生きる意味は有るのか? 4
慣習の功罪
時代は絶えず移り変わって止(や)みません。
それを人は 『 無常 』 とし、
その文字通りにも 『 常ならぬ 』、
目まぐるしくも過ぎ行くばかりの儚さを、
ついつい徒(いたずら)にも過ごしては、
その取り返しの付かない一過性を、
今更ながらに悔(く)い惜しみ、
嘆き恨みさえして憚(はばか)りません。
そして、そうもした反感のさながらに、
『 恒常 』 こそが、好ましいとばかりにも、
あらぬ 『 夢幻 』 に慰めを求めては、
勢い現実さえを軽視もしては顧みず、
『 現(うつつ)を抜かす 』
ことともなりかねないのです。
すると、その慰めの心地好さに、
さらにも深くのめり込んでは、
いつしか浸(ひた)り切っての習慣化に、
然(さ)もそれこそが当然とばかりにも、
耽(ふけ)り痴(し)れるほどにまで、
その執着の度の、弥(いや)が上にも、
高ずることともなるのです。
果たして、一旦にも習慣化し、
その都合の好さに広まりもして、
その上、世代を重ねて引き継がれもすれば、
いずれ、いかにも習俗宜(よろ)しく慣習化し、
竟(つい)には、『 文化 』 とまで、尊ばれるほど、
祀(まつ)り上げられることともなるのです!
さては、そうもした最たる好例こそが、
他ならぬ、『 神代の時代 』 からともなる、
『 宗教 』 にも、違いないのではないでしょうか?
なぜなら、それが何よりの証拠に、
今般のコロナ危機によって、またしても、
その無力さが、嘆かわしいほど不甲斐ないまでに、
ものの見事にも暴き出されたではありませんか!?