空なる我  上巻

(ⅲ)道は自然の法則に任せること

私が、これまで「 一切皆空 」という大乗仏教の教えから、唐突に「 空なる我 」を導きだしたように思われるかも知れませんが、これは、私の規定路線でもあるのです。

「 無我 」を「 空なる我 」としましたのは、「 自我 」を否定するべきですが、「 自分 」を考えてみますと、私の思考は頭脳という生命エネルギーの働きだろうし、「 からだ 」を形成するのは宇宙(自然)の素粒子を他の自然物と同様にDNAのもとに結合、あるいは結集した細胞の集まりでしょうしそれは宇宙(自然)エネルギーの産物だと思います。

その細胞が、絶えず新陳代謝を繰り返して新たな細胞を補充しているのは、「 万物は流転する 」自然物と同様であって、自分の「からだ 」を幾ら細分化しても、また自然物を幾ら細分化しても、結局はその素粒子を結合させているエネルギーに行き着くと思います。

私は、これを「 色即是空 」と考えて、「 色 」は「 からだ 」で「 空 」は「 エネルギー 」で、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーであるとしました。

また、宇宙(自然)エネルギーや生命エネルギー(空)は、「 生物 」と認識される物(色)という「 エネルギーが現象となった姿 」によって人間に示されますので、これを「 空即是色 」としました。

それは、アインシュタイン氏の、{ E=MC² }の考えを頂戴したもので、同氏に深く感謝をいたします。

私が「 空なる我 」としましたのは、「 色即是空 空即是色 」から導きだしたもので、それが「 一切皆空 」に一般化することによって、自分を含む自然物が変化するのは、「 空(kuu)」というエネルギーが変わるからだとしまして、私の「 からだ 」や「 思考 」が、その時々に変化するのは、自分が、何処かにエネルギーを持っているからであり、他人の「 からだ 」や「 思考 」、その他の自然物も自分と同様のエネルギーを持っているから「 形 」を変えられるのであり、変化後の「 自我 」は、そのエネルギーの結集の結果であり、そのエネルギーは「 死 」という「 形 」で終わるけれども、そのエネルギーは宇宙(自然)のエネルギーや生命のエネルギーの発生源に戻るだろうと考えました。

もしかしたら、「 自殺 」する人は、その場所が好みで、死後もそこに留まりたいから、あるいはその場から逃れようとして、その状況で「 自殺 」するかも知れませんが、それは本来、戻るべき所の戻っていないのであり、「 魂 」の循環が乱れることになるかも知れません。

たとえ、生まれ変わってもその状況に再び陥るか、別の生物に生まれ変わって、その責任を負うかも知れません。

人間は「 呼吸 」して、宇宙(自然)エネルギーを取り入れ、あるいは熱を自然界と交流させることによって生存するように、生命エネルギーは宇宙(自然)エネルギーの庇護の元に成り立つのであり、神(自然エネルギー)の前では平等でDNAにより生命エネルギーによって人間にとっての優劣がつくかも知れませんが、神の前では平等であり、お互いに神仏エネルギーの習合という点では同等のものだと思います。

仏教の「 縁起縁滅 」という考えも、生命エネルギーがある限り、人類が生存する限り妥当するだろうし、それは「 思想 」ですからキリスト教のいうように人類滅亡しても天体の動きは人類の滅亡には影響なく宇宙(自然)エネルギーで変化し続けるでしょうが、人間が考えた「 時間 」や「 空間 」という「 枠 」はなくなり、エネルギーという「 無明 」の世界に入ってゆくのだろうと思います。

日本の空海という僧侶やゴーギャンが、どこから生まれて死んでどこにゆくだろうかと問いましたが、私は人類の行き末と同じく「 エネルギー 」という「 無明 」の世界に行くだろうし、生命エネルギーは「 本能 」というエネルギーとなって、仏教がいう輪廻転生する「 無明 」の世界にゆくかも知れません。

なにせ、人間は「 エネルギーの一つの現象 」に過ぎませんから、自分が死んでも人類が滅亡するときと同様に、エネルギーに戻るだけだと思います(無無明尽)。

(ⅳ)空と無の違い

私は、「 無 」というのは人間が思考の産物で、人類はこの「 無 」を経験したことがなく、「 空 」を「 無 」と混同すべきでないと思っています。

これまで書いて来ましたように、「 空 」はエネルギーとし、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合が「 空なる我 」としました。

「 一切皆空 」ですから、「 神 」も「 仏 」も「 空 」であり、前者が宇宙(自然)エネルギーであり後者が生命エネルギーであることは、これまで書いて来た通りです。

では「 無 」をどう考えるのでしょう?

「 無 」は「 ゼロ 」であり、そこから有限数が考えれるのですが、私は無論数学者ではなく、文系のマルクス主義を是とする大学の法学部出身で、まったく数字に弱いのですが、こうなった以上は「 無 」や「 ゼロ 」について空想したいと思います。

「 人生 」は暗闇から舞台に上がったようなものだと言う人もいますが、私は「 人生 」は有限数のようなもので、「 無 」から始まり「 無限 」の中に沈んでゆくものと考えるのですが、思考上の何も存在しない「 無 」から「 無限 」になるのではなく、エネルギーである「 空 」として循環するものだと考えています。

「 無 」や「 ゼロ 」は人間の思考の産物であり、「 空 」即ち「 エネルギー 」が「 現象 」として現れるのが理解できるように可視化したのが数字だと思っています。

「 自我 」が「 空なる我 」が「 現象 」として現れるように、自然の諸物も同様に「 エネルギーのひとつの現象 」として、私から認識されるのだと思います。

その「 現象 」を「 ひとつ、ふたつ、みっつつ……」と数ぞえるのですが、何時だったのかの記憶は無いのですが、TVなどで未開の人たちは、ある数を数えてそれ以上は「 わからない 」という話を聞いたという覚えがあります。

この「 わからない 」というのが「 無 」であり「 数 」の始めの「 ゼロ 」がこれを現しているとのことだと思いますが、「 わからない 」のは、「 何もないから数えられない 」とは見えないものを否定するのではなく現象の「 形 」がないことだと思いますが、現象が「 数えきれないほどある 」から「 わからない 」、つまり「 無 」と「 無限 」は、「 わからない 」という点では同じなのかも知れません。

「 無 」や「 ゼロ 」は「 無限 」とは違って「 数えきれない 」のではなく「 何も存在しないこと 」だとは思いますが、ヒッグス粒子や南部氏の対称性の崩れなどにもあるように、「 完全な対称状態 」がスピンや何かの都合で他の物体と結合した結果で粒子が現れるように「 ゼロ 」とはエネルギーが「 完全な対称状態 」の存在で、つまり「 無明 」の状態で認識されないエネルギーが均衡した状態だから「 数えられない 」とか「 わからない 」ので、「 無 」といったり「 無限 」というのかも知れません。

実際、「 誕生 」のことを考えてみますと、父親の精子が持つ生命エネルギーと母親の卵子が持つ生命エネルギーが、母親の排卵期の状態で、大量の精子とひとつの卵子が結び付き、互いのエネルギーが通じ合って、胎児という現象になるのですから、誕生前の父親と母親の中での「 数えられなく 」「わからない 」つまりエネルギーの段階から、それぞれのエネルギーの現象が結合して、「 ひとつ、ふたつ 」と数ぞえられる胎児としての「 存在 」になると思います。

その誕生前までは、「 何も存在していない 」のではなく、父親と母親の体内の中には、生命エネルギーが「 数えられない状態 」で存在しますが、その「 現象 」である精子と卵子が結合して「 無 」を現す「 ゼロ 」から、胎児という「 現象 」を発生させ、それが生命エネルギーの終焉である「 死 」で、「 数えられない 」宇宙(自然)エネルギーに戻るのですから、誕生から死までの「 人生 」が終わっても、認識されない数えられないエネルギーの状態として「 有る 」のであって、思考された「 無 」は、人間が見る「 形 」だけに過ぎず、「 形 」を変えて「 無限のエネルギー 」として残ることを否定しないのだろうと思います。

「 無 」とは「 対消滅して完全均等として隠されている無限のエネルギーの存在 」で、認識不能な「 空 」であるが便宜上理解可能な「 形 」の「 ゼロ 」として、「 存在しないもの 」としているのではないかと、私は思っています。

ですから、密教の真言宗では、困難に直面したとき、弘法大師さまの名前を唱えれば、何もない虚空から直ちに現れてくださると信じているのではないでしょうか。

私は、こうして「 無 」や「 ゼロ 」は「 無限 」と同義で、「 数えられないこと 」であり、エネルギー(神)の「 完全なる対称 」から、珍しく外れた物体が「 人間 」であり、人間が尊いと思うのは、精神があるのではなく他の動物も尊いと思うのと同様に、神(エネルギー)の「 完全なる対称状態 」から、偶々、はずれて、数えられる存在になったことを喜ぶことであり、それは宗教的には「 神から離れた物体 」として、あり得ない事が起こったことで、神(エネルギー)からしては想定外のことで、「 対称状態 」に戻ること、即ち「 対称性 」を含んだ合理的な考えが、近年に言われる「 神の数式 」でしょうが、微細なエネルギーの対称性を漏らしている可能性もあるので「 完全な対称状態 」にならなく「 真実 」ではないのかも知れません。

「 すべてがわからない 」という状態は、単なる「 無知 」ではなく、考えた末、「 すべてが対消滅する 」ことになるという結論になるのかも知れません。

「 神の数式 」が、数々の「 対称性 」を取り入れられるのは、まだ知らない宇宙があるのかも知れませんが、「 対消滅してエネルギーに戻る 」ことを想定して理論を組むことで、エネルギーを「 形 」にして組み入れて、対消滅をしていない現在の物理の理論を作っているのかも知れませんが、もし「 完全調和 」が「 神 」であるなら、上述の「 すべてが対消滅 」して、「 すべてがわからない 」のが正しいのかも知れません。

ですが、対消滅するエネルギー自体は存在しますので、「 一切皆空 」も、この世で生命を肯定する考えを育てますから、「 無 」も「 無限 」もエネルギーを持つ事に変わりがない(「 空 」の否定ではない)と思って、「 一切皆空 」を、現在の私は支持しています。

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作家:高口克則
 空なる我  上巻
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