超短編集

父と娘( 1 / 1 )

父と娘

永田宏は一流企業の商社で課長職にある。仕事帰り、行きつけの居酒屋に寄り「そろそろ俺も子会社に出向じゃないかな」と店のママに不安とも愚痴ともつかぬ言葉を残し、店を後にした。思えば海外勤務を終え、本社に戻され、数年で課長に昇進して以来、10年以上がたつ。すでに50を過ぎた。

自宅に着いたのは午後11時半過ぎ。妻の幸代が玄関まで迎えに来る。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、食卓のテーブルに彩られている料理に箸をつける。

「香菜はどうした?」

「まだ戻ってないわ」

「連絡は?」

幸代は首を横に振った。

「全く、しょうがない奴だ。ここのところ毎日じゃないか」

「まあ、遊びたい盛りだから」

「まだあいつは未成年だぞ」

「大学に入って、付き合いも広がったのよ。あまり怒らないでね」

「さあな。それは向こうの出方次第だ」

12時過ぎ、チャイムが鳴り、幸代は玄関に向かった。しばらくして香菜がリビングに姿を現し、宏に「ただいま」の一言を残し、自室へと立ち去ろうとした。

「おい、香菜。ちょっと待て」

「何よ?」

「何かあるだろ、言うべきことが」

「だから、ただいまでしょ」

「その後だよ。すいません、遅くなりましただろ。大学生にもなって、そんなことも分からないのか」

宏の口調は、知らず知らずに強まっていた。香菜は少し宏を睨むようにして無言で立ち去った。

「あれじゃ、ろくな男に引っかからないな」

宏は幸代に捨て台詞を吐いた。

その夜、宏はなかなか寝付けなかった。10代半ばに人並みの反抗期はあった。しかし高校に進学した頃には、元の仲の良い父娘の関係に戻っていたはずだ。それが大学に入学したあたりから少しずつ、様相が変わってきた。女の子は難しい。宏の本音だった。

朝方、少し寝て6時過ぎに自宅を出て、いつもと変わらぬ時間帯の電車に乗る。座席に深く腰掛け、何駅か過ぎた。隣に若い女性が座る。香菜と同年代に見える。OLではなさそうだ。女子大生だろうか。女性は早速、スマホをいじりだす。10分ほどでそれをしまい、しばらくして彼女の動きが止まった。宏は普段どおり、背筋を伸ばし、前を見ていた。突然、左肩に柔らかな重みと、羽のような感触にはっとした。左肩に目をやると、彼女が宏の肩で眠っている。睫毛をわずかに震わせながら。朝日が差し込み、彼女の髪を輝かせた。シャンプーの香りがした。

宏は目を閉じた。香菜を初めて抱いた時、風呂に入れた時、自転車が乗れるようになった時の笑顔。香菜の成長を辿っていた。このまま駅が消えてしまえばいい。永遠にこの電車が止まらなければいい。宏は願った。

漠たる不安( 1 / 1 )

漠たる不安

現在、一ノ瀬哲也は4年前に定年を迎えた会社で、嘱託社員として働いている。契約が切れるまで、すでに1年を切った。埼玉から東京まで電車で1時間以上の往復。出勤時間も変わりなく、この日も7時にはリビングで新聞に目を通す。キッチンでは慌しく、妻が朝食を作っている。そしてテーブル越しに座っているのが、息子の正志だ。

哲也は朝食を終え、7時半前に自宅を出た。駅まで10分程度。少しくたびれた住宅街を縫うように歩く。年齢による衰えか、それとも数年前に胃がんの手術をしたからか、少し足腰が弱ったような気がする。息子のことが気掛かりだ。年齢は35歳。自分の後を追うように自宅を出る。しかし昼には自宅へ戻るのだ。週4日ほど、スーパーでパートをしている。いまだに哲也が扶養しているのだ。

子育ては順調に進んでいるつもりでいた。思春期にもこれといった反抗期はなく、真面目に受験勉強にも取り組み、一流に近い大学に進学した。しいて言えば、少し大人しいかなと思う程度だった。最初に変化を感じたのは、大学4年に進学した頃だった。就職活動をしないのだ。哲也が妻に尋ねると「専門学校に行きたい」との事だった。今にして思えば、この時、正志と話し合うべきだった。

正志は専門学校を中退。すでに大学卒業の賞味期限は切れている。ある意味、自然の流れで彼はフリーターになった。あれから12年ほどの歳月が流れてしまった。哲也が不思議に思うのは、正志が朝から夜までの長時間労働をしない事だ。少し痩せているが、特に体の悪いところはない。しかし、なぜか3、4時間の短時間のバイトを選ぶのだ。彼に直接聞いてはいないが、妻によると、「これくらいの時間が限界」と話しているようだ。今も昼に帰ってきて「疲れた」と漏らすらしい。

哲也は人を怒るのが苦手だ。それは自覚している。会社でも人との争いは出来るだけ避けてきた。母親は大概、息子に甘いものである。だから本来、父親である自分が、正志に強く言うべきなのかもしれなかった。しかし、摩擦を起こす勇気がなかった。哲也の会社の、正志と同世代の社員の働き振りを見ていると、到底、息子には無理だと感じる。しかし、今さらどうすれば良いというのだ。

あと少しで、会社を辞め、年金生活に入る。その収入が一ノ瀬家の柱となるのだ。10年後、哲也は75歳、妻も70を越え、息子は45歳。勇気を持てなかった罪なのか?何か、奥底から得体の知れない強い怒りが湧いてくる。正志に対してなのか、自分に対してか、社会に対してかよく分からない。動悸が速いのは、駅へ急いでいるばかりではなかった。

女性銀行員( 1 / 1 )

女性銀行員

北野奈美は銀行員だ。主に窓口業務や事務処理などを担当している。現在A銀行では大幅に定額預金の高金利キャンペーンを行っている。ここ数日、奈美は客の苦情処理に没頭しているのだ。

A銀行に預金している客に高金利キャンペーンを大々的に宣伝した。しかし、今の世の中、うまい話は転がっている訳もなく、注意書きとして「普通預金から定額預金への移行は対象外」と記してあった。要するに、自宅に溜め込んでいる金、理想的なのは他行に預けている金をA銀行へ移してくれる事なのだ。

「定期に移せば、高金利になるんじゃなかったの?話が違うじゃないか」
年配男性は興奮気味だ。
「案内に、これまで預けているお金を定期に移し変えるのは、無効と書かれていたはずです」
入行して7年になる奈美は、涼しく答える。それでも、何人もの相手を繰り返していくうちに疲れは蓄積される。

奈美は銀行を退社して駅へ向かう。二人の女子高生とすれ違う。彼女らは笑いながら話していた。どう見えているのだろう、あの子達に私は。彼女たちの年代から、いくつかの恋は経験してきた。特に2年前に別れた歯科医とは結婚を意識していた。しかし、最初は優しかった彼も、付き合って1年を過ぎたあたりから、一緒にいても楽しそうでなくなり、やがて不機嫌になった。つられて私も、不満をぶちまけ喧嘩になった。私は修復のための喧嘩のつもりだったが、彼は別れたかったようだ。

29歳。30を目前に控え、孤独を感じるようになった。男勝りに仕事に集中しても、自宅に帰ると、淋しさが浮かび上がってくる。日に日に若さが、女性らしさが薄皮をはがすように、削り取られていくような気がする。これからまだ恋は出来るのだろうか?結婚は?子供は?

仕事の後、同僚と食事した帰り、すでに午後11時を過ぎていた。駅から自宅まで10分もない。しかし、光が消えた街を歩くのは少し怖い。ヒールの音が自分をますます弱くする。後ろから誰かが歩いてくる。少し振り向いたら体格の良い男性だった。男性も気を使ったのか、足を速めて奈美を抜いた。自宅に辿り着き、安堵した瞬間、皮肉にも自分が女性である事を体の奥底から感じた。

君はどんな春を迎えるだろう( 1 / 1 )

君はどんな春を迎えるだろう

初めて彼女に会った時、有人は、彼女を直視できなかった。肌は目立って白く、黒目がちな瞳、長い睫毛、長い黒髪が、彼女の色白の顔をさらに引き立てているようだった。
「世の中にこんなにも美しい人がいるのか」
有人の偽らざる感想だった。
「佐藤君、この子に仕事教えてあげて」
年配社員の横で井川杏は僕に軽く会釈した。
 
3か月が過ぎた。杏はとっくに有人の職場を辞め、現在コンビニで働いている。有人は映画館の中にいる。隣には杏の横顔がある。職場で杏に連絡先を教えたらしく、杏が仕事を辞めてから一週間ほど後、メールに杏から「今度会おうよ」とのメッセージが入っていた。二人きりで会うのは今日が5度目だ。有人は、そろそろ杏と会うのはやめようと思案していた。
 
有人は映画館のような場所が苦手だ。パニック障害という病気なのだ。窒息死する恐怖を乗り越え、電車に乗り、せっかく合格した大学も2年で中退した。この館内は大学の大教室に似ている。この日に備えて、不安を抑える頓服薬を飲んできたものの、効果のほどはよくわからない。とにかく有人は地獄と天国が同居している状態にあった。
 
ほとんど俯いていたが、映画が終わりに差し掛かる頃、杏の顔を力ない目で見た。涙ぐんでいた。映画に集中し、自分の様子に関心がないことに有人は安堵した。
 
二人は映画館を出て、近くの喫茶店に入っていた。木枯らしが枝を揺らし、辛うじてしがみついた葉々が風に揺れながら舞っていく。
「つまらなかった?」
「うん。どうも洋画は苦手だね。しかも恋愛ものだし。アクションものならともかく」
「せっかくいい作品なのに、もったいない」
杏は少々、不満げな言葉を並べたが、それ以上に自身の感動、興奮が勝っているようだった。

杏はよく家族の話をする。両親と、すでに結婚した姉と兄の5人家族。杏の柔和な顔を見れば、彼女が皆に可愛がられて、育ったことはおおよそ想像できる。そしてこの日も話し出した。
「子供のころ、柴犬を飼っていてね。それがすごく私になついてて。でもある日、突然、死んでしまったの。8年生きたのかな。その日は家族全員で泣いたんだ」
有人はその話を聞き、杏とはもう会わない決断を下した。彼女のどこにも自分の入る余地はないと感じた。
 
「また今度、メールする」
杏は笑顔だった。何よりも美しい笑顔が夕日に照らされながら、有人に哀しく焼き付いた。
「うん、わかった」

杏は背を向け、歩き出した。有人も逆方向へ歩き出した。彼は途中で振り返り、間に入ってくる人々を縫うように杏の後姿を見ていた。5階建てのビルを彼女が左へ曲がるまで。
 
有人は、桜並木を知らない若い男と肩を並べて歩く杏を想像した。
「君はどんな春を迎えるのだろう。どうか良き春を」
 
 
kumabe
作家:空乃彼方
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