超短編集

漠たる不安( 1 / 1 )

漠たる不安

現在、一ノ瀬哲也は4年前に定年を迎えた会社で、嘱託社員として働いている。契約が切れるまで、すでに1年を切った。埼玉から東京まで電車で1時間以上の往復。出勤時間も変わりなく、この日も7時にはリビングで新聞に目を通す。キッチンでは慌しく、妻が朝食を作っている。そしてテーブル越しに座っているのが、息子の正志だ。

哲也は朝食を終え、7時半前に自宅を出た。駅まで10分程度。少しくたびれた住宅街を縫うように歩く。年齢による衰えか、それとも数年前に胃がんの手術をしたからか、少し足腰が弱ったような気がする。息子のことが気掛かりだ。年齢は35歳。自分の後を追うように自宅を出る。しかし昼には自宅へ戻るのだ。週4日ほど、スーパーでパートをしている。いまだに哲也が扶養しているのだ。

子育ては順調に進んでいるつもりでいた。思春期にもこれといった反抗期はなく、真面目に受験勉強にも取り組み、一流に近い大学に進学した。しいて言えば、少し大人しいかなと思う程度だった。最初に変化を感じたのは、大学4年に進学した頃だった。就職活動をしないのだ。哲也が妻に尋ねると「専門学校に行きたい」との事だった。今にして思えば、この時、正志と話し合うべきだった。

正志は専門学校を中退。すでに大学卒業の賞味期限は切れている。ある意味、自然の流れで彼はフリーターになった。あれから12年ほどの歳月が流れてしまった。哲也が不思議に思うのは、正志が朝から夜までの長時間労働をしない事だ。少し痩せているが、特に体の悪いところはない。しかし、なぜか3、4時間の短時間のバイトを選ぶのだ。彼に直接聞いてはいないが、妻によると、「これくらいの時間が限界」と話しているようだ。今も昼に帰ってきて「疲れた」と漏らすらしい。

哲也は人を怒るのが苦手だ。それは自覚している。会社でも人との争いは出来るだけ避けてきた。母親は大概、息子に甘いものである。だから本来、父親である自分が、正志に強く言うべきなのかもしれなかった。しかし、摩擦を起こす勇気がなかった。哲也の会社の、正志と同世代の社員の働き振りを見ていると、到底、息子には無理だと感じる。しかし、今さらどうすれば良いというのだ。

あと少しで、会社を辞め、年金生活に入る。その収入が一ノ瀬家の柱となるのだ。10年後、哲也は75歳、妻も70を越え、息子は45歳。勇気を持てなかった罪なのか?何か、奥底から得体の知れない強い怒りが湧いてくる。正志に対してなのか、自分に対してか、社会に対してかよく分からない。動悸が速いのは、駅へ急いでいるばかりではなかった。

女性銀行員( 1 / 1 )

女性銀行員

北野奈美は銀行員だ。主に窓口業務や事務処理などを担当している。現在A銀行では大幅に定額預金の高金利キャンペーンを行っている。ここ数日、奈美は客の苦情処理に没頭しているのだ。

A銀行に預金している客に高金利キャンペーンを大々的に宣伝した。しかし、今の世の中、うまい話は転がっている訳もなく、注意書きとして「普通預金から定額預金への移行は対象外」と記してあった。要するに、自宅に溜め込んでいる金、理想的なのは他行に預けている金をA銀行へ移してくれる事なのだ。

「定期に移せば、高金利になるんじゃなかったの?話が違うじゃないか」
年配男性は興奮気味だ。
「案内に、これまで預けているお金を定期に移し変えるのは、無効と書かれていたはずです」
入行して7年になる奈美は、涼しく答える。それでも、何人もの相手を繰り返していくうちに疲れは蓄積される。

奈美は銀行を退社して駅へ向かう。二人の女子高生とすれ違う。彼女らは笑いながら話していた。どう見えているのだろう、あの子達に私は。彼女たちの年代から、いくつかの恋は経験してきた。特に2年前に別れた歯科医とは結婚を意識していた。しかし、最初は優しかった彼も、付き合って1年を過ぎたあたりから、一緒にいても楽しそうでなくなり、やがて不機嫌になった。つられて私も、不満をぶちまけ喧嘩になった。私は修復のための喧嘩のつもりだったが、彼は別れたかったようだ。

29歳。30を目前に控え、孤独を感じるようになった。男勝りに仕事に集中しても、自宅に帰ると、淋しさが浮かび上がってくる。日に日に若さが、女性らしさが薄皮をはがすように、削り取られていくような気がする。これからまだ恋は出来るのだろうか?結婚は?子供は?

仕事の後、同僚と食事した帰り、すでに午後11時を過ぎていた。駅から自宅まで10分もない。しかし、光が消えた街を歩くのは少し怖い。ヒールの音が自分をますます弱くする。後ろから誰かが歩いてくる。少し振り向いたら体格の良い男性だった。男性も気を使ったのか、足を速めて奈美を抜いた。自宅に辿り着き、安堵した瞬間、皮肉にも自分が女性である事を体の奥底から感じた。

君はどんな春を迎えるだろう( 1 / 1 )

君はどんな春を迎えるだろう

初めて彼女に会った時、有人は、彼女を直視できなかった。肌は目立って白く、黒目がちな瞳、長い睫毛、長い黒髪が、彼女の色白の顔をさらに引き立てているようだった。
「世の中にこんなにも美しい人がいるのか」
有人の偽らざる感想だった。
「佐藤君、この子に仕事教えてあげて」
年配社員の横で井川杏は僕に軽く会釈した。
 
3か月が過ぎた。杏はとっくに有人の職場を辞め、現在コンビニで働いている。有人は映画館の中にいる。隣には杏の横顔がある。職場で杏に連絡先を教えたらしく、杏が仕事を辞めてから一週間ほど後、メールに杏から「今度会おうよ」とのメッセージが入っていた。二人きりで会うのは今日が5度目だ。有人は、そろそろ杏と会うのはやめようと思案していた。
 
有人は映画館のような場所が苦手だ。パニック障害という病気なのだ。窒息死する恐怖を乗り越え、電車に乗り、せっかく合格した大学も2年で中退した。この館内は大学の大教室に似ている。この日に備えて、不安を抑える頓服薬を飲んできたものの、効果のほどはよくわからない。とにかく有人は地獄と天国が同居している状態にあった。
 
ほとんど俯いていたが、映画が終わりに差し掛かる頃、杏の顔を力ない目で見た。涙ぐんでいた。映画に集中し、自分の様子に関心がないことに有人は安堵した。
 
二人は映画館を出て、近くの喫茶店に入っていた。木枯らしが枝を揺らし、辛うじてしがみついた葉々が風に揺れながら舞っていく。
「つまらなかった?」
「うん。どうも洋画は苦手だね。しかも恋愛ものだし。アクションものならともかく」
「せっかくいい作品なのに、もったいない」
杏は少々、不満げな言葉を並べたが、それ以上に自身の感動、興奮が勝っているようだった。

杏はよく家族の話をする。両親と、すでに結婚した姉と兄の5人家族。杏の柔和な顔を見れば、彼女が皆に可愛がられて、育ったことはおおよそ想像できる。そしてこの日も話し出した。
「子供のころ、柴犬を飼っていてね。それがすごく私になついてて。でもある日、突然、死んでしまったの。8年生きたのかな。その日は家族全員で泣いたんだ」
有人はその話を聞き、杏とはもう会わない決断を下した。彼女のどこにも自分の入る余地はないと感じた。
 
「また今度、メールする」
杏は笑顔だった。何よりも美しい笑顔が夕日に照らされながら、有人に哀しく焼き付いた。
「うん、わかった」

杏は背を向け、歩き出した。有人も逆方向へ歩き出した。彼は途中で振り返り、間に入ってくる人々を縫うように杏の後姿を見ていた。5階建てのビルを彼女が左へ曲がるまで。
 
有人は、桜並木を知らない若い男と肩を並べて歩く杏を想像した。
「君はどんな春を迎えるのだろう。どうか良き春を」
 
 

天国案内人( 1 / 3 )

天国案内人「前」

白髪頭の男性が、ゆっくりとした足取りで俯き加減で歩いてくる。しばらくして男性の足が止まり、顔を上げた。目の前には白のドレス姿の美しい女性。頭にシロツメクサの花冠を被っている。

「堀田耕作さん、67歳。間違いありませんね」
「はい。そうです。間違いありません」
「天国行きが決まりました。今、歩いてきた方向をそのまま真っ直ぐ進んでください。すぐに天国に入れます」

耕作は辺りを見回した。全体的に白く霧のようなものに包まれている。
「いや、ちょっと待ってください。私は死んだんですか?」
「はい。亡くなりました」
「入院していた記憶はないんですが」
「心筋梗塞だったようです」
「そうですか」
「はい」
「しかし、何とかならないもんですかね?」
耕作は少し、案内人の方を見て俯いた。
「といいますと」
案内人は怪訝な表情を浮かべた。
「ここを真っ直ぐ進めば天国という事は、引き返せば、元の世界に戻れるんですかね」
「つまり、生き返りたいと」
「まあ、そういう事なんですが」
「もっと生きたかったですか?」
案内人の口調は常に穏やかだ。
「ええ。こないだ、長男に二人目の孫が生まれたんです。初めての男の子で」
「会えたのですか?」
「はい。会えましたが、何せまだ生後3か月で、成長を楽しみにしているんです」
「結論から申しますと、残念ながら地上に戻ることはできません」
案内人の色白の顔は愁いを帯びていた。

「なぜダメなんでしょう?」
耕作は少し語気を強めた。
「あなたはすでに亡くなったのです」
「もし、引き返したらどうなるんです?」
「何も起こりません」
「というと?」
「見えない壁があり、そこから先へは進めないんです」
「そんなことはないはずだ」
耕作は独り言のように呟き、歩いてきた道を引き返していった。

30分ほど経っただろうか、耕作は戻ってきた。
「あなた、立ちっぱなしで疲れない?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「どうしても戻れません。あなたの言う通りだ」
「はい。残念ながら戻ることはできません」

案内人の女性は待たされた疲れも見せず、穏やかな笑みを浮かべていた。耕作はその女神のような顔をじっと見ていた。そしてしばらく考え込んだ末「わかりました」と案内人が示した天国への方向にしっかりとした足取りで歩いて行った。
kumabe
作家:空乃彼方
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