算命学余話 #R1

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算命学余話 #R1 (page 1 )

 心理学の世界に認知的不協和理論というのがあるそうです。それによれば、人間の頭は日々物事を合理的に判断するために、辻褄の合わないこと(不協和)があっても何とか整合性を見出そうとあがくようにできており、時には屁理屈をこねて、客観的に明らかに間違っていることであっても、その人の頭の中で納得を得るために敢えて黒を白と判断・主張することが往々にしてあるのだということです。
 こうした偏った個人的主観が社会の客観性と著しく乖離した時に、最近流行りのストーカー犯罪などの形となって具現するのでしょう。「あいつは俺のものだ」「悪いのは私じゃない、あいつのせいだ」等々、本人にしか通用しない屁理屈はこの世にあまたはびこっておりますが、こうした屁理屈をこねないとその人の頭の中に不協和が生じてしまうので、不協和を解消するために我々人間は日々、大小さまざまな屁理屈をこねて暮らしているというわけです。不協和が嵩じた状態が精神崩壊なので、それよりは少々のお花畑な脳内環境は許容されましょう。
 
 問題なのは少々どころか大いに現実から乖離し、その妄想により周囲の人間が実害を被る場合です。福田ますみ著『モンスターマザー』にはその極みともいうべき妄想の権化である母親が、遂に息子を自殺に追い込み、息子の学校関係者をありもしないいじめの咎で告発する様子が克明に描かれています。幸い、この実在事件は濡れ衣を着せられた被告側の完全勝訴で終わったので、ハラハラして読み進む読者も読了後は溜飲を下げることができるのですが、ここに登場する母親の妄想加減といったらもはや認知的不協和などと呑気に定義付けていられるレベルではなく、ずばりキチガイと云っていいでしょう。
 そして何より私を落胆させたのは、このモンスターマザーに匹敵する強力な「悪いのは私じゃない」式妄想の中で生きてきた人間に、この一年で二人も遭遇してしまったことです。本当に、三つ子のようにそっくりな人たちで驚くばかりでしたが、この遭遇率を考えるとどうやらこの世に一定の割合で生息している種族であるらしく、暗澹たる気分になりました。この三人の宿命が判れば、何か目覚ましい共通項が発見できる気がするのですが、残念ながら比較は叶いません。
 
 もう一度認知的不協和の話に戻ると、興味深いことに欧米人と日本人ではこの不協和を感じるポイントが逆転しているそうです。
 私が常々傲慢だと感じている欧米人は、「自分の選んだ選択肢が実は間違った選択肢だった」という事実が容易に受け入れられないため(最近は米国人の原爆投下の正当性がゆらぐ出来事がありました)、この事実が醸す不協和を解消すべく、自分の判断の正当性に固執するための屁理屈や妄想に囚われる傾向が強い。
 一方日本人は、「自分の判断が正しいのだ」という自負心がそもそも希薄で、「あの時ああすれば良かったかも」と常に自分の判断ミスを省みる習性があるため、自分自身の判断力という点においては不協和そのものが生じにくく、従って自己正当性に固執もしないし、妄想や屁理屈をこねることが極めて少ない。
 ところが、日本人にも不協和を生じやすいケースがあり、それは自分の判断力ではなく他者の評価が係わってくる場合です。これは逆に欧米人には不協和を生じにくい。日本人は自分が選んだものが最良だとは断言しないし、自分でもそうとは思わないけれど(欧米人はそう思っているのです)、他人様や世間様が総じて「最良だよ」と称するものについては、諸手を上げて賛同してしまい、その判断の正当性を信じて疑わずに固執する、というわけです。なるほど、思い当たる節があるではないですか。
 この東西の比較を総じて「自我の強さ/弱さ」と称しているわけですが、どちらがより平和な社会を築くかといえば、やはり私は日本式に軍配を上げたいと思います。これもまた私自身の認知的不協和を解消するための屁理屈なのかもしれませんが。
 
 さて今回の余話は、『モンスターマザー』にあやかって毒母を論じようかと思っていたのですが、『モンスターマザー』は実際には母親であることとは関係がなく、単にこの人物が妄想狂だったという話でしたので、毒母論に発展させるのは難しく、テーマを変えることにしました。今回は「守護神の不在」です。
 守護神の対立項として忌神(いみがみ)というのがあり、災いを避けたい方たちは忌神にばかり注目する傾向が見られるのですが、私の見解では、忌神を避けるよりも守護神を味方につける方が何倍も先決です。宿命に守護神がいない、という事態は確かにハンデがありますが、そのような人はざらにいるので心配するほどのことではありません。大体、守護神は後天運で遅かれ早かれ巡ってくるのですから、その時に捕まえればいいのです。
 それよりもっと憂慮すべきは、宿命に守護神があるのに実生活で全く活かしていない場合です。これは忌神よりもまずい状況です。なにしろ、せっかく生まれ備わった恩恵をドブに捨てているわけですから。この場合、守護神という星をまるまる一つ未使用にしているわけで、当然周辺の星々の輝きも歪んできますし、それはつまり宿命全体の歪みにつながります。宿命全体が歪んでいるのに、今さら忌神を避けても焼け石に水です。どうして守護神を優先しない人が多いのか、私には不思議です。
 というわけで、守護神のある/なしと、守護神があるのに使っていないケースについてお話します。やや専門的な話なので購読料にご注意下さい。なお、算命学余話の通し番号はU番が120回に達したため、今回から新たにR番を開始します。120とは六十花甲子が陰陽で二巡りした数なので、一度リセットすることにしました。余話の内容自体は今のところ変更ありません。
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