右の肩先から胸へかけて、袈裟けさがけに浴びせかける。猪熊いのくまおじは、尻居しりいに倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて高這たかばいにいのきながら声をふるわせて、わめき立てた。
「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」
 赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ太刀たちをふりかざした。その時もし、どこからかさるのようなものが、走って来て、帷子かたびらすそを月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、猪熊いのくまおじは、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、そのさるのようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに小刀さすがをひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った太刀たちをあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け火箸ひばしでも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。
 それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び小刀さすががきらりと光って、組みしかれた男の顔は、あざだけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、ひきに似た、猪熊のばばの顔が見えた。
 老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手のもとどりをとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな呻吟しんぎんの声をつづけていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、からびたくちびるを、二三度無理に動かして、
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊いのくまおじは、老女の救いをると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路こうじのそこここに、得物えものをふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばばは、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされた。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかっている小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。
「おじいさん。」
 老婆は、血の交じったつばを、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり恍惚こうこつとした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、昏々こんこんとして沈んで行った。
 その時である。太郎は、そこを栗毛くりげの裸馬にまたがって、血にまみれた太刀たちを、口にくわえながら、両の手に手綱たづなをとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、沙金しゃきんが目をつけた、陸奥出みちのくで三才駒さんさいごまであろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、死人しびとを残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうすじろい。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上にこうべをめぐらして、しりえにののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。
 それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、葛巻つづらまきの太刀たちをふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなくうまやの戸を蹴破けやぶって、この馬の覊綱はづなを切るより早く、背に飛びのるも惜しいように、さえぎるものをひづめにかけて、いっさんに宙を飛ばした。そのために受けた傷も、もとより数えるいとまはない。水干すいかんそではちぎれ、烏帽子えぼしはむなしくひもをとどめて、ずたずたに裂かれたはかまも、なまぐさい血潮に染まっている。が、それも、太刀とほことの林の中から、一人に会えば一人を切り、二人に会えば二人を切って、出て来た時の事を思えば、うれしくこそあれ、惜しくはない。――彼は、後ろを見返り見返り、晴れ晴れした微笑を、口角に漂わせながら、昂然こうぜんとして、馬を駆った。
 彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお沙金しゃきんの心が再び彼に傾く日を、夢のように胸に描いた。自分でなかったなら、たれがこの馬をこの場合、奪う事ができるだろう。向こうには、人の和があった。しかも地の利さえ占めている。もし次郎だったとしたならば――彼の想像には、一瞬のあいだ、侍たちの太刀たちの下に、切り伏せられている弟の姿が、浮かんだ。これは、もちろん、彼にとって、少しも不快な想像ではない。いやむしろ彼の中にあるある物は、その事実である事を、祈りさえした。自分の手を下さずに、次郎を殺す事ができるなら、それはひとり彼の良心を苦しめずにすむばかりではない。結果から言えば、沙金がそのために、自分を憎む恐れもなくなってしまう。そう思いながらも、彼は、さすがに自分の卑怯ひきょうを恥じた。そうして口にくわえた太刀を、右手めてにとって、おもむろに血をぬぐった。
 そのぬぐった太刀を、ちょうどさやにおさめた時である。おりからつじを曲がった彼は、行く手の月の中に、二十と言わず三十と言わず、群がる犬の数を尽くして、びょうびょうとほえ立てる声を聞いた。しかも、その中にただ一人、太刀をかざした人の姿が、くずれかかった築土ついじを背負って、おぼろげながら黒く見える。と思うに、馬は、高くいななきながら、長いたてがみをさっと振るうと、四つのひづめに砂煙をまき上げて、またたく暇に太郎をそこへ疾風のように持って行った。
「次郎か。」
 太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しくまゆをひそめて、弟を見た。次郎も片手に太刀たちをかざしながら、うなじをそらせて、兄を見た。そうして刹那せつなに二人とも、相手のひとみの奥にひそんでいる、恐ろしいものを感じ合った。が、それは、文字どおり刹那である。馬は、えたける犬の群れに、脅かされたせいであろう、首を空ざまにつとあげると、前足で大きな輪をかきながら、前よりもすみやかに、空へおどった。あとには、ただ、濛々もうもうとしたほこりが、夜空に白く、ひとしきり柱になって、舞い上がる。次郎は、依然として、野犬の群れの中に、傷をこうむったまま、立ちすくんだ。……
 太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、一時いっとき、ただ、半時はんとき、走りさえすれば、それで万事が休してしまう。彼のする事を、いつかしなくてはならない事を、犬が代わってしてくれるのである。
「走れ、なぜ走らない?」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。羅生門らしょうもんは遠くはない。」太郎は、片目に熱を病んだような光を帯びて、半ば無意識に、馬の腹をった。馬は、尾とたてがみとを、長く風になびかせながら、ひづめに火花を散らして、まっしぐらに狂奔する。一町二町月明かりの小路は、太郎の足の下で、急湍きゅうたんのように後ろへ流れた。
 するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく手綱たづなを握ったまま、血相を変えて歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か沙金しゃきんかの、選択をしいられたわけではない。直下じきげにこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。彼は空も見なかった。道も見なかった。月はなおさら目にはいらなかった。ただ見たのは、限りない夜である。夜に似た愛憎の深みである。太郎は、狂気のごとく、弟の名を口外に投げると、身をのけざまに翻して、片手の手綱たづなを、ぐいと引いた。見る見る、馬のかしらが、向きを変える。と、また雪のようなあわが、栗毛くりげの口にあふれて、ひづめは、砕けよとばかり、大地を打った。――一瞬ののち、太郎は、惨として暗くなった顔に、片目を火のごとくかがやかせながら、再び、もと来たほうへまっしぐらに汗馬かんばおどらせていたのである。
「次郎。」
 近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、白燃鉄はくねんてつを打つような響きを帯びて、鋭く次郎の耳を貫ぬいた。
 次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまったまゆに、かたく、下くちびるをかんだ歯に、そうしてまた、怪しく熱している片目に、次郎は、ほとんど憎悪に近い愛が、――今まで知らなかった、不思議な愛が燃え立っているのを見たのである。
「早く乗れ。次郎。」
 太郎は、群がる犬の中に、隕石いんせきのような勢いで、馬を乗り入れると、小路を斜めに輪乗りをしながら、叱咤しったするような声で、こう言った。もとより躊躇ちゅうちょに、時を移すべき場合ではない。次郎は、やにわに持っていた太刀たちを、できるだけ遠くへほうり投げると、そのあとを追って、頭をめぐらす野犬のすきをうかがって、身軽く馬の平首へおどりついた。太郎もまたその刹那せつな猿臂えんびをのばし、弟の襟上えりがみをつかみながら、必死になって引きずり上げる。――馬のかしらが、たてがみに月の光を払って、三たび向きを変えた時、次郎はすでに馬背にあって、ひしと兄の胸をいだいていた。
 と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて鞍壺くらつぼへ飛びあがった。とがったきばが、危うく次郎のひざへかかる。そのとたんに、太郎は、足をあげて、したたか栗毛くりげの腹をった。馬は、一声いななきながら、早くも尾を宙に振るう。――その尾の先をかすめながら、犬は、むなしく次郎の脛布はばきを食いちぎって、うずまく獣の波の中へ、まっさかさまに落ちて行った。
 が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――
「にいさん。」
 馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、ほおを紺の水干すいかんの胸にあてて、はらはらと涙を落としたのである。
 半時はんときののち、人通りのない朱雀すざく大路おおじを、二人は静かに馬を進めて行った。兄も黙っていれば、弟も口をきかない。しんとした夜は、ただ馬蹄ばていの響きにこだまをかえして、二人の上の空には涼しい天の川がかかっている。

藍岩堂
作家:芥川 龍之介
偸 盗
0
  • 0円
  • ダウンロード

5 / 11

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント