空なる我  下巻

これを、そのまま私の考えに当てはめますと、前者は生命エネルギー(仏)の世界で、後者が宇宙(自然)エネルギー(神)の世界、前者は、認識できる「 縁起、縁滅 」の世界、後者は「 色即是空 空即是色 」のエネルギーの世界であり、認識不能の世界となり、前者は「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱えて、「 欣求穢土 」を求め、後者は、「 南無大師遍照金剛 」と唱えて、現在に漂う「 大師 」に助けを求めるのだろうと、素人の私は、一応そう思っています。

 

それは、「 浄土 」をどこに決めるかで違うと思います。

 私は、前述しましたように、生命エネルギー(仏)と宇宙(自然)エネルギー(神)が混然一体となって「 霊 」になっていると考えまして、生命エネルギー(仏)は前者の「 顕教 」で、宇宙(自然)エネルギー(神)は後者の「 密教 」にあたり、生命エネルギーは「 縁起、縁滅 」で捉えらられ、認識可能な「 唯識 」の思想で頭脳の中の世界、宇宙(自然)エネルギーは「 色即是空 空即是色 」の世界で認識不能の世界で、アインシュタイン氏の{ E=MC² }の数式が成り立つ自然の世界だろうと思います。

 その、生命エネルギーで動く認識が宇宙(自然)エネルギーを認識不能とする、言葉での表現ができなくて、「 万物は流転する 」とか「 無常 」とかいうしか方法がない世界なのだろうと思います。

生命エネルギーが終焉し閉じ込められていた宇宙(自然)エネルギーが放出される「 死 」を生命エネルギーで心配しても、その心配などの思考をさらに凌駕して宇宙(自然)エネルギーは推移するので、「 取り越し苦労 」になると思います。

 「 時間 」や「 空間 」や「 無限 」などが認識の都合上の作られたものであれば、計算どうりに天体が動くからそれらが正当だとされるのではなく、全くその逆で、天体のエネルギーがその様にエネルギーが推移していることであり、その概念が宇宙の存在に合致するからこそ是とするのであり、合致しない責任は認識の方にあると思います。

 それらは、「 意識 」に過ぎないからアインシュタイン氏が言われる重力によって曲がるのではないだろうかと思って、私は、それらを左右の脳で作った「 意識 」だとして、アインシュタイン氏のように考えると、人間思考に都合が良いのだと思います。

 従いまして、宇宙は人間の頭脳の中に、都合のよく合理的に存在するだけですから、人間が宇宙そのものを完全に知ることは出来ないから、般若心経で「 一切顛倒夢想涅槃 」というのだと思います。

中学や高校生でしたから、知識の一つに過ぎませんでしたが、歳を経るにつれ、顕教というのは、テレビでよく拝聴する、末那識や阿頼耶識という意識を分析し、多くの僧侶が学ばれる「 唯識 」の世界で、鎌倉仏教から続く主流派だろうし、密教は、民間レベルで日本国の至る所まで広まっている「 般若心経 」の世界ではないだろうかと思うようになりました。

 前者は多くの経文があり、その源は「 阿弥陀如来 」や「 ブッダ 」であり、後者は真言を主とする教えで、その源は「 大日如来 」とされているようですが、私の持論においては、前者は生命エネルギー(仏)を説くものであり、後者は宇宙(自然)エネルギー(神)を説くものと分類しています。

 

前者は、言葉などの「 認識 」の世界で、後者は、言葉では言い表せないエネルギーのようなもので、それがそのまま、「 般若心経 」の中では、前者が「 無(mu)」で後者が「 空(kuu)」であると表現されているのだろうと私は思っています。

 私は「 無(mu)」は前者の頭脳の生命エネルギーの発露である「 認識 」の中にしかなく、言い換えれば想像した事柄であり、「 空(kuu)」は後者の宇宙(自然)エネルギーの発露である「 存在 」の世界で、何も無い「 無(MU) 」と思われている真空がクオークやヒッグス粒子の存在が充満する空間の様なものだろうと思います。

ネットでは、「 この世は全ては空であり、全ては縁起縁滅の世界である 」という考えがありますが、「 全てが空である 」ことは、「 全てが無である 」ことではなく、むしろ「 全てが、境界という枠に捕らわれないエネルギーで充満されている 」と考えます。

虚無主義などと叫んで自殺する人もいますが、その人の存在は決して「 無 」ではなく「 空 」であると考えます。

その「 空 」を「 空虚(からっぽ)」と考えてしまうと、「 無 」と同じことになり、絶望への道になりますが、「 空 」を「 エネルギー 」と考えると「 今の自分には認識することが出来ない力があって、境界がなく広がっているのだ 」ということになり、その力を探り求める希望への道につながると思います。

 すべてが空と考えれば、「 自我が無い 」とは「 自分という我(自我)が空であること 」でしょうし、「 空であること 」は、「 自分という我(自我)」は、境界がなく広がる何かのエネルギーである 」ことになるのではないでしょうか?

この虚無という「 無 」が、エネルギーの世界で、未だ現象として現れていない(つまり有ではない)という意味に解釈すれば、虚無主義は、完全に充実したエネルギー の世界で、未だ認識されていない世界となり、「 一切皆空 」も受け入れて、虚無主義の放棄になるんじゃないかと期待します。

あるいは、「 言葉に表現できないから 虚無 」といいますなら、言葉を産む何かがあることは否定するものではないとしたら、「 言葉に出来ないもの 」が「 無 」となるだけで、それが「 エネルギー(空)である 」とすれば、「 一切皆空 」になるだろうと思うのです。

私の持論では、人間は宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが、認識を可能とする「 霊体 」になっていますから、それを動かす「 力(=エネルギー) 」であることになります。

前に戻りまして、「 顕教 」は阿弥陀仏の教えですから、私が死亡して阿弥陀仏の所に行けるように僧侶から唱えて欲しいのですが、現在を生きるときには、「 座禅 」をはじめとする顕教よりは、密教に近いと思われる「 般若心経 」の「 色即是空 空即是色 」に注目します。

なぜなら、日本の仏教は「 般若心経 」から始まる大乗仏教と思われ、その良いところを祖師が追求されたのだと思います。

持論として、「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=無常、というのがありまして、「 空なる我 」というエネルギーを産む世界がこの世である、つまりこの世が「 浄土 」であるなら、この「 浄土 」の流れのままに生きることは、死後も「 浄土 」に遊ぶ、つまり、「 エネルギー 」のように、自分という肉体の枠に捕らわれずに、死後も「 浄土 」であるこの世に永遠に生き続け、星になったり富士山の上に住んだり、あるいは子孫の体内に住んで、そのエネルギーとして働くことに通じると思うからです。

ネットでは、私のように「 般若心経 」をE=MC²のような物理法則で解釈しようとする素人がいまして、心強いのですが、「 色即是空 空即是色 」がE=MC²であるのは良いのですが、仏典である以上、それが「 縁起縁滅 」をも同時に説明できるように解釈すべきだと思うのです。

 

その点では、手前味噌ではありますが、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの重なりが人間の認識を可能にし、前者の変化が後者の物質の変化に現れ(空即是色)、認識では、条件によって物質が生起する「 縁起 」として現れ、後者の物質の変化を問い詰めると前者の条件になって分からなくなる(色即是空)即ち「 縁滅 」となります。

 私は仏教に「 顕教 」と「 密教 」があると教えられましたので、前者を(A)後者を(B)と略して書きたいと思います。

私の「 持論 」として、「意識は電磁波の構造を持つ」(C)としていますので、この流れと私の「 仏教の解釈 」の流れをどうにか統合したいと思います。

(C)において、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが合流した気(ki)が、生命体を貫き、頭脳も心臓もすべての臓器を動かす「 無意識 」(A)の形の気(ki)が人体を動かしていると思います。

右脳や左脳などの頭脳の中の「 意識 」はDNEの働きで、各自が独特なDNAから「 派生 」したもので、生命エネルギーの発露(空即是色)だろうと思います。

もし、この世が、「 色即是空 空即是色 」=「 万物は流転する 」={ E=MC² }=無常(B)でありますなら、人間個人も他の自然物と同様に、エネルギーが形として現れた「 ひとつの現象 」であり、(D)を形成する「 意識 」(A)も「 無意識 」(A”)も他の動物と同じく、エネルギーから「 派生 」した独特のものであるとします。

(C)の考えで、DNAなどにより内容の違いがあっても、同じ「 派生 」したものですから、個人を区別する特有のエネルギーが無いという意味で、生来は「 無我 」であるのに、自らの環境に適応するため、情報を統合して「 個体の自分の可能性 」を蓄積する「 自我 」(D)が現れるのだと思います。(これは、論理などを担当とする左脳)

 人体が、自然界から受け取るのは、自然界に共通する「 無意識 」(A”)で以て獲得し、それを(D)と比較することによって「 自然界の中の存在感 」である「 気持ち 」の内容を「 不安な気持ち 」や「 安心の気持ち 」(A”)に変化させ(これは感情や直観を担当する右脳)、「 自我 」(D)を変化させるのだと思います。

この自然界での無意識(A“)が「 因果 」のことわりで、右脳は主観的な感情や空間意識などの「 無意識 」で自然界に連動するから、自然界に共通な世界(B)に属し、左脳は因果の時間意識や客観的な論理などの「 意識 」の人間特有の世界(A)と、解釈します。

左脳の「 時間 」意識によって右脳から「 因果の法則 」が発見されると思いますが、これは動物は皆持つ本能から来る判断と同じで、これが「 輪廻転生 」を産む煩悩の始まりであるから、お釈迦様は「 因果 」を中心にして生前も死後も妥当すると思って、「 縁起、縁滅 」を説かれたのだと思います。

右脳において、(B)の中の(A)は、「 無知 」であれば「 不安 」を生み(狭い空間や高い空間は生命への不安)、左脳において(A)の中の(B)は、「 無知 」であれば概念の破壊や新しいものに概念を与えて安心させるから、無意識の「 気持ち 」は、最後は安心という形で終わると思います。

 

「 無知 」から煩悩が生まれ、「 知 」への道を閉ざすと申しますが、「 無知 」には(B)という地球が自転しなければ不明なものと、(A)という、自分の認識が至らぬため不明のものがあり、般若心経では、前者を「 空(kuu)」と呼び、後者を「 無 」と呼ぶんだと思います。

天体からくる無知(B)と、人間の認識からくる無知(A)があると思い、それはアインシュタイン氏が言われる「 無知 」の種類が一致します。

 AIは生物ではないですから、(B)を持たず、従って「 空(kuu)」の概念で物を認識できず、ただ否定に終わる「 無 」の概念しか持っていないため、人間の認識について(A)の無知は指摘できても(B)の無知は指摘出来ない、つまり神のような将来の天体予想は出来ないと思います。

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作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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