天降り姫 ヒルコの夢 -1-

最終章 新たな世界( 4 / 5 )

 

 母が両手をかざしながら玄関からでてきた。

「ああ、よかった。雨、やんだのね」

「ママ、逃げてっ!」

 周囲には魔物が隠れているのだ。

「何のこと?  あらまぁ、二人ともずぶ濡れ……」

「お母さんには見えないんだ。こいつらの狙いはおれたちだ。行くぞ!」

 渚に手をひかれ、庭から路地へと走った。

「どうしたの? どこに行くのっ! 姫香っ! 渚くんっ!」

 母の呼び声を背に路地を進む。

 

「この先に神社がある。あそこなら人がいないよ」

「わかった!」

 前方から突進してくる牛馬魔物に向かって渚が突き進む。刀が一閃し、牛の首がボトリと落ちて闇に呑まれた。真珠が2粒、地面にはじけ飛んだ。その横を走り抜けながら、次に出現した一頭の羊魔物も渚はあっけなく切り倒した。刀を自在に使う渚の姿はビャッコそのものだった。

「きゃっ!」

 前に虎の魔物が躍りでた。刀の柄に手をかけた渚の手をおさえる。

「ま、待って」

 黄虎おうこの目が何かを告げていた。

「わたしたちを助けてくれるんだよ」

 姫香は笑顔で渚を見た。そこに渚の悲痛な顔があった。

 羊魔物のトゲが渚の背中に無数に突き刺さっている。トゲが抜けた瞬間、刺さっている穴という穴から血しぶきがあがった。咆哮に似た悲鳴をあげて渚がくずおれた。その渚の横を抜けて虎が跳躍し、羊魔物をかみ殺した。

「渚っ!」

「はぁはぁ……だいじょうぶだ」

 刀を杖にして渚がよろよろと立ち上がった。

「これは朝になれば消える幻想だ。こんなことで死なない。心配すんな」

「う、うん」

 渚に肩をかして歩く。

 神社の鳥居をくぐった途端、狛犬の背後から猿犬マシライヌの頭が歯を剥き襲ってきた。

「がうぅぅ!」

「おれを嘗めるな!」

 一喝して渚が臍帯を斬った。犬の頭がコロコロと足元まで転がってきて闇に溶けて消えた。階段沿いの木々をほかのマシラ犬が飛び移るのがチラチラと見える。階段をのぼりきり姫香はほっと息をついた。

やしろはすぐそこ。あっ!」

 社の屋根に大蛇ヤトがとぐろを巻いている。そのそばにマシラ犬が三匹、姫香たちをバカにしたように見猿、言猿、聞猿の姿勢で並んでいる。

 

「姫香、離れろ!」

 突き飛ばされた。地面に手をついて姫香は顔を上げた。

 地響きを立てて突進してきた巨大なイノコの背に渚が飛び乗り、刀を突き刺した。イノコが大きくのけぞった。すかさずその喉笛に黄虎が食らいつく。

「ぶひひぃぃ!」

 断末魔の悲鳴をあげてドスンとイノコが倒れ、消失した。イノコの背から吹っ飛んだ渚が、大木に激突して木の根元に落ちた。その上にイチョウの葉がばらばらと舞い落ちる。

「渚っ!」

 転げるように姫香は渚のそばに入り、ぐったりとなった体を抱きしめた。木の幹にべったりと血がついている。

「しっかりして、渚っ!」

 渚の体のあちこちから肉が見え、そこから血が滝のように流れ落ちている。恐ろしいほどに変貌した渚の姿は心が散り散りに砕けるほど辛い。その痛みを変われるものなら変りたいと姫香は切に思った。そして、渚も同じ気持ちだとその目が告げていた。

「行け……朝まで……逃げ……きれ……」

 手が姫香を押そうと弱弱しく動いた。その手を強く握る。

「異界でも言ったよ。わたし、絶対に逃げない。だから、渚もあきらめないで」

 渚が力なくふっと笑った。

「そう……だったな」

 魔物たちの笑い声に似た雄叫びが周囲から沸き起こった。

 渚のうつろな目線の先に傷だらけの黄虎がいた。

「あいつ……仲間に……なったんだな……」

 渚の頭ががくりと落ちた。

「渚っ!」

 咄嗟に渚の心臓に耳をあてる。心臓は動いている。

「よかった、気を失っただけ……ああっ!」

 三匹のマシラ犬が姫香の前にじりじりと詰め寄ってくる。

「ガゥゥゥ」

 黄虎が守るように姫香の前に立った。その姿がビャッコとだぶった。

(ああ、そうだった……)

 急速に仲間だったみんなの姿が姫香の心に鮮やかに蘇ってきた。

 (そうだよ、わたしは異界で学んだではないか。自分自身の心が強くなければ人を助けられないことを)

 姫香に向かってみんなが笑顔で道を指し示していた。

(命をかけてもいい。渚を助けたい。この想いが力になるのなら……) 

 体に術を使う時の感覚があふれた。

「わたしに力を!」

 瞬時にワンピースが巫女装束に変わる。

 マシラ犬が姫香の発する白い光に呑まれて消えていく。

 血の跡と傷が消え、意識を取り戻した渚が体を起こした。

「おまえ、ここでも術が……」

「聞いて。わたしたちはいつも戦うことを考えていた。でも、それは間違いだったのよ」

「何を言っているんだ」

 渚が伸ばした手を逃れ、姫香が空中に浮かび上がった。

「何をする気だ、姫香、姫香っ!」

 社の大蛇に対峙するように姫香が空中で静止した。

「夜刀、わたしは渚と出会えて幸せだよ。セイとスザクも出会えて幸せだったと思う。それがどういうことか、ほんとうは夜刀にもわかっているんでしょう?」

 威嚇するように大蛇がシャーッと牙を剥いた。

 

「姫香! 降りて来い、姫香!」

 地上から姫香の名を呼ぶ渚の声が聞こえる。

「渚、わたしを見ていてね」

 小さな声でそう言って、大きく深呼吸をして姫香は目を閉じた。

(セイ、スザク、わたしの力がなんなのかやっとわかったよ。わたしの力はスザクと同じいやの力。穢れを払い清める力だったんだね)

 ふと、遠い昔に祖母が見せてくれた赤茶けた写真を思い出した。

 そこに写る祖母の小さな頃の姿は、スザクに似ていた気がする。

(おばあちゃん、わたしがんばるからね)

 持てる力を信じ、言葉がいずるままに任せる。

「天空より高き処、地底より深き処、高天原より天降りし伊邪那美の命以て、ぬばたまのこの黒き穢れ、我が封印いたしましょう!」

 突如、姫香の喉の奥に黒い妖気が流れた。怨念のおぞましい感覚が体の隅々まで満ち、体を駆け巡る恐怖や苦痛に押し潰されそうだ。

「ククク……」

 闇の中から人の姿をした夜刀が、ゆっくりと近づいてきた。

 どうやら姫香は体から離れ、魂だけがこの地にいるらしい。

「汝、彼の地に赴く寸前に、吾が宿りしモノを見たであろう」

 和時計の幻影がゆらりと揺れた。

時計あれはな、現世と混沌の狭間に落ちておったのだ。故にヒルコが混沌を開く時、人間にも見えた。ヒルコが在れを見て何と言うたか教えてやろうか。此れではまるで、伊邪那岐イザナギ黄泉比良坂よもつひらさかの入り口を塞いだ千引の石ちびきのいわではないか、とな。どうだえ、愉快であろう?  ヒヒヒヒヒ」

 狂ったように夜刀が笑った。

「伊邪那岐……黄泉比良坂……古事記の?」

 

 古事記の場面を鮮明に思い出した。

 男神・伊邪那岐イザナギみことと女神・伊邪那美イザナミの命は、高天原たかまがはらの神に国づくりを命じられ、淤能碁呂島おのごろしまへと天降あもる。まず女神から声をかけて交わるが最初に生まれたのは水蛭子ヒルコ。水蛭子は不具の子であったため、葦の船に入れて流し捨てられてしまう。次に生まれた淡嶋アワシマは、子の数にも入れてもらえない。女から先に声をかけたのがいけないと、今度は男から声をかけて交わる。すると、国生みの儀式は成功し、正常な国々が次々と生まれ出す……。

 

 祖母は姫香に古事記を読み聞かせた。あれはあの世界を示唆しさしていたのだろうか。

 

 

「吾が記憶、見せてやろう」

 夜刀が白い着物の袖をサッと振った。

 

 和時計を抱えた少女が混沌の彼方にたたずんでいる。

 少女がヒルコに似た青年に悲しそうにいった。

「なぜこんな所にわたしを連れてきたのですか?」

「体を作ってくれ。正常な体を」

「あなたを恨むわ……恨むわ……」

 うわずったその声は正気とは思えなかった。

 

「彼女を助けてあげて!」

 姫香は叫んだ。夜刀が少女を指さした。

「過ぎし時には戻れぬ。よく見ておけ」

 

 少女が和時計から針を引き抜き、ずぶりと喉元に刺して息絶えた。

 その鮮血は和時計に赤い色をつけた。

「見よ。イサも程無く死ぬ」

 死んでいる少女を見つけた少年が、驚愕の面持ちでもう片方の針を握った。少年の体は疲労困憊している。よろよろと立ち上がった少年が、ヒルコに一太刀浴びせようとしてその場に倒れ伏した。

「混沌の流れに、生身の体が絶えられぬのだ」

 

「今までにどれほどのイサとナミが死んだか、計り知れぬわ」

 召喚され窒息して死んだ者、体が引き裂かれた者、食べ物を食べて苦しみもだえ死んだ者……何人ものイサとナミの姿がフラッシュバックして消えた。

 すべてのイサとナミがヒルコの足元で死んでいた。

 

「どうだえ、此れでもヒルコを殺すなと言うかえ?」

「そうじゃない、そうじゃなくて」

 急に夜刀が顔を前に突きだした。

「汝は何を考えている。なぜ今更、寄坐よりましとなることを選ぶ」

「わたしの心を見れば、何を望んでいるかわかるでしょう?」

「ならば、見せて貰おう」

 夜刀が冷酷な笑みを浮べ去っていった。

 

 ヒルコとアワシマが駆けてきた。

「姫香!」

「お姉ちゃん!」

「ヒルコ、アワシマ、来てくれたんだね。きっと来てくれると思ってた」

 ヒルコの顔が悲しそうにゆがんだ。

「寄坐なぞ……なぜ、あれを乗り移らせたのだ。夜刀を浄化できねば死ぬのだぞ」

 アワシマが姫香の横にくずおれた。

「お姉ちゃん、なぜこんなことをするの。殺されちゃうよ」

「そんなことないよ。お互いに誤解しているだけ。わたしはその誤解を解きたいの」

 遠くで密やかに夜刀が笑っている。

「俺は……俺はな……」

 映像が揺らめきヒルコの記憶が姫香に流れこんだ。

 

 

(ドコダ……ココ……)

 気がつくとヒルコとアワシマは混沌とした空間を流れていた。ただ父と母に会いたかった。俺たちを生んだ父と母だ。死ぬはずはない。俺たちは迷子なのだ。

 俺は長い年月、父と母を求め彷徨った。弟のアワシマは泣くばかりだ。

 苦難の末、俺は母の手がかりを見つけた。この地に召喚すると来たのはナミだった。

(方法ハ完璧ダ。ダガ、何故コイツガ来タノダ)

 ナミは母ではない。しかし、たしかに母の残り香を身に持っている。

(コノ男ハ誰ダ)

 ナミが身に持つ八咫鏡やたのかがみの中に映る伊邪那岐と伊邪那美は父と母だ。ナミは父母への道標に違いない。八咫鏡をさぐるうちにイサの痕跡を見つけた。試しにイサを召還するとナミまで同時に異界に来た。それ以降、イサとナミは常に一対となって異界に現れるようになった。

 イサだけを召喚することができない。召喚はナミの年齢に関係あるようだ。ナミの体が子供から大人へと変容する時。心が夢と現実を混在できる儚い時。この条件でのみ、混沌ここへの道が開くのだ。

(二人ハ、父母ト関ワッテイル)

 だが、色々な事柄は深く封印されていて解読ができない。

 真実を知るには俺たちが外に出て、父と母を見つけるしかないのだ。

 イサから古事記の知識を得た。俺たちは不具の子だそうだ。人間は形がないと認めない。俺たちが外に出られないのも形がないからだ。

(俺達ノ本当ノ形……正常ナ形ハ)

 何度、形を作ってもそれを留めておけない。

 俺たちは父イザナギと母イザナミから生まれた。ここでイサとナミに形を作らせるしかない。けれども、人間ふたりは弱く何度呼びこんでもすぐに死んでしまう。俺たちに恐怖するだけで愛してもくれない。

黄昏時たそがれどきガイイ……)

 外界には時間がある。イサとナミを時の狭間はざまに呼びこめば、体と魂の分離も急激にはやってこない。

 人間の脳を操るのは容易い。だが、大脳をいじることで記憶の欠損を生じる。しかし、それは些末な事柄だ。時間の観念や心象風景からの世界創造は二人の行動に有益だ。

(アレハ、何ダ?)

 いつしか死んだ者たちの怨念が外界との境に凝縮し、放置していた和時計に宿った。

 イサとナミのために昼夜を作った直後、怨念の実体化現象が起こった。怨念を排除しようとすると今度は十二支の魔まで現れた。力は拮抗きっこうし、怨念は世代を重ねるごとに呪いを増幅させている。

(邪魔ヲスルナ)

 俺たちは争いたいのではない。父と母に逢いたいだけなのだ。

 

 

「かわいそうなヒルコ。かわいそうなアワシマ」

 ヒルコの過去が切なく映った。

「夜刀もあなたたちと同じなんだよ。異界に取り残され、怖くて、寂しくて、悲しかったの。異界にいた時のわたしと同じ。寂しさにみんなが振りまわされていたの。そのせいで、お互いを憎んでしまったんだよ」

 地獄の炎で炙られる苦痛が体をなめた。

「け……れど、いいこともあったよ。伊邪那岐と伊邪那美がみんなを結んでくれた。苦しいこともあったけれど、こうしてみんなと出逢えて……わたし、ほんとうによかった……幸せだった……よ」

 思考が途切れだした。

「ヒルコ、アワシマ、夜刀……みんなを……愛して……いるよ……愛して……る……」

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!」

 アワシマが狂ったように泣いている。ヒルコがはらはらと涙をこぼした。

からだはただのからでしかない。それがこの地に来て初めてわかった。こんなモノのために俺はイサとナミを苦しめてきた。大切なのは、体ではなく心なのだとお前に会うまで俺は知らなかったのだ。すまない。俺がすべて間違っていた。姫香、罪を負うのはお前ではない。俺だ。体に執着していた俺が悪かったのだ。だから、死ぬな。死ぬな、姫香!」

 闇が体を侵食しもぎ取っていく。

「みんなを……渚を……愛して……る……」

 姫香は意識を無くした。

 

 

 地上へ落下してきた姫香の体を、渚が受けとめた。

「姫香、しっかりしろ」

 ゆすっても意識が戻らない。

「おまえ、いったい何をしたんだ。おれはどうしたらいいんだ」

 姫香を抱きしめる渚をじっと夜刀が見下ろしていた。

「ナミは吾が手中にある」

 姫香を見つめたまま渚がさびしげな笑みを浮かべた。

「おれにも姫香の言っていた仲間の意味がやっとわかったよ」

「其は何か?」

「伊邪那岐が伊邪那美と一緒にいたければ黄泉の国の者になればよかった。戦わず、愛し合えばよかったんだ」

「ナミは死ぬ。イサは吾を恨むであろうな?」

「姫香がどんな運命を受け入れたとしても、おれは姫香とずっと一緒にいる。ただそれだけのことだ」

 夜刀がうれしそうに微笑んだ。

 

 

 姫香の脳裏に一筋の光が射した。

「汝は、吾と会い幸せと言うた。愛していると言うた」

 夜刀の声が、澄み切ったせせらぎのように流れた。

「罪が白日の下に出で、吾が心は癒された。吾は清浄の地に参ろう」

 そばに寄ってきて、夜刀が何かを握らせた。

「最後に汝の望み、聞かせよ」

 夜刀が淡く白く輝いている。

「わたしの望みは……渚と……」

 

 やわらかくあたたかな白い光が姫香の全身を包んだ。黄虎が姫香の頬をひとなめし、夜刀の後を追って光の中へ消えた。そして、アワシマとヒルコの笑顔が、脳裏に一瞬閃いた。

 そして、苦痛がフッとなくなった。

 ゆっくりと目を開けると、そこには渚の泣きそうな顔があった。

「姫香、よかった!」

 渚が強く姫香を抱きしめた。

「渚……これ……」

 姫香の手の中には祖母の竹櫛があった。

 

 暗闇に突然、ミラーボールのようにキラキラとした光が走った。

 二人の上にはらはらと光の粒子が舞い落ちる。

 その懐かしい感覚にそれが誰だかわかった。

「……ヒルコ」

 光が嬉しそうに一巡して、夜空を駆け抜けていった。

 満月の下、動くことも忘れてじっと二人は抱き合っていた。

最終章 新たな世界( 5 / 5 )

 

 テレビをつけっぱなしにしたまま、姫香の母は渚の母と長電話をしていた。

 ニュース速報が、『瀬戸内海沖に湧いた泡が急に消えた』と何度もテロップを流している。

 風呂を終えた姫香は花柄のパジャマにカーディガンを羽織り、祖母の部屋から庭におりた。

 いつもより大きく見える満月があたりを煌煌と照らしている。湯上りの体にひんやりとした清浄な空気が気持ちよかった。

「おーい、アモリ、元気?」

 濡れているシートを兎小屋からはずす。兎が光る目をキョトキョトと動かした。

「ここにいたのか」

 浴衣姿の渚が縁側に座った。

「やっぱ、パパの浴衣じゃ丈が短かったね」

「いいんだ。貸してもらえただけでありがたいよ」

 肩のタオルで髪を拭きながら渚が兎を見て微笑んだ。

「おまえの方がうんと小さかったな」

「今は大きいけど、おばあちゃんと縁日で買った時はミニウサギだったんだよ。ね、アモリ」

 二人をチラチラ見ながら、アモリは鼻をヒクヒクさせている。

「アモリで、天降り姫か」

 渚がまじまじと姫香を見た。

「今でもおまえ、巫女になれるのか?」

「うーん、どうだろう?」

 深呼吸して姫香は力の限り巫女を思い描いた。

「ふふっ。ぜんぶ力を使っちゃったみたい」

「それでよかったのさ。もうあんな思いはこりごりだからな」

「そうだね」

 二人で笑った。そばに母がやってきて渚の横に腰をおろした。

「渚くんのお母さんも無事なことを泣いて喜んでらしたわよ」

「ご心配をおかけしました」

 渚が頭をさげた。

「ママ、テレビ見た?」

「ニュースの、海の泡が消えたって話?」

「わたしね、あれはアワシマじゃないかなって思うんだ」

「おれもそんな気がしたよ。ゲンブは異界でも水と縁が深かったからな」

「ヒルコはなぜ光になったんだろ。わたしは、ヒルコは人間になりたいんだとばっかり思っていたよ」

「ああ、おれもだ」

 母があくびをかみ殺した。

「数え切れないほどの年月によって発達した知能が、どういう選択をしたかはわからないけれど。古事記のヒルコって、ひるのような骨のない子とか不具の子って解釈が多いのよね。でもね、そのほかにも色々なものがあってね。その中の一つにお日様の子っていうのがあったわ」

 最後のヒルコの意識に陰はなかった。

「ああ、そうか。日子ひるこは、正常な体を手に入れたんだね」

 水と光、それが彼らの地上での姿だったのだ。

「二人ともちゃんと高天原に帰れたかなぁ」

 いつの間にかみんなで月を見ていた。

「ああ、もうダメ。眠い」

 母が立ち上がった。

「渚くんのお布団は居間にあるから、そっちで休んでね」

「はい。ありがとうございます」

「二人とも湯冷めしないうちに寝るのよ。じゃ、おやすみぃ」

 大きなあくびをして母はフラフラといってしまった。

 

 静寂のなか、異界での想いを抱きしめ、長い間二人で縁側に座っていた。

 月が明るく周囲を照らしている。やわらかな風が包むように流れていく。木の葉や花々の水滴がキラキラと光った。荒れ果てていてもここは美しい世界に違いなかった。

『天降り姫は黄泉よもつ国から来る』と、ヒルコは言った。

 ヒルコにとってこの世界が命に限りある『よみの国』だったとしても、虚無の冬から新たに生まれくる春が訪れるように、薙ぎ倒された木々もすべての生き物も、明日にはまた新たな命を紡いでいく。

(この世界で……)

 姫香が顔をあげるとやさしいまなざしが見つめていた。

(生きていこうな)

 黒曜石の瞳がささやいた。

 そっとつないだ手の中に二人の未来がひろがっていた。

 

END 

 

参考文献( 1 / 1 )

萩原浅男 校注・訳者『完訳 日本の古典 第一巻 古事記』(小学館、昭和五八年)

坂本 勝『古事記の読み方』(岩波書店、平成一五年)

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野 晋 校注者『日本書紀(一)』(岩波書店、平成六年)

松前健『出雲神話』(講談社、昭和五一年)

山口佳紀・神野志隆光 校注・訳者『新編日本古典文学全集1 古事記』(小学館、平成九年)

尾畑喜一郎編『古事記事典』(おうふう、昭和六三年)

上田正昭『日本神話』(岩波新書、昭和四五年)

石川淳・倉野健司・福永武彦 訳者『古典日本文学全集1 古事記 風土記 日本霊異記 古代歌謡』(筑摩書房、昭和三五年)

たきもと裕
天降り姫 ヒルコの夢 -1-
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