算命学余話 #U104

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算命学余話 #U104 (page 1 )

 今年もはや年の瀬。さまざまな事件がありましたが、マンション杭打ち偽装事件では興味深い話が聞こえています。記者らが事件を取材するうちに、他のマンションでも住民が傾きに気付いて建設会社や不動産会社に説明を求めるという事態がしばしば起こっていることが判明したのですが、その多くがうやむやになって表沙汰にされずに消滅したというのです。その原因は不正を行った悪徳業者にもありますが、購入した住民にもある。住民が傾きや手抜き工事を訴えると、担当者は「あまり声高に訴えるとお宅の資産価値が下落して、将来転売する時に不利になりますよ」と悪魔の囁きをする。すると住民はマンション全体の価値が下落することを恐れて集団訴訟を自重し、ローンの終わった30年後だかいつだか知れぬ自宅売却のチャンスに望みを懸けて、いま傾いている床やひび割れた壁に目をつぶる生活を選ぶのだそうです。
 実にばかげた選択をするものです。不良物件に住み続けるという不愉快に何十年も耐えるだけでなく、更に将来は不良物件とは知らない誰かに自宅を高額で売りつけて、自分達を苦しめた業者の共犯者になろうというのですから。被害者と加害者はかくも近く入り乱れており、この様相が陰陽論の反転思想を思わせて、いつか余話に書こうと覚えておりました。
 
 常々述べてきたことですが、世間はよく事件の被害者を「罪のない人々」と称してその不運に同情し、加害者を一方的な悪として糾弾するのですが、本当はこの世はそんなに白黒はっきり区分けできるものではないので、ある事件の被害者だからといってその人が全く罪がなかったとは言えない。むしろ別の時間やフェイズでは加害者の側にいることの方が多く、それだからこそ世界は帳尻を合わせようとして、今度はその人を被害者の番に当てたのだ、「罪のない人」などそもそもいない、というのが算命学の陰陽思想です。当然、事件の加害者も同じで、昨今のテロ事件や殺傷事件も、大小の社会で迫害されてきた者たちの堪忍袋の緒が切れてヤケの反撃に出た末の事件だと考えれば、先に彼らに被害を与えたのは誰なのか、というところに目を向けなければならない。
 時間を遡ることは、歴史を知るということです。その人が過去に何をされたのか、或いは親や先祖の時代に何をされたのか。ある被害者が本当に生涯罪がなかったとしても、その親や先祖にも一生涯罪がなかったと言えるのか。
個人主義を信奉する欧米の価値観では親の罪は子供に波及しません。親が残した借金も子供が清算する必要はないという考えです。しかし算命学は、これでは周囲に不公平という偏りが残り、後の争いを助長するだけだと考えています。人間が自分の都合で作った法律が「親の借金は踏み倒して良い」と言っても、自然の法律は許してくれません。おカネを返せないというのなら、別の価値物で子供なり孫なりが返すしかないのです。傍目には親の借金はチャラになったかのように見えても、自然は追ってきますし、概ね三代以内の子孫から対価を奪っていきます。それは健康かもしれませんし、名誉かもしれませんし、知能かもしれません。それがいやなら自分が生きているうちに清算すべきなのです。
 借金を搾取や空爆、人権侵害、誹謗中傷、格差社会の構築、等々に置き換えてみれば、いまの世界の何が間違っているのか想像できるはずです。傾斜マンションの住民は、将来自分たちが加害者にならないよう、業者の囁きを退けて今の被害を訴えるのが正しい選択であり、大切な子孫を守る態度なのです。
 
 戦闘的経済評論家の上念司氏は、自分が老衰して病院へ収容された場合、「延命治療なんかしたら虐待で訴えるぞ、と医者に言ってやります」と豪語し、現在の医療習慣への対決姿勢を露わにしています。私も同感で、そもそもベッドで苦しんで生きているよりさっさと死んだ方がいいと自分なら思うのですが、世の中の皆さんはそんなに死ぬのが怖いのでしょうか。私は苦しい方が嫌です。しかもその苦痛に耐えて病気が治るならともかく、もう老衰して治る見込みもないし既に充分生きたのに、どうして延命が必要なのか。そのための治療と治療費つまり家族の経済負担と税金の投入に、対価が見合っているのかを、医療現場が考慮していないことが、ひどく頭の悪い作業に思えるのですが、皆さんはどうでしょう。
 私は頭の悪い作業には加担したくないので、上念氏のような価値観の人が増えて今の医療習慣を変える世論が形成されることを望みます。きっとビジネスとしても成立すると思います。安楽死ビジネス。そうなると安楽死を悪用した殺人事件なども起こるでしょうが、それこそ法律の出番です。この種の悪用を未然に防ぐ法律をひねり出さなくて何のための立法ですか。命に係わるわけでもない夫婦別姓の是非を議論するヒマがあったら、延命治療と安楽死のどちらが虐待に近いかを議論してほしいものです。
 
 佐藤優氏の対談集『知の教室』で米光一成氏が、「『新しい教養』って何だろうと考えると、『疑いをもって、簡単に納得したり騙されたりしないための体力』なんじゃないかという気がする」と述べています。上述の例を当てるなら、マンション業者の悪魔の囁きにそそのかされて共犯者になったり、医者の言いなりになって誰も望んでいない延命治療をカネを払って延々と続けさせられたり、といった人々には今日必要とされる「新しい教養」がないということになります。ビー玉の転がる床を撮影して「訴えられたくなかったら無償修繕しろ」と業者に迫り、延命治療を勧める医者を「虐待で訴えるぞ」と脅すのは、教養ある人間の所業というわけです。なんだかあこぎに聞こえますが、争いがないことが常に正しいとは限りませんし、どちらの言い分も道義的に間違ってはいません。
 但し、争いを覚悟しての発言や行為には当然勇気が必要ですから、多くの人は勇気が足りない、つまり争いを継続するだけの精神的体力が足りないということになります。そしてこういう人たちに限って、愚痴が多いのです。自分は悪くない、争いを避けただけだ、でも結果的に損をした、誰かのせいだ、とゴネるのですが、誰のせいでもありません。自分に闘う勇気がなく、それ以前に自分が悪くないことを断言できるだけの倫理観や判断力を持っていなかったことが敗因なのです。自分が悪いのです。
 
 この話の続きは後編に譲るとして、今回の余話のテーマは乙木(おつぼく)の守護神です。例によって春生まれから始めますので、月支が寅月、卯月、辰月の乙木守護神について解説します。前回とり上げた水木しげる氏は日干が乙、月支が卯でしたので、合わせてご参考下さい。
 草花に喩えられる乙木生まれの特徴は、群生することです。同じ木性でも甲木(こうぼく)のような一本木と違い、集団を形成することで生存領域を広げます。また柳のようにしなって柔軟に対応するので、強風になぎ倒されることなくしぶとく生き延びます。但し、甲木が伐採されても建築材として有効活用できるのとは対照的に、乙木がひとたび刈り取られたらあとは死ぬしかありません。草は死んだら終わりです。
 日座中殺として特殊な宿命を帯びた水木しげる氏は、マイペースな人柄でありながら孤立することは遂にありませんでした。乙木が93歳の大往生を遂げるには、常に集団の中にいることこそが最大の自衛策です。算命学の云うところの宿命は人間関係を表したものですが、乙木生まれが生き抜くためには、特にその人間関係をフルに活用する必要があると言えるでしょう。
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