地獄の時間
誰しも知っていることですが、人は必ず死にます。つまり、いかなる細胞も、時間的制約を受けています。だから、人は、与えられた時間はわからぬとも、時間的制約を受けているがゆえに、その時間内に必死に何らかの活動をやって生きていきます。
小説を書くということも、小説を読むということも、与えられた時間内の各自の自由行為です。自分の行為を中心に考えれば、ある行為をやることによって、時間を消費しているように感じますが、時間を中心に考えれば、与えられた時間があるから、何らかの行為ができることになります。
細胞は、時間に制約されていると言いましたが、時間は人間が作り出した記号でしかありません。その時間という記号は、過去と未来を表すことができます。もし、時間という記号がなければ、人は、今という現在にしか生きることができず、死というものも考えることができなくなります。
人間は、地球上に存在する生物ですが、その生物を人間として認識しているのは、記号なのです。言い換えれば、人は、記号を失えば、時間も、空間も、物質も、失ってしまうのです。
人間は、記号を作り出し、記号からなる社会を構築し、記号による人間関係を作り出しました。お金も、常識も、感情も、すべて、記号の産物と言っていいのです。すでに述べたように、小説も、記号の集合体でしかありません。
ここで、時間に生きることについて、最近人気のウルトラマラソンを例にとって、考えてみましょう。マラソンといえば、42.195キロ走る長距離レースですが、さらに長い100キロも走る過酷なウルトラマラソンがあります。
ウルトラマラソンには、14時間以内に走りなさいという残酷な時間制限があります。さらに、区間ごとの時間制限まであります。最悪の場合、第一関門で脱落することもあるのです。不思議なことに、全国には、このような地獄のようなレースに参加者する人たちがかなりいます。
レースには脚力に自信がある人たちがエントリーしていますので、100キロを完走できる人たちが結構います。でも、10000人を無作為に抽出して、走らせれば、完走できない人のほうが多いに違いありません。
今から考えることは、地獄レースを好む人たちの特異性についてではなく、生還可能時間として、14時間が与えられた架空の地獄の世界を考えてみます。