空なる我  下巻

ですが、いかにコンピューターを並べても、これから来たりくる「 未知 」ともいうべき「 無知 」に備える「 空なる我 」をコンピュータは所持しないから、この不安は防げませんから、達成まではほど遠く、それより(B)と認めて、人知を超えて、自然物と同様に人間を考えると、「 無我 」(空なる我)に到達しやすく、「 苦 」からも逃れ得るかも知れません。 

私は、もし「 色即是空 空即是色 」=「 万物は流転する 」={ E=MC² 」}=無常が成立するならば、人間が現象であると言いました。

その後「 無我 」は「 無 」ではなくて「 空 」であり、「 自我 」は否定さるべきかも知れないが、「 我 」自体は「 空 」、即ちエネルギーであるとしました。( 色即是空 )

 このエネルギーの周りに、自己の生命維持のために周囲からの力(エネルギー)を引き付けて煩悩にまみれた「 自我 」になると思いますが、このエネルギーは何でしよう?

 私の「 持論 」から、そのエネルギーは宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが混然一体となった「 気(ki) 」(霊)であろうとします。

 

生命と申しますが「 命 」が、「 我 」というエネルギーとしませんと、なぜ動物が生きるのかわかりません。

これは、私の考えですが、

 この「 命 」は「 気(ki)」でありますが、呼吸その他により宇宙(自然)エネルギーを内部に取り込むことは必須ですから、本当の根源は宇宙(自然)エネルギーであり、それは地上の全ての生物と同じく「 宇宙(自然)エネルギーの現出するもの(般若心経の「色」)という意味での現象である 」ことになります。

それは、当然、「 色即是空 空即是色 」や「 縁起縁滅 」や「 無我 」などを包摂するエネルギーであり、人間の認識を可能とするものだということになります。

ですから、人間は単なる物質ではなく、エネルギーの現出(空即是色)でありますから、「 誕生 」とか「 死亡 」などは、エネルギーの単なる通過点にすぎなく、将来、人間に宿るのは「 霊 」などではなく、エネルギーが循環して、また現れることになり、私の持論であります「 誕生前は無明というエネルギーであり、死後は生命エネルギーと宇宙(自然)エネルギーが分離して、エネルギーとして故郷に戻る 」ことになります。

ここでは、「 人間はエネルギーの現出した姿 」( 空即是色 )としておきます。

般若心経の解釈

( Ⅰ ) 「 空なる我 」般若心経の解釈その1」

<有名な日本仏教は、大乗仏教であり、その源である「 般若心経 」を考える>

 

私は、「 般若心経の解説(般若心経の話)・フルバージョン 」というユーチューブを拝聴しまして、それに私の「 空はエネルギーである 」という持論を交えて、以下のような解釈をしました。

こういう解釈をすれば、お釈迦様の十二縁起や四諦八正道を否定することになると思うのですが、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」のひとつの現象と考えても、「 度一切苦厄 」の状態を得られるのではなかろうかと思います。

しかし、自分が生存している間の「 知 」が般若心経がいう最高の「 知 」であるとは限りませんから、これ以上の「 知 」はないと申しましても、「 苦 」を避ける「 知 」ではそれで良いのかも知れませんが、現在の相対論や量子理論も包摂するような最高の「 知 」を求めるべきで、ただ念仏していれば最高の知を得るとは思いません。

これは、私立の法学部卒業の仏教については、ほとんど無知である私の考えですので、間違いでしょうが「 空なる我 」というものを中心に据えた関係で書きました。

    「 空 」=エネルギー

私は、「 一切皆空 」に従い、この世の一切は「 空 」であり、その「 空 」とは「 エネルギー 」であるとしました。

「 神 」も「 仏 」も「  空 」ですし、前者が宇宙(自然)エネルギーであり、後者は生命エネルギーであるとし、自分も「 空 」としなければならないと思って、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、私の生命だけは保全しました。

これは、「 空 」について「 空っぽ 」や「 実体が無い 」と言いましても、私が見る前には「 実体が有ろうが無かろうが、自分の進路を邪魔するなにかは有る 」のであるから、自分を満足な理屈に落ち着かせるために「 龍樹 」の空についての文庫本を読んでも、素養となる仏教の知識もない私は、空しく響く「 空っぽ 」などの概念で自分を言い聞かせていました。

例えば、今現在、台風に襲われているとき、「 これは空っぽなんだ、実体がないんだ 」と申しましても、目の前に台風の猛威は「 ある 」し、「 これは「 空 」であって、自然のエネルギーの現出(空即是色)なのだ 」と思ったほうが安心します。

ですが、この際、仏教からまったく離れて、似たような内容と思われる考えを、「 色即是空 空即是色 」に当てはめたらどうだろうかという考えになり、ちょうど相対論の本を読んでいて似たような公式の「 E=MC² 」というアインシュタイン氏の考えで、「 色 」をM、「 空 」をEと当てはめて、物質Mの「 色 」はエネルギーEの「 空 」、であり、物質Mを分解しても素粒子の結びつくエネルギーEの差だけであり、その物質に固有の素粒子がないし、エネルギーEの「 空 」は、溶鉱炉の色で内部の熱エネルギーが判断出来たり、外部に現れた仕事の量であるジュールでしか分からないということから判断して、エネルギーは「 現象 」として現れるときに生命を持つ者が認識されると考えました。

前者が「 色即是空 」で、後者が「 空即是色 」と似たような結果になり、「 色 」を「 現象一般 」(現象とは本質が現れたものではなく、何か見えないものが認識可能な事象になったもの)で「 空 」を物質内部に働く「 エネルギー 」として考えてその認識不能なエネルギーが認識可能な物質という「 形 」になったのが「 空即是色 」であり、「 色即是空 」とは違った内容を主張しているのであって、単なる語呂合わせのための単語の並びではないとしました。

    「 現象 」とは

私の場合、「 空 」は「 エネルギー 」ですが、「 色 」を物質と決めてしまわずに、「 現象 」という言葉を使っています。

エネルギーは物体の内部と外部に絶えず「 流れていて 」、外部の条件(縁)次第で同じ素粒子でありながら違った「 形 」になり(例えば、水のように、構成する水素と酸素は同一のまま、氷水蒸気水と形を変えるように)その安定した「 形 」になった時、「 現象 」と呼ばれ、エネルギーの推移によって、「 万物は流転する 」し「 諸物無常 」であり、「 空 」は「 空っぽ 」ではなく、エネルギーが充満していても、常に一定の固定した物質(現象)がなく、エネルギーの推移が形から形の違いで判るから、それを見る私には「 物質変化 」として見ているのだろうと思います。

エネルギーを枠という境界で区切ることが出来ないというのが、「 色即是空 空即是色 」であり、枠が国家や社会や自我というような概念であれば、その枠では捉えられないのが「 我 」であり、それは「 空なる我 」であるからということになります。

「 空 」はエネルギーであるから、エネルギー(空)が現象になっても、「 空 」は新たに生じたり滅したりすることはないし、エネルギーは「 垢つかず浄からず 」、「 増さず減らしたりすることはない 」(=これは、エネルギーは形を変えても消滅しないというエネルギー保存の法則に一致する)と般若心経に書いてあります。

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作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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