光の寝床 ヒルコの夢 -2-

第1章 道標( 1 / 4 )

 


 異界での出来事が終わりを迎えた日。

 

 煌煌と照らす月の下で姫香ひめかなぎさはしばらく縁側に座っていた。言葉はなくてもつないだ手のぬくもりが愛おしく、それだけで幸せだった。

「くしゅん」

「湯冷めしたんじゃないか?」

「大丈夫。まったりしちゃったね」

 姫香のくしゃみで幸せな時間は終わった。

「もう寝なきゃな」

「渚のお布団は、居間にひいてあるから」

「お、ありがとう」

「ふふ、どういたしまして」

 笑いかけた姫香から視線をそらし、渚が祖母の部屋のガラス戸を閉めた。

「……渚?」

 月明かりしかない部屋。ガラス戸を背にした渚は、逆光で表情が読めない。

「どうかしたの?」

「夕方、おまえのことが好きだとおれは告白した、だろ?」

 ゆるやかに流れていた空気が急にぴんと張り詰めた。

「……うん」

「あの時、おまえはおれのことをもっと知りたいと言ったよな」

「うん」

「今は、おれのことどう思っているんだ?」

「あ……えっと」

「今はおれのことが好きでいてくれる気がする。おれ、間違っているかな?」

「ううん、間違ってない……好き……だもの」

「そうか、よかった」

 渚の雰囲気がやわらかくなった。

「おれは付き合いながらでも、お互いを知ることはできると思う。だからどうかな、おれの彼女になってくれないか?」

「え……でも、それって」

 浮き立った気持ちは一瞬で戸惑いに変わっていた。

 渚が少女たちに告白されているのを今まで何度も見てきた。それは、校庭だったり廊下だったり学校の帰り道だったりした。その中にはモデルのようにきれいな少女も大勢いた。

「なに?」

「異界でいろんなことがあったから、今は好きな気がするだけだと思う」

「ずっとおまえを見てきたって言ったろ」

「付き合ったら、わたしのことがきっとわずらわしくなるよ。だから……そんな風になるの……嫌……だし」

 どんどん姫香の声は小さくなっていった。渚が微笑んだ。

「安心しろ。おまえを好きな気持ちは絶対に変わらないから」

 姫香の前に渚の右手があった。

「彼女になると言ってくれ」

「でも……」

「おまえがおれを好きなら手を前に出せ」

 姫香が戸惑いながら上げかけた右手を渚が引き寄せた。

「彼女になってくれるな?」

「は、はい。どうぞよろしく……お願いします」

「こちらこそよろしくな。じゃ、おやすみ!」

 ひとつ握手をすると渚は振り返りもせず居間へ行ってしまった。

「ふぅぅ」

 二階の自室にあがりベッドに座る。渚の握った手を見た。一瞬にして頭に血がのぼった。

「告白されちゃった。こちらこそよろしくな、だって。あ、けど、付き合うって決めたんだから、誰もいなかったんだし……抱きしめるとか……きゃーっ、やだ、やだ。わたしってば何を考えてるんだろう」

 頭をぽかぽか叩いた。

「あこがれの渚先輩と付き合うことになっただけでも夢みたいなのに。きゃあ、なんかあせってきちゃったよ。どうしよう!」

 気持ちの整理がつかず、携帯電話を取り親友の折田夏希おりだなつきに告白されたことをメールした。いつもはすぐに返信があるのに今日に限って連絡がこない。

「夏希、もう寝ちゃったんだ。うぅ、起きたら夢じゃありませんように!」

 祈りながら姫香は勢いよく布団をかぶった。

 

 

 翌日、出張から戻った姫香の父と渚は対面した。戸惑う姫香の横で頭を畳につけ、渚は高校2年生にしてはだいたんな発言をした。

「初めてお目にかかります。伊佐 いさなぎさと申します。姫香さんとは結婚を前提にお付き合いさせていただきたいと思っています。どうか、ご了承をお願いいたします」

「ほほぉ、結婚をねぇ。そういうことを決めるにはまだ早いんじゃないのかな?」

「はい。今すぐにではありません。けれど、そうなりたいと強くぼくは望んでいます。決して不真面目な了見ではないことを知っておいていただきたいのです」

「ふぅん、まぁ、ね。それはおいおい考えましょうよ。ちなみに伊佐さんってあの伊邪那岐い ざ な ぎりゅうの本家さんかい?」

「はい。まだ未熟ながら師範代をしています」

「ほう、そりゃぁすごいや。ぼくの実家も京都で伊邪那岐流の流派を継いでいてね。よく子供の頃は鍛えられたものだよ。ぼくは、からきしへなちょこでね。ずいぶん前に剣術はやめちゃったんだ」

「京都?  もしかして氷室龍覇ひむろたつはさんとご関係が?」

「そう、龍覇はぼくの兄だよ」

「ええっ」

「ぼくと兄とじゃ似ても似つかないから、驚くよね」

 ぽっちゃりとしたお腹をぽんぽんと叩いて姫香の父がかるく笑った。

「ありゃ、ちょっと凄いでしょう。京都のK大で外科医やってんだけどね。あの刀さばきで手術なんかもやっちゃうから、そっちも優秀なんだよ。そうそう、きみのお母さんは強いねぇ。ぼくときみのお父さんはいつも試合でこっぴどくやられた口だよ」

「あの……ぼくの父と母をご存知なんですか?」

「ご存知も何も、ぼくら夫婦ときみんちのご両親は大学から一緒でね。今でもきみのお父さんとはよく飲みに行くんだよ」

「父と友達、なんですか?」

「大親友だよ。だけど、うちの妻ときみのお母さんはどうも大喧嘩したらしくてね。ずっと疎遠だったんだ。きみと姫香が間を取り持ってくれて、またみんなで仲良くできる日が来るといいねと、きみのお父さんと夢のような話をしていたよ。なんだねぇ、どこで繋がりがあるかわかんないもんだねぇ」

 そう言って姫香の父はおおらかに笑った。

 

 昼食後には父と渚はテレビゲームで意気投合し本当の親子のように仲良くなっていた。やっと二人きりなれて、姫香の部屋でお茶を飲めたのは4時を過ぎていた。

「龍覇さんとは何度かお手合わせしたことがある。鋭い太刀筋を持つ使い手だよ」

  渚が感慨深げに言った。

「へぇぇ、で、どっちが勝ったの?」

「もちろん、おれの完敗さ」

「そう、残念だったね」

「おれじゃまだまだ経験が足りない。けど、姫香のお父さんは一番お手合わせしたくないタイプの人だ」

「うちのパパって小太りでいかにもダメダメだもんね」

「そりゃ勘違いだよ。守りが一番強いんだ。力に任せて押し切ることには限界がある。姫香のお父さんは力を受け流して、守りをきちんとされる方だとおれは思う。そういう使い手が一番恐いんだ。隙を見せた時が、切られる時だからね」

贔屓目ひいきめすぎだよ」

「おれの目は確かだ。お父さんは敵に回すと恐いタイプだ。そのお父さんと結婚したお母さんもすごい。お二人を味方につければ百人力だ。おれ、絶対に好きになってもらうぞ」

 渚がくったくなく笑った。

 

 晩御飯も終わり渚が帰り支度を始めた。上機嫌で晩酌をしていた父は、いまは気持ちよさそうにソファに横になって眠っている。

「もうっ、パパはお酒が入るとすぐ寝ちゃうんだから」

 玄関で姫香があきれかったように言った。 

「渚くん、長らくつき合わせてごめんなさいね」

 見送りにきた母も申し訳なさそうだ。

「ぼくの方こそありがとうございました。ほんとうに楽しかったです。草履は後日お返しにあがります」

 渚が玄関先で父の草履を履いた。

「それは気にせず捨ててくれていいわ。主人はもう使わないもの」

「では、ありがたく使わせていただきます。いろいろとお世話になりました」

 頭をさげた渚を見て、母がにが笑いしながら腕を組んだ。

「うーん、やっぱり言っておこうかな」

「はい、なんでしょう?」

「渚くん、すっごくかっこいいよね。かなりもてるでしょう」

「いえ、そんなことは」

 困ったように渚が頬をかいた。渚の横で靴を履いていた姫香がクスリと笑った。

「嘘ばっか。アイドル並みの人気だし」

「おれには関係ないよ」

 母がひと声うなった。

「関係ないって言ってもねぇ。女の嫉妬って恐ろしいものよ。親としては学校に入って、やっとこれからという時に、いらぬ揉め事を引き寄せてほしくないわ」

「ぼくが守ります」

「いくら渚くんが頑張っても、学年の違う姫香をずっと守れないでしょ。だから、学校では今まで以上に距離をもって接しなさい。それでも変に思われる時があれば……そうね、幼なじみだと言えばいいわ」

「わかりました」

 拍子抜けするぐらいあっさりと渚は母の言葉に従った。

 駅まで一緒に歩きながら、姫香はずっと不満だった。

「急に元気がなくなったな。どうしたんだ?」

「ママの言うことはなんでも聞いちゃうんだね」

「ご両親が大切な娘を心配されるのは当然だよ」

「そういうものかなぁ」

「おれは、おまえと付き合うことを認めてもらえただけでいい。それだけで嬉しいよ」

  そう言われても姫香の不安はぬぐえなかった。 

第1章 道標( 2 / 4 )

 

 ゴールデンウィークから数日が過ぎた。

 靴箱に入っていた封筒をぼんやり眺めていた姫香は、背中をぽんぽんと叩かれた。

「おっはよー、姫香。何をぼーっと見てんのよ」

 同じクラスの親友、折田夏希だ。

「あ、ああ、夏希、おはよう」

(以前にも似たようなことが……)

 姫香はその時のことをふと思い出した。

 

 

 入学して間もない昼休みだった。二階の窓から校庭でサッカーをしている渚をぼんやり眺めていた。

「ねぇねぇ、氷室さん。何をぼーっと見ているの?」

 誰かが姫香の肩をぽんぽんと叩いた。驚いて振り向くとショートカットの少女が笑顔を向けていた。

「え、あっと、折田さん?」

「そ、同じクラスの折田夏希どぅえーす。あ、あたしのことは夏希って呼んでね」

「え、あ、じゃぁ、わたしも姫香で……あ、何かご用?」

「ふふ、姫香ってさ、伊佐先輩のことが、大、大、大好きでしょう!」

「は、ひぃぃ?」

「ははは、そんなに引きつった顔しないでよ。いっつも先輩のことを穴が開くほど見てるじゃん。わかるっつーの」

 ぽんぽんとまた肩を叩かれた。

「ええっ、そんなにバレバレ?」

「ははは、バレバレ。でも、大丈夫。まだ、気がついてるのあたしだけだからさ」

「ほんと?」

「ほんと、ほんと。あたし、姫香のこと気にいったんだ。先輩との恋も応援してあげっからさ、友達になろうよ、いいでしょ?」

「う、うん」

 江戸っ子らしいパキパキした性格の夏希を姫香はすぐに大好きになった。夏希は行動力があって機転もきく。あっという間にクラスの女子とも打ち解けていた。姫香も夏希のおかげで多くの友人を得た。ゴールデンウィーク前の昼休み、姫香は夏希に聞いた。

「なぜ、わたしと友達になろうって思ったの?」

「あんたのオーラすてきだもん。癒されるっていうのかな。そのうち男子もこぞってやってくるよ。先輩もあんたに気がつけばイチコロだって」

「慰めもすぎると心が痛いよ」

「ほんとだってば。あたし、勘は鋭いんだ。あんたのそばにいれば平和。でも先輩はちと問題ありかな」

「なに、それ?」

「あの人、百点満点男だけどさ。戦いの星がついてるからけっこう危険いっぱいって感じする。あーっ、また、そんな不安そうな顔する」

「だって、先輩が危険って」

「だから、あんたみたいな癒し系がくっついてあげるとちょうどいいんだって」

「やめてよ、茶化すの」

「茶化してないよ。あっちも姫香のことをチラ見してっから、そのうち告ってくるよ」

「そんなことあるはずないもん」

「あたしの言うこと信じなさいってーの」

 笑いながら夏希は姫香の肩をぽんぽん叩いた。

 しかし、異界が現実となり夏希の言った通り、渚と付き合うことになった。

 もちろん異界でのことはゴールデンウィーク中にメールと電話で夏希にはすべて打ち明けた。破天荒な話だったが夏希はいっさい疑うことなく信じてくれた。それが二人の絆をより強くした。

 

 

「ねえっ、聞いてるぅ?」

 夏希の声に現実に呼び戻された。

「で、なによ、それ」

 夏希は姫香が持っている封筒に興味津々だ。

「靴箱に入ってたの」

「もしや、ラブレター?  ね、開けてみなよ。おおっと、こういうもんはこっそり見なきゃだね。ほら、あっちに行こう、ほらほら」

 夏希に手を引っ張られ、階段下へと引きずりこまれた。

「ほら、早く早く」

「う、うん」

 急かされ封を切る。開いた手紙を夏希が声をだして読んだ。

「用事があるから昼休みに体育館裏まで。2年、相川」

 まじまじと手紙と姫香を見比べた。

「色気のない文章に女文字。これ、呼び出し状じゃん。あんた、何やったのよ」

「わかんない」

 すでに姫香は泣きそうな顔つきだ。夏希がこそりと耳打ちした。

「まさか、例の件では?」

「そうかも。どうしよう」

「なら、よほどうまくやんないと。よしっ、着いてく。やばい時はあたしが助けるよ」

「夏希、ありがとう。頼りにしてる」

「オッケー、オッケー、任せなさいっ!」

 夏希が自信ありげにどんと胸を叩いた。

 

 あっという間に昼休みになり、お弁当を急いで食べて姫香と夏希は校舎裏に行った。向こうは二人。気の強そうな女生徒が口火を切った。

「遅かったわね。あたし、相川。あなたが氷室さんね?」

「はい。そうです」

「伊佐くんのことをじろじろ見るのはよしてくれるかしら」

「それって、先輩が言ったんですか?」

 夏希が口を挟んだ。

 相川の連れが不機嫌そうに口をとがらせた。

「あんた、誰よ。あたしたちは氷室と話をしてんだよ」

「あたし同じクラスの折田です。姫香とは親友なのであたしのことはお構いなく」

「2年生に向かってなんだよ、その態度」

「あ、すんません。でも、先に情報入れときますが、姫香は先輩とは幼なじみなんですよ。まぁ、いわゆる親ぐるみってやつです。姫香が相川さんに呼び出しをくったなんてことを先輩が知ったら、どう思うんでしょうねぇ」

 上目づかいに見る夏希を見て、気まずそうに相川が連れと顔を見合わせた。

「氷室さん、あなた、伊佐くんに言う気なの」

「い、いいえ。言いません」

「ってことで、お話はすみましたよね。あたしたちこれで失礼します。行くよ。姫香」

「で、では失礼します」

 ぺこりと頭をさげ姫香は夏希のあとについてその場をあとにした。相川たちはけげんな顔をしていたが追って来なかった。並び歩く姫香に夏希がぼそりと言った。

「これはただの始まりかもしれないよ」

「ええっ、こんなのもうやだよ」

「あんたたち視線交換が多いんだよ。あれじゃぁ、みんなに気づいてくれって言ってるようなもんじゃん」

「そんなに見てる?」

 夏希が頭を抱えた。

「はぁぁ、にぶいにも程があるよ」

「ごめん」

「好きなものはしょうがない。あたしも守ってあげっからこれからもがんばんなよ」

「夏希、ありがとう!」

 夏希が頼もしかった。

 

 その夜、姫香は渚に電話した。

「……でね、夏希に視線交換をしすぎって言われちゃった」

「ごめん。ついおまえを探してしまうんだ。それも変に思われているのかもしれない」

「でも、あたしもだし」

「お互いに気をつけよう。あ、夏希ちゃんにはいつもありがとうって言っておいてくれ」

「うん、伝えとく」

 

 

「どうしよう……わたし」

 今朝は「死ね」と書かれたカミソリ入りの封筒が何通も靴箱に入っていた。

 相川を皮切りに学年を問わず何人もの女生徒が渚との関係を姫香に聞いた。次第に噂という名の悪意が広がり、それを鵜呑みにした者が姫香に意地悪をはじめた。今まで仲良のよかったクラスの女子も姫香が話しかけても無視するようになっていた。

「ねぇ、姫香、先輩に相談してみたら?」

 夏希は今も変わらずそばにいてくれる。

「だめ、迷惑かけたくない」

「そうね、ま、いまさら先輩が出てきても火に油か」

「大丈夫、がまんできる」

「あんたは悪くないんだからがまんしなくていいの。あたしにいい考えがあるから任せて」

「夏希もわたしから離れて。このままだと夏希まで嫌な目に合う」

「涙目でなに言ってんだか。あんたのそういうやさしいとこ、大好きだよ。みんなだって一時的に気が立ってるだけ。けど、落ち着かせるきっかけは作らなきゃね。今はつらいだろうけどお昼休みまで待っててね」

 声を殺して泣く姫香の背中を夏希はやさしく撫ぜた。

 

 夏希がいない昼休み。クラスメートは姫香を遠巻きに見てひそひそ話をしている。姫香はひとりぽっちで教室の席でお弁当を広げていた。

 放送部の昼の放送が始まり、いつものようにテンポのいい音楽と会話がスピーカーから流れた。

「みなさん、こんにちはぁ。放送部がお送りする憩いの時間です。さぁて、今日は1年の折田さんがすてきなお話をたずさえて来てくださいましたぁ」

「こんにちは。折田です。みんなさん、よろしくお願いしまぁす」

  夏希の声だった。

(……なぜ夏希が放送部にいるのだろう)

 意味もわからず姫香はただ驚いていた。女放送部員の声がまた響いた。

「折田さんからの急なお話。わたしたち、すっごく驚いたんですよ」

「へへへ。ほんとに急ですみません」

「いえいえ、とっても心温まるお話でした。放送部員全員がじぃんときちゃって。だから、みなさんにも一緒に感動してもらおうと思って、折田さんに来てもらったんです。では、今朝お伺いしたお話をもう一度お聞かせ願えますか?」

「はい、わかりました。えっと、あたしの親友、姫香の話なんです。姫香が2歳のときに親の都合ですっごく仲良くしていた幼なじみと離れ離れになったらしいんです」

「うん、うん」

「それがショックだったのか、しばらく熱が下がらず、お医者さんからも命が危険だと宣告されてしまったとかで……」

「それは大変でしたねぇ。そんな生きるか死ぬかの状態でも、幼なじみさんと会えなかったんですか?」

「ええ、そう聞いています。ご両親の必死の看病で命は取り留めたんですが、幼なじみとはつい最近まで会うことはなかったんだそうです」

「すごい年月ですね。ところで、わたしたちもまだその幼なじみさんのお名前を聞いていないのですが、お教えいただけますか?」

「実は、その幼なじみというのが2年の伊佐渚さんなんです」

「ええーっ、伊佐くん? 去年、全国高等学校総合体育大会、通称、インターハイの剣道で優勝した、あの、伊佐くんっ?」

「はい、その伊佐先輩です」

「ひやぁぁ、それはびっくり!」

「姫香も伊佐先輩もそれを知ってすごく驚いたそうです。姫香の命が助かったからこそ、姫香はこの学校に入り、あたしの親友になってくれた。そして、悲しい別れをした小さな子供たちが大きくなってこの学校で出会えた」

「すべてこの学校が結んでくれたんですね」

「ええ。まさに、一期一会ってこういうことですよね」

「美談だなぁ。お二人も、そして、また、わたしたちも、みんながいい思い出をこの学校で作っていきたいですね」

 女放送部員が涙声で言葉を続けた。

「折田さん、本当に本当にステキなお話をありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「では、折田さんからリクエストいただいたなつかしの曲をお聞きください」

 スピーカーから流れだした曲が甘く心をくすぐる。誰もが知っていているなつかしい曲の数々。そのキーワードは、「思い出」だ。

「夏希……元気づけようとしてくれたんだ。ありがと」

 下を向いた姫香の顔からぽたぽたと涙が落ちた。その背中にそっと手が置かれた。顔をあげるとクラスメイトたちが姫香を囲んでいた。みんなが涙目になっていた。

「姫香、今までごめん。あたしたち知らなくて」

「渚先輩にストーカーしてるってウワサ聞いちゃって。嘘だと思いながら、なんか言葉に踊らされちゃって」

「わたしたち、姫香と渚先輩のステキな思い出を汚しちゃうとこだった。ごめんね」

「あ、夏希が帰ってきた!」

「夏希、かっこよかったよ」

 夏希がニッと笑った。

「みんな、姫香とあたしの友だちでしょ。もうシカトは無し。わかった?」

「うん、ごめんね、ごめんねっ」

 みんなが口々に今までの行動を姫香と夏希に謝ってくれた。

 放送の効果は絶大で放送直後からイジメがぴたりと止んだ。根に持つ人もまだいたが、その人々からは友人たちが守ってくれるようになった。

「ほんとうにありがとうね。夏希はわたしの神さまだよ」

「ははは、神さまはやめて。あたしら親友じゃん。当然だっつーの!」

 夏希が姫香の肩を強く叩いて大笑いした。

 

 

 渚にとっても夏希の放送は特別なものだった。一緒に弁当を食べていた友人たちがまじまじと渚を見た。

「おい、今言ってた姫香って、あの1年の氷室姫香ちゃんのことか?」

「伊佐、おまえ、姫香ちゃんと幼なじみなのか?」

「え、ああ、そうだよ」

 わらわらと渚の机の周りにクラスの男どもが寄ってきた。

「彼女、ふわふわしていてかわいいよなぁ」

「見てるだけで癒されるもんな。男子はほとんど姫香ちゃん狙いじゃねーの」

 目をキラキラさせて姫香のことを話す男たちに渚は驚いた。

「姫香ちゃんを独占しないって暗黙の協定があるとか、ないとか」

「それ、おれも聞いたことがある。姫香ちゃんに近づくとファンクラブに袋叩きだってな」

「それも怖えぇけどよ。伊佐が幼なじみってことは、伊佐が基準ってことだぜ。それってどうよ。レベル高すぎっしょ」

「あー、オレさぁ、友達でぜんぜんいいっ。なぁ、姫香ちゃんにおれを紹介してくれよ」

「あ、俺も俺も!」

 数名の女子も輪に入ってきた。

「あのっ、伊佐くんと氷室さんって付き合っているの?」

 渚が答える前に男たちが声をあげた。

「おまえら、バッカじゃねぇの。放送で幼なじみだって言ったろ、聞いてなかったのかよ」

「だって……ねぇ」

 女子が顔を見合わせた。

 扉近くにいたクラスメイトが渚に向かって声をかけた。

「おい、伊佐、おまえに用だってよ!」

 その声に渚は席を立った。教室の入り口にぽっちゃりした小柄な少年がいる。

「ぼくが伊佐ですが」

 恥ずかしそうにその少年が小声で言った。

「ぼく、氷室姫香さんと同じクラスなんですが……氷室さんに伊佐先輩を連れて来てほしいって頼まれたんですぅ」

「なにか用だろうか?」

「さぁ。ぼくは頼まれただけだからぁ」

「そう、じゃぁ行きましょうか」

 渚はすぐに彼が嘘をついていると気づいた。だが、姫香の名前が出た以上、知らぬふりをすることはできない。

(……姫香はずっと嫌な思いをしていたに違いない)

 夏希の急な放送。クラスメートの話。

 姫香の変化に気づいていなかったことが悔しかった。

 気持ちを押し殺し、少年のあとについて歩く。

真月まづきさん、1年じゃなくて3年生ですよね?」

 刺激しないように渚はさらりと言った。

「うふふふ」

 少年が立ち止まって渚を見上げた。

 上履きの周囲についているゴムの色で学年がわかる。姫香の1年は緑色。渚の2年は青色。そして、3年はエンジ色だ。少年の上履きには真月と名前も書かれている。

「嫌でも来てもらうよ、伊佐くぅん」

 不敵な笑みを浮かべている。渚は黙って従った。

 

 校舎から離れて体育館に入ると、真月が叫んだ。

「さぁ、みなさん、連れて来ましたよぉ!」

 ぞろぞろと50人あまりの学生が現れた。見た顔もある。1年から3年までいろいろな学年の寄せ集めだ。その全員が手にほうきやバットなど武器になりそうな物を持っている。

(……袋叩きはウワサじゃなかったのか)

 お山の大将気取りの真月が声をはりあげた。

「僕たちは、姫香さんのファンクラブだ。幼なじみといえど、彼女と馴れ馴れしくするのは非常に不愉快だ。彼女にはもう近づかないと、みんなの前で宣言するんだ」

「馬鹿な……」

「なんだと?」

「馬鹿な、と言ったんだ。姫香は将来、おれの妻になる人だ。きみたちこそ、迷惑だ。おれと姫香の周りをうろつくんじゃないっ!」

 渚の苛立ちが一瞬にして敵意を広げた。

「では、二度と姫香さんに近づけないようにするだけだ。ねぇ、みなさんっ!」

「おおーっ!」

 真月が男たちの後ろに回るとみんながいっせいに武器をかかげた。渚が眉を少し上げた。

「おや、あなたは仲間に入らないんですか?」

「ぼくが手を出す必要はなぁい。キミは今年もインターハイに出るんだろう?  ということは、暴力沙汰はご法度だ。そんな無力な人間を痛めつけるには、彼らだけで十分だよ」

「考え違いをしてもらっては困るっ!」

 渚が凛と言い放った。周囲が水を打ったように静まり返った。

「おれが剣道でインターハイに出場するのは学校側から頼まれてのことだ。おれの本分は剣術だ。伊邪那岐流は対外試合を禁止しているが、挑まれた時は受ける決まりになっている。だから、もしきみたちがおれに挑む気なら、おれも全力を持って打ち勝つ。人数がいれば勝てるなんて思わないでくれ。どう見てもきみらはおれより数倍弱い。腕の一本や二本は失う覚悟でかかって来ることだ」

 ざわっと動揺が走った。

「さぁ、来いっ!」

 すっと手刀をあげた渚の姿は誰が見ても美しく、その威厳は素人を萎縮させた。

 ガランと音を立てて一人の男子生徒がバットを床に落とした。

「お、おれ、やっぱ、無理。姫香ちゃんが幸せになればいいだけだし」

「きさま、何を言ってるんだ!」

 真月が狂気の目をむいた。

「おれもやめる」「伊佐くんなら文句ないよ」「ぼ、ぼくも」「おれも」「伊佐先輩なら」

 口々にそう言って武器を捨てだした。

「き、きさまらぁ、それでもファンクラブ員かっ!」

 腹のあたりから小ぶりのサバイバルナイフを取りだした真月が、皮製のシースから刃を引き抜いた。ナイフを構えたそのすぐ横に渚がいた。

「え?」

 ナイフを持った手が抑えられ、真月の体が宙に舞った。周囲がどよめく。

「走り、早ッ!」

「おい見えたか? いま足を払ったんだよな?」

「それだけで、あんなに飛ぶか?」

「でも、床に落ちた音がしなかったぜ」

「伊佐くん、すごいよ、かっこいいっ!」

 男たちの口から次々に賛美の声があがった。

 倒れた真月の手からナイフをもぎとり、渚がナイフの刃をゆっくりと鞘に戻した。

 その顔には鬼気迫るものがあった。あたりが静まり返った。誰かの喉がごくりと鳴った。

「みなさんに確認します。ファンクラブは廃止。姫香にも近づかない。それでいいですね」

 その迫力にみんなが黙ってうなずいた。

「しばらく幼なじみで通します。これ以上、うわさを流さないでくれますね」

 またみんながこくりと頭をさげた。みんなの膝はガクガクと震えていた。

「みなさんからは二度とこの様なことはしないという約束をもらいました。あなたも姫香には関わらないと約束してくれますね?」

 プライドが残っているのか真月は苦虫を噛みつぶしている。渚が真月の耳元で何かをささやいた。一瞬、真月が驚愕の色を浮べた。

「約束するなら、うなずいてください」

 真月がうなずいてガクリとこうべをたれた。

 ナイフを真月のそばに置き、渚が立ち上がった。

「では、失礼します」

 氷のような視線を周囲に投げ、渚はその場をあとにした。

第1章 道標( 3 / 4 )

  

 姫香は夏希の放送で一難を乗り越えた。

 けれども、二人が付き合っていることが知れれば、またいじめが再燃しかねない。

 結局、渚とは学校では挨拶しかできなかった。それに、帰宅後も渚には剣術の師範代としての仕事があり気軽に会えない。そんな状況を見兼ねた渚の母が、6月末に姫香を家に招待してくれた。

 

「姫ちゃんは食事の用意をお願いね」

 渚の母はさっぱりした性格のきりりとした美人だ。

「母さん、彼女を使うなよ」

 渚はそう言ったが、朝から剣術道場の稽古があったにも関わらず、渚の母によって何品ものおかずが食卓に用意されていた。

「すき焼きの材料まで切れなかったのよ。まだお弟子さんに稽古をつけているんだから、姫ちゃんにも手伝ってもらわなきゃ仕方ないでしょ」

「あ、それぐらいならわたしにもできます」

「さすが姫ちゃん。じゃ、よろしくね」

「はい」

「行くわよ、渚」

 渚の母がすいっと立った。

「あ、ああ。じゃ、姫香。ごめんな」

「がんばってね。いってらっしゃい!」

「いっ……てきます」

 渚が頬を赤らめ台所から消えた。

 

 野菜を切っていると三毛猫がそばにきて足元にじゃれついた。

「トラちゃんだね。わたし、姫香。よろしくね」

 頭をなでるとゴロゴロと嬉しそうに喉を鳴らした。姫香が手を離すと猫は邪魔をするでもなく、少し離れたところで丸くなった。姫香が用意を終えると、渚の父がニコニコ顔で会社から帰ってきた。

「お、いたいた、姫ちゃんだ」

「おかえりなさい。お邪魔しています」

「はいはい、ただいま」

 挨拶もそこそこに渚の父は奥にいってしまった。

「いやーっ、いいお湯だった」

 しばらくして背広を浴衣に着替えた渚の父が、首にタオルを巻いて台所に入ってきた。

「姫ちゃん、ビールくれるかい?」

 食卓に座った父に冷蔵庫からビールをだしてつぐ。

「どうぞ」

「おー、ありがとうねぇ」

 渚の父はひげが似合っていてかっこいい。

「かーっ、おいしいねぇ」

 ビールを一気に飲み干して姫香にグラスを差しだした。

「姫ちゃん、おかわりっ!」

「あ、はい。おじさま」

「おじさまはやめて、お父さんって呼んでよ」

「あ、はい。お父さん」

「いいねぇ、うれしいねぇ。娘にそう呼ばれるのが夢だったんだ」

「お父さんも剣術をなさるんですか?」

 父がそばに寄ってきた猫のトラを抱き上げ明るく笑った。

「オレは妻を目当てにかじった程度でね。オレは会社づとめが性に合ってるんだ。そういうとこは、姫ちゃんのお父さんと一緒だな。ビールと平和を愛する男なのさ」

「ふふふ、そうなんですか」

 渚の母が稽古着を浴衣に替えて入ってきた。

「姫ちゃん、お待たせ!」

「お疲れさーん、おれは先にビールいただいているよ。姫ちゃんのお酌だからうまいったらないよ」

 父がビールグラスを持ち上げて母に笑いかけた。

「あらぁ。お父さん、いいわねぇ。姫ちゃん、わたしにも頂戴な」

 渚の母が姫香に空のコップを差しだした。

「はい、どうぞ」

 しばらくして渚がタオルで髪を拭きながらきた。姫香がお酌をしているのを見て渚の顔が曇った。

「父さんも母さんも彼女はお客さんだろ」

「なに言ってるの。姫ちゃんは家族でしょ。やっと再会できてお母さんはうれしいの」

 母がやさしく微笑んだ。異界のことを知らない父が不思議そうに聞いた。

「小さな頃はよくうちに遊びに来てたよね。急に来なくなった理由はなんだったの?」

「うふふ、それは計り知れない事情ってやつよ。お父さんは知らなくていいの」

「ふーん、ま、おれは昔から姫ちゃんファンだからね。渚を見捨てず末永く頼むよ」

 姫香に父がウィンクした。

「父さんっ!」

 渚が怒鳴った。

「渚さんも、はい、コップ。ジュースかお茶、どちらにします?」

「うわっ、渚さんって」

 コップを手に持ち、渚の顔が照れて真っ赤になった。それを見て、姫香も頬が赤らんだ。

「あ、あのっ、どちら?」

「え、ああ、じゃぁ、おれ、お茶で」

 そんなやり取りをしている二人を見て父が満面の笑みで言った。

「ほら~、やっぱり家族だよ」

「よね~。はいっ、姫ちゃんもどうぞ」

 母が姫香にグラスを持たせてジュースをついだ。

「ありがとうございます」

「じゃ、再会に乾杯!」

 グラスがカチンと鳴った。グラスの先で渚の父と母がやさしく微笑んでいた。

 

 夜ふけてから渚が自宅まで送ってくれた。

「父も母もマイペースだろ。嫌じゃなかったか?」

「ううん。お二人ともとってもすてき。すっごく幸せな時間だったわ」

「そう言ってくれてほっとした。今日はいろいろとありがとな」

 うしろから車が来たのを見て渚が姫香をかばうように車道側に回った。渚はいつも姫香を気遣ってくれてそつがない。大切にされている。それは痛いほど感じていた。

(渚って大人だよね。お父さんもお母さんもうちと違って美男美女だし。差を感じちゃうよ。……だけど)

 並んで歩く渚の手をそっと姫香は見た。

(手ぐらいはつないでほしいかも)

 付き合うと決めてから、一線を引いたように姫香に触れてこない。

(おれは付き合いながらでもお互いを知ることはできると思う)

 渚はそう言った。だから、渚にとって今はお試し期間中なのだろう。

(けどさ、もうちょっと積極的でもいいと思うんだよね。わたしから、手をつなぐ?  きゃー、それはぜったい無理。渚はこんなこと考えてないんだろうなぁ。たぶん、大事にしないと、うちのパパやママに悪いって思ってるんだよね)

「姫香?」

 立ち止まった姫香を不思議そうに渚がのぞいていた。

「あ……なんでもない」

「おまえ、いま、百面相してたぞ」

「えっ、ほんと?  やだ」

「さ、行くぞ」

  くすくす笑って渚が姫香の手を取って歩きだした。心を読まれた気がして心臓がドキドキ鳴った。ついさっきまで手を求めていたのに、手をつなぐと次の心配が頭を持ちあげた。

(渚って完璧だよね。わたしのどこがいいんだろう。不釣合いにしか思えないよ)

 一歳しか違わないのに渚との距離は遠かった。

第1章 道標( 4 / 4 )

  

 セミの声がやかましい。降り注ぐ夏の日差しに姫香は手を伸ばした。瞬時に、着ていたワンピースが、白衣びゃくえ緋袴ひばかまの巫女装束へと変わる。

「……力が……力が、戻ってきた……あっ!」

 咄嗟にしゃがんで二階の窓から外をのぞいた。小道に人影はない。ほっと胸を撫で下ろし、中腰でカーテンを引いた。

「また変身できた。嘘みたい」

 壁にかけた鏡に巫女姿の姫香が映っている。異形の者、夜刀を浄化して姫香のもてる力は消えた。

「ふふふ……」

 ゆっくりと手をあげる。クーラーの風に乗って指先から白い光がキラキラと零れた。

「渚、びっくりするかな?  それとも怒るかな、なんでまた変身してんだよって」

 

 渚は夏休みに入るとすぐに伊邪那岐流派対抗試合とインターハイに向け猛練習を始めた。

 結果、伊邪那岐流派対抗試合での最年少優勝。先日はインターハイの剣道の優勝もつかんだ。大きな試合は終わったが、渚には自宅の道場での師範代としての務めがある。

 8月も半ばだというのに最近ではメールだけが唯一の繋がりだった。

 

 昨夜、渚が久しぶりに電話をくれた。

「明日の午後は時間があいたんだ。11時ごろにはそっちに行けると思う。だから、一緒にお昼を食べて映画でも観ないか。どうかな、迎えに行ってもいいかな?」

「もちろんっ!」

 即答していた。隠れて付き合ってきたからデートをしたこともなかった。

 これがはじめてのデートなのだ。

「早く来て……渚!」

 姫香はうきうきした気分で渚が来るのを待っていた。

 

 

 チャイムの音に姫香の母が玄関を開けた。

「いらっしゃい、渚くん」

「こんにちは、ご無沙汰しております」

 渚がおじぎをした。紺地に白いボーダーのポロシャツに黒いパンツ。シンプルな服装だがそれがより容姿の美しさを際立たせていた。母がうっとりと目を細めた。

「ふぅぅ、渚くんって何を着てもかっこよすぎ。みとれちゃう」

「そうでしょうか」

 渚が照れて笑顔をつくった。

「インターハイと伊邪那岐流の試合、二つとも優勝だったね。おめでとうぅぅぅ! 」

 母が笑顔で手をパチパチと叩いた。渚が深くお辞儀をした。

「わざわざ見に来ていただいてすみませんでした。応援、ありがとうございました」

「いいのよ。こっちが嬉しくなっちゃったわよ。本当にかっこよかったわ」

 姫香の母が階段に声をかけた。

「姫香ぁ、はやく降りていらっしゃーい」

 階段を下りてくる気配がない。

「変ねぇ。さっきから返事もしないのよ。どうしたのかしら」

「失礼します」

 渚が靴を脱ぎ、するりと母の横を抜けて二階へと駆け上がった。

 姫香の部屋をノックしたが返事がない。

「入るぞ」

 ドアを開けると、姫香はベッドでタオルケットにくるまっていた。

「どうしたんだ?」

 触れようとした途端、姫香が渚の手からのがれた。

「なにか、あったのか?」

 姫香はタオルケットに顔をうずめたまま何も言わない。

「おい!」

 力ずくでタオルケットを引きはがした。姫香が巫女装束を着けている。

「あら、やだ。姫香ってば、コスプレして出かける気だったの?」

 ドアの入り口で母がすっとんきょうな声をあげた。

「いや、違います。変身してるんです。これ、異界での格好です」

 渚がそっと姫香の肩に手をおいた。

「もしかして……解除できないのか?」

 姫香がうつむいたままうなずき、ぼろぼろと涙を流した。

「こんにちはぁ、こんにちはぁ」

 玄関で誰かが叫んでいる。

「いやね、立て込んでいるのに。渚くん、お願いね」

 渚に目で合図して母が部屋をあとにした。

「泣いてちゃわかんないだろ。なんでもいいから話せ」

「ヒック……渚がくる少し前に変身できて。でも戻らなくなって……ヒック」

「大丈夫。落ち着けば解除できる」

「だって、何度、着物を脱いでもすぐこの姿にヒック……わたし、どうしたら」

「大丈夫だ、落ち着け……」

 頬の涙をぬぐった渚が、姫香にそっと口づけた。

 ゆらりと周囲の空気が動いて姫香の巫女姿が淡く輝いて消えた。

 脱ぎ散らかした服が部屋に散乱している。姫香はブラジャーとショーツという裸同然の格好になっていた。

「き、きゃあっ!」

「こ、これを!」

 渚があわててタオルケットを姫香に巻いた。

「お、おれ、外にいる。服を着ろっ!」

「う、うん。ありがとう!」

 扉を閉めて渚はほぅっと息をついた。

 

 バタバタと誰かが階段をあがってきた。

「おまえ、そこで、なにしてけつかる!」

 渚の答えを待たずに少年が殴りかかってきた。飛んできた拳を腕ではじき足をはらう。

「おまえこそ何者だ」

 尻もちをついた少年をひっくり返して腕を締め上げた。

「痛ててっ、放せっ!」

「腕が折れる前に言え!」

 暴れる少年の腕をより強くしめた。

「ぎぇぇ、痛ぇぇ!」

「待って、渚くんっ!」

 母の一声が飛んだ。それと同時に、姫香の部屋のドアが開いた。

 ローズピンクのワンピースを着た姫香が少年を見て目を丸くした。

「まさか……セイちゃん?」

「え、知り合いなのか?」

 力をゆるめた渚の手を払いのけ、少年が姫香の腰に抱きついた。

「痛たた。姫ちゃん、こいつ、なんやねん」

 ゆるやかなウエーブの茶髪。ミントグリーンのTシャツに洗いざらしのブルーのジーンズ。軽そうな印象だが美しい顔立ち。この顔を伊邪那岐流の試合会場で見たことがある。

「きみは……氷室ひむろ……静那せいな

 渚と同い年だが自分より力がない者を小ばかにし、強い者からはさっさと退く。そんな試合を平気でするくだらない人間だった。

「なんや、おまえか。なんで、おまえがこんなとこにおるんや」

 静那も渚を知っているらしい。

「おれは姫香さんと付き合ってるんだ」

「おまえアホか。付き合うって意味知らんやろ」

「きみこそバカか?  姫香はおれの彼女だと言ってるんだ」

「彼女やと、アホなことぬかすんやないっ!」

「こらっ、もうやめなさいっ!」

 母が静那と渚の間に入った。。

「セイちゃん、渚くん、下におりてちょうだい」

「はい、わかりました」

「けど、おばちゃん」

「セイちゃん、おばちゃんは二度は言わないよ」

 静那も渚の後を追ってしぶしぶ下りていった。そっと姫香に母が囁いた。

「目が腫れぼったいわ。すこし休んでからきなさい。いいわね」

 姫香が素直にうなずいた。

 

「おばちゃん、こんなやつ、はよ、追いだしてんか。気分悪いわ」

 一階の台所の椅子にどかりと腰をおろし、静那がそっぽを向いて足を組んだ。

 渚はちらりと静那を見た。

(……やっぱり、オノゴロのセイに似てる)

 姫香の記憶がセイと静那を重ねたのだろうか。セイを若くすれば、静那にそっくりだ。

(……こいつ、口も態度もヒルコよりずっとタチが悪そうだ)

 試合の印象そのままだった。

「お茶にしましょ。セイちゃんも疲れたでしょ。ほら、渚くんも座って、座って」

 姫香の母が冷蔵庫から冷茶をグラスに注ぎ、それをダイニングテーブルに置いた。

「渚くんは、京都の氷室龍覇さんって知ってる?」

「はい。伊邪那岐流派の試合でお手合わせしたことがあります。すばらしい使い手でした」

「へへん、えらそうに。お父ちゃんにはいつも手も足も出んくせに」

「は?  お父ちゃん?」

「セイちゃんは龍覇さんの息子さんなの。今日は龍覇さんのお使いで、姫香を迎えに来てくれたんですって」

 そう言われれば、確かに龍覇と静那は似ている。同じ氷室姓の二人を今まで重ねなかったのは、龍覇は折り目正しく物静かで、静那とはかけ離れた存在だったからだ。

「龍覇さんは、異界のことをご存知なんですか?」

「いいえ、話してないわ。だけど、龍覇さんは人より直観力が鋭い所があってね。姫香に好きな人ができたら、その人と一緒に京都に寄越しなさいって言われたことがあるの。それが姫香が2歳の時。あなたたちを引き離した直後だったわ」

「そんなに前に」

 渚の驚いた顔を見て母は話を続けた。

「何が起ころうとしているのかわからないけれど、今、このタイミングでセイちゃんを寄越してくれるあたり、きっと龍覇さんなら姫香を助けてくれると思うの。どう?  渚くんも京都に行ってくれないかしら?」

「ええ、ぼくもぜひ行きたいです」

「ズーズーしいやっちゃなぁ。もう行く気満々かいな」

「セイちゃん、龍覇さんは姫香の彼氏も連れてくるようにとおっしゃったはずよ。違って?」

「ちぇ」

 静那がふてくされてお茶をすすった。携帯電話を持ち、渚が席を立った。

「京都へ行く了解を母にとります」

「自分では決められへんのか。おまえ、マザコンか」

「セイちゃん、もうおよしなさいってば」

 姫香の母がため息をついた。

 渚が黙って台所から出ていき、しばらくして戻ってきた。

「母も龍覇さんをよく存じているそうで、着替えはすぐに京都に送ると言ってくれました」

「けっ、だいたい京都に行くだけのカネ、持ってんのかいな」

「そうか、今日はそれほど多くは持ち合わせていないな」

「ほれみぃ、カネもないくせに!」

 玄関のベルが、ピンポン、ピンポンと何度も鳴った。

「やれやれ、今日はあわただしい日ねぇ」

 母がバタバタと玄関に行き、短パンにTシャツを着たショートカットの少女を連れてきた。少女が心配そうに聞いた。

「ほんとに姫香、大丈夫なんですか?」

「ええ。落ち着いたらここにくるわ。こちら、姫香のお友達の折田夏希ちゃん」

「こんにちはぁ」

 夏希がニコッと笑って、ぺこりと頭を下げた。

「夏希ちゃんは、渚くんのこと知っているわよね?」

「もちろんです。学校一、かっこいい先輩ですもん。おうわさは姫香からかねがね……なんちゃって」

 ぺろりと舌をだした。

「おれもきみのことは聞いている。いつも彼女を守ってくれてありがとう」

「いやっ、そんなことないですぅ」

 照れたように夏希は手を振りまくった。

「きみやて、あー、きしょくわる。だいたい、彼女て誰のことやねん」

 不機嫌な顔でぶつぶつ言っている静那の肩に母が手を置いた。

「こっちは姫香のいとこの氷室静那ちゃん。渚くんと同じ高校2年生。どう、美形が二人も揃うとすごいでしょう」

「やー、お二人ともお美しくてほんと目のやり場に困っちゃいますぅ」

 静那が夏希をジロジロと見た。

「十人並みや、たいしたことあらへんな」

「は?」

 夏希が静那に向かって露骨に嫌な顔をした。

「ははぁん。美形でもピンとキリってやつですかぁ。あ、勘違いしないでね。先輩がピンであんたがキリね」

 夏希が静那を指さした。

「人のこと、指さすな、ボケ!」

「ありゃ、口は悪くても常識はおありなんだ。こりゃ失礼しました」

 夏希がよそを見ながらぽりぽりと頬をかいた。母がニコニコッと笑った。

「ほほほ、もう仲良くなったのね。よかったわ」

「どこがやねんな、おばちゃん」

「夏希ちゃんも京都に行ってくれるんですって。切符は駅でわたしが買うからみんなで行けばいいわ」

 渚が頭をさげた。

「すみません。お借りします」

 母が人差し指を立てて横に振った。

「若者は遠慮しないものよ、貸し借り無し。いいわね」

「ありがとうございます。姫香さんには十分に注意を払います。ご安心ください」

「けっ、ご安心やて。えっらそーに。結局、二人して姫ちゃんちにたかるんかいな。いやらしい」

「あー、やだやだ。この人、口から出るのは嫌味だけなのね」

「なんやとぉっ!」

 静那が怒鳴って椅子から立ち上がった。

「セイちゃん、やめて!」

 台所の入口で姫香が声をあげた。

 夏希が駆けていって姫香の手を取った。

「あんた、泣きながら電話してくるんだもん。びっくりして飛んできちゃったよ」

「渚が助けてくれたの。心配かけてごめんね」

 姫香がうるんだ瞳で渚を見た。

「渚もごめんね」

「い、いや。おれこそ」

 渚の顔が真っ赤になった。静那が夏希を押しのけて姫香の肩を抱いた。

「なんで泣いてたんや? あいつにいじめられたんか?」

「違うよ。渚は助けてくれたのっ!」

 母が心配そうに姫香を見た。

「体調はどうなの?」

「うん、もう平気」

「ぼく、今日のうちに姫ちゃん連れて帰って来いって、お父ちゃんに言われてるんやけど」

「わたし、渚と約束が……」

「姫香、おれも京都に行くことにしたんだ」

「え、渚も?」

「おれも龍覇さんに会いたい。それに急におまえが巫女になるのは変だ。打つ手があるなら早い方がいい」

 静那がふんと鼻をならした。

「姫ちゃんのことをおまえ言うな。それに巫女ってなんや」

「セイちゃん、詳しいことはあとでちゃんと話すから、ねっ」

「なぁ、ほんまにあいつと付き合うてんのか?」

 静那が渚に向かってあごを振った。

「ほんとだよ」

「ぼくがいてるやないか。いとこでも結婚できるて何度も教えたやろ?」

「セイちゃんは、セイちゃんだもん」

「そんな殺生な。こらっ、姫ちゃんをじろじろ見るな!」

 静那が渚から姫香を隠すように抱きしめた。それを姫香が迷惑そうに押し返した。

 母がクスリと笑った。

「夏希ちゃんも一緒に行ってくれるそうよ」

「夏希も?」

「うん。電話もらった時にこりゃ一大事だと思ってさ。お泊り用の荷物一式持ってきた。姫香が嫌なら着いていかないけどさ」

「夏希がいてくれた方がいい。でも、夏休みまで迷惑かけちゃ……」

「あー、そういうのは無し。京都は中学の修学旅行で行って楽しかったよ。また行けるなんてあたしの方がラッキーだよ」

「なんで、こいつまで連れてかんなんねん」

「渚や夏希と仲良くできないなら、セイちゃんとは口きかない」

 姫香が静那からぷいっと顔をそむけた。

「そんなこと言わんといてぇな。機嫌直してぇや、なっ」

「なーんだ、静那って姫香には骨抜きなんだ」

 夏希がけたけたと笑った。

「呼び捨てにすんな、このアホ女。ぼくの方が年上やぞ!」

「あたしは夏希。そっちこそ、名前ぐらい覚えろ、バカ男!」

「バカやとぉ!  むかつくー!」

「だからぁ、仲良くしてよぉ」

 姫香はオロオロしているが、静那と夏希は楽しんでいるようにすら見える。あきれて見ている渚に母が耳打ちした。

「セイちゃんってね、昔から姫香にメロメロなのよ。京都に行っても渚くんに突っかかってくるのは目に見えてる。でも本当はいい子だから許してやってね」

「は、はぁ」

「さ、姫香、早く支度なさい。今から出れば1時過ぎの新幹線に乗れるわ」

 姫香が上目遣いに渚を見た。

「渚は?」

「このまま一緒に行く」

「じゃ、わたし、急いで用意してくる」

「あたしも手伝ってあげる。その方が早いっしょ」

 姫香と夏希が連れ立って台所をでた。

 

 

水奈 み ながおみやげを買ってこいってうるさいねん」

 東京駅で静那があたりを見回した。

 姫香の母が渚と夏希に告げた。

「セイちゃんには、日那子 ひ な こさんって大学1年のお姉さんと水那子 み な こちゃんって中2の妹さんがいるのよ」

「あ、おばちゃん、あれどうやろ?」

「いいんじゃない。おばちゃんが買ってあげる」

「それ助かるわぁ。おみやげ代まではお母ちゃんくれへんかったんや」

「お昼のお弁当も買わなきゃね。さ、行きましょ」

 母はうきうきとした足取りだ。一緒に行きかけた静那が立ち止まった。

「おまえはそれ以上、姫ちゃんに近づくなよ、ええな。あ、待ってぇな、おばちゃん」

 静那が母を追いかけた。

「あたしがお弁当を選んできてあげるよ」

 夏希が姫香に目配せして走っていった。渚が静那の後ろ姿を追いながらぼそりと言った。

「やっぱり静那ってオノゴロのセイに似てるよな」

「えー、ぜんぜん似てないよ。セイの方が性格も素直でうんとすてきだったもん。ああ見えてセイちゃんってね、けっこうあくどいことを平気でやっちゃうんだよ。気をつけてね」

「知ってる。それにおまえのことを好きなのもよくわかったよ」

「わたしは渚が……」

「それも知ってる」

 渚が微笑んだ。

「お待ち~。お菓子と弁当、ゲットしたでぇ。あ、こら、近づくな言うたやろが」

 静那がおみやげの入ったビニール袋を振り回した。

 母にホームで見送られて東京をあとにした。

 

 二人席が二つ。席を回してボックス席にしようとしている静那を夏希がとめた。

「あんた、姫香とベタベタしたいんでしょ?」

「当然やろ。いっぱい話すんや。なー、姫ちゃん」

「じゃ、席は回さないでよ。姫香もこれまでのことを話しておけば? 先輩はどう思います?」

「そうだな、おれたちは邪魔せずにいるよ」

「ようわかっとるやん。なら、そうしよか、姫ちゃん」

 ほっとしたように姫香がうなずいた。結果、進行方向前の席に静那と姫香。後ろに夏希と渚が座った。弁当を食べ終わると静那はすぐに姫香とべらべらしゃべりだした。みんなの弁当の空き箱を捨ててきた渚に、窓際の夏希がちょいと頭をさげた。夏希の横に座った渚が口を開いた。

「きみに聞いておきたいことがあったんだ」

「はぁ、なんでしょう?」

「姫香って……」

 渚が言いにくそうに視線を外した。

「……その……周りの反応に気がついていないみたいなんだが」

 周りの席や通りすがりの人たちが姫香の席をチラチラと見ている。

 夏希がくすくす笑った。

「先輩も気がつかれましたか。今日は特にすごいですよね。これだけ癒しオーラが出ちゃうと、老若男女問わず姫香のことを好きになっちゃいそうですもんね」

「もしかして学校でも?」

「まぁ、そうですね」

「この状況を姫香はわかっているのか?」

「言っても本気にしなくて。先輩は姫香のファンクラブのことご存知ですか?」

「ああ、くだらないよね」

「噂のせいか確かに告ってくる人はいないんです。それで本人にも自覚がないっていうか」

「そういうことか」

「先輩だから話しちゃいますが、ファンクラブの件でちょっと気になることが」

「なに?」

「うちのクラスにもクラブ員がいるんですが、そいつ、最近は姫香への反応がおびえている感じで。どんなに聞いても訳を言わないんですけどね」

「ふぅん」

「ふぅんって、先輩、なにか知ってるんですか?」

「うん、内緒」

 渚が人差し指で口元をおさえ意味深な目をした。夏希がはっとして小さく敬礼した。

「あ、はい。了解しました」

「悪いね、いつも夏希ちゃんには助けてもらってばかりで」

「あたしも高校に入ってからの友達なんでたいしたことは。あ、小さな頃から男の子によくいじめられたって話は聞いてますか?」

「いや、知らない」

「男の子にいじめられる度に、亡くなったおばあさまに慰めてもらっていたそうです。でも聞いていると、どうも……」

「なに?」

「好きな女の子にちょっかい出して意地悪しているとしか取れなくて」

「ああ、まいったな」

 すこし寂しそうに渚が微笑んだ。それを見て夏希がクスリと笑った。

「先輩も無自覚なんですね」

「え?」

「やだなぁ。先輩だって女子からもてまくりじゃないですか。万一、姫香と先輩が付き合っているってばれたら、学校中大騒動ですよ」

「やっぱりそうなるかな?」

「この前だってけっこうヤバかったですもん。バレたらそれこそ、姫香ちゃん大ピーンチですよ」

「ああ、ほんとに……まいった」

「時間はかかるかもしれませんけど、そのうちきっとみんなも納得してくれますよ」

「ああ、早くそうなってもらいたいな」

「おい、おまえらなんの話をしとるんや」

 静那が椅子の上から後ろに向かって身を乗りだした。

「姫ちゃんの話をしとったやろ。ピンチとかなんとか」

「なんでもない。あんたこそ、姫香と話すのにあきたの?」

「な、訳あるか」

 静那が座席に座りなおした。夏希が渚に小さな声で言った。

「ヤツがうるさいんで、あとはお互いにかまわないってことでいいですか?」

「うん、ありがとう。そうしよう」

「じゃ、失礼します」

 夏希がイヤホンをつけ本を読みだした。さっぱりした夏希の性格は好感が持てた。

 渚は腕を組んで目を閉じた。数時間であれ、姫香と距離をおくのはいいかもしれない。

(姫香とキスできたことは正直うれしい)

 姫香の存在がより身近に感じられたからだ。

 だが、異界でヒルコによって理性を奪われていた時を除けば、衝動によって行動したことなど渚には一度もなかった。それがあの時は泣いている姫香がかわいくて愛おしくて気がついたらキスをしていたのだ。

(あんな衝動をこれから先、おれはコントロールできるんだろうか)

 渚自身、戸惑っていた。

「こいつ、にやけてエロいこと考えとるで」

 はっとして顔を上げると静那がまた席から身を乗りだしていた。

「ほかの人に迷惑だ。いい加減に口を閉じろ」

「なんやとぉ、このむっつりすけべがぁ」

 夏希がイヤホンを外して不機嫌な声をだした。

「あー、もう。うるさい。気が散って本が読めないじゃん」

「夏希も渚もごめんね」

 姫香が静那の裾を引っ張って座らせた。

「ね、静かにしようよ」

「そやかて、あいつらが」

「セイちゃん、わたしね。一緒にいるならカッコいいセイちゃんがいいな」

「そうかぁ、じゃぁ、もうちょっと小声でしゃべろか」

(姫香はすごいや。あいつの操縦法をちゃんとわかってる)

 渚は苦笑をこらえた。 

たきもと裕
光の寝床 ヒルコの夢 -2-
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