クオドリベット 中巻

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恋、そして策略( 2 / 4 )

碧は真剣に選んだ美しい便箋を前に机に向かったが、3時間もかかって1字も書けなかった。出てくる想念は「あの人にとって私は、お遊びなのでは? 」ということ。冷静に考えれば矛盾も甚だしいことだが、このとき碧は夫を騙して逢い引きしているのは自分だと言うことを忘れ果てていた。少しして、携帯に夫からのメールがあるのを見て我に返った。

「ごめん。ご飯作っちゃった? あんまり腹が減ったので秘書に弁当を買わせちゃったよ」


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翌日、朝日の当たる17畳のリビングで、碧は融への手紙に没頭した。


「あなたに会いたいのに、会えない今となっては、融さんを思い出させる全てのものが、私には苦痛です。能の『融』というお話も、越後上布も、私にはあなたのよすがと思われてなりません…鼓とか、絵とか、『ロミオとジュリエット』とか、融さんを連想させるものが多すぎます。でも私はそれなしでは生きて行けないのです…あなたという存在を間接的にでも感じたいからです。

あなたを思うことは私にとって業火の苦しみです。でも、あなたと会うことは天国のような体験で手放したくないのです。私は孤独が恐ろしい。でも、これからもあなたと一緒にいるためには、私はこの苦しみを肯定する術を学ばねばならないでしょう」

 

大仰だ、と自分でも思ったが、これならあの人は喜ぶという確信の方が強かった。心配は別のところにあった。

 

融からのメールを見て、碧は歓喜と安堵で体から力が抜けた。

「お手紙ありがとうございました。これほど美しいお手紙は、どなたからも頂いたことがありません。嬉しいです。このような紋切り型しかしたためられない私を許して下さい。茅島融」

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碧は、声優だった頃のある役柄の台詞を思い出したのである。青年精神分析医が、患者に恋をしたために仕事も何もかもできなくなり、破滅する物語。「愛は人に業火の苦しみしか与えないんだ。猜疑心にとらわれ、自分を変えなくてはともがき、孤独が恐ろしくて身も細る思いをする。苦しみを肯定することだけが唯一、愛を快楽に還元する抜け道だ。全ての芸術は、この抜け道をさまよい、探検することから生まれる」これをアレンジしたのだ。


恋、そして策略( 3 / 4 )

心配はもちろん、融がアニメ通であればすぐに見破られる、ということだったが、メールを交換するうちにそれはなさそうだと思われた。アニメおたくを死ぬ程見てきた自分の勘は鈍ってはいなかったようだ。

 

碧が声優として絶頂だった頃に、彼は美術学校で制作に励んでいたはずで、全く互いに知りもしなかった二人が、今ではメールをやりとりしているのだ。互いになくてはならない間柄か、と言えば疑問だが、少なくとも今の碧には、融は世界で誰よりもいとおしい存在だ。問題はそのことを世間から隠しておかねばならない、ということである。

 

冷静に陶酔、と言う離れ技を演じなければならない。楽しみを長続きさせるには、身も心も「あの方」に捧げていつまでも二人の世界に…となってはまずいのだ。巧く隠さねばならない。しれっとした顔で言い訳をし、茅島の「か」の字も知らない振りをする…

 

それを思い知らされる出来事が、翌日は融に会える!と碧が小躍りする月曜日に起きた。

それは柊からの電話であった。「オーストラリアのお客とうちでディナーをやりたいんだが、碧ちゃん今から材料買って、ちらしずしとか作れない? 」

「今晩? うちにそのお客様が来るわけ? 」「そうだよ」オーストラリアのお客というのは、正確には「ウォルシュ投資銀行アジア・環太平洋地域ディレクター」のアメリカ人男性である。TFF との包括提携の話が去年から本格化しており、まとまりつつあるようだ。「一品だけ作って、あとはケータリングでいいよ」「昨日言って欲しかったわ。今日はできそうにない」「なんで?! 」「お客様に出せる料理は作れないわよ、いきなりじゃ。メニューとか考えておかないと」

 

ビジネスの話だけしたんじゃステークホルダー(利害関係者)は捕まえておけない、きめ細かい社交というのが大事なんだ、柊は諄々と話す。そんなことは全て承知している! 碧は心でたてついてみる。あの人からのメールはすぐにでも読みたい。でもそれは口が裂けても言えないことだ。結局、レストランでの夕食を終えてから、お茶に招じ入れるという形に落着した。

恋、そして策略( 4 / 4 )

だが柊は、はいはいと言う気にはなれなかったようだ。「グッナイ、ジョー」と送り出した後、小姑の様に小言を言い出した。いわく、ラクして1900万円の年収は得られないんだよ、おれが苦労しているから君もしろとは言わないが、ディナー作る時間は充分あったはずだ、とか、スムーズなビジネスにはバックアップが必要だ、おれがビジネスでへまをやったら君だって困ることになる、などなど。「おれは碧ちゃんを甘やかしすぎたのかも。言いたくないんだけど、社長夫人は一種の職業なんだ」

「…わかりました。反省してます。これからはちゃんとするわ」

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微笑む融の顔を見た途端に、碧の眼からは涙がわき出てきた。大人なのだから、と言う自戒の念は、昨晩から考えていた「まるで『ロミオとジュリエット』だわ」という心のうめきに勝てなかった。融は自分も困り顔になって、どうしたの、泣いてちゃわからないよと辛抱強く話しかけた。

「僕が運転してる横であなたが泣き続けてたらおかしいだろう」

「…ごめんなさい、もう大丈夫。わたしね…嬉しくて涙が出たのよ」茅島融は一瞬おいてから、それは男冥利に尽きるお言葉…とつぶやいてクルマを発車させた。

 

しかしながら碧は、別れる間際にも涙に暮れてしまい、ハンカチで顔を隠して融を呆れさせてしまう。

「…あああ、あなたってこんな情熱的なひとだったんだ…いやあ、現代では絶滅寸前、佐渡のトキと同じくらい貴重…でもね」

「わたしは『佐渡のトキ』じゃないわ!」

「比喩だよ、比喩!もとい、僕が言いたいのは…『うまく行く恋なんて恋じゃない』、これだよ」

それがいやなら、とやや表情を引き締める。「別れますか? 」碧は強く首を振る。会うために、会える時間を確保するために芝居をする、これが快楽に至る唯一の道であることは分かっていた。受け入れるしかない。計算した上で、「陶酔」を作り出さねばならないのだと碧は覚悟した。男が意外と、自分とともにロマンに没入してくれないのにも落胆した。だが、碧も心のどこかで、恋に陶酔するのを恐れてはいたのだ。これから彼女は、計算と策略を駆使する女となるだろう。「決して我を忘れない」彼女の決意は吉と出るか凶と出るか。

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深良マユミ
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