空なる我  上巻

(A) 前者の「 自己研鑽 」ですが、「 空なる我 」になることを目標として、次のように思います。

A-①  <空の考え>

私は、これまで散々「 空なる我 」になったらどうか?と提案して来ましたが、それを、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合としたことについては変わらないのですが、私は、私立大学の法学部を卒業し、物理などの理数系の考えには、とても追随することは出来ず、自分勝手に思っているだけですが、さすがにアインシュタイン氏の{ E=MC² }という公式は、自分なりに知っていました。

長年、苦しんでいた「 色即是空 空即是色 」の単語の解釈として、仏教の教えとはまったく違って「 空 」は「 エネルギー 」であると置き換えてみますと、「 一切皆空 」はすべての世界は「 空 」、つまり「 エネルギー 」だと割り切って考えることが出来て、「 我 」というのは、「 無 」ではなく、私の生命ともいうべきで、それも「 空 」、つまり「 エネルギー 」ですから、私の生命は宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーがひとつになったもの(習合)と解釈しました。

ここで、その二つのエネルギーの習合が何がわからず、それを、またしても「 色即是空 空即是色 」の中に求めてしまいまして、現在は、次のように思っています。

「 空 」は「 エネルギー 」としましたが、「 色 」が実体というような考えもありますが、物質は、みんな色を持っているから実体というかも知れませんが、この「 色 」と認識させる力、あるいは世界を仮想現実とする力も、「 生命エネルギー 」であり、人間が、無意識でも認識するものは「 生命エネルギー 」によるもので、一切がエネルギーであると考えるほうを、私は支持しています。

溶鉱炉の熱が炉の「 色 」でわかるように、エネルギー(力)が、現象となって人間の認識対象になるとき「 色 」は「 像 」であり、それはエネルギーの現象であるため変化すると考えると、エネルギーの変化が「 色 」でわかることになり、溶鉱炉の熱を宇宙(自然)エネルギーとして、熱によって炉が色彩を持って示している「 像 」を「 色(実体)」と考えると、(自然)エネルギーは現象によって、認識という「 生命エネルギー 」に反映するとすれば、「 空即是色 」が成り立ち、仮想現実といえど、その現実とはエネルギーであることになるのではないか?と考えて「 一切皆空 」を妥当とします。

当面は、宇宙(自然)エネルギーは、「 現象 」という「 形 」を通じて、生命エネルギーと結びつき、生命エネルギーは、それを維持するために「 現象 」(例えば、空気)を必須とすると思っています。

溶鉱炉の熱が炉の「 色 」でわかるように、エネルギー(力)が、現象となって人間の認識対象になるとき「 色 」は「 像 」であり、それはエネルギーの現象であるため変化すると考えると、エネルギーの変化が「 色 」でわかることになり、溶鉱炉の熱を宇宙(自然)エネルギーとして、熱によって炉が色彩を持って示している「 像 」を「 色(実体)」と考えると、(自然)エネルギーは現象によって、認識という「 生命エネルギー 」に反映するとすれば、「 空即是色 」が成り立ち、仮想現実といえど、その現実とはエネルギーであることになるのではないか?と考えて「 一切皆空 」を妥当とします。

当面は、宇宙(自然)エネルギーは、「 現象 」という「 形 」を通じて、生命エネルギーと結びつき、生命エネルギーは、それを維持するために「 現象 」(例えば、空気)を必須とすると思っています。

「 生命エネルギー 」の終焉は「 死 」という形の現象として現れますが、それは宇宙(自然)エネルギーを取り入れることによって新陳代謝をすることをやめることで、例えば呼吸をしない現象や、食べなくなった現象として現れ、それは人間という動物だけでなく、他の動物にも共通することで、人間もその他の動物と同じことを感じさせてくれると思います。

自然物を見ますと、小さな苗木が年輪を刻んで成長するように、大地から養分を吸い上げて自分の幹に巻き付けるというような、あるいは台風が周りの水蒸気を集めたり、惑星が磁場を持つように、(神仏)エネルギーの習合である「 空なる我 」のまわりに、本能という煩悩で自分に都合がよくて、合理的なものを引き付けて、「 色(自分) 」という実体にしたが、その「 空たる我 」というエネルギーの現象だと思うのです。

自分が好きで集めた、心も含む集合体が、「 自我 」という、ぼんやりとした存在感であり、それを形にしたのが「 像 」であれば、その「 像 」は「 空なる我 」の変化によって、「 像 」の姿形が変わるだろうし、進化のためには変わってほしいという気持ちもあります。

また、宇宙(自然)エネルギーは「 不安定 」から「 安定 」へ、「 規則正しい 」から「 不規則 」にと流れるものということを聴きましたが、そもそも「 安定 」とか「 規則 」というのは、生命エネルギー維持のため、人間が勝手に「 安定 」や「 規則 」を決めただけで、本来は「 不規則 」というより、空間に万遍なく広がって、宇宙の法則に従っているのであり、人間ごときが考えた「 規則 」などは、超えたものかも知れないから、新たな規則や法則を人間が発見できる余地があるかも知れないと思います。

エントロピーの知識があると良いのですが、宇宙の構成物は、無秩序で、バラバラであり、例えばプラズマ宇宙論のように、強烈な電流がフィラメントを流れて、磁場を発生させ無秩序な物質を、規則正しく一定の方向に組織したのかも知れず、人間の頭脳も大きく考えると、このプラズマ宇宙論などという考えで説明がつくのかも知れません。

それは、理系のこれからの人に期待するのですが、「 シンプル イズ ベスト 」と申しますように、単に相対論と量子論を統合させただけでなく、人間の頭脳も解明できるほどの、もっとシンプルな理論があるかも知れません。

時代の流れで変わる客観性や合理性と「 真実 」は違うと思いますから………。

私は、「 一切皆空 」から、「 我 」も「 空(kuu)」として(神仏)エネルギーの習合としました。

「 無 」は「 空 」とは違って、思考上のもので、「 無 」を思考上で「 0(ゼロ)」とし、「 数えきれない数 」を「 無限 」としたのは、開発未開地の人にとっては、両方とも「 数えきれない 」という点で同じで、現代人が数学を成立させるために「 0(ゼロ)」や「 無限大 」「 無限小 」を作ったと、私は思います。

ネット情報ですが、それらは「 実在論 」と関係しているらしいですが、私の考えでは「 色即是空 空即是色 」の世界で考えまして、頭脳に現れる数字も含めて「 実在 」と呼ばれるものは、「 エネルギーの現象 」であり、その「 現象 」を数えるために数学があるのであって、私が「 神 」と考えるエネルギーのひとつの現象に過ぎず、絶えず「 縁起縁滅 」を繰り返す「 実在 」を前提にして、数学が成り立つものとは思えません。

これは、コンピュータが、革命的な数学を作れないことの証明にもなるでしょう。

「 神 」であるエネルギーを「 物自体 」と考えて生命エネルギーが認識する際に、空間と時間の「 形式 」を取るのに合わせて、「 物自体 」が「 現象 」としてあらわれ、それを「 ひとつ、ふたつ 」と数えるのが数学で、それは観念であるが、「 空即是色 」に従ってエネルギーが認識に現れたものであり、純粋に観念とはいえないという考えで数学を成立させることになり、結局のところ私は良く知りませんが、「 カント哲学 」が妥当ではないのかと思います。

私は「 一切皆空 」ですから、「 時間 」も「 空間 」という観念も「 空 」、つまりエネルギーであって(生命エネルギー)宇宙(自然)エネルギーの現象を頭脳の中の観念というエネルギーに転換するもので、両エネルギーは互いに補完するものだと思いまして、それだからこそ、理論の進展も期待することが出来ると思います。

「 数えられない 」のは、「 まだ現象として現れない 」(ゼロ)と、「 数えきれない現象がある 」(無限)と似たような思考で、その実は、物理などでいう「 対消滅 」しているために「 現象 」として現れないだけで、「 ゼロ 」と「 無限 」の中身は同じで、人間の思考には及ばないところにあるので、「 人間の中に無限がある(アインシュタイン氏)」かもしれず、それが仏教でいう「 無明 」であるかも知れないと思っています。

昔のゼノンのパラドックスも、運動がエネルギーであり運動しているように見えるのも、「 実在 」は「 神 」たるエネルギーのひとつの現象であり、この世は「 無常 」ですから、常に一定に続く実在はなく、「 縁起縁滅 」で、「 形 」を変えて別の「 実在 」となってエネルギーが存在するかも知れません。

こうして、人は「 無明 」から「 無明 」へと「 形 」は消滅するでしょうが、エネルギー保存の原則が正しければ、地球上からのエネルギーは他の動植物の命に転化するかも知れません。

 

昔の悟られた僧侶は「 無明 」がお嫌いのようですが、「 無明 」をエネルギーと考えると、エネルギーから出てエネルギーに回帰するのですから、私には、悲しいことのようには思えません。

A-② <無に対する現象を考える>

私は、上述のように「 無 」は「 無限 」と似たような考えをするように書きました。

宇宙の始まりがビッグバンでしたら、その前にも宇宙はあるという考えもお有りでしょうが、やはり「 無 」だと想像され、突然、ダークマターなどいう不明な物質から、ダークエネルギーが大爆発して宇宙になったと考えますと、E=MC² の公式が当てはまると仮定して、そのエネルギー(E)が宇宙の物質(M)の「 形 」に代わり、光(C)の速度で広がっていると考えますなら、エネルギー保存の法則で宇宙そのものがエネルギー(E)の「 からだ 」であり、エネルギーを「 神 」と仮定しますと、人間の細胞の中の「 空間 」もすべて、「 神 」たるエネルギーの「 からだ 」で、エネルギー(神)はその空間の中を光速で自由自在に推移すると思われます。

想像上の「 無 」から、宇宙という「 有 」を創ったのがエネルギー(神)であり、なんだか昔に聞かされたことの再確認となりますが、全然、前に進んだ考えではないように思いますが、仕方ありません。

この「 無 」というのは、完全対称で対消滅する世界であり、エネルギー(神)を内皮したものであって、完全対称性の崩れが「 有 」であり、エネルギー(神)の誕生であれば、「 無 」を認める限り「 神は存在する 」ことになり、エネルギー(神)は「 無 」ではなく、「 有 」を創る力であり、その「 有 」とは何であるのかと考えると、「 エネルギーが物質という現象に代わっている姿形 」であり、「 色即是空 空即是色 」の呪文と一致するという「 我田引水的な考え 」になります。

「 一切皆空 」で、この世がすべて「 空(kuu)」というエネルギーであるから、「 無 」という形から「 有 」に形が変わってもエネルギーは変わらないし、その「 有 」とは「 エネルギーのひとつの現象 」と考えますと、プラズマ宇宙論のように、人間も他の動植物も宇宙の物質で構成されていて、その生命エネルギーのDNAという「 フィラメント 」の違いで、宇宙物質を中心に引き付け、様々な生物を構成しているのかも知れません。

引き付ける物質によって「 太陽系 」を含む銀河系を構成し、地球がなぜ回るのかが太陽系が創られた惰性であるとすれば、地球の生物がDNAによって子孫が続くのも惰性かも知れません。

そんな「 系 」が違うのは、「 自我 」とも思われまして、自分は「 太陽系 」が宇宙の中心だと思うのは自己中心的な思いこみであって、太陽と地球が引力で結ばれているように、自分の煩悩のエネルギーで、自分が好き勝手に物質を収集しているだけで、引力がなければ太陽系が成立しないように、煩悩が無ければ生きることも出来ないので、煩悩を完全否定しても生きるエネルギー(神)を失うしかなく、ミイラになることは、エネルギー(神)を失うことで、宇宙(自然)エネルギーには戻るのでしょうが、人間は死んだら皆、それに戻ると思いますから、仏教でいう「 即身成仏 」はミイラになるのではなく、「 自我を滅して、エネルギー(神)である空なる我になれ 」ということであり、その目的は、顕教の最澄がいったように、「 忘我他利 」であり、社会に貢献しろということではないでしょうか?

自己を放棄することによって、他を利することであり、希望を与えることをすることでしょう。

kandk55
作家:高口克則
 空なる我  上巻
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