算命学余話 #U96玄

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算命学余話 #U96玄(page 1)

 今年のノーベル賞候補に挙がっているという二人の日本人科学者の専門は、一人が「誤って出来てしまった細胞を壊す役割を果たしている生物の機能」であり、もう一人が「自己を攻撃する免疫機能のメカニズムについて」だそうです。算命学者としてビビビと背筋に走るものを感じました。松井孝典教授の受け売りではないですが、極大の宇宙から極小の細胞に至るまで、この世の自然界に存在する全てのものが同じ宇宙の法則に則って存在しているという哲理を、このニュースの二人の科学者の研究対象がずばり引き当てていたので、思わず心の中で呻き声を上げたのです。といってもミクロな世界を惑星運動のマクロと重ね合わせて呻いたのではありません。人間社会というやや小振りなマクロと重ねて呻いたのです。
 
 人間はなぜ争うのか、とか戦争をするのか、とかいう社会的存在としての人間の哀しい性に向けた問いかけは、マクロな社会をあれこれ考えるよりミクロな体内細胞や免疫システムを観察した方が、答えを見つけやすい気がします。「誤って出来てしまった」異物と、それを「直ちに壊して」秩序すなわち健康を維持しようとする体内の働きは、今どきの人種差別や宗教差別、小さくは学校のイジメといった現象と根源は同じではないでしょうか。そして細胞たちはまた、「誤って出来てしまった」わけではない正常な細胞や無害な異物をもカン違いして攻撃し、昨今は珍しくもなくなったアレルギーとなって我々人間を苦しめているのでありますが、これも現代社会に置き換えれば、どこもおかしくないのに勝手な思い込みで自己を正当化し他者を痛めつける個人レベルのハラスメントから、果ては判りやすくも幼稚な自己正当化論で信者を増やすISによる国際的非道行為まで、実によく似ています。人間の個体を動かしている細胞レベルの運動がこの様子なら、それを引き延ばした人間社会がこうであってもむべなるかな、と思われます。
 つまり残念なことに人間は争いをやめないし、戦争もなくならない。なぜなら我々の体内機能がそうだからであり、そもそも宇宙の仕組がそうだからです。どこかの善良な識者が「人間の攻撃性は理性によって完全に制御できるはずだ」と論じておりましたが、それは無理だというのが算命学の立場です。もしそんな風に全人類が攻撃性を失ったら、多分この世ではお払い箱となって絶滅するでしょう。それは「誤って出来てしまった」不要で有害な細胞を体内で処理できずに増殖させて命を落とす、機能不全の人体と同じだからです。
 
 前回の余話でも取り上げた『M/世界の、憂鬱な先端』は算命学の思想理解にも実践にも大いに役立つ貴重な図書ですが、著者の吉岡忍氏が実に意味深長な見解を述べている箇所を二点ほど挙げてみましょう。
 
「攻撃性がなければ人は生きるエネルギーを持ち得ないが、それが溢れすぎれば暴力となって噴出してしまう。その危ういバランスをとるために慣習や規則、法律等々が作られ、罰則が設けられた。…一人一人がもつ攻撃性がてんでに勝手な暴力として発現するのを防ぐもの、その全体を私はここで「文化」と呼んでおきたい。…文化は1つの社会内で攻撃性のストレートな発現を防ぎ、迂回させ別のものにつなげる役割を担ってきた。…では宮崎勤にとっての文化とは何であったか。(アニメやビデオ収集といった当時流行の、薄っぺらいサブカルチャーであった。)」
 
「生と死。善と悪。正と邪。愛と憎。美と醜。光と闇。安全と危険。平和と戦争…。これら2つのうち、いつもポジティブな一方しかないとしたら、当たり前だが、文化は成り立たない。タレントは生まれてもアーティストは育たない。風俗は広がっても芸術には届かない。多数決はできても個性は活かせない。効率は上がっても独創には結びつかない。お話は書けても神話は語れない。しかし実際(戦後の)この国には一方しかなかった。片方だけでやってきたのだ。…ポジティブなものは本当はネガティブなものに裏打ちされ、修正され、削られ、盛り上げられ、縁取られなければ、中途半端にしか輝かない。それはたちまち色褪せ、光を失い、平凡に、凡庸になっていくしかない。…思えば私の国の戦後史とは、(戦前のネガティブな事実から目を背け続けた国民を記憶喪失に喩えて)人はどこまで記憶なしで生きられるのか、ひとつの文化はどこまで歴史なしでやっていけるのか、と実験していたようなものだった。…その結果が、いまあちこちで噴き出す不可解な事件として、私達の前にある。」
 
 算命学を少しかじっている人がよくやる間違いなのですが、運勢を上げたいと望むあまり、自分の宿命のネガティブな部分をどうやって削り取って捨てるかとか、ネガティブな部分にどうやって触れずに一生を安泰に過ごすか、という目的を満たすために算命学を使うのは、おかど違いというものです。以前の余話でも述べた通り、いい部分も悪い部分も全部含めてあなたの宿命なのです。守護神も忌神も、陰転も陽転も、合法も散法も七殺も、ポジティブとネガティブ両方揃った全部があなたの人生の完成形なのです。
 吉岡氏の言を借りれば、ポジティブだけを選ぼうとする人には「文化がない」。そんな願望を持ち実践しようとする人は、残念ながら幼児連続殺人犯と同じ側の人であり、そんな人が算命学に救いを求めても何も得られるものはありません。算命学はポジティブと一緒に苦痛や葛藤といったネガティブを受け入れろと言っているのですから。
 
 ポジティブなものにしろネガティブなものにしろ、こうした諸事象を人生でこなしていくことを、算命学では「宿命を消化する」と呼びます。判りやすく喩えるなら、生まれた時に食卓に並べられた献立は決まっており、どれから手を付けてもいいけれど、死ぬまでに完食することが求められている。嫌いだからとピーマンやニンジンを除けて残すことは許されません。全部食べないことには宿命を全消化したことにはならないのです。なぜなら嫌いな食べ物にも滋養があり、それを食べなければ栄養が偏っていびつな人生・人格になるからです。
 もし死ぬまでにピーマンやニンジンを遂に食べなかったり、満腹のはずなのにおかわりを食べてしまうと、宿命消化の不足と過剰は、次の世代のツケとして持ち越されることになります。一番影響を受けるのは子供か次の孫の世代です。大体この三世代のうちに結着するというのが算命学のセオリーですから、先の戦争を経験して生き残り、しかしその凄惨な記憶に封をして経済発展に邁進した世代から数えれば、その子供の世代が団塊の世代で、更に孫の世代が宮崎勤や酒鬼薔薇少年Aということになります。日本社会全体がピーマンやニンジンを食べずに甘いお菓子や肉ばかり飽食したツケが、社会全体のいびつな病巣と化したという図式は、何となく理解できるのではないでしょうか。
 
 今回の余話は上述の論点を踏まえて、算命学の活用法についてやや突っ込んだ話を試みてみます。思想の話が中心になりますが、例として「守護神帝王」の命式とその考え方を挙げてみます。なお、守護神についてはこれまでに甲木の守護神について4回分を割いた他、方々で守護神の取り方を説明してきましたが、読者の方から「守護神の取り方が自分の知っているものと違う」という声がありました。算命学には流派があってそれぞれ独自の論を展開していますからその差なのかもしれませんが、私の手法では守護神は日干と月支で出していきますので、手法の違う方はご注意下さい。また今回は玄番ですので、購読料金にもご留意下さい。
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