算命学余話 #R117

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算命学余話 #R117 (page 1)

 前回の算命学余話で取り上げた中村哲医師は、その死のほんの二カ月ほど前に、それまで一度も参加してこなかった同窓会に出席し、ただ同窓生に会うためだけに来た、と挨拶したそうです。そしてこれが最後の別れになるとも述べたそうです。まさか二か月後の死を予見していたとも思えず、恐らく今後日本に帰国するつもりがないのだろう、アフガンに骨を埋ずめるのだろう、くらいに同窓生らは考えたのではないでしょうか。そして、何より中村医師本人は、何を意図して「最後の別れだ」と告げたのでしょうか。二か月後の銃撃を思わせるほどの身の危険を、既に感じ取っていたのでしょうか。

 大いに人格を上げてこの世の英知の極みに達した人は、しばしば自分の死期を明確に悟ると、算命学では考えています。というより算命学に限らず、宗教界などでは概ねこのように考えられているか、暗黙の了解となっています。かく言う私も、今までに出会った人格者たちが、死亡原因は違ってもやはり事前に己の死期を悟ってその準備をひっそりと行っていたり、その死を前に周囲が慌てふためいている中、本人だけは泰然としていたりといった情景を目撃してきました。闘病の末の諦念というわけではありません。突然死した人であってもそうなのです。こういう人たちは、家族のみならず、大勢の人々にその死を惜しまれるのが常です。
 逆に言えば、死を前にじたばた泣きわめく人や、死が迫っているわけでもないのに過剰に死を恐れる人は、人格者とは真逆に位置する人だということです。そしてそういう人は内面が幼稚な人であると、算命学は考えています。なぜなら、人体図の北方は知恵と先祖と死を意味し、その対極である南方は子孫や非知、そして生命を意味しているからです。死を恐れるということは、生命力や生存意欲が旺盛である証拠でもあるのです。

 自己の死期を事前に察知するほどの英知を備えた人というのは、当然ながら宿命消化が十全になされた人です。前回の余話や他の回の余話で取り上げた鑑定事例の通り、その宿命消化の様相は命式にない星々にまで及んでいます。そしてそれが五行を揃え、五行が揃えば余すところなく星が回る。星々が相乗作用によって輝きを増すことで、宿命全体が上昇していく。それが死期を察するほどの英知に至る高みへと、その人を引き上げていくのです。
 その高みから見える風景はこの世の俯瞰図であり、物事の細部まで見渡せるものなので、そこに疑問の生じる余地はない。人が死なり何なりを恐れるのは、それがよく判らないものだからです。全てが判っていたのなら、何も恐れる理由はないわけです。だから高みに至った人というのは、自分の死を恐れないし、物事に動じないし、自分の死を静かに見つめて待っていられる。この世の俯瞰図は、この世の自然法則に則って構築されたものであり、英知を極めた人というのは、その自然法則をよく知悉し、自らもまたその自然法則の一部であることを知悉している人なのです。
 今回の余話は、そうした英知の周辺について考察してみます。

 『算命学余話』の読者は意外にも、鑑定技術の話よりもこうした思想的テーマの方を好む傾向が続いており、筆者としてもうれしく思います。勿論、鑑定技術の話を目当てに読んで頂けるのも有難いことですが、先日「天禄星を基礎から考える」の副題で掲載した記事などは、全然人気がありませんでした。というのも、この種の星名を出した記事は、大体その星を持っている人が興味をそそられて読むものなのですが、天禄星は業界屈指のリアリストなので、基本的に占いの類を信じないし、興味も湧かない。その特質が購読者数の少なさに反映されたものと考えております。
 もしかしたら、占い好きの方が天禄星の持ち主を好きになって、相手の気持ちを理解しようと「天禄星を考える」記事を読んでいるのかもしれない、と思いを馳せながら、同じく天禄星の持ち主であるリアリストの筆者が、本来苦手であるはずの目に見えない英知や彼岸について語ります。
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