算命学余話 #R102

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算命学余話 #R102 (page 1 )

 前回の算命学余話#R101で激辛好きの人に対するいささか私的な苦言を呈したら、わが余話の読者にはおるまいと念を押したにも拘わらず、激辛好きの人から反論と思われるコメントが寄せられました。思われる、というのはそのコメントを私が読まなかったからです。ちらっと数行見ただけで低俗な主張であることが判ったし、既に何度も念を押している通り、激辛好きの人の意見に耳を傾ける価値はない、こちらが求めるような中身の詰まった話などこの人種には吐けない、という強い固定観念に囚われている私であるため、つまらぬ文章を読む時間の浪費を回避したかったからです。
 そもそも余話でも言及している通り、算命学者の視点では、無暗に自己主張する人、頼まれてもいないのに意見を述べたがる人というのは、およそ賢くありません。なぜなら伝達本能を司る寿は、「水火の激突」により印とは相反するからです。印は知性。寿が正しく発動するためには、人体図タテ線の法則により、そこに印の裏付けがなければなりません。

 無暗にとか、お呼びでないのにとか、ネットで匿名の嫌がらせでとか、気まぐれでとか無責任にとかいう冠をつけた状態で発せられる伝達行為は、独りよがりの自己主張にすぎず、印を含まないため根拠薄弱であり、それだけで愚かしさを露呈します。人はなぜ沈黙するのか? それは自分の意見が取るに足らないものである可能性を考慮して、そんな意見を他者に開陳することで自分の愚かしさを露呈するより、黙っていた方がマシだと思うからです。この沈黙の行為は既に思慮深さの表れです。沈黙は賢さの一部なのです。

 最近読んでいるヴォドラスキン『聖愚者ラヴル』に、賢者の言葉としてこのような文言がありました。「大アルセーニーは、自ら発した言葉に対して後悔したことはあったが、沈黙したことを後悔したことは一度もなかった」。どうですか、このロシア聖人の文言が心に響いた方は、やっぱり激辛なんか食べませんよねえ。
 こうした種類の、お呼びでない寿がしゃしゃり出てきたようなコメントはたまに寄せられますが、つまらないコメントにはつまらない返信しかできないため、返信はしておりませんし、掲載承認もしておりません。こうしたコメントを排除するためにいっそブログを「コメントを受け付けない」設定にしようかとも考えましたが、中には有難くも余話の記載ミス、しかも鑑定技術に関わるミスを指摘して下さる読者もいて(脱帽)、こういうコメントは是非とも寄せて頂きたいので、依然としてコメントは受け付ける状態にしております。
 でもせっかくなので、私が好ましいと思うコメントの例を挙げておきます。とはいえ以下の例はいずれも見知らぬ読者からのコメントとして届いたものではなく、親しい友人との対話の中で聞かれた言葉であり、こういう文句をわがブログに文字として残しておきたいと思ったので、この機会に文字にすることにしました。

【例1】
 以前記事に、ロシア語文法が複数形を2~4と5以上で異なる格変化を要求するというテーマで、結局人間の脳が瞬間的に4までしか数えられず、5以上になると漠然と「多い」扱いになることが原因らしいという研究者の講話を掲載しました。そして猿の脳は実験により、人間より1つ少ない3までをひとくくりとし、4以上からは脳の別の部分を使って認識していることが判っているということも併記しました。
 この件で友人は、勿論ロシア語など一語も知らない人ですが、すぐさま「朝三暮四は正しかったのだ」と反応しました。こういうコメントが寄せられたなら、文句なしで掲載承認させて頂きますのに。なに、朝三暮四が何だか判らない? だから激辛は辞めて青魚を食えというのです。

【例2】
 イスラム圏の中で圧倒的文化力を誇るのはペルシャだという通説を経験則からも実感している私は、ある友人にこんな話をした。アラブやトルコが遊牧文化であるのに対してペルシャは農耕文化であり、都市文明を紀元前から永らく担ってきた。移動生活でないため腰を落ち着けて工芸や文芸を洗練させる環境にあり、イスラム化してからも神秘思想に傾倒しがちな国民性もあって(サファヴィー朝は特にそうだ)、その芸術活動には神のまします完璧な世界に近付きたいという明確な意志が込められている。それがペルシアン・ブルーのタイル建築や細密工芸等に現れるため、素人がぱっと見ても「おお!」と思わず感嘆する。
 しかし隣国トルコはそのペルシャ芸術の後塵を拝して模倣したにすぎず、オスマン帝国時代に定住化したとはいえ、宮殿を彩る装飾はペルシャの亜流だ。富は絶大でもそこには装飾に込められた意志がなく、オリジナルをそれらしく真似たといった浅薄なものしか感じられない。少なくとも私の目にはそう移り、見ても驚きを感じない。
 こうした意見に対し、友人は最近観に行ったトルコの宮廷宝飾品展覧会を思い出し、残念ながら余り感銘を受けなかったと洩らしました。そしてその原因が、今の話を聞いて腑に落ちたというのです。この友人は美術畑の人なので、私の方でも説得力を感じました。こういうコメントならいつでも掲載したいです。中身詰まってますよね。

 さて今回の余話のテーマは、嘘についてです。昨今では、反社会勢力に与する営業を行ったとして世間の批判を浴びた一部の芸人らが、最初は金を受け取っていなかったと釈明したのに、その後受け取っていた事実が判明し、益々評判を落としたという報道が世間を賑わせています。初めから正直に言っていた方が傷口は浅くて済んだかもしれないのに、という意見が一般的です。嘘はつかない方が良かったという典型例です。
 算命学は、嘘がいけないと明言してはいませんが、因果の法則と、殺傷の因縁が何代目までに清算されるかを明確に示していることからも判る通り、嘘はいずればれるもの・清算されるものと考えているようです。それも何代も待たずに、結構すぐです。すぐばれるから、敢えて技法や思想に取り上げなかったのかもしれません。従って、今回は技法とは関わりのない、算命学の一般論から見た嘘について考えてみます。

 先に挙げた『聖愚者ラヴル』にはこんなフレーズもありました。「ピリッポス王がある男を裁判官に任じたが、その男が髪やひげを染料で染めていることが分かった時に、その任を解いて言った。髪に誠実でない者が、どうして人々や法廷に誠実でありえようか」。
 一度でも人間は嘘をつくと、それが露呈した時に、それまでの何倍もの信用を失います。その痛手の大きさを知る人は、敢えて嘘をつくというリスクを冒さない。それが賢明というものです。大ボラを吹くことは簡単だし瞬間で済みますが、信用を積み上げるには忍耐が必要で、時間も掛かるものです。皆さん、トレンドに従って髪を染めていらっしゃる? どうもその行為は誠実ではない証となるようです。
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