空なる我  上巻

第一章 空なる我

一章 「 空なる我 」

 

1、<空なる我>とは何

私は、「 自我 」を否定すると申しましても、(神仏)エネルギーとしての「 空なる我 」は否定しません。

「 空なる我 」とは、どのように考えるのかについて書きます。

私は、「 エネルギーは素粒子その他を結びつける力 」と考えまして、(B)の思想である「 空 」を「 エネルギー 」とし、仏教の言葉でありながら、大乗仏教の龍樹の考えに従わないように「 我 」についても、古代インドの考えではなく「 空 」つまり、「 (神仏)エネルギー 」の集合と考え(なぜなら、すべて空だから)、それが都合の良いように結びつけたものが心や気持ちなどの「 自我 」であり、この「 自我 」を固定した実体と考えずに、(神仏)エネルギーが進展する可能性を含むものと考え、それが生死という形を問わず、続くものだと考えています(エネルギー保存の原則)。

自分の目の前には脳内錯誤した世界であるとしても、「 生きるため 」には呼吸が必要であるように、脳内錯誤しているのが生命エネルギー(仏)であれば生命維持のためには、空気という宇宙(自然)エネルギー(神)を必須とするものだと思います。

上記の考えを進めて、「 死 」とは、生命エネルギーの終焉とするべきで、宇宙(自然)エネルギーは宇宙に回帰し(エネルギー保存の原則)、その後、条件が整えば、また別の生命エネルギー結びつくと考えますと、「 輪廻 」の思想も理解できます。

人間が「(神仏)エネルギーのひとつの現象 」としての自然物であれば、動植物はもちろん台風などの、あらゆる現象を含むように考えるべきで、プラズマ宇宙論のフィラメント構造やビルケランド電流などの考えも包摂するように考えるべきだと思います。

私には、とてもそんな考えは思い付きませんが、仏教で「 三身 」を「 法身・報身・応身 」とする概念がありまして、その解釈は、仏教典に従うべきでしょうが、私は、法身は宇宙、報身は思想、応身は変化する人体と解釈しています。(これは、ご自身で検討してください)

この世は、すべて「 空 」であれば、すべて「 エネルギー 」であり、この「 三身 」もエネルギーであり、それだからこそ、応身たる人体が新陳代謝して絶えず細胞を入れ替え、法身は拡大とか縮小するだろうし、報身も、その思考自体がエネルギーであるから、体系を破壊し新たな概念を生むだろうし、「 死 」は頭脳の産物である「 無 」になることではなく、「 生きる身体 」という形は消えても、それまでの人体を構成していた宇宙(自然)エネルギーは回帰して「 有 」であり、それだからこそ、万物は固定した因果関係で終わることはなく、絶え間ない因果の世界(A)という思想が活き、「 無常 」や「 希望 」といった概念も活きるし、(B)の思想も活きると思います。

現在の私の考えは、「 法身・報身 」に合一する「 応身 」であれば良いと思っています。

2、<私の視座>

私は、これまで、仏教で言われる「 一切皆空 」の考えのもと、(A) 顕教の考え(唯識)・「 縁起縁滅 」と(B) 密教の考え(色即是空 空想是色)をもって臨み、「 一切皆空 」により「 自我 」も「 空(kuu)」としました。

ただ、私の場合、仏教と大きく異なり「 空(kuu)」を「 エネルギー 」としまして、そのエネルギーは空気などの宇宙(自然)エネルギーとDNAの力などの生命エネルギーとし、前者は宇宙の創造者たるエネルギーですから「 神 」とし、後者は生命の創造者たるエネルギーとして、「 仏 」としました。

その二つの集合を神仏習合している人体(精神を持つ霊体)として、二つのエネルギーが混在しているがゆえに「 死中生あり生中生なし 」の新陳代謝の世界に住し、外界の「 色即是空 空即是色 」の世界に対応していると思います。

現在は、超弦理論やホログラフィック宇宙論が流行しているようですが、以前に申しましたように、客観性や評判は人間思考のためであり、人間の思考そのものが神の考えとは違うかもしれませんので、それは「 真実とは限らない 」し、「 空(kuu)」を「 空虚 」とか「 からっぽ 」などと考えれば、この世は夢であるとなって、自殺、テロ、虚無主義、無情というような思想に導かれるから、そうではなく、「 ホルグラフィック 」に目で見える事も「 エネルギー 」によりますから、「 エントロピー 」は「 エネルギー 」に関係する概念でしょうから、その「 変化 」する「 エネルギー 」とは何か、「 色即是空 空即是色 」をこの宇宙論でどのように説明するのか?が判明しないのなら、この理論は、最新の科学者が主張するのですから真実かも知れませんが、「 道義的 」に採用することはできません。

なぜなら、私の考え上に「 無常 」や「 希望 」や「 変化 」という概念が活きるからです。

「 一切皆空 」により人間も自然物と同様に「 空 」ですが、私の「 空 」は「 エネルギー 」ですから、人間はそのエネルギーを生殖という行為によって「 エネルギー・力 」を継承しているのだと思います。

母親の体内には「 エネルギー 」が宿るもので、「 我 」がその「 エネルギー 」であり生存するために生命エネルギーの力により、台風や太陽系ができるように「 我 」のまわりに、自分の都合のよく合理的で客観的な思想や養分を他の動植物の生命を奪って「 自分 」のものにして、「 自我 」を作ると思います。

それは、(A)の唯識を見ればわかりますし、それが(B)の思想により、「 一切皆空 」であるからこそ、「 変化 」が生まれ、「 空 」即ち「 エネルギー 」であるからこそ、「 変化 」し、それを「 縁起縁滅 」と因果で自分のために獲得した「 可能性 」が、更なる因果を生んで、自分のための固定した「 可能性 」は否定されることになり、「 自我 」という偶像は捨てることになります。

その「 可能性 」は静止したものではなく絶えず変動しますから、無意識のなかで気配を感じ取って、偶像になっている「 自我 」と比較して「 不安 」になったり「 安心 」したりという「 自我 」を変動させると考えます。

それは、「 神 」を一夜にして感じ取って永遠の安心を得ることも出来るでしょうから、ブッダやキリストのように一夜にして「 悟る 」ことも出来るかも知れません。

3、<空なる我としての私の進路>

当然「 進路 」も「 空 」でして、それは因果の法則やエネルギー保存の法則など、この世の法則のように、「 空なる我 」が持っている「 エネルギー 」の分散や解消の仕方(道)であると思います。

「 一切皆空 」で、自然物が皆「空」であり、変化するならば、自分の「 我 」も「 空 」であり、その時々の自分が、「 そのエネルギーのひとつの現象 」として、捉え「 自我 」を偶像のように固定せず、生死の形を問わず、「 エネルギーの宇宙への回帰 」を信じて、その「 回帰 」の方向に自分を進めることが「 生きること 」であり、「 死 」という形をして人体は消滅しても、宇宙(自然)エネルギーとなって、宇宙(自然)エネルギーの変化とともに「 生きている 」ことを希望することが、「 死後に生きること 」だと思います。

 

それまでは、他の動植物の命をありがたく頂いて食前の「 いただきます 」と食後の「 ごちそうさま 」という命を頂いた感謝のお礼と、これからこの命を自分の命に替えて、自分もまた自然の回帰すると考えて生きようと思いますし、「 散る桜 残る桜も 散る桜 」で、DNAにより障害を持とうが健常者であろうが、日本人であろうが外人であるが、頭脳明晰であろうが劣等生であろうが、美人であろうがなかろうが、「 エネルギーのひとつの現象 」であることには変わりなく、みんな孤独で、世界でたったひとりの自分だけの人生を歩んで、「 人類の多様性 」を示さなければならないという神(宇宙エネルギー)が課した任務があると思います。

バラの花が「 私は美しいでしょう 」とかトンボやセミが短命を嘆かないように、お金持ちの人生が貧乏の人の人生を劣ったものとすべきではありません。

お金持ちになることが自分の道だと限りませんし、バラやトンボやセミのように、生きることが自分の道を進むことで、たとえ貧乏であっても、幸福かも知れません。

お金持ちが貧乏な人より幸福と思う人は、そんな幸福が至上の幸福だと思っているかもしれませんが、その幸福も「 死んだら終わり 」です。

「 あら楽し おもいははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」と死に際に歌った、大石内蔵助の幸福などわかりもしない人であるかも知れません。

 

負け惜しみになりますが、自分の境遇を嘆かないで、自分なりの人生を自然と共に生きてゆくことが、「 宇宙(自然)エネルギーの回帰 」の方向に進むことで、それが、安倍首相がいった、日本人のひとりひとりが自分の花を咲かせることだと思うのです。

これは、私の進路に対する考えですので、一般的には、以前に亡くなられたアップルの創始者である、スティーブ・ジョブズ氏の演説が参考になると思います。

第二章 「 空なる我 」への道

空なる我への道


「 自我 」は、神仏エネルギーの混合である「 空なる我 」が生存のために集積した自分のための可能性を無意識な「 能力 」として蓄えたエネルギーであり、この齢になって全てを放棄しなさいと言うのではありません。

煩悩によって集積したものですから、多くの物を捨てることになるかも知れませんが、「 可能性を集積する力 」は、「 空なる我 」が、他の自然物が諸物を集合し結合して「 形 」を作るエネルギーと同じく人間に与えられているエネルギーとして残り(自然エネルギー)、生存するためのエネルギーは生命エネルギーとして、人間に与えられた様式に沿って使うことが条件で残ると考えます。

「 自我 」を捨てて「 空なる我 」になるのですから、自分の為を捨てて人間一般の為に置き換え、自分がこれまで生きて来て得た「 可能性 」という能力(エネルギー)を人間一般の「 可能性 」として、自分から離れて、人類進歩の為に「 可能性を活かす 」ことが、自然エネルギーと付与された生命エネルギーに戻ることになるかと思います。

「 自我 」を捨てることは、「 可能性 」を放棄するのではなく、人類進歩のために「 可能性 」というエネルギーを使うことで、才能ある人がノーベル賞を受けられるのは、自我から離れて「 空なる我 」になって社会に還元したことだと思います。

勿論、ノーベル賞は貰えませんが、趣味といえない趣味があるように、自分が「 空なる我 」をもって、自分のエネルギーを人類のために使うなら、生命エネルギーを司る「 仏 」の立場からは、同等であると思います。

人類の為というのは、「 創造 」にエネルギーを使うことだと思います。

客観的な評価に捉われずに、当時の「 合理性 」を疑って一見して不合理とも思われることでも、その方向を貫くことだと思います。

「 方向 」は精神の問題で、いづれ間違いが後世になってなされるでしょうから、間違ったことを言わない自分であるため何も言わないではなく、間違っているかも知れないが「 自分の信じる道を行く 」ことが肝要かと思います。

勝負では、「 勝つと思うな、思えば負けよ 」といいます。

将棋なら、「 勝ち 」や「 負け 」に拘らず、自分が考えた最善の手を指して、「 負けた 」としても、「 その手では負ける 」と示すことで、人のためになるかと思います。

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作家:高口克則
 空なる我  上巻
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