天降り姫 ヒルコの夢 -1-

最終章 新たな世界( 5 / 5 )

 

 テレビをつけっぱなしにしたまま、姫香の母は渚の母と長電話をしていた。

 ニュース速報が、『瀬戸内海沖に湧いた泡が急に消えた』と何度もテロップを流している。

 風呂を終えた姫香は花柄のパジャマにカーディガンを羽織り、祖母の部屋から庭におりた。

 いつもより大きく見える満月があたりを煌煌と照らしている。湯上りの体にひんやりとした清浄な空気が気持ちよかった。

「おーい、アモリ、元気?」

 濡れているシートを兎小屋からはずす。兎が光る目をキョトキョトと動かした。

「ここにいたのか」

 浴衣姿の渚が縁側に座った。

「やっぱ、パパの浴衣じゃ丈が短かったね」

「いいんだ。貸してもらえただけでありがたいよ」

 肩のタオルで髪を拭きながら渚が兎を見て微笑んだ。

「おまえの方がうんと小さかったな」

「今は大きいけど、おばあちゃんと縁日で買った時はミニウサギだったんだよ。ね、アモリ」

 二人をチラチラ見ながら、アモリは鼻をヒクヒクさせている。

「アモリで、天降り姫か」

 渚がまじまじと姫香を見た。

「今でもおまえ、巫女になれるのか?」

「うーん、どうだろう?」

 深呼吸して姫香は力の限り巫女を思い描いた。

「ふふっ。ぜんぶ力を使っちゃったみたい」

「それでよかったのさ。もうあんな思いはこりごりだからな」

「そうだね」

 二人で笑った。そばに母がやってきて渚の横に腰をおろした。

「渚くんのお母さんも無事なことを泣いて喜んでらしたわよ」

「ご心配をおかけしました」

 渚が頭をさげた。

「ママ、テレビ見た?」

「ニュースの、海の泡が消えたって話?」

「わたしね、あれはアワシマじゃないかなって思うんだ」

「おれもそんな気がしたよ。ゲンブは異界でも水と縁が深かったからな」

「ヒルコはなぜ光になったんだろ。わたしは、ヒルコは人間になりたいんだとばっかり思っていたよ」

「ああ、おれもだ」

 母があくびをかみ殺した。

「数え切れないほどの年月によって発達した知能が、どういう選択をしたかはわからないけれど。古事記のヒルコって、ひるのような骨のない子とか不具の子って解釈が多いのよね。でもね、そのほかにも色々なものがあってね。その中の一つにお日様の子っていうのがあったわ」

 最後のヒルコの意識に陰はなかった。

「ああ、そうか。日子ひるこは、正常な体を手に入れたんだね」

 水と光、それが彼らの地上での姿だったのだ。

「二人ともちゃんと高天原に帰れたかなぁ」

 いつの間にかみんなで月を見ていた。

「ああ、もうダメ。眠い」

 母が立ち上がった。

「渚くんのお布団は居間にあるから、そっちで休んでね」

「はい。ありがとうございます」

「二人とも湯冷めしないうちに寝るのよ。じゃ、おやすみぃ」

 大きなあくびをして母はフラフラといってしまった。

 

 静寂のなか、異界での想いを抱きしめ、長い間二人で縁側に座っていた。

 月が明るく周囲を照らしている。やわらかな風が包むように流れていく。木の葉や花々の水滴がキラキラと光った。荒れ果てていてもここは美しい世界に違いなかった。

『天降り姫は黄泉よもつ国から来る』と、ヒルコは言った。

 ヒルコにとってこの世界が命に限りある『よみの国』だったとしても、虚無の冬から新たに生まれくる春が訪れるように、薙ぎ倒された木々もすべての生き物も、明日にはまた新たな命を紡いでいく。

(この世界で……)

 姫香が顔をあげるとやさしいまなざしが見つめていた。

(生きていこうな)

 黒曜石の瞳がささやいた。

 そっとつないだ手の中に二人の未来がひろがっていた。

 

END 

 

参考文献( 1 / 1 )

萩原浅男 校注・訳者『完訳 日本の古典 第一巻 古事記』(小学館、昭和五八年)

坂本 勝『古事記の読み方』(岩波書店、平成一五年)

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野 晋 校注者『日本書紀(一)』(岩波書店、平成六年)

松前健『出雲神話』(講談社、昭和五一年)

山口佳紀・神野志隆光 校注・訳者『新編日本古典文学全集1 古事記』(小学館、平成九年)

尾畑喜一郎編『古事記事典』(おうふう、昭和六三年)

上田正昭『日本神話』(岩波新書、昭和四五年)

石川淳・倉野健司・福永武彦 訳者『古典日本文学全集1 古事記 風土記 日本霊異記 古代歌謡』(筑摩書房、昭和三五年)

たきもと裕
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