平成30年秋から冬 想定外すぎてあなたにお任せブログ

通し番号十九 10月 目標達成したものの想定外の波




ーー皮肉な展開ーー


10/5 秘儀を操る太神よ、嘘のように、心配の原因などなかったかのように10月をドイツで迎えた。

水曜日にはまた絶望が、木曜日にはメール効果か、許可を得て、KKH も好転と見えた。

落とし穴にしかし気づく、自分の悪意が実現すればとんでもないカタストロフがやってくるのだ。

やはりホームレスになれと?



「ここに3年間の滞在許可証がおりました。海外からの家族呼び寄せという範疇です。読んでください、この文章を」

「はい、あなたへのこの滞在許可証は現在の夫との実際的結婚生活が存在する限りのもので、中止や離婚の場合は即刻国外退去となります」

「、、、、」

「わかりましたか」


死亡の場合も退去ですか、と尋ねたかったのですが、それは流石にJBの手前口にできず、わかりましたとわからないのに返事しました。中止や離婚と書きましたが、実際の言葉はJBにすら不可解な変な表現になっていました。



さあ、大変です。

住居と健保とビザ、辛くも運よく揃えたところが不可解な条件付きでした。なんという皮肉、以前のような永久ビザなどとんでもない夢物語でした。


JBの紫色の顔を見ると退去も遠いことではないかもしれないのです。今は、それでも良しとはとても思えません、半年の苦難の意味がゼロになる、わけですが、しかし、考えてみると、そもそもはJBをドイツで看取る、というのがあたしの推進力だったわけですから、その後のことはまあどうでもいいわけなのに、妙に気が滅入りました、大ショックでした、その皮肉のために。


やはり天は、あるいは自分でも心理の暗いカラクリを見透かしていたのでしょうか、あたしは確かにヨーロッパが気に入っています。そこで東洋人としてドイツに生きることがこのご時世、どんなことになりうるかわかってはいても。そしてできれば二つの国を往復して生活したいのでした。


例の若い役人にメールを書こうか、とも思いましたが彼の言葉の効き目も怪しいものでした。現にその後カード形式のビザをもらいに行くと、事務員の女性が言うには、

「3年でしょ、もらったからには何が起ころうと平気よ、次をまた申請するのよ」


ネットであれこれ見た結果、妻という資格がなくなれば自分で仕事をしてそれを理由に申請すれば良い、つまり自力で滞在許可をもらえということらしいのです。

あたしは成人学級で日本語を教えることを考え始めました。家主夫人はそこでも名だたる音楽教師なのです。


鬱屈した気分で買い物に出て、いつものように手押し車山積みになった食料、コーラライト、ペーパーとともにナーエ川の橋で休んでいました。

どうしたらいいのか、どうなるのか、茫然自失を地で行くとはこの状態です。


そこで

 4月から10月、これまでの弥次喜多珍道中を「神」にはこうして縷縷報告しているけれども、あるいは超短く、140字で報告しているけれども、全知全能でない人間にも報告したくなります。

それは知人や親戚ではない、赤の他人、会うこともないであろう架空の人たちへ向けたもの、つまり要は結局つまり、この電脳世界のブログという、庶民にも使用可能な装置とシステムに、恥も外聞もなく乗っかるということでした。


(2018 9月中旬 ブログでの報告;ご無沙汰してました!


前回のアップは2018年3月ごろだったろうか、たっぷり半年以上、

地球の動きとしては、公転の半分を過ぎたと言うわけ、日々一回転しながら。

当たり前のことを例により確認して。


今日発見したこと。

うちには全く日光が差さない。普通ならそんな家は借りない。

しかしあの頃、今年の5月、(死を賭して放浪の旅を始めたものの、4月いっぱいは

ホテル生活ーーJBの1週間の入院生活も含めーー保険なしーーしかも目標であるネットを通しての住まい探しは、車なし廃人連れでうまく行くはずもなく、

ミュンヘン、ニュルンベルク、ドレスデンを経て、バートミュンスターと言う岩山と森と川とナイチンゲールの保養地にたどり着いて)

ホテルクローネのテラスからその眺めに接したとき、驚きに打たれたものだ。

こんな場所がドイツにあろうとは。


竹林がないだけで、まるで日本のようだ、鶯でも鳴けば一層。

しかし、鳥類界切っての作曲家であるナイチンゲールが、夜昼問わず独自のメロディーを奏で続けた。夜にそれを聞くのは本当にこの世とは思えない。


逗留した翌日、地元のチラシに、

そこの路地の突き当たりに貸家の提供があるとわかった。

JBが珍しく動いた、応募のメールを出した。

家主夫人はソプラニストだと自慢げな情報が入り、それだけでこの話に好感が持てた。

すぐに翌々日の面接が決まった。

何しろ200メートルほど道を下って行くだけである。

JBも車椅子なしで行けるだろう。


ところが、その坂道はそもそもうねった路地である上に、

そこに大きなトラックがハマってしまっていた。

運転手はパニックになって駆け回るが解決は不可能に見えた。

すると下から男がやってきて、何と上手く導いてトラックを脱出させたのである。


この人は誰だったのか、何一つ印象に残っていない。


私たちが通り過ぎ合ったとき、彼が声をかけてきた。

不審に思いながら振り返ると、彼の手には何と私の大事なスマホがぶら下がっていた。

初めてのことだが、スマホを落としてしまっていたのだ。

もし彼が見つけて、声をかけてくれなかったらパニックになっていただろう。


知らずにそこから脱出していたのだ、あのトラックのように。


おまけに、家主は最近80万の損害を背負っていた。

私たちは一年分の計80万円を支払う用意があった。

彼らも大卒者であることすら後押ししてくれる。


私たちがすぐにも生き絶えそうな老人であることは厄介を招きかねなかったが、

お互いに好感をも抱いた。


まあ主にそんな成り行きで、他の全ての欠点を物ともせず、

こうして日光の差さない家にいるのである。


それからの話はまたいつか話すとして、

最近の3ヶ月は日本にいて7年住んだ借家を空にして返した。

最小の荷物は船荷となって3ヶ月の旅の途上にある。


台風の辛くも通り過ぎた羽田空港から、全日空で奇跡的に時間通りに離陸した。

ホテルの予約は追加したりキャンセルしたり秒刻みの困難であった。

何しろ台風の気分次第なのであるから。


それでも最も安くて疲れの少ない方法を思いつき、

老人二人、スーツケース2つ、その他諸々とともに予定通りに、

バートミュンスターの空っぽの借家で、

出迎える人もなく鍵を回したのであった。


何を書きたいかがはっきりしてきた。

わかっていたのだがしばし海馬から削除されていたらしい、

あるいは情報が多すぎて正しい引き出しまでたどり着けなかった。


驚いたことに、ナイチンゲールは全く鳴かなかった。夜は静かなままだった。

彼らは渡鳥だったと言うわけだ。

何か大切なものが欠けた。


おまけに、運よく台風を騙して?うまうまと果たした面接(外国人妻の滞在許可タイトルを決める)の結果、台風のことで泣き言を連ねたメールを送っていたせいか、欠点が二つあったにもかかわらず3年の許可を出してもらった。

私はかなり神に愛されている。

全世界愛されているが、私はそれを感じている。


で、何かが欠けたのか? ナイチンゲールの他に?

大あり!!

 

もし旅行ビザであれば3ヶ月は滞在できる。

しかしこれが配偶者呼び寄せビザ(難民に適用されるはずなのだが、難民ではない私にも適応される)であるために、もしJ Bがすぐに死ねば、船荷を抱えて私は即刻追い出されるのである。

そう法律に書いてある、許可証にも書いてあり、それをしっかりと読まされた、

私がそれを理解するようにと。


廃人のJB、彼を死なせてはならない。

死なせたら、私は借金を背負ったまま、帰るに家なく、

ドイツでも日本でもホームレスである。

確かに、こんな極悪人にはこんな非道な結果が似合う。


私をここまで、運よく手際よく、難儀を与えながらも思いもかけぬ智慧で切り抜けさせ、

結局目的である滞在許可までこぎつけたとき、やっと本当の意味がわかったのである。


私はJBの死とともに破滅するのだ。

人を呪わば穴二つ。そうに決まっている。正義は欠けない。


ナーエ川が岩山の絶壁に沿って流れている。枯葉を表面に浮かべて、枯葉ごと滔々と。

橋の上で、手押し車の買い物の荷物を休ませる。

誰かがバカ笑いしている。


ワ、ハ、ハ、ハ、と胴間声だ。おっさんだ。森に響いてくる。

また、ワ、ハ、ハ、ハ、が! 

大トトロでもあるまいに! 笑い飛ばしている!


笑いカワセミが笑うだろー わははワハハと笑うだろー


こんな歌のメロディが飛び出てきた。これだ、とわかった。

今は、笑いカワセミが頼りだ。神はこれを贈ってくださった。)


さて次は

 ツイートによる「神」へのDMとして、形而上学的定義の探究


10/10 在りてある唯一の存在よ、その為され様と来たら!

昨日10月9日新しい暦の日にREIKI という言葉にナディアの店で遭遇する。

日本の鍼灸院で知ってはいたが今回のブラックホールの大回転を示唆するものとして。

ここまでの遥かなる、プラスマイナスの光の波動の実態の如実なる体験をさせられ。


霊気は愛気とも。物理の根源に在るエネルギーを生とも愛とも呼ぼう。

まさに我が意也。

宗教ではないと聞き、これで助かったとばかりググってみれば何と! 

ここが味噌だったのだ、達人に出逢えば神の愛を受け入れる気持ちになれば、

努力も必要なし、スルスルと人間を正しく正すとか!

ある意味また逆転である。斬新すぎる!驚嘆


10/19 結局この人間意識以外は全て神、在りて在るなる霊気ぞ。

これまでの小さなデジタル世界が喪われてしまった時、

失意の中から神の腕にすがり「よし過去は捨て新しい出発だ」と

詩人の心を建て直したその時、奇跡のように夫の例の魔法を通じ、

apple 人たちの力により念願通りの画面に戻った。これでいい!


10/21 澄んだ秋空を無心に愉しみたい、とカラーを青に。

まず霊気の愛のエネルギーのみが、歓びそのものがあった。

歓ばせるべき他も必然的にあった。

愛の悦びを感じるべく生命体に性欲と生殖と繁殖が結果として展開した。

文明と人工物と好奇心冒険探求も拡がった。

生命界は愛の結果生じた。何と逆ではなく


愛の霊気よ、言われ尽くしたことではあるが、この状況を自分としてどう解釈するか、

それに沿っての対処ができるか次第である。

但し、解釈を決めたらお任せする心配しない、

安堵して驚きのプレゼントにもう感謝しておく。

麗しのナイチンゲールが去った森に、

笑い翡翠の驚きの哄笑がこの半ば聾の耳に)


(10/26 ますます感謝!

私家版 神ばなし & CWG & 霊気「自分で癒る」&電子本「多くの人がこの本で変わった」!。

「無きが如く在るもの」の真実を追い続ける進化の旅、

だけどこれに必死になる必要はなく、全き理解は無理として気を楽に、

ただ無尽蔵の愛と智慧を人なりに

出来る限り心底信仰すればいい。



続いて人間への報告

10月下旬 あなたにお任せブログ と銘打っての全くの無駄話


(うちのダンナのJBが、2つほどこだわっていることがあるのですが、その一つがマイクロソフトの創設者嫌いで、マッキントッシュの創設者のシンパ。

その結果、お高いのを承知でアップル製品を買うわけで、家族である私も当然そのおこぼれに預かり、偉そうに見える?、知性ある蛇に齧られた林檎マークで

世の中を、まあ言えば、のし歩いているのです。これのみが自慢みたいに。


で、いわゆるアイフォンのいわゆるアプリのずらり並んでいる最初の画面を見ていると、あれ、これ何だっけ?というのが目につきました。

 Sleep Orbit というものです。

頭の周りに何かがぐるぐる人工衛星のように回っている図。


あ、そうか、とエジソンの発明した電球が閃きました。 

波の寄せる音、風、鐘、森、せせらぎ、鳥、人の囁き、

など微かな自然の音からいくつか選んで、それぞれを自分に適した遠さに配置して

(それが図示できるようになっている)、

全体の調和を好みに仕上げると、ある時間耳元でその世界にうっとりと浸っていることができる、

 そんな仕組みです。

いつ頃までこれを必要として試していたのだっけ。

もうそれを思い出す術はありません。

確かなのは、その時期までベッドに行くのが苦痛なくらいの睡眠問題を抱えていたこと。

その一昔前までは、面白くて難しい雑誌や本をいそいそと抱えて横たわり、

数ページ読み、満足して、まくらを直し、すっと眠れたものです。 

そんな方法で厚い物理の本を次々に読破してしまった自慢話もあります。


これ以外にコンスタンという安定剤も常用していました。よく効く薬で、今もそう言えば使っていますが、どういうわけか、現在の眠りの快調さはコンスタンが最高に効いているとしても、それでは説明つかないほどに安定しているのです。


何故こうなったのか? まさに海外移住に取り掛かった2018年4月からのこと。

年齢は重なるは、最近の精神的疲れと肉体的酷使、いっときも油断できないという心理的重圧、

 スリリングな日常、環境や食事の大変化、にも関わらず眠れる私となったのです。

以前は、確かに座ってばかり、週に二回の太極拳のみという怠惰な日常でした。

もちろん堪え難い心理的な悩みに晒されていました。


取り敢えず、私のこの点での変化はまさに怪人、ないしは

ヒーローにヘンシーン、というほどのものなのです。

そうそう尾籠な話ですが、お通じもヘンシーン、と言う快調さなのです。

なんだ何だ、これは???

この地、バートミュンスター の塩を含んだ空気のせいだろうか。

しかし夏の三ヶ月を日本で過ごしたときも変わりなく快調だったのです。


と言うようなプロローグを置いて、私家版「神ばなし」を綴ろうと思っていました。

それにしては長すぎて冴えないような気がします。

ま、ともかく、私の骨は四〇代の密度であり、

(軟骨は摺りつぶれているものの)七十三歳の割には、

(シワしみ痛みあるものの)なんとなく可愛らしいらしいのです、

人の反応をみると(なぜこの自慢??)。



さて前回書いたように、渡独禁止期間3ヶ月がすぎた10月1日に、

待ち構えていたかのようにドイツに舞い戻ってきて間も無く、

わかっていたことなのに初めて目が点になる程現実を思い知らされた、


それからほぼ3週間がすぎて、ワライカワセミに会いました。

この間の仕事は、あたしのスマホを正式にドイツ版に設定し直すこと。

新しいメルアド二つをテレコムからもらい、アップルIDも新たに。

それに付随する不便、騒動はお決まりのデジタル問題として省略します。

その他に重要なことはハウスドクターが決まったこと。

いよいよドイツ式治療が始まります。)



ーーもう一つの無駄話、葬儀屋騒動と入院成就の話ーー


(11月はじめのあなたにお任せブログ;


やっと家に帰り着いて、洗濯物を洗濯機に放り込んだが、と書いて今気づいた、

すっかり忘れてそのままにしている。呆れた。

明日は洗って乾かした浴衣をダンナに持っていかねばならないのに。

ま、乾燥機付きの家なので騒ぐほどのことじゃ無いけどネ。


ーーと、この間に適当に洗剤と香りの強すぎる柔軟剤を放り込んで、

適当に設定してドラム缶を回すーー


今日も笑えるほど失敗をやらかした。呆れた。


一昨日以来、乗ろうとするバスがすごく不規則で、一体何分にくる予定だったのかっと

腹立たしい目にあっていた。


朝、ナディアのカフェから出た時のバス、Diakonie(ディアコニー)病院から夕暮れに帰る時のバス、信じられないほど時間きっかりのバス、あるいは思いもかけず接続満点の次のバス、逆に止まるかと思ったらサッサと行ってしまったバス、など、

あるいは話が飛ぶけど、日本の「冠婚葬祭パ*コ」に7時間の時間差を見計らって電話しても、

 「16時までにおかけください」などとけしからん声に言われたり、

いかにドイツの夏時間が終わりになったとはいえ、これでは世界が狂っているでは無いかと頭をひねることが続いた。


何で気づいたのだろう。そうだ、パソコンの時刻を見た時だ。


一昨日から冠婚葬祭のパ*コの4番を押して(機械の声に従い)、

お客様相談室に電話しても向こうの声は聞こえるのに、こちらの声が届いていないらしく、

 すぐに最初の音声案内に切り替わってしまう。

それを何度もするうちに例の16時までに云々、が起こったのだ。私は怒った、

まだ午後4時じゃ無いでしょ!!日本だって!と腕時計を見る。


敗北感と、大げさすぎるけれどもいわゆる絶望感が私を無口にしていた。

母のかけていた葬儀契約を使わなかったので解約金を私のゆうちょの口座に振り込んでくれると、ちゃんと何度もやりとりし、原(はら)戸籍を取り寄せたりして

10月11日の振り込みの約束をこの耳で聞いたのだった。

なのに振り込まれていなかった。

(余談になるが、パ*コはーーこの件は引越しの最中に書類が見つかったもので、母の死後の相続時には忘れ果てていたのであるーー弟の死亡届を嫁さんに頼んでFAXしてもらうほど結構銀行なみのことを要求したのに、

15万円の解約金は私一人で着服しても関係ない、というような意見であった。

まあ、今更そんなわけにもいかず問題が片付いた今日、

折半で彼女、ないしは姪と甥に送金したのであるが)


話の要点になかなかたどり着けません。

続きです。

今朝起きると、「もう金曜日だ、週末になお悶々としたくない」と勇気を出して、

うちの役立たずの電話機を叱る。


パ*コの4番ではやはりこちらの声が届かず、すぐに最初の声に戻るので、

戻ったところで「結婚式のお申し込みは1番へ」というのに乗じて、1を押した。

しかも今度は支店ではなく本社である。


一転、爽やかな若い男声が丁寧に、この意図的間違い電話に対応してくれた。

普通に話ができる。

事情を話してゆうちょ口座を告げ、私が店番号を言わなかったのかもしれないと下手(したで)に言った。本当は騙されたと思って文句をいう場面だったのだ。

(あとで三*銀行のサイトでわかるのだが、店番号というのは口座の記号からの読み替えの要領が決まっているらしい、世の中私の知らないこと、あるいは興味が足りなくて知識不足な場合が多すぎる)


また論点から遠ざかった。

「さすが大手のパ*コ」と私の評価が変わったくらい態度が違い

(お客様相談室の壊れた電話とは)

あれあれといううちに、発覚したことは!!! 


私の申請用紙には、ゆうちょではなく三*銀行の口座が指定してあったと。

それもそのはずだそこには母の遺した虎の子のお金が貯めてあるのだから。

そんな自分の考えをとんと忘却していた私であった。


平謝り、すでに入金済み。爽やかに挨拶してもらう。

その時も何故に日本ではもう16時なのか、

こちらでは7時間遅いとはいえ、まだ15分は余裕があるのに、と

不審なままであった。


しばらく放心していたが、そうだ、いつも躊躇してしまうネットバンキングで

義妹にいっそ今、送金してしまおうとパソコンを開いたのであった。

病院に行く時間を考えようと腕時計を見たばかりであった。

まだ9時には数分ある、と認識した。

しかし、パソコンでは9時12分である。

うそ、と二度見して、ハッと思い当たる。


私の自慢の曜日と日付つき腕時計は、ソーラー電池なのだが季節柄、長袖で覆われて、そのまま夜も腕につけたまま眠るここでの日々のうち、一度止まってしまったことがあった。

そうか、と思って意識的に光に当てて訂正したのちも、

世の中の時刻とその後比べるチャンスもなかったし、

そもそもあまり必要性がなかった。

自分の時間の中で暮らしていたのである。


それで、バスの不審な振る舞いがわかった。私のエラーだったのだ。

(バスといえば、エラーといえば、今日はラッキーなエラーがあった。

病院に行くのにバスを乗り換えるたびに(3、3ユーロと1、9ユーロ)(130をかけると円になる、おおよそ)

 運転手から券を買う(大都市ではそんなことはない、発券機がある)のが面倒。


ドイツの硬貨は古臭い。美しい1ユーロ、2ユーロ(ドイツ語の発音ではオイロ)は別として50、20、10、5、2、1セント(発音はツェント)硬貨では

金額が片面にしか浮き彫りにしてない上に、

一桁の小銭は次第に小型にはなるものの、色も煤けた赤茶色で同じなので、

支払いの際に私は全部を支払い台にばらまいてしまう。

そんな時に白髪が役立つのだが。

運転手に任せるとはしても、そのことに対する心理的なエネルギーが足りなくて憂鬱だ。


そこで今朝は思い切って、バートクロイツナハ駅までの1週間券は買えないだろうかと尋ねてみた。値段を聞いてしまったと思ったが後の祭り、もうその手続きが始まっている。

22、8ユーロ(1週間、日に一度乗るとして30セントほど安いだけだ)。


待てよ、いつか一日券を買った時、これで何往復でもできるよと言われたっけ? 

であるならこのバカ高い週間券も往復という解釈もありうるかとチラと考えたが、

そもそも買った時点での私にそんな思惑はなかったのである。

何しろ、バスが早く来てしまっていたので

(腕時計を正したにもかかわらず、それには関係なく)

全速力で走り込んだばかりだったのだ。


今日は、時間的にうまく辻褄が合って、まだ明るいうちに病室を出た。

同室のパウルさん(名前、多分違う)たちにまたあした、と別れた。

パウルさんは85歳くらいで、15年前の事故で片足がない、おきまりの糖尿病に、心臓と腎臓も悪く尿カテテーテルが痛くて、息は苦しくて見ていても辛い。

そして風船のようにお腹が膨らんでいる。

昨日から家に帰ると主張していたが、同年齢の奥さんと医者が反対して押し切られてしまっていた。ダンナが妙にタレントさんみたいな軽妙さを発揮して、

「将軍には敵わないよねー」と笑わせようとする。

奥さんが私に目配せをして、男って頑固で厄介な患者よねーという意味を方言でいう。

私もこの時とばかりええ、よっく私もわかりますっと応じた。


パウルさん宅には子孫が多いせいだろうか、ヘルパーを頼んでいないという。これはうちのダンナに勝るようなわがままの例である。と言っても、ヘルパー云々の話とは縁遠い身分なのだが、ヘルパーも頼まないなんてわがままを言われたら本当に困る。

こっちも永遠に搾取される体ではいられない。


バスの話だった。

病院の帰り、うまくまだほの明るいうちにバス停に佇み(午後4時半)、あたりの木々が枝だけになって空に模様を描いているのを見回しながら、自分たちが同じ一体の存在であることを何の努力もなく、すんなりと感じていた。そこへバスがおおよそ定刻に来た。


駅までは普通に支払い、乗り換え、もう201番のバスが待っている。

前々回、バスが並んでいる後ろに201番が来てるなと思って、目の前に来るのを待っていたら何ともう止まらずに信号をさーっと通って行った。そんなことを経験しているので、大急ぎで走って飛び込み、ポケットにあった1週間券を運転手の目の前にかざした。

運転手はちょっと目を凝らしてみてから、オッケーと言った。

?? ホント? 帰りもいいなんて間違いじゃない? 

もともと私は行きだけのことを考えていたのだし。


そう言えば、ニュルンベルクだったか、駅の券売機で週末券に挑戦してみたら、すったもんだの挙句、名前を打ち込めと命令がきた。

まさかと思いながら日本名をローマ字で打ち込むと、何と名前付きの乗車券が出て来た。

もちろん指定の区域では何でもOKである。

最初だけパチンと券にハンコを押す機械に通す。

とりあえず、今日のバスに関しては私はエラーをしたのか、しなかったのか?


ここまでの話の端々で、あ、そうなの、というヒントを出して置いたのだけれど、

ダンナは私の思惑通りに無事に入院までこぎつけた。

11月最初の火曜日のことである。


渡独移住の条件は、住民票と滞在許可と健康保険を手に入れることであり、

それが叶った今は、本当の目的であるダンナの生死のコントロールが課題として現れた。

つまりはドイツ式の治療の中に組み込まれ、介護を得られることである。


まずはハウスドクター(一般医)を見つけること。

この村には二人いることがわかった。

坂道を登る必要のない医者に、日本からの英語の紹介状を持参していくと、開口一番、

英語を読む時間が惜しいのでさっさと専門医を探してください、と書類を渡した。

この送付状がなければ動きが取れないのだ。そんな医療の仕組み。


どこにどんな専門医がいるか、皆目分からない。

大家夫人が自分のハウスドクターであるドクタートレス(女医)を教えてくれた。


予約、というか来てもいいという電話だったので出かけると、

待合室満杯の老人だらけ。

順番がきたところ、これで受付は打ち止めだと事務員が言う。まだ11時ごろだった。

確かに。さばきようもない。


翌日、また出かけた。まだ薄暗いうちに起きて、開け染める頃タクシーで出かける。

今度はやっと出会えた。

ドクタートレスは生粋のドイツ人ではないようだった。

意図があってそう書くわけではない。

次第にわかってきたのだが、医者には外国人が多い。


熱心に接してくれ、とりわけニュルンベルクからのドイツ語の診断書には喜んだ。

日本の医者は苦心して英語で書いたのだろうに、あまり注目してもらっていない。


当然のことながら、彼女なりの診断をするために採血が行われ、翌週の火曜日が予約された。ところが金曜日になって予約を早めると電話がきた。月曜日に行く。


その頃はダンナの調子がとりわけ悪くて、眠ってばかりいた。夜型の人が無理に薬で眠って朝早くから出かけるので、診察の時も彼女を驚かせてしまったほど目がトロンとしていた。

肝臓が悪いせいだろう、原因は簡単には分からないから来週にも入院としましょうと言う。これこそ待ちわびていた言葉だ。ダンナは嫌がっている、死んでも入院したくない派だ。


この後のことを、ドレスデンの日本人の友人に書いたメールを引用してみよう。


**1週間後の火曜日にハウスドクター(若手の女医)へ行くと、

JBがわりとしゃんとしていたので(前回は目が開かないほど眠りこけてた)、

「悪いながら容体が落ち着いているので、入院させる理由をどうしよう」と彼女は困っているのす。


それで何と無く心臓、肝臓、脳神経、糖尿の専門医への送付状を

準備したりリストを出したりするうちに、やっと先週の気持ちを思い出したらしく、

「個々の医者にかかって居てはダメだ」

ともっともな結論に立ち戻り、これぞ入院が必要な例である

「今からここへ行きなさい」と決断。


やっと道筋ができると、ほっとしました。

医院から出てすぐ彼の冬のコートがないので買って、朝から何も食べていないので、

彼は一度家に帰ってから、と主張していたのだけど、

念のために街中で病院に電話したところ、

三箇所も電話を回されてその度にこう言う事情でと説明した(私が!)挙句、

ベッドがないと断られた。そして「Diakonie病院の救急に行くように」と。

それがカソリック系の病院で、今度はプロテスタントの方へ。


ところが電話番号がわからない、ハウスドクターの受付へ電話して番号を訊いたのだけど、市外番号抜きで教えてくれたので、またそれでジタバタののち、

今度は彼がDiakonieへ電話したらすぐ来なさいとのこと。

タクシーから降り、午前の受付ギリギリで車椅子を押して入り込みました。


この地方独特ののんびりさが救急にも漂うのが可笑しかったけど、

痛くも苦しもないと車椅子でキョロンとしているJBが、

何か喋るとノロノロすぎてみんなが私を見る、

おまけにおかしなことに彼が挑発のせいで女の外国人に間違われ、

私は彼(彼女?)の娘だと思われる、

ヘンテコな世界に巻き込まれたようなこの数カ月の定番がまた起こり、これには二人で失笑。

と言う場合じゃなく! 

また必死に病歴や病状、事情を説明して

要するに総合病院でなくては治療方針が立たないことをわかってもらい、

受け入れてもらいました。


こうして入院できたその翌日の今日、水曜日、JBが昼食を喜んで食べているところに

私が到着しました。これこそ私の思惑の一つ。

日本で入院したらずーっと食事の愚痴を言われる、

ドイツならまずくても(かなり美味しそう)文句を聞かなくてすむ。

やがて超音波などの検査の結果を医師が伝えに来たのだけど、

Ihr Herz ist (あなたの心臓は)

と言ったきり黙っている。

JB がニヤニヤして他人事のように、慣れているので„aus“ (終わり)と付け足した。

私も慣れているので笑って、みんなも笑ってしまった。

同室の八十五歳の男性も(虫の息なのに)その奥さんも。


またもや「すぐ死にますよ」が始まり、ペースメーカーを入れる方針らしい。

JBが「でもそれには5%の危険性があるそうじゃないですか」とばかなことを言う。

医師が慌てて、すぐ死ぬより確率的にはいいでしょう、

みたいな言うべからざることを言ってしまう。ーー引用終わり


ちなみにダンナの心臓は心筋梗塞以来30年近く心不全で

ポンプ能力は普通の20%、なので血液も普通の25%まで薄めてある。

間も無く糖尿病、脳梗塞、ここ数年肝炎、など重なり両脚に象の脚ほどの腫れ。

入院する先々で、すぐに死にますよと言われ続けているが、

妙に生命力ありで鬱にもならない、これには功罪あり。


ところで、最後に。

同室のパウル夫妻は何とボース村在住である。

バートミュンスターから40キロくらい離れたその村には、昔ダンナの親が家を建てて、

週末などよく過ごしていた。

老後の家と考えてのことだったが、そうはならず、今は人手に渡っている。

私も昔、そこでドイツを体験し、大いに感銘を受けたしその後も、

そこに住んでいるはとこのヴィータがダンナの唯一の良き話し相手なので

常に連絡を取り合っている。

ただ、彼女自身、その連れ合い、彼女の母親、すべて病身となり

こちらも動けないので同じドイツにいながら滅多に会えなくなってしまった。


ボース村には、神聖ローマ帝国の跡があり、その頃以来村民は500人ほどのままである。今は店もなく、バスが日に一度やってくるのみだそうだ。


ヴィータは祖先を主にネットの資料をたどって探す、という趣味の研究があり、

すでに中世の100年戦争あたりまでわかっているらしい。

それによるとダンナとヴィータは二重三重にいとこ関係であるそうだ。

具体的には知らない。


ここ数週間の出来事をまとめてみたけれど、まだまだ心に残ったことはたくさんある。

帰りが遅くなってしまい、暗い山の中の道をバスが疾走する時、これからどんどん日が短くなることが恐ろしい。冬至すぎると毎年ホッとしているのに、それまでがまだまだだ。


昨日、もみじの木を見つけた。やはり赤い。この赤はこちらにはない。

小さいのにこんなに深くて細かい切れ込みの葉も無い。不思議な気がする。

ちょっとご飯を食べたくなったかな。梅干しと、とか。


そうそう、私の話し相手をしてくれるいわゆる神様は今回登場しそこなったのだが、

大切なことを一つ気付かされた。事実として。


このDiakonieという組織は、人間のキリスト教的助け合いの組織らしく、

ボランティアも多く、弱者救済をモットーとしているらしく、まさに弱者に溢れている。

異形とも見える人も見かける。その時、習慣的に目を背けたいような気分が湧き上がる。


誰が言ったのかしら? 何故あの人でこの私でなかったのか? 私でもあり得たのに。

私が負ったかもしれない苦しみをあの人が肩代わりしてくださっているのではないか?


そう考えるのを馬鹿らしいとも自虐的とも思う向きもあるだろう。

だけれども、人は心を開いたり、条件なく愛したり、助けたりしたときに最も幸せを感じるものだ。自分を愛せるから。

つまりこれは結局は自分に関する効率の問題なのだろう。 


そこら辺に屯ろする様々に不自由な人たちをそんな風に思えた時、私の目に涙が溢れた。

悲しい、可哀想でもなく、感謝と感動の涙、である。こう思うことを私は選んだのだ。

そして、JBのことをも私でありえたかもしれない不自由を自分に負った人として拝んでいきたいと、思ってはいる私である。

それはかなり難しいが。

そんな気持ちを伝えても、たわごと!とバカにされるだけだろうし。


見殺しにはできないとすれば、何とか自分が正常でいられる効率的な方法を求めるほかない。ま、そのうち正常を逸するかも知れないが。


あ~~ 洗濯が終わり乾燥機に入れるのを忘れていた)



(続きのブログ;翌日のお詫び追加


いきなりやかましく音がする。

スマホかららしい。ソファからヨロヨロ起き上がり取りに行き、開けると

何と息子と孫の顔がニコニコしている。


ハッと気づいて「ゆうくんお誕生日おめでとう」ということができてよかった。

「眠ってたんだ、今何時。こちら17時だけど」と息子が。


「待って。。。メガネ、腕時計あった。えっと9時だ、そんなに寝てたんだ」(いつも7時には目覚める)


「ということは17引く9は8時間差??」

やはり!と血の気が引く思いだ。

何ということ、

昨日ブログに投稿してからもあれでよかったかが心配になったが、

あれこれ計算してもこの手の計算がまるでできない。

時には納得するが、またわからなくなる。

世の中の何を手掛かりにすればいいのか。


確か先月末、27日だかに、夜中の3時を2時にしろと言われたのだった。

誰が警告したっけ、テレビ?、スマホ?

それで夏時間(7時間差)が伸びて8時間差になったのか。。。

冬時間がもともとの時刻らしい。


とりあえずこの旨、訂正させていただきます。7を8に変えて読んでください。


ところで例のパウル夫妻には、子孫の一人にゆうくんと同じ誕生日の子がいる。

やはり縁かなあ。)



10/30 愛なる太神へ、昨日ビザカードをもらい、

事務員から心強い解釈を聞いて大安心、

掴んで放すの良き影響と喜ぶ。が意外にもやはりやや心配心残っている。

同日ハウスドクターから来週には夫を入院させる由、これは吉であろう。

同時に自由か心細いかどちらを選ぶという問題。

キョキョという鳥を聞く橋。)


(11/3 愛なる太神へ、理と情を隔てないその存在方式、

宇宙AとA’  のルールブックとも、大枠の 靈気 とも。

本質を信仰してしまったイエスは十字架上で「神」を赦したのであろうとふと思われた。

人がお互いに赦すべきであるように。

短歌の仲間の人々の思いが護ってくれてると泣けた。助けが要るのは誰?)


(11/11 聖霊は愛ゆえにこの上なき美をもふんだんに用意されたその叡智よ、

この地球に生物のそれぞれに、人の声にも。

久々に男女の重唱をうっとりと聴いた。

科学に芸術、子のそれぞれが価値ある為事を得られ、孫すらも特別な萌芽を見せている。

ただ有難い。廃人もなおますますその為事に勤しむらしい。成程


_



通し番号二十 11月 入院は想定内だったが想定以上のことが



ーーJBの入院生活ーー


(11月中旬のあなたにお任せブログ;


30年前、平成元年、1月初、まだ昭和天皇辛くも在位だったときにドイツから帰国した。

 7年ぶりの日本。

その頃ベルリンの壁が、偶然に、とも言えるような崩壊の一歩を果たした。

美空ひばりがその頃亡くなったような気もするけれど、これは信用ならない。


あれからざっと30年が夢のように、悪夢のように流れたのだ。悪夢とは言い過ぎで、

日本が見舞われたのはそれでも平和と言う大前提の中のこと、と言うべきか。

個人的な「悪夢のような」体験は、コップの中の水が

多いか少ないかを議論するときに似ているのだろう。


おっと、こんな大上段に振りかぶったのは、あまりに些細なことを書こうとしているから、らしい。

私なりに可笑しいこの30年のドイツ社会の変化は、挨拶の仕方に見られるのであまりに明らかである。

人と人がすれ違うとき、できるだけハローと言おうとする。言いたくない稀な人は目を合わせない。ハローですって? 何それ。英語なのにハローとドイツ語読み(ア)で発音する。それともキングズイングリッシュなのか。

昔はきちんと「良き朝を、良き日を(願う)云々」と言うか、

バイエルン州だと「神に挨ん」(和約不可能)とか重々しく言い交わすものだった。

絶対にハローなどとは言わなかった。


それが今は、店はもちろん、役所でも病院でもそれでいい。

そしてカフェとかで一緒になった客同士が、知人でもないのにハローの後は、チュスと言いあって別れる。しかも「ュ」の発音は口を尖らすのではなく、「イ」が混ざっていてちょっと可愛い発音になる。女性は特にその音を長引かすのでより愛想良い感じにしていると思う。

この話のついでなのだが、数年前にドイツに行ったとき、どう言うわけか、こんにちはと言うべきときに、このサヨナラ的チュスが私の口から勝手に出てきて困ったことがある。

人に出会うや、サヨナラ、と言う変な人になってしまった。


こののんびりした地域のせいか(所でまたついでの話だが、ライン河の左に沿ってこの地域「ラインランド・プファルツ州」があるらしい。バスの一番前の座席で、目の前の壁に貼ってあったローカルバス路線図を見てわかった。そしてこの路線図というのが、六角形の蜂の巣状に区分けされていて、例えば私の乗る区域は「蜂の巣400」と名付けられている。可笑しい。で、たくさんの蜂の巣が集まった右端に沿ってライン河が描かれていたのである)

 

こののんびりした地域のせいかどうか、チャオも1、2回繰り返してよく使われる。

これも親しみがある。昔は親しい人はチュス、で別れたがそうでない人、年上の人にはながながしく「またお会いすることを記して」と言ったものだ。

向こうがチュス、と言ったのに対し、私がついこれを使うとなんだか、

「え?」みたいな空気が流れる。


さて、お任せブログと名打ってあるので、例のごとく前回から今日までに起こったことを、

お任せの結果として受け止めることとしよう。


うちの旦那(無神論者)がキリスト教プロテスタント系の病院に先週火曜日に収容されてから、今週月曜日までの間に、信じられないほど体調改善を為して、せっせと院内の徘徊散歩を自らするようになった。主に利尿剤点滴治療である。心臓の負担を軽くしてあげたということ。そう説明された。


で、そろそろ心臓カテーテルをするために月曜日の夜に黒人の医師がやってきたそうだ。

どこからカテーテルを注入するかを診た。

上腕は、合気道その他で鍛えてあって、指に血管が触れないほど硬いので無理。

では、脚の付け根は、というと

何と、股のあたり全域に湿疹ができている。それをまず直さないとダメだということに! 

 もう長いことそれがあることは私も知っていたが、うっかり?忘れていた、

あるいは軽く考えていた。

同室のカウル(やはりパではなかった、子音が区別できない)さんにもそんなことはあったが数日の塗り薬で治ったという。しかし旦那の場合ずっと放ってあったので多分長くかかるだろう。


複雑な気持ちでいると、次の朝旦那から電話がきた。声が弱々しい。

熱が出たという。夜はよく眠れていたのに前夜は眠れなかったと。それで何度?

40度近く。

ドヒャ~あんなに元気いっぱいだったのに!!

(すぐに思い浮かんだ。舅が56歳の若さで骨髄ガンで亡くなったとき、高熱が出た。

医者も全く予想していないようにあっという間だったこと)


何ですか、これは?と(象徴的に)天を見上げた。どんな塩梅になっているのですか?

どんなにしたいと思っている?と逆に訊かれる。

この世的にはすぐに死んでもらっては困ります。

でも私の都合は抜きにして、彼がいわゆる安らかに生を全うしてその後も楽しく過ごしてほしいというのが私の意図です。この文章はとても重いものです、お分かりでしょうが。

お任せと言っている割には、結構私の意思が重視される。

つまり私が試される、その意味では。

ではなく、私が願いを決めたらその後はお任せということなのだろう。


はあ~

油断も隙もあったものじゃない。

人間としても旦那は大岩のような性格で、ましてや体まで大岩のように動かない、

それを保護して担いでいく身はたまったものじゃない。

(カウル氏は片足が無い、これは上手だな)


こうして火曜日は始まり、水曜日の今日も熱を下げてもやがて震えが起こり、また熱を繰り返す。

血液検査の結果は、旦那の電話で今日の夕方わかった。

流行りの、話題の院内感染である。多分注射針を刺したままにしてある場所からの感染。

血液中に細菌が見つかり、抗生物質治療が今夜から始まった。


ということで今日のお任せ、終わり。

これはお任せの証拠書類とでもいうものかな。


読んでいただき、どうもありがとうございました。

日本(ドイツも)が平和であること感謝いたします。地球全体も間も無く平和に、きっと!


*人の請ふる美しき暮らし限りなし茶室のごとく宮殿のごと


*日の差さぬ窓より突如躍り込む 向かひに西日反射してのち

拙作)





ーーサイボーグへの道ーー


(12月に入り、11月下旬からを振り返る あなたにお任せブログ 夫の入院話2回目ーー


うちのダンナのあの院内感染診断から4週間経った師走12日水曜日、

もちろんこちらでは「師も走る」とは微塵も考えずに、

人類を救ってもらったキリスト誕生を祝う気持ち一色である。


12月の毎週末は全国で聖夜の市が立つ。それを4回繰り返すとほぼ聖夜となる。

家庭ではモミの木などに4本のろうそくを立て、

4週にわたり順番に火を灯してゆく。


子供のためにはイヴカレンダーなるもの、日々一つずつめくって行くとチョコレートが入っているカレンダーもあり、サンタクロース(聖ニコラウス)関係はもちろん、

国民の喜びを高めて行く行事が連なっている。


私たちの船荷は無事に11月末に到着し、1階と2階に配置してある、ダンボールが。

まだほとんど開けていない。今日初めて冬物を探し出したくらいだ。


相変わらずスーツケースから必要な衣類を取り出すのだが、その後整理ダンスに次第に移っていき、夏物がスースケースに貯められて行く、という動きである。


ダンナは今も病院滞在中なので、日中はほとんど見舞いに出ている。

夜は空気ベッドしかない。

よくこんな必要最小限の生活を平気でやっているなと時々、自分でおかしくなる。

水回り、洗濯乾燥、暖房が整っているからこそだが、もう一つ、重要な食べ物関係。


ここに一つの秘密?がある。

ダンナの食事は今や問題ない、和食でないのに病院食には徐々に文句が出てきていても、

私はそれには耳を貸さず、冷たい視線を送るのみ。


近所にウクライナ美人のシェフがやっているレストランがある。

実に美しい顔をしている、体はお肉で処置無しだが。

もう書いたかもしれないが、難民なのだ。


その彼女が私たちを常連客にしようとして、愛想を振りまき、サービスしてくれるので、

よく通ううちにこんな提案をしてきた。

1日分、何を飲み食いしても、あるいは持って帰っても一人分全部で10ユーロにするのでそれで取り決めをしようと。1300円くらいで朝昼晩を食べさせてくれる。味はダンナにも気に入っている。


金銭的に困っているらしいので、まあいいかとそれに乗ったのは私のみである、

だってまさにその日からダンナは入院して

私はまさにそのシステムで楽をしているのである。


買い物料理、片づけゴミ捨てしなくて良い。私はそもそも苦手なので。

こちらのゴミ分類法の考え方も理解できない。

1プラスチックその他

2再生紙(綺麗な紙)

3植物、サラダなど

4その他ごみ(汚い紙、煮炊きしたもの)を

4つのでかい容器にわけて入れる。


でも、プラスチック容器入りのヨーグルトの残りなどは一緒にできず、

おまけにだからと言って、料理の余り物はプラスチックに入れて捨てたら怒られる。

これは新聞紙などにくるむらしい。

でも隣のシリア人家族はめちゃくちゃに入れるので、私は混乱する。


さて、暮らしの話はこれくらいにして、

私たちのお任せ4週間はどうなっているかというと、

今日(12月12日)の結論:サイボーグ出来上がり。


まず話を後ろに辿ろう、昨日のこと。

昨日11日はやっとダンナにペースメーカーの設置手術が行われた。


それを去ること6日前11月30日にダンナにやっとステント手術が4時間行われた。

これがサイボーグへの第一歩であった。


それを去ること1週間前、皮膚病も治り

11月22日に心臓カテーテル検査がやっと行われた。

この3件の検査・手術のいずれの時も、何も知らされず何の支持もされず、やっと人を捕まえて尋ねても返事は「下です」くらいで延々と待たされた。あとで本人から聞くしかない。



*11月22日 心臓カテーテル検査;この最初の検査は10時から始まり、

医者みんながこんな心臓は初めて見たと仰天し、

終わったところで今後について外科内科の心臓医が検討して結論でず、

で13時までかかった。それから6時間さらに身動き禁止。


これがどんなに大変かは経験しないとわからないかもしれない。

腰にヘルニアのあるダンナは不安的中、痛み止めなしでは耐えられない。

私も帰るに帰れなくて動けるようになるまで居残った。


その翌日にはもう一度心臓のエコー検査が行われたそうだ。

より透視力のある?つまりより危険な放射性液体を体に入れて、

発見したのは奇妙な袋状のものであったとか、

悪い方の心臓の下にくっついている。


医者の驚きようをみると、当初の計画のペースメーカーなど

とても怖すぎるだろうと思われたし、実際立ち消えになった感があった。

2010年、日本の病院での判断では、壊れた2本の冠動脈の代わりに

細い血管がたくさんできているのだがペースメーカーを入れるには

とても無理があるということであった。



*無駄に時が過ぎるかと思いきや、その数日前からはもう私の方に摂理が動き始めていた。

見舞いを休んで乗合バスを終点まで乗るという冒険旅行を敢行したところ、

あまりの寒さに震え上がったり、あるいは見舞いを休んで一日中座っていた。

その結果だろうか、私にかなり尾篭な病気話が起こったのである。

アナルのそばにおできができた。

恐ろしくなった。

治る様子がないところへ、ちょうどハウスドクターの予約日が来たので、患部を見てもらい紹介状を書いてもらった。

もらった薬も効く様子がなく痛いので、その週の金曜日に

ふらふらとDiakonie 病院の救急外科へ入って行った。


紹介状のおかげか、はた、受付の女性の知り合いにモンゴル人がいて、

私の人種に興味を持ったせいか、たちまち切開されてキーキー言わされた。


ただ月曜日に外科主治医に診てもらう様、若い医者が書付をくれたが、

そんな予約が取れるはずもなく木曜日になった。


その後も他の外科に行ったりしたがらちがあかず、「ふと思いついて」

ーここが肝心だーこの解決しない不安から私は

「歩き瞑想」という手段にすがるほかなかった、もちろん必死で実行。

「この身は燦然たる金剛身なり」と歩いて唱えた。静かな時間が楽しい。


同じく「ふと思いついて」

今まで大した理由からではなく、単にもう諦めて敬遠していた新しい薬局に

行ったところ、すると果たして、そこで思いがけなく天使の様な

優しくぴったりの薬剤師がいて、有効なクリームを売ってくれた、

他の薬局では全く話にならなかったのであったが。


*この幸運の前には、また波が立ち現れた。プラスマイナスのコンビの波が二つも。

またもや尾篭な話である。

大腸ガンの検体を提出せよとハウスドクターがいうので、

11時までの制限時間に間に合うと思って、バスで出かけた。


するととても可愛らしい痴呆の老女が乗ってきた。

いつかも私を見て、嬉しそうに手を振り天使だわ~と身にあまる事を言ってくれたその人、またもやすぐに見つかってしまい、ニコニコして手を降ってくる。

バスを降りてもまだ振っている。あ~あ、参ったなあ、天使だなんて言われて、

とまんざらでもない気持ちで寒い中を医院に向かって歩いていた。

おや。この身の軽さは? 

バッグがない。見舞い用の布のバッグを持っていない。

さてはバスの中におき忘れたのだ。

立ちすくんでしまった。どうしたらいい。

日本なら見当がつく。わあ~~


とりあえず、乗ったバス停の椅子に忘れたかもしれないとも思い、

携帯と財布はポシェットに入っているのでタクシーに電話、こればかりは慣れている。


見覚えのある様なトルコ人らしい運転手がきた。

事情を話したところすぐに本社に電話、バス会社の番号を調べさせた。

そこはマインツという離れた都市である。でもそこに電話してくれる。

するとバスの番号や時間を尋ねられた後で、あ、それだけは市バスですという。

それならと、運ちゃんはスマホに口頭で命令して難なく番号をゲット、

電話して無線を飛ばしてくれる様交渉してくれる、

「こうこうで困っているご婦人がいるのだがどうしたら助けてあげられる?」


そうこうしているうちに、乗ったバス停に着く、ひょっとしてそこに忘れたかとも思ったが、そこにもない、そうこうしているうちに運ちゃんは相手と話をつけて、自分が連絡次第では取りに行くのでそしたらあなたに電話しよう、という。

それでスマホで電話番号を見せて(そらで言えないので)私は家に帰り、念のために家も見た。


間も無くバッグが手に入ったのはこの天使のおかげであった。

私ではなく彼が天使だったのだ。

「人間は助け合わなくちゃ、困っている人は特に」

というのが彼の信条で、タクシーの運転手歴30年以上、満足して働いているそうだ。

当然のことながら私としてはたっぷりチップを弾んだのであった。



*で、この日、私は不整脈の薬を失念してしまっていた。感謝のあまり。

翌日は、前日大腸ガンの検体提出はやはり遅れてしまい、

早々に再挑戦するために、バタバタ薬も飲まずに動いたら、

家を出る間も無くドキドキが始まった。


胃が空っぽなので本薬も頓服も飲まずにいたら一向に止まない、始めてのことだ。

その状態が45分続いて、やっと昨日から飲んでいないのに気づき、

急ぎ飲んだ頓服で収まった頃、順番がきて医者に呼ばれた。

色々みてもらったがもちろん何も見つからない。


しかし、近くの心臓専門医へ紹介状をくれた。紹介状といっても自分で探すわけで、

この地域では何ヶ月も予約が先になるのが普通なのはアレコレ電話してみてわかった。

一軒は来年9月だと言う。もう一軒はまともに電話もかけられない様なところだったが、

たまたまハウスドクターの近くだったので、ゆっくり歩いて、

時間ギリギリに行ってみると、

隠してあるかと思われる様なところに変なドアがあり、

入って見ると医者が数人いる様な医院であった。


こうこうでと紹介状を見せると12月18日の予約が取れた。

信じられないほどの成果である。


ここにも、マイナスの波からプラスの波へと連れて行かれて有難い。

ここへはそのうちダンナもお世話になれるだろう。



*そう言えば、この尾篭な苦しみを抱えながら、もう一つの流れが進行していた。

ソプラノ歌手の大家さんにチラと日本語を教えたことがあると言ったことがあった。

その頃はせっかくもらった滞在許可は、ダンナが生きている間だけ有効であって

その後は仕事でもしてその手のビザを取らねばならないらしい

という考えなど毛頭なく、ただ話したのであった。

それが今になって符合が合い、成人学級の校長が私を面接すると言ってくれたとの知らせを大家夫人から受け取った。


苦労して写真を撮り、ドイツ語の履歴書をダンナに協力させて書き上げたが、

なんとプリンタが壊れてしまった。

ドイツの高電圧変圧用の器具を、慌ててオンしたのでショートして死んでしまった。

海を渡って持ってきたのに。


しかし、運よく気軽な校長さんで、メールで送った履歴書を自分で印刷してくれ、本人がいるので写真要らず、もう3月から授業することに決まってしまった。

プリンタがマイナス事項であったか~ 大分ショックを受けたが、

それほど深刻には考えなかった。そんなことくらい。)



神への短いDM:


(11/22 ご存知でしょうが、神霊の摂理により。

この身に不都合な症状が現れたこの数日、つい思い悩んでしまうものですが、

苦し紛れに思い出させてもらいました。

金剛身なり、何があろうと衰えようとどう見えようと、この身は燦然と輝く金剛身なり。

病は影、ではあるとしてもあとはお任せ、これにぞ尽きる。)


(11/24 わが思惑をいつも遥かに超える摂理へ、

隠された反物質2個こそ聖霊であろうかと、

光と磁力の波動が交互に+ーを描いて進むように此岸の時も進むのみかと。

ーの波を歩みつつ唱える 実相完全円満燦然たる金剛身金剛世界 

この今も人の声の愛しさ。

われとわが心身を愛しめば息吹ぬくぬく冬の十三夜)


(11/26 摂理なる存在へ、どう見えようと燦然たる金剛世界、

と唱えるバス待ち時間を嬉しくいただく。

他の宇宙人から見ればダイヤモンドであるこの惑星かも、

炭素の一つが生命であるかも。

木々に覆われていた岩山の真の姿が現れ出てきた。

木の葉のような人の五感的意識活動であるかも。ダイヤの光る仕組みは?)


(11/28 太神へ、バスにカバンを置き忘れたお蔭で

「我々は人間です、人間は助け合わなければ、困っている人には特に」と言うタクシーの運転手の存在に触れました。

三十年来の仕事に満足していると。

大腸ガンの検体!は提出し損なったけど、知り得ない摂理があるのでしょう。

起こらない事には 無知な我々)




ーーサイボーグ完成と退院ーー


(2018年年末まとめ あなたにお任せブログ 夫の入院話 3回目


さて、ここまではダンナの本格的治療の前段階のちょっとしたお遊びであった。

*12月3日、月曜日、満を持して(多分医者たちが)ステント挿入当日となった。

私も7時45分にはタクシーで出発。

しかし待ち惚けとなり、ダンナも飲まず食わずで待つこと数時間、

やっと13時から始まったらしい。出てきたのが夕方5時ごろ。


4時間ぶっ続けでステントを続々と、まるで消音ピストルの様に打ち込まれたという。次々にステントの大きさを変えて最後はかなり大きなサイズであったらしい、何しろ、唯一背中側に生きている冠動脈なのだ。これが医者も驚くほど硬化してしまっていたのだ。

他の動脈は完全に壊れている。


いくら憎らしいダンナでも病室で待っていると悪い方にばかり想像して気が紛れない。

唯一紛れたのは、看護師が突然飛び込んできて別棟へ(隣だが重篤な人用)移ると

言った時。あっという間にすべてのものをかき集め車椅子に乗せて

5B棟から5C棟49室に移動。日本ならありえない番号。


胸に鋼鉄の?輪っかをつなげられて、別の生き物になった様なダンナは、49号室にもどったがその後また6時間の身動き厳禁の我慢を強いられ、私も11時まで残った。

ついに看護師がもうおかえりくださいと言った。


帰りのタクシーは幸いにも女性運転手で、いい匂いといい音楽があった。

その話を後でするとダンナはそれを訝しがった。

夜中に女性が客を乗せるなんて危なすぎる。

そこで私の案、多分彼女が引っ掛けようとしていたのかも、

なるほどそうだったかもと二人の意見が一致。私で残念でした。

こんなタクシーは初めてですと私が言った時の彼女の乾いた笑い声が、

確かにあれ?という感じだった、今から思えば。



*ステントで血管を補強し、さて、ペースメーカーが入ったのは12月11日である。

その間の日々、以前は歩き回っていたのにずっと機械につながれっぱなしで、ダンナは新しいMacの本を読んで過ごしたらしい。

おまけに、心臓の様子に注目される余り、糖尿病治療のC棟への移行引き継ぎがいい加減になったらしく、利尿剤が使われなくなっていた。次第に脚がまたもや腫れてきた。


手術の前夜は結構深刻な気分でお別れを言いたそうだったが、

そんなことに巻きこまれるものかとばかり、私は軽くいなして別れた。


当日やや遅くなり私が9時半に着くといなかった。どこに行ったのかわからない。

8時の予定だったのそろそろ終わるかと思って私は遅く来たのだ。

手術そのものは救急でもするほどの日常茶飯事のはずだと聞く、基本的には。


と思って、朝食をカフェで摂り、そろそろいいかなと49号室に戻ると

思いがけなくも、掃除担当の女性が部屋を拭き始めた。

そして彼は一晩は下にいるだろうからこの部屋を空けてもらうとのたまう。

いつでも次が控えているのだ。


また車椅子難民風となり、ナースステーションで足を止めて事情を尋ねると、

ともかくまだ下なので、一晩だけなので荷物はここの小部屋に預かっておくからと

親切に?言ってくれる。

こちらも図に乗って、ひょっとして麻酔時間の長さとか分かりませんか、と尋ねてみたが

「こちらでは細かいことは云々」

尋ねた私が馬鹿だったと悟り、ダンナの大事な証明書などあったが

そこはもうお任せで荷物を託した。


さて、ロビーで張り込みだ。いつかここにエレベーターで登ってくるから。


ちっとも出てこない。

ベッドのまま運ばれ、また戻ってくる人はたくさんいるのに。

もう7時間がすぎた。午後4時半だ。

その時、誰かから私は聞いた。ダンナはICUにいる、と。それが誰だったのか書いている今、思い出せない。2階です、ブザーがあるので押すといいです。とその人は言った。誰だったろう。親切さを感じた。

誰だったろう。そうだ、ナースの一人だ。あ、あの顔の人だ、また戻ってくるだろうから荷物は一晩預かると言ってくれた。顔の記憶が乏しい。


結局、後でダンナから聞いたところでは、手術は10時ごろ始まり終わったが、5時まで手術室におかれていた。人々が来ては出て行くが、自分だけはそのまま観察下にあった。


それからやっとICUに運ばれたところに私がやってきたのだ。

顔色がよかった。もう心臓がよく働かされているのか?

またもや身動きしてはならず、特に右肩は厳重だった。

麻酔はあっという間だった、と話した。それは私も体験している、まるで黒い緞帳がどしんと落ちる様に真暗になる。黒だ。


よく世話されている様だった。熟練のと言う感じの陽気な看護師が、私の携帯番号を書きつけた。そして何か意味不明な短い語を発した。何度言われても理解できずぼーと立っているとダンナが代わりに答えた、「妻です」。


「あなたは、え~と」と私が名乗るのを待っていたのだ。

こちらでは妻も婚約者も愛人もほぼ同等である。おまけに姉妹、友人、の可能性もあるでしょ、と彼女が笑っているので「ええ、母親かもね」と私が言うと、

「それは考えませんでしたよ」と答えた。面白い。


1時間ほど居たのち、最終バスで帰った。夕食はサンドイッチを買っておいたのでいつものレストランには今日は来れないと電話しておいた。風邪気味がひどくなっていた。

勝つか負けるかわからなかった。



*これでめでたしめでたし、とそろそろ話が終わりそうなものだが、現実はそうはいかない。しばしご辛抱を。

翌日はまず、ベトナム人の店で暖かいズボンを2本買った。20ユーロだ。自分の。

寒くてたまらない。


昼前に到着、今までの病棟に行こうとすると、もう入り口で例の掃除係が、

荷物は物置に入れてあるので、そこでも邪魔なので持っていけと言う。

どこへ? ダンナはどこに居る? 知らない。

ナースに訊く気も失せて杖や車椅子、あれこれ抱えていつものロビーにでた。


病院難民、とまた思った。誰も自分以外人の仕事のことを知らない。

何かを確かめ決めるまでが議論相談待機である。

今もICUに居るのか、別の病棟に移ったのか、それが問題だ。

ICUには15時以降しか入っていけないと書いてあった。待とう。


このおいてけぼりの背後には単に、彼女らが情報を持っていない可能性と、個人情報云々で口外してはいけない可能性と、実はもう一つ理由があった。それはダンナの口から聞いたことだ。


何を考えてか、考えるためにか、私はロビーで座ってじっとしていた。

考えはまとまらない。


そのロビーには不思議にも秘書室があって、その人には時刻を前回尋ねたとき親切だったのを知っていた、プリンタが壊れたときもよほどその人に印刷をお願いしようかとウロウロしたりもした。

そんな親切を狙ってでもいた私だったろうか。


目の前にアムネスティー関連の雑誌が突然、誰かの手によって置かれた。

そこに並んでいる言葉に惹かれて、少し読んだ。世界人権宣言が出てから70年だそうだ。人権という考えが確立したがために戦争が増えた、という人間のうっとおしい面も新たに現れたらしい。


もう午後3時ごろだろうか、誰も知らない。知っていても何も教えてくれない、私にもわかっている、妻であっても教えてくれないのだ。死んで人権がなくなったら教えてくれるのだろう。今どこで何をされているのか。

またアムネスティーのあちこちをさらに読んだ。

人助けをしたい自分がいる。でも何もしない。これは例の宇宙の智慧のヒントであろうか。予想外の提案であろうか。


するとエレベーターから前回の手術後に顔を見知っている美人の若い女医が出てきて、

ハローと軽くあいさつする、単に習慣として。

これを逃してなるものかと私が声をかけた、私の夫がどこにいるか知りませんか? 

全然、全く。と独特の冷たい投げやりな言い方だ。

いつもとても疲れていて極限心理だ。


病院の仲間たちはどんな身分であれなんだか仲がよかった。

幸いにも秘書はみんなに好かれていて女医さんも自然に秘書室に向かって行った。


私も荷物と一緒に移動してくっついて行った。困っている由を話すと、案の定、

二人で電話したり、じゃ荷物はここに置いて見てらっしゃい、とか

私が見てくるからとか、色々案が出るのだが決定には遠い。


その時、偶然に、車椅子の荷物に違う角度から近づいたので、

そこに初めて見る紙が挟んであるのが見えた。

「これはひょっとして重要な情報では?」と女医に見せると彼女は露骨に嫌な顔をして

ちらと見て、読みたくなさそうにした。そして観念して読み始め、重要だと言った。

そこで秘書が電話を女医の耳に当てる。


結果、秘書が出かけて言って聞いてきてくれた。

ご主人をICUからどの病室に入れるかが決まらない、とりあえず荷物と一緒に行ってくださいと。そこまでの決定にたどり着いたのが嬉しかった風に見えた。


お礼を言うついでに、口から出てきた言葉、

「ありがとうございました、折しもアムネスティーについて知る機会を得ることもできました。」

それだけが大事でもあるかの様に伝えると、すぐに出発、

女医さんはいつの間にか消えていた。


昨日も訪れたそのICU全体にはたくさん医者たちがいた。

患者はもう他には見かけなかった、個室にダンナだけだ。


顔を見ると彼は気が狂っていた。そう見えた。

声は枯れているのに、もっと潜めて言うので何を言っているかわからない、おまけに聞き取れたのが日本語、「彼らは嘘つき、嘘つき」と目を丸くして驚愕の情をあらわにしている。

私も一瞬ギョッとしたが、慣れているので大丈夫だ。

要はこうだ。

看護師や医師が続きの大部屋でしゃべっているのはまるまる聞こえる。

ダンナは全く眠っていなかった。それで知ったのだ。


部屋の、ベッドの争奪戦が嘘ばかりで行われていると。例えば救急車の無線を聞いた看護師がある病棟に電話して、患者はこちらを優先して、と頼みベッドを予約してしまう。

手術後の患者の受け入れ先を何が何でも確保、と言うことだ。

そしてその時も、部屋を探していますから、と看護師が電話をかけまくっていた。

そしてああ、ありがとうと言って切った。

振り返ると、「また5Cですよ、逆戻りね」


これが先に触れた、誰もが情報を公開しない3つ目の理由であるらしい。

それほどベッドも、看護師も不足している。

若い看護師見習いで細い子は、ベッドを押して移動させるのが仕事みたいなのだが、痛々しいほど。

数年して慣れた頃には大きなお尻の立派な看護師になる様だ。


凱旋して戻った部屋は5C棟の44号室であった。

迷信は通用しない。「よし」とも読めるし。



さて今のところ、介護人としての私の誇りは、ぺースメーカー手術の直前に、ダンナの長く汚くむさ苦しい髪をすっぱりハサミ3回で、チョキンチョキンと短くしたことである。ネクタイと背広の人間にならない証拠として長髪なのだそうだが、怪しい。

 別の悪徳があるはずだ。髪の変化に気づいた人は皆褒めてくれる。

 自分で自分を褒めたい気分で思い出すのが楽しい。


例の私の尾籠な話だが、今(12月15日)はありがたくも快癒している。しかしちゃっかり「燦然たる金剛身心」を忘れている。それでも文句を言う様なあなたではないですよね?



*徐々にドイツの医療事情などわかってはきているのだが、その一つ

(不整脈の薬は日本からのを十分服用していたのに)

私が血圧の薬だと思って飲んでいた薬が、実は不整脈用だったと後でわかった。

これは危険な誤解、失敗である。ドイツに長く住んでいる友人が、

全て理解しているつもりでも時々、重要なことを理解し損なっているので

注意が必要だと言ったことを思い出す。


また、システムがわかっていないので色々と無駄が多い。

そのいい例が、書いたこともあるバスの乗車券の値段。

病院に行くのに乗り換えるのだが、別々に券を買っていたら、今になってある運転手が、乗り換えたんでしょ、それなら最初から通して買えば安いんですよと教えてくれた。

知らないのが馬鹿だ。徐々にわかって行くだろう。

私だって、乗り換え含めて買うべきだろうとは推測していたが、

それを尋ねるのが面倒だったのだ。


次に書くときには全く違ったサイボーグダンナの姿となるはずである。

それが凶と出るか吉と出るか、またお任せというのであろう。

いずれにしろ想定外に決まっている。

サイボーク化も夢想だにしていなかったのに与えられたのだから。)



*日々に現れてくるプラスマイナスの波動への対応、存在とシステムを定義づけ把握する試み、日常の介護の細々対処の中で自分の情緒を平静に保つことが大切となる。


ミセスGの正面衝突事故の知らせがラインで入った。よく乗せてもらった愛車は破棄となり、彼女は軽傷だったがぶつかって来た方は重症と。助手席に突撃してきたのだろう、そこにいつもあたしが座っていたところ。

 これを何と見る。これを避けるために渡独したとも考えられる。

 起こらなかったことには無知な我々である。


このことから思い至ったもう一つの智慧のプレゼント。

いつもJBゆえに不自由を強いられていると思って、自分を憐れんでいた。しかし、

それゆえにむしろ守られていたのかもしれない、自由に動き回っていたらぶつかったかもしれない種々の厄災から。



12/4 いわゆる大自然の知恵に体現されている一つの摂理なる太神へ、

一つの発言:人が人に出会うというこの世。

考えの変化は大変化を招くはず。

日々何かを成し遂げるが、擁護されていたこと、明日のために今があろうとも思わず、

意識の中に囚われている、

自動車事故を免れると知らずに狂乱に突入とか。)


(12/7 智慧なる存在へ。前回の 無知な我ら の流れ:悶々たる時を経て

予想外のこと賜る。避けていた薬局に天使がいた! 

沢登佳人「生命とは何か」再発見。

不自由を強いられていたのではなくて危険から守られていたのかも! 

Diakonie 身体障害者施設:青い目の燦然たる金剛心身と言葉を交わした。



*12月11日にJBのサイボーグ化成ったのだが、まずはそれに肉体が慣れるのに注意が向けられた、そう簡単なことではないようだ。半信半疑でキョロキョロするのみである。

このことの波動の実態は実に記述するのが難しい。

 プラスマイナスと単純に決めること不可能な絡み合いである。


12/13 私であるあなたへ、

全てが次第に整ってきたので私の行動が確認されるはずと。

魂は最小の単位なので死後もそのまま残る。

意識は消える。

生物or高等動物の魂が集まった地球こそ聖霊の存在そのものであり

外宇宙は物理的法則の展開のみ?

ところでTVで見た多重宇宙が不明。

瞬間の反射光の有難さまさに天国)


(12/17 全知の聖霊交渉。

「不幸な神の子ではない、父の魂に気遣われている」と実相の念を病気の友へ送る。

夫が望外の新生を与えられ私は困惑中とも伝えた。

この世をスピリチュアルにわたるコツ、

つまり存在と定義と仕組み(我々は無知)と決意(我々の為事)との絡み合う プラスマイナスの波 夫に話す)


(12/19 智慧なる聖霊へ、真理探究の話をした翌日18日から夫の目が覚醒したかに。

同時に意外にも悪化しだして退院延期に?

一方退院しても医療システムと季節関係の大騒動は避けられない。

心理的反応の是非、食事関連の問題もあり氷解には全知の智慧に任せる他ありません。

そりゃ自分が死ねば楽だけど。



12/23 叡智なる太神へ、物質の極小と極大の法則を感知し感知外の法則へと波動を馳せる、私の日々の眼前を行き来する時の流れの中の絵を

良きも悪しきも惑わされずに透徹し

燦然たる金剛世界を賛美する。

歌い笛を吹き身体を愛で動きを察知する、できる限り言葉に残す。

天国なのに天国は来ない、退屈だろうし)


(12/29 全存在を動かし時と運命を司る甘美の摂理へ。ワライカワセミを待っているらしきカワウのように霜で白い枯れ木の森を見渡す。聞こえない耳の中で鈴々と音楽が鳴る。闇の中に薄ぼんやりと岩山が光を放っている。

段ボールの家を作る。やはりナディアは友と思うべきか。愛が克つか? 

サイボーグへの別離の決意もあり!


_この項了


東天
平成30年秋から冬 想定外すぎてあなたにお任せブログ
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