空なる我  上巻

(ⅳ)空と無の違い

私は、「 無 」というのは人間が思考の産物で、人類はこの「 無 」を経験したことがなく、「 空 」を「 無 」と混同すべきでないと思っています。

これまで書いて来ましたように、「 空 」はエネルギーとし、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合が「 空なる我 」としました。

「 一切皆空 」ですから、「 神 」も「 仏 」も「 空 」であり、前者が宇宙(自然)エネルギーであり後者が生命エネルギーであることは、これまで書いて来た通りです。

では「 無 」をどう考えるのでしょう?

「 無 」は「 ゼロ 」であり、そこから有限数が考えれるのですが、私は無論数学者ではなく、文系のマルクス主義を是とする大学の法学部出身で、まったく数字に弱いのですが、こうなった以上は「 無 」や「 ゼロ 」について空想したいと思います。

「 人生 」は暗闇から舞台に上がったようなものだと言う人もいますが、私は「 人生 」は有限数のようなもので、「 無 」から始まり「 無限 」の中に沈んでゆくものと考えるのですが、思考上の何も存在しない「 無 」から「 無限 」になるのではなく、エネルギーである「 空 」として循環するものだと考えています。

「 無 」や「 ゼロ 」は人間の思考の産物であり、「 空 」即ち「 エネルギー 」が「 現象 」として現れるのが理解できるように可視化したのが数字だと思っています。

「 自我 」が「 空なる我 」が「 現象 」として現れるように、自然の諸物も同様に「 エネルギーのひとつの現象 」として、私から認識されるのだと思います。

その「 現象 」を「 ひとつ、ふたつ、みっつつ……」と数ぞえるのですが、何時だったのかの記憶は無いのですが、TVなどで未開の人たちは、ある数を数えてそれ以上は「 わからない 」という話を聞いたという覚えがあります。

この「 わからない 」というのが「 無 」であり「 数 」の始めの「 ゼロ 」がこれを現しているとのことだと思いますが、「 わからない 」のは、「 何もないから数えられない 」とは見えないものを否定するのではなく現象の「 形 」がないことだと思いますが、現象が「 数えきれないほどある 」から「 わからない 」、つまり「 無 」と「 無限 」は、「 わからない 」という点では同じなのかも知れません。

「 無 」や「 ゼロ 」は「 無限 」とは違って「 数えきれない 」のではなく「 何も存在しないこと 」だとは思いますが、ヒッグス粒子や南部氏の対称性の崩れなどにもあるように、「 完全な対称状態 」がスピンや何かの都合で他の物体と結合した結果で粒子が現れるように「 ゼロ 」とはエネルギーが「 完全な対称状態 」の存在で、つまり「 無明 」の状態で認識されないエネルギーが均衡した状態だから「 数えられない 」とか「 わからない 」ので、「 無 」といったり「 無限 」というのかも知れません。

実際、「 誕生 」のことを考えてみますと、父親の精子が持つ生命エネルギーと母親の卵子が持つ生命エネルギーが、母親の排卵期の状態で、大量の精子とひとつの卵子が結び付き、互いのエネルギーが通じ合って、胎児という現象になるのですから、誕生前の父親と母親の中での「 数えられなく 」「わからない 」つまりエネルギーの段階から、それぞれのエネルギーの現象が結合して、「 ひとつ、ふたつ 」と数ぞえられる胎児としての「 存在 」になると思います。

その誕生前までは、「 何も存在していない 」のではなく、父親と母親の体内の中には、生命エネルギーが「 数えられない状態 」で存在しますが、その「 現象 」である精子と卵子が結合して「 無 」を現す「 ゼロ 」から、胎児という「 現象 」を発生させ、それが生命エネルギーの終焉である「 死 」で、「 数えられない 」宇宙(自然)エネルギーに戻るのですから、誕生から死までの「 人生 」が終わっても、認識されない数えられないエネルギーの状態として「 有る 」のであって、思考された「 無 」は、人間が見る「 形 」だけに過ぎず、「 形 」を変えて「 無限のエネルギー 」として残ることを否定しないのだろうと思います。

「 無 」とは「 対消滅して完全均等として隠されている無限のエネルギーの存在 」で、認識不能な「 空 」であるが便宜上理解可能な「 形 」の「 ゼロ 」として、「 存在しないもの 」としているのではないかと、私は思っています。

ですから、密教の真言宗では、困難に直面したとき、弘法大師さまの名前を唱えれば、何もない虚空から直ちに現れてくださると信じているのではないでしょうか。

私は、こうして「 無 」や「 ゼロ 」は「 無限 」と同義で、「 数えられないこと 」であり、エネルギー(神)の「 完全なる対称 」から、珍しく外れた物体が「 人間 」であり、人間が尊いと思うのは、精神があるのではなく他の動物も尊いと思うのと同様に、神(エネルギー)の「 完全なる対称状態 」から、偶々、はずれて、数えられる存在になったことを喜ぶことであり、それは宗教的には「 神から離れた物体 」として、あり得ない事が起こったことで、神(エネルギー)からしては想定外のことで、「 対称状態 」に戻ること、即ち「 対称性 」を含んだ合理的な考えが、近年に言われる「 神の数式 」でしょうが、微細なエネルギーの対称性を漏らしている可能性もあるので「 完全な対称状態 」にならなく「 真実 」ではないのかも知れません。

「 すべてがわからない 」という状態は、単なる「 無知 」ではなく、考えた末、「 すべてが対消滅する 」ことになるという結論になるのかも知れません。

「 神の数式 」が、数々の「 対称性 」を取り入れられるのは、まだ知らない宇宙があるのかも知れませんが、「 対消滅してエネルギーに戻る 」ことを想定して理論を組むことで、エネルギーを「 形 」にして組み入れて、対消滅をしていない現在の物理の理論を作っているのかも知れませんが、もし「 完全調和 」が「 神 」であるなら、上述の「 すべてが対消滅 」して、「 すべてがわからない 」のが正しいのかも知れません。

ですが、対消滅するエネルギー自体は存在しますので、「 一切皆空 」も、この世で生命を肯定する考えを育てますから、「 無 」も「 無限 」もエネルギーを持つ事に変わりがない(「 空 」の否定ではない)と思って、「 一切皆空 」を、現在の私は支持しています。

(ⅴ)「 空なる我 」を考えるときの実益

一つは、「 空なる我 」を原動力とした「 自我の変化 」が可能であることと、もう一つは「 一切皆空 」とすることによって「 エネルギー(神)の下で、万物が平等だということでしょう。

(A) 前者は、人間は一度規定されたら終わりではなく、ブッダにもなれることで、自己の研鑽に役立つと思います。

(B) 後者は、不当に一方を上位としての「 いじめ」や「 差別 」の解消となると思います。

 

 

 

 

(B) 後者については、以下のように考えます。

私は、元公務員であっても、教職の仕事ではなく、一介の「 役人 」でした。

退職後、ひょんなことから「 空なる我 」を思いついたのですが、これを「 いじめ 」や「 差別 」の解消のために使えないだろうか?と考えました。

むろん、机上の空論で、文科省が平成25年に作られた「 いじめ防止対策推進法 」などに資するとは思ってもいませんが、いくら法律で「 いじめ 」をする行為を取り締まっても、「 いじめる人 」の根底に、「 自分は他人とは違って優秀なんだ 」という「 自我 」が存在すれば、「 ただの法律 」に過ぎません。

その根底の「 自我の生成 」について、新天皇皇后も含めて日本国中の人が、そのいじめの「 縁起縁滅 」を考え、「 条件次第では自分もそうなる 」と考えた場合、少なくとも現在より優しい心になって、「 いじめ 」や障害を持つ人への思いやりなどが生まれ、仏教の「 慈悲 」の行為が、この世に現れるのではなかろうかと考えます。

私は、仏教の「 無我 」と申しますと、生きるための煩悩も何もかも捨てて「 自分の生命を否定する 」ような思いになるような気がして、「 生命 」そのものは自然の動植物のように純粋なエネルギーであり、その周りに巻き付けた過度の煩悩こそ、否定すべき煩悩だと思っています。

「 生命 」は、いじめる人もいじめられる人も持っていて、そのDNAが持つエネルギーによる様々な違いが優劣となって現れているのを見て、「 あいつは、おれより劣る 」とか「 自分は、いつまでもいじめられるから、死んでこの世から去ろう 」などという「 生命 」に優劣をつけているのだと思います。

ですが、そのような考えをするのではなく、「 自分もあいつも、同じエネルギーの一つの現象なので、条件次第で変化する余地もあるんだ 」と考えるなら、「 自分はなぜ、あいつをいじめているんだろう 」という疑問から、自分を優位とする自分の煩悩に気づいて、能力の劣る相手を「 いじめる 」のではなく、互いの能力の違いを本人の責任にするのではなく、それぞれが与えられた能力で社会で果たすべき「 課題 」を発見できるのではないでしょうか?

自分も自然物も、(神仏)エネルギーのひとつの現象に過ぎず、これからも変化するのだと考えると、自分と自然との一体感が生まれ、自然に四季があるように、自分にも絶望の中に希望を見出せるし、同じ状況で困っている相手の希望を発見して励まし易いだろうし、その状況を自分の身に置き換えて考えることによって、気持ちや心を共感し、障害を持つ者への差別や人種差別も、現在より少なくなるかも知れません。

「 いじめ 」は私も、受けました。

私は、幼稚園から職場まで、いじめを感じ、それを打ち破って来たつもりですが、小学生が「 いじめ 」を受けで自殺して、遺書まで残して抗議しても、「 いじめ 」が一向に消滅しないのは、「 心 」に棲みつく自己中心的な「 自我 」を、いったんは、本来の「 我 」がもつ清らかなエネルギーである「 空なる我 」に戻して、それから育った「 今の自分の自我 」の良し悪しを、みんなで考えることがないからだと思います。

今の「 自我 」がわからないから、つまり自分がどんな煩悩で動いているのかを知らないから、弱肉強食という「 本能のまま 」で、今思っている自分の幸福のため、邪魔な相手を「 いじめ 」たり、あるいは自分の進路に絶望して、「 自殺 」するのではなかろうかと思うのです。

法律を作り、「 いじめ 」の行為を禁ずることは、見た目にも「 よくやってる 」という評価を得るでしょうが、「 いじめ 」を生んでいる「 自我の形成 」に盲目なのは、いかにも「 お役所仕事 」ではないでしょうか?

学校教育の中には「 道徳 」の時間もあるでしょうから、社会の約束事を教えるのも良いでしょうが、「 いじめ 」を作らないような「 心 」を作ることも「 教育 」であるだろうし、その「 心 」を育てるべき子の親や教職員が少ないから、相変わらず「 いじめ 」が起きたり、生徒が自殺するのではないでしょうか。

子は親の鏡とも申します。

子が知らないなら、まずは親から、その「 心 」をお育てになれば、子はそれを真似ると思います。

「 無我 」というのは、お釈迦様のお言葉ですから、それがすべての社会で通用する「 心 」だと思いますから、それから身につけると良いかも知れません。

親も学校の教職員も、子の教育者だと思います。

教育者は教育者として、「 いじめ 」の発生と、それを消滅させるため条件を考える、つまり、「 いじめの縁起縁滅 」を少しは真面目に考えたらどうかという、私の提案です。

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作家:高口克則
 空なる我  上巻
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