空なる我  上巻

これは、これまで書いてきた(A)の思想も(B)の思想も、共に生きるには必要であり、宗派に分かれて主張されるのには疑問に思っています。

また、「 空(kuu)」を、「 からっぽ 」や「 空虚 」などという意味にして、この世は夢やバーチャルだと思うと、「 希望 」や「 変化 」や「 無常 」というエネルギーを生む考えとは反対に、「 絶望 」や「 あきらめ 」や「 虚無主義 」や「 自殺 」を肯定する考えや生き方になってしまうのではないかと思いますから、ホログラフィック宇宙が正しいかも知れませんが、先ほど申しましたように「 真実 」とは言い難いので、現在の私は、この考えは採用しません。

「 空(kuu)」をどのように解釈するかで、考え方や生き方の進路に大きな違いを見せると思いますから、素人の私としては、仏教の始めに般若心経の「 空(kuu)」の解釈から説明してもらえば、古代の人からもっと、人間が進化するための多くの疑問が湧くと思います。

 

 

 

(ⅱ)再考、無我と空なる我の違い 

私は、前回で「 無我 」を「 空なる我 」として考えますが、根本的に仏教とは違う考えではないだろうかと思います。

「 無我 」は因果の法則に従って「 現象 」するが、「 空なる我 」は、「 自我 」を現象として否定するだけでなく、因果の法則をも「 現象 」として否定(不変の法則は無いと)するからです。

仏教は、宇宙(自然)エネルギーを「 因果 」として考えて、その方向への人の救済の理論かと思いますが、私には、その「 因果 」という考え自体が生命エネルギーが生み出した煩悩ともいうべき「 現象 」であり、その「 因果 」を考えることは、既に「 自我 」の範囲に留まっていて、生命エネルギーから出た煩悩が、本来は清浄であるエネルギー全体を汚し、宇宙(自然)エネルギーの中の生命エネルギーは清浄ではあるが、動物の「 本能 」という無明と私には思われるものを含んだエネルギーに化し、般若心経でいう「 空(kuu)」という意識で否定することにより清浄を取り戻せるものだと思っています。

人間の他の動物も、意識でないにしても宇宙(自然)エネルギーを「 因果 」と捉えて行動するもので、人間も同じという考えもありますが、それは本能のまま行動することと同じであり、せっかく「 空(kuu)」は「 エネルギー 」であると意識できたのですから、古来の「 魂 」というのを(神仏)エネルギーの習合であるけれど、それは「 生命一般の生きる事 」だとして、特定の「 魂 」ではなく生命体一般に共通する「 命 」だとし、動物はDNAのため本能の煩悩のまま暴走するのが「 穢れのない命 」の行動であるかも知れませんが、「 空(kuu)」を知った人間が「 穢れのない命 」に従った行動というのは、仏教の「 慈悲 」というか、他人を自分と同じ「 エネルギーの現象 」として、相手を突き放した「 憐憫 」の「 気持ち 」や「 心 」をだくことなく、相手と同時に痛みを共に感じ、喜びを共にするのが「 空なる我 」になることであり、苦しむ人に財物を与えることや道理を教える「 布施 」というのもそれを現す行為だろうと思います。

ですから、なぜ「 布施 」をするかは、目の前の可哀そうな僧侶への寄付でもありますが、同時に私の「 魂 」の浄化であるとも考えていて、私は災害に対する義援金などの財物給付も、目的の第一としては苦しむ人のためでもありますが、自分の「 魂 」の浄化でもあると考えています。

これは、その行為の「 因果 」により、更なる自分の幸福への道ではなく、因果律には従わない幸福だと思っています。

それは、親の子への無償の愛のように「 見返り 」を求めるのではなく、自分が蓄積して来た自分の「 可能性 」を相手に与えることによって、自分の「 魂 」あるいは「 生命一般 」を清浄に戻すもので、それを「 幸福 」と捉えるなら、生きる自分が「 因果 」によっての「 幸福 」と同じ名前の別物を獲得することだと思います。

生命エネルギーは、その維持のために「 現象 」を形成しますが、それを否定する方向(放棄の方向)に向かう考えが「 空なる我 」のなかにあり、その幸福は何か?を考えまして、放棄が「 空なる我 」になることを意味し、自分の持つ自我を放棄して「 幸福 」と考えるからです。

別物といいますのは、もしも相手が遺恨を残して死んだ主君で、その人から育てられた自分の生命をかけることによって、相手の「 苦抜楽与 」が可能なら、主君の遺恨をはらすために討ち入りをした大石内蔵助の辞世の句である「 あら楽し おもいははるる 身はすつる 浮世の月に かかる雲なし 」と同じ幸福なのではなかろうかと思います。

しかし、五感の感覚や頭脳の働きが鈍って「 死 」へ到達するのですが、この喪失してゆくのは自然が「 空なる我 」に戻ることを援助していると思うならば、その喪失してゆく姿が「 悟りの道 」を歩んでいるとも思われ、「 死 」にも感謝すべきかも知れません。

(ⅲ)道は自然の法則に任せること

私が、これまで「 一切皆空 」という大乗仏教の教えから、唐突に「 空なる我 」を導きだしたように思われるかも知れませんが、これは、私の規定路線でもあるのです。

「 無我 」を「 空なる我 」としましたのは、「 自我 」を否定するべきですが、「 自分 」を考えてみますと、私の思考は頭脳という生命エネルギーの働きだろうし、「 からだ 」を形成するのは宇宙(自然)の素粒子を他の自然物と同様にDNAのもとに結合、あるいは結集した細胞の集まりでしょうしそれは宇宙(自然)エネルギーの産物だと思います。

その細胞が、絶えず新陳代謝を繰り返して新たな細胞を補充しているのは、「 万物は流転する 」自然物と同様であって、自分の「からだ 」を幾ら細分化しても、また自然物を幾ら細分化しても、結局はその素粒子を結合させているエネルギーに行き着くと思います。

私は、これを「 色即是空 」と考えて、「 色 」は「 からだ 」で「 空 」は「 エネルギー 」で、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーであるとしました。

また、宇宙(自然)エネルギーや生命エネルギー(空)は、「 生物 」と認識される物(色)という「 エネルギーが現象となった姿 」によって人間に示されますので、これを「 空即是色 」としました。

それは、アインシュタイン氏の、{ E=MC² }の考えを頂戴したもので、同氏に深く感謝をいたします。

私が「 空なる我 」としましたのは、「 色即是空 空即是色 」から導きだしたもので、それが「 一切皆空 」に一般化することによって、自分を含む自然物が変化するのは、「 空(kuu)」というエネルギーが変わるからだとしまして、私の「 からだ 」や「 思考 」が、その時々に変化するのは、自分が、何処かにエネルギーを持っているからであり、他人の「 からだ 」や「 思考 」、その他の自然物も自分と同様のエネルギーを持っているから「 形 」を変えられるのであり、変化後の「 自我 」は、そのエネルギーの結集の結果であり、そのエネルギーは「 死 」という「 形 」で終わるけれども、そのエネルギーは宇宙(自然)のエネルギーや生命のエネルギーの発生源に戻るだろうと考えました。

もしかしたら、「 自殺 」する人は、その場所が好みで、死後もそこに留まりたいから、あるいはその場から逃れようとして、その状況で「 自殺 」するかも知れませんが、それは本来、戻るべき所の戻っていないのであり、「 魂 」の循環が乱れることになるかも知れません。

たとえ、生まれ変わってもその状況に再び陥るか、別の生物に生まれ変わって、その責任を負うかも知れません。

人間は「 呼吸 」して、宇宙(自然)エネルギーを取り入れ、あるいは熱を自然界と交流させることによって生存するように、生命エネルギーは宇宙(自然)エネルギーの庇護の元に成り立つのであり、神(自然エネルギー)の前では平等でDNAにより生命エネルギーによって人間にとっての優劣がつくかも知れませんが、神の前では平等であり、お互いに神仏エネルギーの習合という点では同等のものだと思います。

仏教の「 縁起縁滅 」という考えも、生命エネルギーがある限り、人類が生存する限り妥当するだろうし、それは「 思想 」ですからキリスト教のいうように人類滅亡しても天体の動きは人類の滅亡には影響なく宇宙(自然)エネルギーで変化し続けるでしょうが、人間が考えた「 時間 」や「 空間 」という「 枠 」はなくなり、エネルギーという「 無明 」の世界に入ってゆくのだろうと思います。

日本の空海という僧侶やゴーギャンが、どこから生まれて死んでどこにゆくだろうかと問いましたが、私は人類の行き末と同じく「 エネルギー 」という「 無明 」の世界に行くだろうし、生命エネルギーは「 本能 」というエネルギーとなって、仏教がいう輪廻転生する「 無明 」の世界にゆくかも知れません。

なにせ、人間は「 エネルギーの一つの現象 」に過ぎませんから、自分が死んでも人類が滅亡するときと同様に、エネルギーに戻るだけだと思います(無無明尽)。

kandk55
作家:高口克則
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