算命学余話 #U97

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算命学余話 #U97 (page 1)

 前回の余話では宿命を食卓に喩えて、死ぬまでにピーマンやニンジン(=苦痛や葛藤)を残してはいけないこと、甘いお菓子や肉(=快楽や安楽)ばかりをお替りしてはいけないことを訴えました。この世の運勢の総量は決まっているので、あなたの残したピーマンやニンジンは誰かが肩代わりして食べることになるし、あなたが肉をお替りしたならその分を誰かが食いはぐれている。その「誰か」は大抵近親者なので、家族や子孫があなたの運勢の借金の肩代わりをすることを不憫と思うならば、自分が生きているうちに自分で清算するのが道理なのです。
 そう難しいことではありません。ピーマンもニンジンも栄養価は高いですし、子供の頃に苦手であっても大人になれば苦もなく食べられます。菓子や肉の食べ過ぎが脂肪を蓄えて寿命を縮めることは知られているので、これらの飽食をやめることはむしろ健康に良いくらいです。それでもやめられないのは、何か別の理由があるのでしょう。例えば脳に障害があって飽食をやめられないというのであれば、脳の治療が必要なのであって、他人の皿の肉を奪う必要はなくなります。健康な人体は必要な食物摂取量を知っており、健全な人生は摂取に必要な五徳(福寿禄官印)の量を知っている。これを逸脱する者は健康を損ね、人生を損ねるというわけです。
 
 この「総量は決まっている」という算命学の基本理念を傍証してくれる愉快な本があるので、参考までにご紹介しましょう。山内昶(ひさし)著『ヒトはなぜペットを食べないか』は、表題の通りヒトがペットを食べない理由をあれこれ検証した一般向け学術書ですが、最後の方で本論からやや外れて以下のような、算命学にとっては有難くも冷酷なこの世の真実に触れています。
 
…古代では、人間は現代でいうペットを最終的には食っており、現代人の感覚では残酷に映るかもしれないが、そこには動物に対する愛情と崇敬、他集団との交流など意義があった。しかし今日のペットは家族同然に愛される一方で、買い手のつかない売れ残りは二酸化炭素で窒息死させられ焼却処分されている。果たしてどちらの死に方がペットにとって幸福で残酷であろうか。…歴史上、カーニバルなど特別な祭りで日常の秩序を打ち壊しては生命の活力を再生していた人類は、近親相姦も特別なイベントとして行なってはいたが、今日こうした行為は野蛮とされ禁じられている。しかし今日においては家庭内暴力・性的虐待という形で実質的な近親相姦が行なわれており、統計が語るその数の多さを見れば、近代以前の人類が祭りの無礼講として行なっていたのと量的には変わらないのではないか。
 
 ペットの幸福も残酷も、家族の愛も暴力も、文明も野蛮も、結局のところ総量はいつの時代になっても変わらないのではという貴重なご意見でした。
 さて今回の余話のテーマは、かように運勢なり五徳なりの総量が決まっている世の中にあって、さまざまな分野で飽食する者と飢える者と両方がそれぞれのグレードで存在し、グラデーションとモザイクが織りなす中、飽食者が常に飽食することを妨げ、飢える者が常に飢えることを防いでいる、公平なるこの世の仕組みについてです。とはいえ、神様が見ているといった宗教的道徳の話ではありません。善悪を論じないドライな算命学は、人間が定めた道徳や正義といった曖昧な判断基準に背を向けて、陰陽五行の法則に則って世界をザクザクと解析しています。前回の余話#U96玄で、先代のツケは「大体三代のうちに結着する」と述べましたが、三代というはっきりした数字が出てくるのにも実は理由があるのです。その点について考えてみます。
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