算命学余話 #R39

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算命学余話 #R39 (page 1)

 世間には「旦那デスノート」なる書き込みサイトがあり、夫に対する憎しみを募らせる妻たちの日頃の鬱憤のはけ口とばかりに、多種多様な罵詈雑言が次々書き込まれているそうです。このような匿名の利く場所で日頃の恨みを発散させることが、その人の日常生活を正常に営む手助けになるというのであれば、私はこうした行為にも一定の役割があることは認めます。しかし決して褒められた行為ではないことは明言しておきます。なぜなら悪口を並べるという行為には何ら建設的な変化が期待できないからです。本当にすべきことは、こうした不平不満をその元凶たる夫自身に向けるべきであり、その対決の結果が不首尾であったならば、離婚して生活を一新させる方向へ舵を切るべきなのです。
 夫に不満があるということは、その結婚は間違っていたということです。ならばその間違いを正し、より良い生活への道を自ら開拓するのが正解です。今の夫との結婚したのも彼と離婚しないのも、自分が選択したことなのです。誰のせいでもありません。自分が悪いのです。険しい道かもしれない開拓の人生に踏み切れない自分の臆病をこそ先に呪うべきなのであり、夫を呪うのは筋違いです。本当に夫が悪いのであれば尚更さっさと離婚して、負のオーラを引き寄せている夫から自分を切り離して救済すべきなのです。それをしないで悪口だけ並べていても、事態は一向に好転しません。
 
 一般に文句や愚痴の多い人が嫌われるのは、結局のところその人自身に非があって同情するに値しないことを、誰しも判っているからです。文句や愚痴や恨み節は、原因である人物ではなく全然関係ない人に向けて発せられることがありますが、それは関係のない聞き手がこちらを非難することなく静かに聞いてくれることを期待しているからです。
 恨みの元凶に直接恨みをぶつけてしまうと反撃される懸念があるため、臆病な人は反撃されない相手を選んで不満をこぼす。その臆病な姿勢には、現況を変える力はありません。擦りむいた膝を治療するのに、手首に薬を塗っても効果がないとの同じです。治したいのなら傷口に薬を塗り込む痛みくらい耐えるべきです。それができない人に対して世間一般が冷淡であることは、社会が正常である証拠です。
 旦那デスノートの書き込みは、笑い飛ばして読む分には問題ありませんが、どう転んでも書き手の中に賢い妻はいないのだから、そんな愚かしい女たちの臆病な遠吠えなどまともに読み込んではいけないし、ましてや彼らを真似て自分の愚かさを露呈する書き込みを加えるのも馬鹿げた行為です。現状を招いたのは当事者である自分自身なのだということをまず理解して、その自分自身を変えることから始めるのが幸福への近道です。
 
 運勢鑑定の依頼人の中には、このように自分の非に気付かず人のせいにばかりしたがる人がしばしば見受けられます。そしてそういう人は現状を改善するよりも、自分の不幸の原因を特定の誰かの責任にするための根拠がほしくて、宿命の中にその答えを求めることに熱心です。
 こういう人を見分けるのは割と簡単です。こういう人は大抵、鬱病などの精神疾患を抱えているのですが、そうした病に自分が罹っていることを自慢げに話すのです。病気は自慢にはなり得ません。治療のために人に相談するのは大事ですが、元より病は喜ばしいことではないのですから自慢すべきではないのです。それを自慢げに話すということは、正常な判断力を失っている証拠です。そのような判断基準の持ち主の宿命を見て助言したところで、状況の改善は見込めません。従って私はこうした依頼人の運勢鑑定をお断りしています。つける薬がないからです。
 
 精神疾患が悪いのではなく、治す気がないのが悪いのです。上述の例で云えば、夫への不満が悪いのではなく、不満を解消するために自ら行動する気がないのが悪いのです。何でも人のせいにしたがる人に、改善の余地はありません。改善できるのは自分だけです。運勢鑑定は、改善したい人ができるだけ無理なく改善できるよう助言するものであり、改善する気のない人の背を無理やり押すものではありません。
 運勢鑑定に関心のない方も、愚痴や不満の多い人からは距離を取るようお勧め致します。愚痴は言う方も聞く方も利益になりません。仏教の世界では、愚痴は七つの罪の一つに挙げられているくらいです。
 
 さて私の恨み節はこれくらいにして、建設的な話に移りましょう。先日、作家の平野啓一郎が次のような自身の体験を述べていて、私は非常に共感を覚えたので取り上げてみます。
 
「自分は子供の頃から家族や友人といった実際に身近に接している人間よりも、読書を通じて接する見知らぬ作家や登場人物の方に親しみを感じていた。自分の思っていることがそこに書いてあると、著者に対して非常な親近感を覚える。しかしそういう親近感を身近な家族や友人に覚えたことはない。彼らと一緒に日常を暮らすことは楽しくはあるのだが、いつも彼らを遠くに感じていた。著者の代弁者である小説の登場人物、ラスコーリニコフやスタヴローギン(いずれもドストエフスキーの小説の主人公)の方が自分にとってはリアルだった。」
 
 これを読んで私と同じように共感する人がいれば話は早いのですが、このテーマで余話を組み立てると大変コアな話になってしまうので、今回はまだ人生半ばである平野啓一郎氏の宿命、特に人体図を題材にして、その多すぎる相剋が必ずしも人を生きづらくしているわけではないことを、解説してみようと思います。
 平野氏はまだ42歳と若いのですが、デビュー当初からヘビー級の作家として知られています。ヘビー級作家になるには、高い教養や豊富な知識の他に、揺るがぬ思想が備わっていなければなりません。老年の作家が深い洞察や思想に到達するのは普通ですが、若い時分から到達するには、相応の負荷が掛かっていないと知性の熟成が進みません。
 平野氏の人体図には過度なほどの相剋が見られ、これが彼の知的熟成を早める負荷になったと考えられます。このように、宿命に相剋が多いからといって悪いことばかりではないこと、逆に常人を遥かに超える輝きを放つことも可能であることについて、そのメカニズムについて論じてみます。
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