偸 盗

       1

「おばば、猪熊いのくまのおばば。」
 朱雀綾小路すざくあやのこうじつじで、じみな紺の水干すいかん揉烏帽子もみえぼしをかけた、二十はたちばかりの、醜い、片目の侍が、平骨ひらぼねの扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。――
 むし暑く夏霞なつがすみのたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳はやなぎが一本、このごろはやる疫病えやみにでもかかったかと思う姿で、かたばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車ぎっしゃのわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さなながむしも、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつかあぶらぎった腹を上へ向けて、もううろこ一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこのながむしの切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。
「おばば。」
「……」
 老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。あかじみた檜皮色ひわだいろ帷子かたびらに、黄ばんだ髪の毛をたらして、しりの切れた藁草履わらぞうりをひきずりながら、長い蛙股かえるまたつえをついた、目の丸い、口の大きな、どこかひきの顔を思わせる、卑しげな女である。
「おや、太郎さんか。」
 日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。
「何か用でもおありか。」
「いや、別に用じゃない。」
 片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。
「ただ、沙金しゃきんがこのごろは、どこにいるかと思ってな。」
「用のあるは、いつも娘ばかりさね。とびたかを生んだおかげには。」
 猪熊いのくまのばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。
「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」
「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは羅生門らしょうもん、刻限は上刻じょうこく――みんな昔から、きまっているとおりさ。」
 老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、
「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」
 これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた黄紙きがみの扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。
「じゃ沙金しゃきんはまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」
「なに、やっぱり販婦ひさぎめか何かになって、行ったらしいよ。」
「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」
「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」
 老婆は、鼻の先で笑いながら、つえを上げて、道ばたのながむし死骸しがいを突っついた。いつのまにかたかっていた青蝿あおばえが、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。
「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」
「わかっているわな。」
 相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。
「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと刃物三昧はものざんまいだわね。」
「そりゃもう一年まえの事だ。」
「何年まえでも、同じ事だよ。一度した事は、三度するって言うじゃないか。三度だけなら、まだいいほうさ。わたしなんぞは、この年まで、同じばかを、何度したか、わかりゃしないよ。」
 こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。
「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、藤判官とうほうがんだ、手くばりはもうついたのか。」
 太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが※(「條」の「木」に代えて「栩のつくり」、第3水準1-90-31)ゆうぜんと、暗くなった。その中に、ただ、ながむし死骸しがいだけが、前よりもいっそう腹のあぶらを、ぎらつかせているのが見える。
「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」
「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの人数にんずは?」
「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。阿濃あこぎは、あのからだだから、朱雀門すざくもんに待っていて、もらう事にしようよ。」
「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」
 太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――猪熊いのくまのばばも、腰をそらせて、ひとしきり東鴉あずまがらすのような笑い声を立てた。
「あの阿呆あほうをね。たれがまあ手をつけたんだか――もっとも、阿濃あこぎは次郎さんに、執心しゅうしんだったが、まさかあの人でもなかろうよ。」
「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」
「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ沙汰さたをするのも、わたし一人という始末さ。真木島まきのしまの十郎、関山せきやま平六へいろく高市たけち多襄丸たじょうまると、まだこれから、三軒まわらなくっちゃ――おや、そう言えば、油を売っているうちに、もうかれこれひつじになる。お前さんも、もうわたしのおしゃべりには、聞き飽きたろう。」
 蛙股かえるまたつえは、こういうことばと共に動いた。
「が、沙金しゃきんは?」
 この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。
「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしのうちで、昼寝でもしているだろうよ。きのうまでは、うちにいなかったがね。」
 片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、
「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」
「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」
 猪熊いのくまのばばは、口達者に答えながら、つえをひいて、歩きだした。綾小路あやのこうじを東へ、さるのような帷子姿かたびらすがたが、藁草履わらぞうりしりにほこりをあげて、日ざしにも恐れず、歩いてゆく。――それを見送った侍は、汗のにじんだ額に、険しい色を動かしながら、もう一度、柳の根につばを吐くと、それからおもむろに、くびすをめぐらした。
 二人の別れたあとには、例のながむし死骸しがいにたかった青蝿あおばえが、相変わらず日の光の中に、かすかな羽音を伝えながら、立つかと思うと、止まっている。……
 
       2

 猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――
 通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ台盤所だいばんどころ婢女みずしをしていたころの事を思えば、――いや、思いがけない身分ちがいの男に、いどまれて、とうとう沙金しゃきんを生んだころの事を思えば、今の都は、名ばかりで、そのころのおもかげはほとんどない。昔は、牛車ぎっしゃの行きかいのしげかった道も、今はいたずらにあざみの花が、さびしく日だまりに、咲いているばかり、倒れかかった板垣いたがきの中には、無花果いちじゅくが青い実をつけて、人を恐れないからすの群れは、昼も水のない池につどっている。そうして、自分もいつか、髪がしらみしわがよって、ついには腰のまがるような、老いの身になってしまった。都も昔の都でなければ、自分も昔の自分でない。
 その上、かたちも変われば、心も変わった。始めて娘と今の夫との関係を知った時、自分は、泣いて騒いだ覚えがある。が、こうなって見れば、それも、当たりまえの事としか思われない。盗みをする事も、人を殺す事も、慣れれば、家業と同じである。言わば京の大路小路おおじこうじに、雑草がはえたように、自分の心も、もうすさんだ事を、苦にしないほど、すさんでしまった。が、一方から見ればまた、すべてが変わったようで、変わっていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よったところがある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かったころと、やる事にたいした変わりはない。こうして人間は、いつまでも同じ事を繰り返してゆくのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。……
 猪熊いのくまのばばの心の中には、こういう考えが、漠然ばくぜんとながら、浮かんで来た。そのさびしい心もちに、つまされたのであろう、丸い目がやさしくなって、ひきのような顔の肉が、いつのまにか、ゆるんで来る。――と、また急に、老婆は、生き生きと、しわだらけの顔をにやつかせて、蛙股かえるまたつえのはこびを、前よりも急がせ始めた。
 それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを(これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。)隔てる、くずれかかった築土ついじがあって、その中に、盛りをすぎた合歓ねむの木が二三本、こけの色の日に焼けたかわらの上に、ほほけた、赤い花をたらしている。それをそらに、枯れ竹の柱を四すみへ立てて、古むしろの壁を下げた、怪しげな小屋が一つ、しょんぼりとかけてある。――場所と言い、様子と言い、中には、こじきでも住んでいるらしい。
 別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に黒鞘くろざや太刀たちを横たえたのが、どういうわけか、しさいらしく、小屋の中をのぞいている。そのういういしいまゆのあたりから、まだ子供らしさのぬけないほおのやつれが、一目で老婆に、そのたれという事を知らせてくれた。
「何をしているのだえ。次郎さん。」
 猪熊いのくまのばばは、そのそばへ歩みよると、蛙股かえるまたつえを止めて、あごをしゃくりながら、呼びかけた。
 相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、ひきつらの、厚いくちびるをなめる舌を見ると、白い齒を見せて微笑しながら、黙って、小屋の中を指さした。
 小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十格好がっこうの小柄な女が、石をまくらにして、横になっている。それも、はだをおおうものは、腰のあたりにかけてある、麻の汗衫かざみ一つぎりで、ほとんど裸と変わりがない。見ると、その胸や腹は、指で押しても、血膿ちうみにまじった、水がどろりと流れそうに、黄いろくなめらかに、むくんでいる。ことに、むしろの裂け目から、天日てんぴのさしこんだ所で見ると、わきの下や首のつけ根に、ちょうど腐ったあんずのような、どす黒いまだらがあって、そこからなんとも言いようのない、異様な臭気が、もれるらしい。
 枕もとには、縁の欠けた土器かわらけがたった一つ(底に飯粒がへばりついているところを見ると、元はかゆでも入れたものであろう。)捨てたように置いてあって、たれがしたいたずらか、その中に五つつ、どろだらけの石ころが行儀よく積んである。しかも、そのまん中に、花も葉もひからびた、合歓ねむを一枝立てたのは、おおかた高坏たかつきへ添える色紙しきしの、心葉こころばをまねたものであろう。
 それを見ると、気丈な猪熊いのくまのばばも、さすがに顔をしかめて、あとへさがった。そうして、その刹那せつなに、突然さっきのながむし死骸しがいを思い浮かべた。
「なんだえ。これは。疫病えやみにかかっている人じゃないか。」
「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所のうちで、捨てたのだろう。これじゃ、どこでも持てあつかうよ。」
 次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。
「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」
「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい餌食えじきを見つけた気で、食いそうにしていたから、石をぶつけて、追い払ってやったところさ。わたしが来なかったら、今ごろはもう、腕の一つも食われてしまったかもしれない。」
 老婆は、蛙股かえるまたつえにあごをのせて、もう一度しみじみ、女のからだを見た。さっき、犬が食いかかったというのは、これであろう。――破れ畳の上から、往来の砂の中へ、斜めにのばした二の腕には、水気すいきを持った、土け色の皮膚に、鋭い齒の跡がつ、紫がかって残っている。が、女は、じっと目をつぶったなり、息さえかよっているかどうかわからない。老婆は、再び、はげしい嫌悪けんおの感に、おもてを打たれるような心もちがした。
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
 老婆は、こう言うと、蛙股かえるまたつえをのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
 次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
 老婆は、つえの上でのび上がりながら、ぎょろり目を大きくして、あざわらうように、こう言った。
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
 すると、猪熊いのくまのばばは、上くちびるをべろりとやって、ふてぶてしく空うそぶいた。
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
 次郎は、ちょいとびんをかいて、四たび白い齒を見せながら、微笑した。そうして、やさしく老婆の顔をながめながら、
「どこへくのだい、おばばは。」と問いかけた。
真木島まきのしまの十郎と、高市たけち多襄丸たじょうまると、――ああ、そうだ。関山せきやま平六へいろくへは、お前さんに、言づけを頼もうかね。」
 こう言ううちに、猪熊いのくまのばばは、つえにすがって、もう二足三足歩いている。
「ああ、行ってもいい。」
 次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり気色きしょくがわるくなってしまったよ。」
 老婆は、大仰おおぎょうに顔をしかめながら、
「――ええと、平六のうちは、お前さんも知っているだろう。これをまっすぐに行って、立本寺りゅうほんじの門を左へ切れると、藤判官とうほうがんの屋敷がある。あの一町ばかり先さ。ついでだから、屋敷のまわりでもまわって、今夜の下見をしておおきよ。」
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
 二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている蓬原よもぎはら、そのところどころに続いている古築土ふるついじ、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う死人しびとのにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に足駄あしだをはいている、いざりのこじきにきちがった。――
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
 猪熊いのくまのばばは、ふと太郎の顔を思い浮かべたので、ひとり苦笑を浮かべながら、こう言った。
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
 が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでたまゆの間を、にわかに曇らせながら、不快らしく目を伏せた。
「そりゃわたしも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
 老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、もふたもなくなるがさ。実はわたしは、きのう娘に会ったのだよ。すると、きょうひつじ下刻げこくに、お前さんと寺の門の前で、会う事になっていると言うじゃないか。それで、お前さんのにいさんには半月近くも、顔は合わせないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。また、お前さん、一悶着ひともんちゃくだろう。」
 次郎は、老婆の※(「女+尾」、第3水準1-15-81)びびとして説くことばをさえぎるように、黙って、いらだたしく何度もうなずいた。が、猪熊いのくまのばばは、容易に口を閉ざしそうなけしきもない。
「さっき、向こうのつじで、太郎さんに会った時にも、わたしはよくそう言って来たけれどね、そうなりゃ、わたしたちの仲間だもの、すぐに刃物三昧はものざんまいだろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘にけがでもあったら、とわたしは、ただ、それが心配なのさ。娘は、なにしろあのとおりの気質だし、太郎さんにしても、一徹人いってつじんだから、わたしは、お前さんによく頼んでおこうと思ってね。お前さんは、死人しびとが犬に食われるのさえ、見ていられないほど、やさしいんだから。」
 こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
大事おおごとにならなければいいが。」
 猪熊いのくまのばばは、蛙股かえるまたつえを早めながら、この時始めて心の底で、しみじみこう、祈ったのである。

 かれこれその時分の事である。すわえの先にながむし死骸しがいをひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でもいたずらな一人が、遠くから及び腰になって、そのながむしを女の顔の上へほうり上げた。青くあぶらの浮いた腹がぺたり、女のほおに落ちて、それから、腐れ水にぬれた尾が、ずるずるあごの下へたれる――と思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。
 今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんよりそらえながら、砂まぶれの指を一つびくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れたくちびるの奥のほうから、かすかにもれて来たからである。
 
       3

 猪熊いのくまのばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀すざく大路おおじを北へ、進まない歩みをはこんだ。――
 日中の往来は、人通りもきわめて少ない。栗毛くりげの馬に平文ひらもんくらを置いてまたがった武士が一人、鎧櫃よろいびつを荷なった調度掛ちょうどがけを従えながら、綾藺笠あやいがさに日をよけて、悠々ゆうゆうと通ったあとには、ただ、せわしないつばくらが、白い腹をひらめかせて、時々、往来の砂をかすめるばかり、板葺いたぶき檜皮葺ひわだぶきの屋根の向こうに、むらがっているひでりぐもも、さっきから、凝然と、金銀銅鉄をかしたまま、小ゆるぎをするけしきはない。まして、両側に建て続いた家々は、いずれもしんと静まり返って、その板蔀いたじとみ蒲簾かますだれの後ろでは、町じゅうの人がことごとく、死に絶えてしまったかとさえ疑われる。――

 猪熊いのくまのばばの言ったように、沙金しゃきんを次郎に奪われるという恐れは、ようやく目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、あばたのある、片目の、醜いおれを、日にこそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、もとよりなんの不思議もない。おれは、ただ、次郎が、――子供の時から、おれを慕ってくれたあの次郎が、おれの心もちを察してくれて、よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい量見りょうけんに過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらなびのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした男の数は、この炎天にひるがえるつばくらかずよりも、たくさんある。現にこう言うおれでさえ、ただ一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……

 すると四条坊門しじょうぼうもんつじを、南へやる赤糸毛あかいとげ女車おんなぐるまが、静かに太郎の行く手を通りすぎる。車の中の人は見えないが、べに裾濃すそごに染めた、すずしの下簾したすだれが、町すじの荒涼としているだけに、ひときわ目に立ってなまめかしい。それにつき添った牛飼いのわらべ雑色ぞうしきとは、うさんらしく太郎のほうへ目をやったが、牛だけは、つのをたれて、漆のように黒い背を鷹揚おうようにうねらしながら、わき見もせずに、のっそりと歩いてゆく。しかしとりとめのない考えに沈んでいる太郎には、車の金具の、まばゆく日に光ったのが、わずかに目にはいっただけである。
 彼は、しばらく足をとめて、車を通りこさせてから、また片目を地に伏せて、黙々と歩きはじめた。――

(おれが右のひとや放免ほうめんをしていた時の事を思えば、今では、遠い昔のような、心もちがする。あの時のおれと今のおれとを比べれば、おれ自身にさえ、同じ人間のような気はしない。あのころのおれは、三宝を敬う事も忘れなければ、王法にしたがう事も怠らなかった。それが、今では、盗みもする。時によっては、火つけもする。人を殺した事も、二度や三度ではない。ああ、昔のおれは――仲間の放免といっしょになって、いつもの七半しちはんを打ちながら、笑い興じていた、あの昔のおれは、今のおれの目から見ると、どのくらいしあわせだったかわからない。
 考えれば、まだきのうのように思われるが、実はもう一年まえになった。――あの女が、盗みのとがで、検非違使けびいしの手から、右のひとやへ送られる。おれがそれと、ふとした事から、牢格子ろうごうしを隔てて、話し合うような仲になる。それから、その話が、だんだんたび重なって、いつか互いに身の上の事まで、打ち明け始める。とうとう、しまいには、猪熊いのくまのばばや同類の盗人が、ろうを破ってあの女を救い出すのを、見ないふりをして、通してやった。
 その晩から、おれは何度となく、猪熊のばばの家へ出はいりをした。沙金しゃきんは、おれのく時刻を見はからって、あの半蔀はじとみの間から、雀色時すずめいろどきの往来をのぞいている。そうしておれの姿が見えると、鼠鳴ねずみなきをして、はいれと言う。家の中には、下衆女げすおんな阿濃あこぎのほかに、たれもいない。やがて、しとみをおろす。結び燈台へ火をつける。そうして、あの何畳かの畳の上に、折敷おしき高坏たかつきを、所狭く置きならべて、二人ぎりの小酒盛こざかもりをする。そのあげくが、笑ったり、泣いたり、けんかをしたり、仲直りをしたり――言わば、世間並みの恋人どうしが、するような事をして、いつでも夜を明かした。
 日の暮れに来て、のひき明け方に帰る。――あれが、それでも一月ひとつきは続いたろう。そのうちに、おれには沙金が猪熊のばばのつれ子である事、今では二十何人かの盗人のかしらになって、時々洛中らくちゅうをさわがせている事、そうしてまた、日ごろは容色を売って、傀儡くぐつ同様な暮らしをしている事――そういう事が、だんだんわかって来た。が、それは、かえってあの女に、双紙の中の人間めいた、不思議な円光をかけるばかりで、少しも卑しいなどという気は起こさせない。無論、あの女は、時々おれに、いっそ仲間へはいれと言う。が、おれはいつも、承知しない。すると、あの女は、おれの事を臆病おくびょうだと言って、ばかにする。おれはよくそれで、腹を立てた。………)

「はい、はい」と馬をしかる声がする。太郎は、あわてて、道をよけた。
 米俵を二俵ずつ、左右へ積んだ馬をひいて、汗衫かざみ一つの下衆げすが、三条坊門のつじを曲がりながら、汗もふかずに、炎天の大路おおじを南へ下って来る。その馬の影が、黒く地面に焼きついた上を、つばくらが一羽、ひらり羽根を光らせて、すじかいに、そらへ舞い上がった。と思うと、それがまたつぶてを投げるように、落として来て、太郎の鼻の先を一文字に、向こうの板庇いたびさしの下へはいる。
 太郎は、歩きながら、思い出したように、はたはたと、黄紙きがみの扇を使った。――

(そういう月日が、続くともなく続くうちに、おれは、偶然あの女と養父との関係に、気がついた。もっともおれ一人が、沙金しゃきんを自由にする男でないという事も、知っていなかったわけではない。沙金自身さえ、関係した公卿くげの名や法師の名を、何度も自慢らしくおれに話した事がある。が、おれはこう思った。あの女のはだは、おおぜいの男を知っているかもしれない。けれども、あの女の心は、おれだけが占有している。そうだ、女のみさおは、からだにはない。――おれは、こう信じて、おれの嫉妬しっとをおさえていた。もちろんこれも、あの女から、知らず知らずおれが教わった、考え方にすぎないかもしれない。が、ともかくもそう思うと、おれの苦しい心はいくぶんからくになった。しかし、あの女と養父との関係は、それとちがう。
 おれは、それを感づいた時に、なんとも言えず、不快だった。そういう事をする親子なら、殺して飽きたらない。それを黙って見る実の母の、猪熊いのくまのばばもまた、畜生より、無残なやつだ。こう思ったおれは、あの酔いどれのおやじの顔を見るたびに、何度太刀たちへ手をかけたか、わからない。が、沙金はそのたびに、おれの前で、ことさら、手ひどく養父をばかにした。そうしてその見え透いた手くだがまた、不思議におれの心を鈍らせた。「わたしはおとうさんがいやでいやでしかたがないんです」と言われれば、養父をにくむ気にはなっても、沙金をにくむ気には、どうしてもなれない。そこで、おれと養父とは、きょうがきょうまで、互いににらみ合いながら、何事もなくすぎて来た。もしあのおじじにもう少し、勇気があったなら、――いや、おれにもう少し、勇気があったなら、おれたちはとうの昔、どちらか死んでいた事であろう。……)

 頭を上げると、太郎はいつか二条を折れて、耳敏川みみとがわにまたがっている、小さい橋にかかっていた。水のかれた川は、細いながらも、太刀だちのように、日を反射して、絶えてはつづく葉柳はやなぎと家々との間に、かすかなせせらぎの音を立てている。その川のはるか下に、黒いものが二つ三つ、の鳥かと思うように、流れの光を乱しているのは、おおかた町の子供たちが、水でも浴びているのであろう。
 太郎の心には、一瞬の間、幼かった昔の記憶が、――弟といっしょに、五条の橋の下で、はえった昔の記憶が、この炎天に通う微風のように、かなしく、なつかしく、返って来た。が、彼も弟も、今は昔の彼らではない。
 太郎は、橋を渡りながら、うすいあばたのある顔に、また険しい色をひらめかせた。――

(すると、突然ある日、そのころ筑後ちくご前司ぜんじ小舎人ことねりになっていた弟が、盗人の疑いをかけられて、左のひとやへ入れられたという知らせが来た。放免ほうめんをしているおれには、獄中の苦しさが、たれよりもよく、わかっている。おれは、まだ筋骨のかたまらない弟の身の上を、自分の事のように、心配した。そこで、沙金しゃきんに相談すると、あの女はさもわけがなさそうに、「ろうを破ればいいじゃないの」と言う。かたわらにいた猪熊いのくまのばばも、しきりにそれをすすめてくれる。おれは、とうとう覚悟をきめて、沙金といっしょに、五六人の盗人を語り集めた。そうして、その夜のうちに、ひとやをさわがして、難なく弟を救い出した。その時、受けた傷の跡は、今でもおれの胸に残っている。が、それよりも忘れられないのは、おれがその時始めて、放免ほうめんの一人を切り殺した事であった。あの男の鋭い叫び声と、それから、あの血のにおいとは、いまだにおれの記憶を離れない。こう言う今でも、おれはそれを、この蒸し暑い空気の中に、感じるような心もちがする。
 その翌日から、おれと弟とは、猪熊の沙金の家で、人目を忍ぶ身になった。一度罪を犯したからは、正直に暮らすのも、あぶない世渡りをしてゆくのも、検非違使けびいしの目には、変わりがない。どうせ死ぬくらいなら、一日も長く生きていよう。そう思ったおれは、とうとう沙金の言うなりになって、弟といっしょに盗人の仲間入りをした。それからのおれは、火もつける。人も殺す。悪事という悪事で、なに一つしなかったものはない。もちろん、それも始めは、いやいやした。が、してみると、意外に造作ぞうさがない。おれはいつのまにか、悪事を働くのが、人間の自然かもしれないと思いだした。……)

 太郎は、半ば無意識につじをまがった。辻には、石でまわりを積んだ一囲いの土饅頭どまんじゅうがあって、その上に石塔婆せきとうばが二本、並んで、午後の日にかっと、照りつけられている。その根元にはまた、何匹かのとかげが、すすのように黒いからだを、気味悪くへばりつかせていたが、太郎の足音に驚いたのであろう、彼の影の落ちるよりも早く、一度にざわめきながら、四方へ散った。が、太郎は、それに目をやるけしきもない。――
「おれは、悪事をつむに従って、ますます沙金しゃきん愛着あいじゃくを感じて来た。人を殺すのも、盗みをするのも、みんなあの女ゆえである。――現にろうを破ったのさえ、次郎を助けようと思うほかに、一人の弟を見殺しにすると、沙金にわらわれるのを、おそれたからであった。――そう思うと、なおさらおれは、何に換えても、あの女を失いたくない。
 その沙金を、おれは今、肉身の弟に奪われようとしている。おれが命をけて助けてやった、あの次郎に奪われようとしている。奪われようとしているのか、あるいは、もう奪われているのか、それさえも、はっきりはわからない。沙金しゃきんの心を疑わなかったおれは、あの女がほかの男をひっぱりこむのも、よくない仕事の方便として、許していた。それから、養父との関係も、あのおじじが親の威光で、何も知らないうちに、誘惑したと思えば、目をつぶって、すごせない事はない。が、次郎との仲は、別である。
 おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも顔かたちは、七八年まえ痘瘡もがさが、おれには重く、弟には軽かったので、次郎は、生まれついた眉目みめをそのままに、うつくしい男になったが、おれはそのために片目つぶれた、生まれもつかない不具になった。その醜い、片目のおれが、今まで沙金の心を捕えていたとすれば、(これも、おれのうぬぼれだろうか。)それはおれの魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から生まれた弟も、おれに変わりなく持っている。しかも、弟は、たれの目にもおれよりはうつくしい。そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうでも、おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事には、おのずからひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、どうして、あの女の見せるびを、返さずにいられよう。――
 こう思えば、次郎と沙金しゃきんとが、近づくようになるのは、無理もない。が、無理がないだけ、それだけ、おれには苦痛である。弟は、沙金をおれから奪おうとする。――それも、沙金の全部を、おれから奪おうとする。いつかは、そうして必ず。ああ、おれの失うのは、ひとり沙金ばかりではない。弟もいっしょに失うのだ。そうして、そのかわりに、次郎と言う名のかたきができる。――おれは、かたきには用捨しない。かたきも、おれに用捨はしないだろう。そうなれば、落ち着くところは、今からあらかじめわかっている。弟を殺すか、おれが殺されるか。……)

 太郎は、死人しびとのにおいが、鋭く鼻を打ったのに、驚いた。が、彼の心の中の死が、におったというわけではない。見ると、猪熊いのくまの小路のあたり、とある網代あじろへいの下に腐爛ふらんした子供の死骸しがいが二つ、裸のまま、積み重ねて捨ててある。はげしい天日てんぴに、照りつけられたせいか、変色した皮膚のところどころが、べっとりと紫がかった肉を出して、その上にはまた青蝿あおばえが、何匹となく止まっている。そればかりではない。一人の子供のうつむけた顔の下には、もう足の早いありがついた。――
 太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――
「ことに、このごろは、沙金しゃきんもおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれにめんと向かって、悪口あっこうさえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を折檻せっかんしているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の生涯しょうがいは、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。
 沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)

 そう思ううちに、彼は、もう猪熊いのくまのばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、死人しびとのにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた枇杷びわがあって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは?
 太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、猪熊いのくまおじの声に交じって、彼の耳を貫ぬいた。沙金しゃきんなら、捨ててはおけない。
 彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。
      4

 猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、立本寺りゅうほんじの門の石段を、一つずつ数えるように上がって、そのところどころ剥落はくらくした朱塗りの丸柱の下へ来て、疲れたように腰をおろした。さすがの夏の日も、斜めにつき出した、高いかわらにさえぎられて、ここまではさして来ない。後ろを見ると、うす暗い中に、一体の金剛力士が青蓮花あおれんげを踏みながら、左手のきねを高くあげて、胸のあたりにつばくらふんをつけたまま、寂然せきぜん境内けいだいの昼を守っている。――次郎は、ここへ来て、始めて落ち着いて、自分の心もちが考えられるような気になった。
 日の光は、相変わらず目の前の往来を、照りしらませて、その中にとびかうつばくらの羽を、さながら黒繻子くろじゅすか何かのように、光らせている。大きな日傘ひがさをさして、白い水干すいかんを着た男が一人、青竹の文挾ふばさみにはさんだふみを持って、暑そうにゆっくり通ったあとは、向こうに続いた築土ついじの上へ、影を落とす犬もない。
 次郎は、腰にさした扇をぬいて、その黒柿くろがきの骨を、一つずつ指で送ったり、もどしたりしながら、兄と自分との関係を、それからそれへ、思い出した。――
 なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分をかたきのように思っている。顔を合わせるごとに、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折ってしまう。それも、自分と沙金しゃきんとが、今のような事になってみれば、無理のない事に相違ない。が、自分は、あの女に会うたびに、始終兄にすまないと思っている。別して、会ったのちのさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなって、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、このまま、兄にも沙金にも別れて、東国へでも下ろうとさえ、思った事がある。そうしたら、兄も自分を憎まなくなるだろうし、自分も沙金を忘れられるだろう。そう思って、よそながらいとまごいをするつもりで、兄の所へ会いにゆくと、兄はいつも、そっけなく、自分をあしらった。そうして、沙金に会うと、――今度は自分が、せっかくの決心を忘れてしまう。が、そのたびに、自分はどのくらい、自分自身を責めた事であろう。
 しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋のかたきだと思っている。自分は、兄にののしられてもいい。顔につばきされてもいい。あるいは場合によっては、殺されてもいい。が、自分が、どのくらい自分の不義を憎んでいるか、どのくらい兄に同情しているか、それだけは、察していてもらいたい。その上でならば、どんな死にざまをするにしても、兄の手にかかれば、本望だ。いや、むしろ、このごろの苦しみよりは、一思いに死んだほうが、どのくらいしあわせだかわからない。
 自分は、沙金しゃきんに恋をしている。が、同時に憎んでもいる。あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。その上に、絶えずうそをつく。それから、兄や自分でさえためらうような、ひどい人殺しも、平気でする。時々、自分は、あの女のみだらな寝姿をながめながら、どうして、自分がこんな女に、ひかされるのだろうと思ったりした。ことに、見ず知らずの男にも、なれなれしくはだを任せるのを見た時には、いっそ自分の手で、殺してやろうかという気にさえなった。それほど、自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の目を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。
 この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金しゃきんとほかの男との関係を見るにしても、兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。自分にとっては、沙金が肌身はだみけがす事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に対しても、嫉妬しっとをする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、悪くするのではあるまいか。………
 次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かんだかい女の声が、舌のまわらない男の声といっしょになって、人もなげに、みだらな冗談を言いかわして来る。次郎は、思わず扇を腰にさして、立ち上がった。
 が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、小路こうじを南へ歩いて来た二人の男女なんにょが、彼の前を通りかかった。
 男は、樺桜かばざくら直垂ひたたれ梨打なしうち烏帽子えぼしをかけて、打ち出しの太刀たち濶達かったついた、三十ばかりの年配で、どうやら酒に酔っているらしい。女は、白地にうす紫の模様のあるきぬを着て、市女笠いちめがさ被衣かずきをかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない沙金しゃきんである。――次郎は、石段をおりながら、じっとくちびるをかんで、目をそらせた。が、二人とも、次郎には、目をかける様子がない。
「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」
「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、大船おおぶねに乗った気でいるがいい」
「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」
 男は赤ひげの少しある口を、のどまで見えるほど、あけて笑いながら、指で、ちょいと沙金のほおを突っついた。
「おれのほうも、これで命がけさ。」
「うまく言っているわ。」
 二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が猪熊いのくまのばばと別れたつじまで行くと、そこに足をとめたまましばらくは、人目も恥じず、ふざけ合っていたが、やがて、男は、振りかえり振りかえり、何かしきりにからかいながら、辻を東へ折れてしまう。女は、くびすをめぐらして、まだくすくす笑いながら、またこっちへ帰って来る。――次郎は、石段の下にたたずんで、うれしいのか情けないのか、わからないような感情に動かされながら、子供らしく顔を赤らめて、被衣かずきの中からのぞいている、沙金しゃきんの大きな黒い目を迎えた。
「今のやつを見た?」
 沙金は、被衣かずきを開いて、汗ばんだ顔を見せながら、笑い笑い、問いかけた。
「見なくってさ。」
「あれはね。――まあここへかけましょう。」
 二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。
「あれは、藤判官とうほうがんの所の侍なの。」
 沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、市女笠いちめがさをぬいで、こう言った。小柄な、手足の動かし方にねこのような敏捷びんしょうさがある、中肉ちゅうにくの、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野性と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかなほおと、あざやかな歯とみだらなくちびると、鋭い目と鷹揚おうようまゆと、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、つめばかりの無理もない。が、中でもみごとなのは、肩にかけた髪で、これは、日の光のかげんによると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、からすの羽根と違いがない。次郎は、いつ見ても変わらない女のなまめかしさを、むしろ憎いように感じたのである。
「そうして、お前さんの情人おとこなんだろう。」
 沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」
「何がさ。」
「何がって、藤判官とうほうがんの屋敷の様子がよ。そりゃひとかたならないおしゃべりなんでしょう。さっきなんぞは、このごろ、あすこで買った馬の話まで、話して聞かしたわ。――そうそう、あの馬は太郎さんに頼んで盗ませようかしら。陸奥出みちのくで三才駒さんさいごまだっていうから、まんざらでもないわね。」
「そうだ。兄きなら、なんでもお前の御意ぎょい次第だから。」
「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」
「そのうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」
「それは、どうだかわかりゃしない。」
 沙金しゃきんは、またかんだかい声で、笑った。
「おこったの? じゃ、来ないって言いましょうか。」
内心女夜叉ないしんにょやしゃさね。お前は。」
 次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。
「そりゃ、女夜叉にょやしゃかもしれないわ。ただ、こんな女夜叉にょやしゃにほれられたのが、あなたの因果だわね。――まだうたぐっているの。じゃわたし、もう知らないからいい。」
 沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。
「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」
「いい事?」
「ええ」
 女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。
「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」
「何を?」
「今夜、みんなで藤判官とうほうがんの屋敷へ、行くという事を。」
 次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬のあいだに消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
 沙金しゃきんは、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。
「わたしこう言ったの。わたしの寝る部屋へやは、あの大路面おおじめん檜垣ひがきのすぐそばなんですが、ゆうべその檜垣ひがきの外で、きっと盗人でしょう、五六人の男が、あなたの所へはいる相談をしているのが聞こえました。それがしかも、今夜なんです。おなじみがいに、教えてあげましたから、それ相当の用心をしないと、あぶのうござんすよって。だから、今夜は、きっと向こうにも、手くばりがあるわ。あいつも、今人を集めに行ったところなの。二十人や三十人の侍は、くるにちがいなくってよ。」
「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」
 次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、沙金しゃきんの目をうかがった。
「よけいじゃないわ。」
 沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、
「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
 こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
 沙金しゃきんは、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。
「殺しちゃ悪い?」
「悪いよりも――兄きをわなにかけて――」
「じゃあなた殺せて?」
 次郎は、沙金の目が、野猫のねこのように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その目の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意志を、麻痺まひさせようとするのを感じた。
「しかし、それは卑怯ひきょうだ。」
「卑怯でも、しかたがなくはない?」
 沙金しゃきんは、扇をすてて、静かに両手で、次郎の右の手をとらえながら、追窮した。
「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」
 こう言いながら、次郎は、しまったと思った。狡猾こうかつな女はもちろん、この機会を見のがさない。
「一人やるのならいいの? なぜ?」
 次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、沙金しゃきんの前を、右左に歩き出した。
「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」
 沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。
「おばばはどうする?」
「死んだら、死んだ時の事だわ。」
 次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、侮蔑ぶべつと愛欲とに燃えて炭火のように熱を持っている。
「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」
 このことばの中には、さそりのように、人を刺すものがある。次郎は、再び一種の戦慄せんりつを感じた。
「しかし、兄きは――」
「わたしは、親も捨てているのじゃない?」
 こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。
「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
 その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、沙金しゃきんの手をとらえた。
 彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。
 
藍岩堂
作家:芥川 龍之介
偸 盗
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