算命学余話 #G7

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算命学余話 #G7 (page 1)

 仏陀はこんな言葉を残しているそうです。「何を読もうと聞かされようと、自分自身の理性が同意したこと以外なにも信じてはいけない」。
 私は既存の宗教については通り一遍の知識しか持ち合わせていないので、この言葉の出典に興味を抱いた方はご自分で調べて頂きますが、前回の『算命学余話#G6』では、奇しくも以下のような文を綴りました。

『でもそんな負担は、未来の明るい子供相手だから許されるのです。明るい未来のない有害老人を誰が支えたいと思うでしょう。社会集団が少ないシェアで負担するといっても限界があるし、気分的には誰もやりたくないはずです。なぜならそこには未来がないからです。「自分の子供ではない」し、「自分の所属集団の未来」の幸福にもつながらない。だから否定的な気分になるのです。こういう本能の声は聞き逃してはいけません。なぜなら本能の声は、自分の星が輝かない行為に対して警告を発するものだからです。』

 本能の声。理性の声。本能と理性は言語的には反対語として認識されることが多いですが、ここでは同義と捉えて下さい。というより、算命学の陰陽論では正反対のものは無縁であるどころか容易に反転変化するものですし、そもそも本能というのは生物の生存率を高めるために備わった無意識の知恵であり、それは突き詰めれば、人間の成長過程で合理的判断に基づき形成されていく理性に繋がります。理性的な人ほど知識があり、自他の生存率を含む幸福への道しるべについて多くを知り、的確な判断ができるものです。その根底には、本能からの正しい指示の声がある。
 算命学の理屈では、人間は宿命が示す生き方から離れれば離れるほど生き辛くなり、最終的には淘汰に繋がります。そしてそうした宿命の示す道から外れないよう、本能が警告を発します。それは「喜び」という感情とも関わっています。宿命にそぐわない生き方をすれば「喜び」が感じられず、その喜びの不在は本能が発する警告になる。その生き方は間違っている、という警告です(『算命学余話#G3』参照)。
 
 生き方が間違うとは、判断が誤った結果です。判断は通常、理性に基づくものですから、判断を誤るとは、理性が欠如しているということです。理性が「狂う」ということはありません。それは本能が狂わないのと同じです。また本能が欠如するということもありません。そういう生物はいないからです(いたら淘汰されるので)。従って、まずは本能ありきで、その次に本能をベースに理性が構築される。こういう順序です。
 理屈っぽくて判りにくければ、簡単にこう考えて下さい。宿命の根幹から離れていなければ、自分自身の判断にそう狂いは生じないが、根幹から離れるほど、狂ってくる。それは理性がなくなっていくという現象とほぼ同義である。

 こうしたわけで、冒頭の仏陀の言葉と算命学の思想は、非常に近似性が高いです。人間は生きている間に様々な経験を得て、様々な人に出会い、様々な影響を受けます。しかしそうした諸影響は、必ずしも正しいものばかりではない。間違ったものも多く混じっています。そして、実は子供のうちは、こうした間違いに気付く嗅覚が優れています。なぜなら子供はより動物的本能に依存しているからです。後付けの知識が少ないせいで、本能の声がよく聞こえる。
 大人になるにつれて知識の量は増えていきますが、残念ながらその知識には間違ったものも含まれています。なぜなら社会に溢れる情報そのものの中に間違ったものがあるからです。ネット情報の拡散により翻弄される現代社会に生きる我々には、耳の痛いお馴染みの現象です。だから大人は玉石混淆の知識に惑わされやすく、相対的に本能の声が届きにくくなるのです。稀に大人より子供の方が正義感が強いことにハッとするのは、この本能の声がはっきりと届いているか否かの差なのです。
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