生きる意味は有るのか? 1
現(うつつ)は幻(まぼろし)か
古今東西、『 この世は所詮(しょせん)夢幻 』 とばかりに、
久しくも遍(あまね)く嘆かれては、
蔑(さげす)まれてさえ来てもなりませんが、
はたして、そうにも違いないのでしょうか?
なるほど、この世の一切が、
唯の片時たりとも止(とど)まることを知らず、
絶えず果てし無くも移り変わり、
あたかも大河の流れの泡沫(うたかた)さながらに、
人の一生などの実に頼りなくも儚(はかな)く、
思えば思うほどに取るに足らず、
唯々虚しいばかりにも、
想い遣られてさえなりません。
さては、この世の、
所詮は、やはり夢幻にもすぎないのでしょうか!?
現世の実在の意義について
現世の実在こそは、どうにも疑いようのありません。
そもそもからして、もとより在(あ)りもしないものを、
疑う意味すらの無いのですから。
なぜなら、仮にも現世が無ければ、
その一部にも違いない、それを疑う者の、
その存在すらのあるはずの無く、
在りもしない者が、考えをめぐらすなどの、
それこそありもしないからです。
さて、それにもかかわらず、
然(さ)もその実在さえをも疑い、
その上、厭(いと)いさえもするかの、
『 夢幻観 』 やら 『 厭世観 』 などの、
古今東西遍く久しくも禁じ得ないのは、
一体どうした訳からなのでしょうか?
先ず以っては、それこその、
糺(ただ)され明かされなければなりません。