人は、悩みに耐えかねると自殺する場合があります。でも、悩みは、科学を生み出し、創造の原動力になってきたのです。また、悩みがあるからこそ、小説は人間に必要とされ続けてきたのです。
今、私は、小説を書き続けています。それはなぜか?読者のために娯楽を提供しようと思う気持ちがあるからでしょうか?確かに、それもあるでしょう。それ以上にあるのは、心の底からこんこんと湧き出す悩みがあるからだと思います。
小説を書けば書くほど、悩みは、さらに湧き出てきます。悩みがあるということは、生きている証であるということであり、自分を考察し続けているという証でもあるのです。
地獄の時間
誰しも知っていることですが、人は必ず死にます。つまり、いかなる細胞も、時間的制約を受けています。だから、人は、与えられた時間はわからぬとも、時間的制約を受けているがゆえに、その時間内に必死に何らかの活動をやって生きていきます。
小説を書くということも、小説を読むということも、与えられた時間内の各自の自由行為です。自分の行為を中心に考えれば、ある行為をやることによって、時間を消費しているように感じますが、時間を中心に考えれば、与えられた時間があるから、何らかの行為ができることになります。
細胞は、時間に制約されていると言いましたが、時間は人間が作り出した記号でしかありません。その時間という記号は、過去と未来を表すことができます。もし、時間という記号がなければ、人は、今という現在にしか生きることができず、死というものも考えることができなくなります。
人間は、地球上に存在する生物ですが、その生物を人間として認識しているのは、記号なのです。言い換えれば、人は、記号を失えば、時間も、空間も、物質も、失ってしまうのです。
人間は、記号を作り出し、記号からなる社会を構築し、記号による人間関係を作り出しました。お金も、常識も、感情も、すべて、記号の産物と言っていいのです。すでに述べたように、小説も、記号の集合体でしかありません。
ここで、時間に生きることについて、最近人気のウルトラマラソンを例にとって、考えてみましょう。マラソンといえば、42.195キロ走る長距離レースですが、さらに長い100キロも走る過酷なウルトラマラソンがあります。