メタフォーラ・ファンタジア

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メタフォーラ・ファンタジア 第一章

   第一章  銀の針穴

 梅雨時に学校でもないのに制服を一日着続けているのは、居心地が悪かった。しかし他に適当な服がない。これが一番いいのだと、真珠の首飾りをつけながら尖った声で母が言った。母は昨日からイライラしていた。顔を合わせたくない連中に会わねばならないからだ。
ぼくもイライラしている。そんな母を見ていたくないし、そもそも母の機嫌がよかったところでやはり見たくなかった。母の機嫌のよい時は、きまって誰かをうまく中傷している時だから。とても楽しそうに、人を見下す。時々我慢がならなくて、手元にある、割れそうにない柔らかな物を選んで掴み、床を目がけて投げつけると、母は一瞬だけ怯んでみせ、次の瞬間には一層楽しげにぼくを罵る。自分を正当化できる理由が増えたので嬉しいのだ。ぼくは立ち上がる。背丈はまだ母に及ばない。早く大きくなりたかった。そうすれば、立ち上がっただけで威嚇できる。物を投げつけなくても、罵らなくても、相手を黙らせることができる。でもまだ駄目だ。駄目だから、せめて母の喜びの瞬間をいくばくかでも短縮できるように部屋を出る。背後で母が鼻を鳴らすのが聞こえる。
ぼくは自室にこもる。ドアを閉める時、小さな弟と目が合った。怯える目。非難する目。哀れむ目。保護を求める目。ぼくに余裕のある時は、弟を中に入れて優しい言葉をかけてやる。余裕のない時は、恐い目で威嚇して遠ざける。いや、本当に余裕のない時は、万一にも泣き顔を見られないように素早くドアを閉める。弟に対する罪悪感は、せめてもの慰めだ。まだ自分に正義と自尊心があると、罪悪感が知らせてくれる。これがなくなったら、ぼくは母と同じになる。息子だから、当然だ。
 鎌倉の親戚の家は、大きくて暗い。古い木造家屋は現代家屋の規格より間口が広くて低く、鴨居に頭をぶつけて閉口する大人を眺めるのが以前は楽しかったが、この数年、ここで開催される一族の会合は陰湿で容赦ないものばかりなので、その雰囲気と家の暗い佇まいは完璧に融合してしまった。燻されたように黒くて重い梁が頭上に幾筋ものしかかり、重い空気に圧迫されて子供は黙らざるを得なくなる。ぼくは弟の手を引いた。服装に頓着しなくて済む年齢の弟は半ズボンの膝を擦りむいて絆創膏をつけていた。掌と肘にもつけていた。いつもこうだ。生傷の絶えない年頃なのか性質なのか、ぼくがこの年の頃はそれほど怪我などしなかったと思う。障子や襖の多いこの家で暴れて、ただでさえ古い家屋をボロ屋にしないよう見張らなければ。それは判っている。でも今日はだめだ。今日は、だめな気がする。
 葬儀は滞りなく終わった。三年前に父の葬儀を経験したから、段取りはわかっていた。違うのは、お棺がないこと。ないから斉場にも行かない。それから身内以外の参列者がいくらもいないこと。密葬だからだ。坊さんと葬儀屋が帰ると、白い花々の冷えた香りの中に骨壺だけが残された。象牙色のつややかな陶器の小壺はちんまりと畳に座し、薄暗い奥の間の片隅に取り残された。襖を閉め、耳を塞ぎ、目をつぶらせる。襖のこちら側の様子に煩わされずに済むように。
 弟の手を引いて女たちの集まる部屋に入った。座卓に寿司がならべられ、叔母の一人が手招きしてぼくと弟を座らせた。向かいに従姉と紹介された馴染みのない女子高生が二人、寿司を手にとりながら進学について話し合っている。一人がぼくの学生服の校章を指さして感心したように頭を反らせた。色々話掛けられたが適当に相槌を打って弟の面倒を見ているふりをした。長い座卓には半分くらい知らない顔の親族が、隣り合った者同士で語り合いしきりに頷いているが、電灯が暗くて表情がよく見えないから、夜の電車で偶然乗り合った赤の他人のようだ。弟より幼い子がいたが、隣の母親にもたれて眠っている。小さな手に、昔ぼくもここで遊んだ古びた万華鏡が握られている。ぼくらの母は、襖で隔てた隣の座敷にいる。そこは男の大人と、気の強い女だけが集まる寄合部屋だった。こちらの女たちはとばっちりを食わないよう、賢く声を潜めて食事と雑談に没頭するふりをする。
 後ろの襖が開いて知った顔が現れた。年の離れた従兄たちだ。昔は一緒に遊んだが、もう三人とも成人して働いており、顔つきも変わり話も合わないので疎遠になった。上の二人は無愛想で、女たちに通り一遍の挨拶をするとそのまま奥の座敷へ消えた。
最も会いたくない三人目が愛想よく近づいてきた。ぼくは平静を装って会釈を返す。幸いぼくの隣には空いた席がない。従兄は座る場所を探して、向かいの席の女子高生の後ろに膝をつき、気の利いた台詞を吐いて二人を笑わせた。喪服とは名ばかりの黒い平服の上に、茶色く脱色した頭が載っていた。従兄が視線をこちらへ向ける。ぼくは顔を背けて弟に視線を落とし、何か悪さをしてないか探す。弟は大人しくジュースを飲んでいる。従兄の目はまだぼくを監視している。切れ上がった目尻が、母と同じ、威圧の針になって全身を突き刺す。耳鳴りがし始める。彼が口を開いて何か言おうとする。言わせまいとしてぼくは顔を上げた。
隣の座敷から雷のような怒声が鳴り響いた。襖は閉じてあるが、龍と虎がにらみ合って雲に取り巻かれている彫刻を施した欄間を通して声が漏れてくる。続いて母の金切り声が天井に跳ね返り、猛然と抗議する男たちの罵声が覆いかぶさった。咽頭癌を患った大叔父が咳込みながら擦れた声を上げ、それに対して誰かが鋭くやり返す。するとすっかり野太い声になった従兄たちの乱暴な言葉が流れ飛び、酒焼けした別の声がこれを一喝する。ビール瓶が倒れて皿を叩く音がし、老婆の繰り言のような唸り声をかき消して、母の権高で賢しげな自己主張が、下手なオペラ歌手のアリアのように鳴り響いた。
珍しくはない。いつもこうなのだ。父の時もそうだった。こちらの部屋の女たちは皆判っていて止めることもせず、聞こえないふりをする。男たちはずっと前からいがみ合っており、何組かは今も訴訟中だ。父が死んでからは母が参戦し、集まれば必ず泥仕合になる。判っていても集まらないわけにはいかない。さもないと知らぬ所で決定がなされて大きな損失を被ると誰もが信じているからだ。
眠っていた子供が目を覚ました。欄間から洩れる隣室の怒声と険悪な空気に怯えて泣き出しかけるのを、母親が宥めている。弟は素知らぬ風に寿司を頬張っている。女子高生たちは一瞬身をすくめたが、こちらも慣れているのか、構わず会話を続けた。みんな賢い。賢すぎる。自分はどうだ。素知らぬふりができているか、自信がない。
冷静な人間がこの世に一人もいないかのような隣の座敷からは、洩れ聞こえる罵声の間にも矛先が移動していき、故人の名前が叫ばれていた。不始末、恥さらし、イランだかアフガンだか、育て方の間違い、といった単語が断片的に聞こえる。父の時も似たような語彙が並んだのを思い出して、思わず鼻で笑ってしまった。弟が寿司を食っている。その指にも絆創膏が巻いてある。そうだ、どうして気付かなかった。絆創膏の場所はいつも同じだ。膝も、肘も、手首も、腿も。どこもかしこも目立つところばかり。どうしてそんなことになる。わざとやっているのか。
猛然と怒りが込み上げてきて、弟の腕を掴んだ。するともっと強い力で自分の腕を掴まれた。痛みのあまり見上げると、従兄の顔があった。軽薄な茶髪。不真面目な黒シャツ。肉付きの薄い長い指。彼はギターとピアノを弾くのだ。
「大丈夫?」
 ぼくに言ったのかと思ったが、彼の視線は弟に注がれていた。弟は胸を押さえて俯いていた。寿司を喉に詰まらせたのだ。急いで背中を叩いてやる。弟は嚥下を終え、何でもないようにまた寿司に手を伸ばした。ぼくは弟をたしなめ、もうすぐ帰れるからと嘘をついた。隣室の母はまだまだやる気だ。今日は泊りになるのだろうか。用意はしていないから帰るつもりだ、今日中に。早く帰りたい。早く一人になりたい。
「おれの部屋に来る?」
 ぼくは従兄を見上げた。確かにここにはいたくないけど、あんたの所はもっと嫌だ。あんたは不作法だ。人の心を見透かすようなことを言って狼狽えさせる。今日は余裕がないから、ぼくはあんたに容赦ない言葉を浴びせるかもしれない。ここで。人前で。
――キチガイ。
 母ではない女の声が勝ち誇ったように言い放った。それが母に向けたものなのか、故人に向けたものなのか、どちらであっても耐え難かった。ぼくは立ち上がり、トイレに行くと言って部屋を出た。従兄の声が、離れのトイレが新しいからそっちへ入れと勧めた。追ってくる気配がしたので急いで襖を閉めた。
 廊下は暗く、長く、軋んで歪んでいた。小さい頃は夜中にここを通ってトイレに行くだけでも恐怖した。明かりがぼんやりとしか届かない遠い前方に、見えてはいけないものが見える気がした。しかもその一番奥のトイレは水洗でなく、その冷えた黒い穴は奈落へと下っていた。怖い家だった。この家には明るいもの、とりわけ近代を思わせるものがなかった。あるのは古びた太い柱と、湿気に黄ばんだ漆喰の壁。埃の積もった家具。天井の隅にたるんだ蜘蛛の巣を見つけると、男たちが舌打ちし、女たちが無精を責められた。女たちはぼくの味方だったから、自分が責められている気分になった。次からは蜘蛛の巣を見つけても知らせないことにした。見た物も、見ないと言うことにした。そうだ、弟の絆創膏。これも見ないことにすればいい。
 旧式のトイレは使用中だったので、引き返して離れに向かった。長い廊下を半分戻ったところで曲がり、細長く伸びた通路を辿ると、足元の掃出しから侵入したコオロギが長い二本の触角を揺すっていた。掃出しの向こうから鈴虫の音が永遠のように聞こえ、どこかから水の流れる音がする。雨は降っていない。日が落ちて、廊下に設えた格子窓の向こうに、昏い黄金色の雲が低く留まっているのが見えた。
――おれの部屋に来る?
 振り向いたが誰もいない。廊下の途中にたった一つある部屋の襖が開いていた。明かりが届かず、真っ黒な闇が襖の形に四角く誘っている。この部屋は覚えている。トイレと同じくらい怖かった和室だ。清掃され、どの部屋より乾燥して清潔な感じがするのに、床の間の、木肌をそのままにした意匠の柱の上方に能面が掛けられていて、その無表情に開けた唇から覗く歯並びの硬質さが、子供に古(いにしえ)の亡者を連想させた。子供たちはここを肝試し部屋と決め、一人で入って襖を閉め、どれだけ長く座っていられるかを競った。時に意地悪をして、一人を中に残したまま示し合わせてその場を去った。忘れ去られた子供はそうとも知らず能面と対峙し、静寂と戦った。やがて不安になってもう出ていいかと廊下に向かって声を掛ける。返事はない。不安が増し、もう一度声を掛けるが、応答はない。口を虚ろに開けた能面と、この世でたった二人きりで取り残された子供は泣き顔になり、もう二度と開かなくなったのではと絶望しつつ襖に手を掛ける。ぼくは中に踏み入って、後ろ手に襖を閉めた。
 闇の中に能面が迎えていた。小さい頃はずっと高いところにあって見上げていたが、今は手が届く高さにある。自分の背丈が伸びたのだ。それでも怖いと思ったのは、相変わらずの硬質な歯並びと、両目を穿つ二つの穴の黒さ、完璧な弧を描いた眉、以前は気付かなかったが熟した柿色をした肌の人工の色合い、そして同じ人類とは思えない小さな顔。小顔は昔から美しい顔の条件だった。
能面に正対すると、外の音が遠のいた。鈴虫も、水音も、大人たちの罵声も、夕闇も、襖を隔ててどこかへ消えてしまった。能面の掛かった柱の向かいには、これまた子供たちの恐怖心を掻き立てた鏡台があった。等身大の細長いそれは紫の布をかぶせて光から守られており、誰も使っていないのは明らかだったが、誰かが使うとすれば、それは能面をかぶった中世の武者でなければならなかった。ぼくは振り向いた。鏡はなかった。代わりに懐かしい人影が立っていた。
――おれの部屋に来る?
彼は小さな子供のぼくを抱き上げる。彼の部屋には楽器があって、それはどれも見たことのない形をしていた。お尻の部分をまるく太らせた三味線のようなもの、算数で教師が使う大きな三角定規を模したような枠、派手な彩色を施した細長い板に沢山の弦を張ったもの、羽飾りのついた小さなシンバル。鈴を数珠つなぎにした輪を握って打ち鳴らすと、そうじゃない、こうするんだと足首に巻きつけてくれた。ぼくははしゃいで飛び歩き、跳ねるごとに軽やかに鈴が鳴った。彼は玉手箱を探ってコインを隙間なく張り付けた布を取り出し、ぼくの腰に巻きつける。鈴音にコインのはじける音が加わった。ぼくは夢中で足を踏み鳴らす。彼は上機嫌で手を打ち鳴らして拍子をとった。そのリズムは整合性が崩れているのに、やはり崩れて弾む心臓の音と同調していた。どんどん速くなる。息が上がってくる。苦しいのに、嫌じゃない。踏み鳴らしているはずの床が感じられない。コインを結びつけた金輪が千切れそうで千切れない。コインは空を飛びたがるように一斉に裏返る。ぼくはもう息が切れるからやめようと思うが、そう言うと彼ががっかりするのではと心配して言わない。彼は優しかったから、何でもしてあげたかった。一緒にいたかった。一緒に行きたかった。でもぼくは子供だったから行けなかった。早く大人になりたかった。早く、早く――でももう間に合わない。ぼくは彼に訴える。
「コウさん、これが葬式なの。これが最後にやることなの。葬式っていうのは、死んだ人を偲ぶためにやるもんなんじゃないの。悲しんで、泣いて、悔やんであげるのが目的なんじゃないの。あいつらは一体何のためにここに集まったの。誰もあなたのことなんか悲しんでないよ。コウさんのことを、悪く言うだけ。ぼくは違う。ぼくはそんな風に思わなかった。でもどうしてぼくはそう言えないんだ。あいつらの前で、どうして人でなしはあんた達の方だと、言えないんだ」
 鏡のあったはずの場所に、彼は佇んでいた。少し皺の寄った洗いざらしの白いシャツを着て、いつも涼しそうだった。――向こうは乾燥してて、あっという間に乾くからトイレットペーパーはいらないんだ。汗だってすぐ乾く。喉も渇く。水の大切さがわかるよ。だから大きな町は大河の畔に連なっている。真珠の首飾りみたいに。
 いがみ合う母たちの甲高い声が甦った。
――キチガイよ。いい歳をして。
嘘だ。あなたはどこもおかしくなんかなかったよ。あいつらなんかよりずっと本物だった。あいつらが偽物なんだ。ぼくには判る。この世は偽物ばかり。
――不良ですよ。悪い薬を持っていたって。恐ろしい…。
 恐ろしくて醜いのはあんた達だ、と言いたかったが、言葉が出ない。勇気がない。一緒に行きたかったのに。行きたかったから大人しくしていた。早く大人として認められるよう、悪いことはしなかった。まっすぐ許可が出るよう、静かにしていた。大人になったら、大人になったら、自由になれるはずだった。
――いや、それは幻想だ。大人になったらますます不自由になるんだよ。
 優しいはずの彼が、時折見せるシニカルな横顔。そういうときは白いシャツが陰って見えて、従兄の黒いシャツに重なった。従兄は彼の年の近い甥で、性格も風貌も似ていないが、俯いた佇まいだけがそっくりだった。それがぼくを更に苛立たせる。
――法事とは本来こういうものなのさ。普段顔も見たくない相手に無理矢理にでも会う。そこで互いを確認する。今も変わらず敵対者なのか、相手の同盟者が増えてはいないか。老い衰えてもはや戦えない風体か、或いは共通の敵が現れてあら不思議とばかり手を組むのが得策か。時と共に変化する事態に合わせて、定期的に相手を見定める絶好の機会なのさ。もちろん欠席するのは簡単だ。でも自分が不在している間になにが起こったか一人だけ知ることができないでいる。これは不利だよ。不安だよ。
 そんなことぐらい判っている。母が散々見せてくれた。だからこそ否定したい。狡猾に人から奪って生きる算段をつけるより、無防備に嘆き悲しむ瞬間があっていい。
――幼いなあ。それにひどい。お前、誰のおかげで飯を食っていると思ってる。父親が死んで、誰がお前を養ってる。母親だろう。お前が何食わぬ顔で学校に通って人並みに勉強して遊んで暮らせるのも、そうやって醜い姿になってまで母親が闘って生活費をぶんどって来てくれるからだろ。海より深い母の愛だよ。麗しくはないけどね。
 ぼくはこういう言い方をする彼が嫌いだ。いや、従兄が嫌いだ。どちらが言った台詞なのか思い出せない。いや、今初めて聞く台詞かも。いずれにしても言いそうなことだ。従兄なら。そして疲れた時の彼なら。でも疲れていない時の彼はもっと別の事を言う。もっと明るい目をしてる。子供のような夢見る瞳で青い空を眺めてる。
――ブハラ汗の居城だった遺跡の足元に、今は誰も住んでいない旧市街の砂色の土壁を背に、オレンジ色と金糸の衣裳の娘が、か細く編んだ幾筋ものおさげを玉簾のように腰まで垂らして回転している。辺りは夜の闇。平らではあるが整備されてはいない野外の舞台。古代人が駱駝を連れて行き交った古(いにしえ)の都の十字路で、わずかなスポットライトを浴びて舞い踊る現代の舞姫。舞台の片隅で目立たないよう弦を奏でる現代の楽師。世情不安が続いていて、フェルガナ地方では数日前に暴動があった。役人の横領が発覚して市民が打ち毀しをやったと、チャイハネの木陰で老人が話してくれた。おかげで観光客が少なくて、ぼくは舞姫たちをほとんど独占できた。ライトの電源をどこから引っ張っているのか、なにしろどこにも電線が見当たらないんだからね。地下に埋設?そんな技術はまだないよ。新市街地でさえ電線もパイプラインもむき出しで、そこら中汚水と異臭が立ち込めていたし、ホテルでさえ平気で停電も断水もしたんだ。でもおかげで遺跡は昔の景観のまま見られた気がするし、その夜のダンス・ショーも、下手にレストランの中のけばけばしいライトの下で見せられるより、この方がずっと時代を偲べてよかった。五百年前もこんな感じだったんだろう、人間と音楽と、土壁と夜空しかなかった。舞姫は神妙な面持ちで、動作は慣れているけど時々不安になるのか、年嵩の楽師をちらちら見てタイミングを合わせている。でも上手に舞った。そして最後になって曲がだんだん速度を落とし、彼女の回転も合わせてゆっくり停止したとき、楽師が一節、詩をうたった。
酒を飲め、さすれば汝の肉体は、
十の十倍に膨れあがり、
物憂い気分も伸びやかに晴れようものを。
ハーシュを吸え、さすれば汝の魂は、
針の穴もくぐれるほどに研ぎ澄まされ、
真理の扉の鍵穴もたやすく抜け出でようものを。
 ぼくはさっきまでの怒りと屈辱を忘れて、楽師の詩吟に聴き入った。ハーシュは確か、麻薬のことだ。彼の遺体のそばにあった遺留品の中から発見された。日本では違法だが、向こうでは合法だと彼が言っていた。真理の扉をくぐり抜けるのだと。どんな、どんな真理に彼は立ち向かったのだろう。
 オアシスの国の夜を抜け出して、彼が鏡の前に立っていた。鏡は紅い顔で嗤う能面を映していた。彼は手を差し出し、指先に挟んだ銀の縫針の穴をこちらに向けてみせた。
――くぐってごらん。
 ぼくは前のめりになって吸い寄せられ、銀色に光る小さな穴に右目の眼球を差し出す。襖の向こうで従兄がぼくを探している。弟が絆創膏をはがして傷口に爪を立てている。紅い能面がこちらを見下ろしている。天井の隅に蜘蛛の巣が掛かっている。その放射状に広がる柔らかな白の梯子の中央に、女郎蜘蛛の長い脚の鮮やかな黄縞模様が見える。女郎蜘蛛は雄より雌の方が大きく、雄を獲物として食べることがある。
ぼくは女郎蜘蛛の巨大な牙とルビーのように赤く光る丸い眼をかすめて、銀色の針の穴に吸い込まれる。
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土星の裏側
作家:十條実
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