天降り姫 ヒルコの夢 -1-

最終章 新たな世界( 2 / 5 )

  

「ほうら、渚くん、おいしそうでしょう!」

 片面が焼けたステーキを母が嬉しそうに引っくり返した。

 妙に明るく接する母が不気味だった。渚の名前をなぜ知っているのかと聞いた時も、「そんな気がしたのよ」と、話を打ち切られた。轟く雷鳴に母が不安そうに窓を見た。

「まるで台風でもきたみたいねぇ」

「あの、ぼく、なにかお手伝いします」

「そうね、姫香と一緒にお料理を運んでもらおうかな」

 居間に料理が並ぶ。ジュースでの乾杯と誕生祝いの言葉のあと、普段より早めの食事がはじまった。

「おいしいですね!」

 ステーキ、アサリのチャウダー、イタリアンサラダ、水菜とキノコのマリネ、海老のハーブ焼き、チキングラタン、フランスパン。

 机の上の料理を渚はどれもおいしそうに食べた。それを見て感心したように母が息をもらした。

「年頃の男の子って、やっぱりたくさん食べるのねぇ」

「ぼく、あの、すみません」

「あら、変な意味じゃないのよ。食べてもらって嬉しいのよ。この雨で主人も出張先から帰れなくなったし、残っても大変なのよ。だから、がんばって食べてね」

「ほんと、ママって作りすぎ。いっつも残り物を次の日に食べることになるんだもん。ね、もっと食べなよ。ほら、ビャッコ、サラダついであげる」

「えっ?  ビャッコって?  ねー、ねー、渚くんっていつもは、そう呼ばれているの?」

 母は鬼の首をとったような勢いだ。

「違う、違う!  ママの聞きまちがい!」

「そうです。聞きまちがいです」

 慌てふためいてサラダをつぐ姫香に、母が疑りの目を向けている。

「ふぅぅん。ああ、そうそう、そう言えば白虎って風水に出ていたわよね。ちょうど時間じゃない。昨日の続きを観ましょうか」

 母がリモコンを手に持ち、テレビをつけた。大音響とともに画面に青龍、白虎、玄武、朱雀の絵が大写しで現れた。金色に輝く文字で『風水スペシャル第二夜』というタイトルがその上に重なる。

 渚が姫香の耳元で小さく囁いた。

「昨日、おまえもこれを観たのか?」

「あらぁ、渚くんも観たの。風水ってけっこう面白いわよね。ね、姫香」

 今日の母は地獄耳らしい。二人とも何も話せなくなった。

 昨日のダイジェストを放送したところで急に画面が途切れ、ニュース速報が入った。

 女性アナウンサーが緊迫した様子でしゃべりだした。

「トップニュースをお伝えします。現在、瀬戸内海沖で、海底より不思議な泡が噴出しているという情報が入りました。識者の間では海底火山の噴火の可能性もあるという見解です。詳しい調査は環境が整い次第、開始するとのことです。では、次のニュースをお伝えします。首都圏では豪雨と強風のため交通が寸断されています。大雨暴風警報が発令されていますので充分な注意をお願いします。その地域は……」

 画面が文字の羅列に変わり、それをきっかけに渚が席を立った。

「ごちそうさまでした。これでおいとまします」

「こんな雨の中を帰れるはずないでしょう。乗り物だってないのよ」

「なんとかして帰りますから」

「うちに泊まると連絡すればいいわ。ご家族もこんな嵐の中を帰るより安心よ。お誕生日のケーキも残っているし、それに、大事な話だってまだ済んでないものね」

 母の意味ありげな上目遣いに姫香と渚はごくりと唾を呑みこんだ。

 

 渚が家に電話をかけると途中で母が受話器を引ったくった。そのあとはあっという間に泊まることが決まっていた。

 居間をみんなで片付け、台所のダイニングテーブルに場所を移す。

 ハッピーバースディーを歌ってもらい、バースディケーキの蝋燭を消した。ケーキを切り分け、紅茶を入れる母は鼻歌をうたい、いつにも増して上機嫌だ。ティーカップを置いて席についた母が、にこやかに口火を切った。

「で、二人は桃太郎と雉になったの?」

 その言葉は青天の霹靂せいてんのへきれきだった。

「ひ、ひどいよ。盗み聞きなんて!」

 母は紅茶に口をつけながら、二人の反応を楽しんでいる。

「そんなことする訳ないでしょう」

「では、なぜご存知なんですか」

 落ち着いた口調だが渚も戸惑っているのがわかる。

「今日は姫香の誕生日なのよ。異界へ行くなら今日しかないでしょう」

 渚が勢いよく椅子から立ち上がった。

「17歳の時に行くんじゃないんですか?  モモさんは17だったって」

 母が大きく左右に手を振った。

「違うわ。母が異界へ入ったのも、16の誕生日の黄昏時よ。ほら、昔は数えだったでしょ。だから、今の16にあたるのよ」

 力が抜けたように渚が椅子へ腰をおろした。母がケタケタと笑った。

「で、どっちが桃太郎になったの?」

「ぼくたちは、兎と虎になりました」

 渚が神妙に白状した。

「じゃ、桃太郎には誰がなったのよ」

「桃太郎はいなかったのよ。わたしが天降り姫って名前でうさぎになって、渚はビャッコっていう名前で白い虎になったの」

「なぜそんなものになっているのよ」

「わたしにだってわかんないよ。ママの方が詳しいんじゃないの?」

「ママに異界の知識があるのはね、母の桃太郎を暗唱できるほど聞かされて育ったからよ。ママだって運命の人が現れるのを待ってもいたわ。けれど、なにも起こらなかった。そりゃそうよね。対になる男性がいなかったのですもの」

「なぜ、対になる人がいないの。渚のお父さんは?」

「おれの父は婿養子なんだ。祖父と祖母の間には母しかいない。だから、伊佐直系の男はおれまでいなかったんだよ。凪の介以降、最初の長子がおれなんだ」

「なぜ、ママがそのことを知っているの?」

 母がケーキを口にしながら、思い出し笑いをした。

「ふふふっ。調べたのよ。若かったし、あきらめが悪かったのね。無理を言って東京の大学に入り、母から聞いた話を頼りに、凪の介さんの住所を突き止めたの。だから、渚くんのお母さんと知り合って、もう20年以上になるかな」

「ぼくの母と、そんなに前から」

 渚と同じことを母は先にやっていたのだ。

「小さな頃はよく渚くんのおうちにお邪魔したのよ。剣術を応援していたわたしとその膝の上にいた小っちゃな女の子を覚えていない?」

 驚いたように渚が母を見た。そして、驚きと嬉しさのいりまじった表情で姫香に目をやった。

「ひめ……ちゃん……?」

「わたし、覚えてない」

 母がけらけらと笑った。

「ふたりとも小さかったもの。覚えてないのが普通よ」

「母とそれほどの付き合いなら、ぼくが異界のことを調べているのもご存知だったんですよね。ぼくにだけでも教えてくだされば」

 母が手を上げ、渚の言葉を制した。

「二人に黙っていたのは、あなたたちの接触を恐れたからよ。姫香は名字も氷室だし、桃太郎を回避できると思っていた。それなのに、ある時をさかいに和時計が見えるとあなたたちが言いだしたの。わたしたちには見えない和時計がね。その時のわたしたちの驚愕がわかって?」

「それ……おれが……ひめちゃんにキスしたからだ」

「ええっ、キスゥ?」

 いくら小さな頃とはいえ母の前なのだ。姫香は真っ赤になった。

 渚はそんなことはお構い無しに記憶を手繰っている。

「かわいくて大切でキスした。けど、そのあと和時計が見えるようになって。どんどん母さんたちの態度が変わって。全部、おれのせいだ」

「わたしたちが悪いのよ。予想もしてなかった出来事に慌てて、あなたたちを引き離してしまった。渚くんが幼稚園に入って、姫香を忘れたようだって聞いた時には本当にほっとしたのよ」

「忘れたんじゃないんです。ひめちゃんに会いたいと母にどんなに頼んでも駄目でした。だから、罰を受けたんだと思ったんです」

「渚くんのせいじゃないのよ。それはわかってね」

「はい、今は理解できます」

「姫香も苦しんだのよ。ずっと原因不明の熱がさがらなくて、生死に関わるとまでお医者さんに言われてね。それで母に東京に来てもらったのよ」

「嫁姑問題がこじれたからじゃなかったの?」

「ああ、あれは建前よ。ママが助けてと頼んだの。実際、母は渚くんを忘れさせてくれて。あなたをずっと見守ってくれた。感謝しきれないわ」

「おばあちゃんが……ずっと」

「ただ、これはうちのパパも、渚くんのお父さんも知らないこと。聞いて信じられる話ではないものね」

 

 母が顔をすいっとあげた。

「さ、今度はママに異界で何があったのか、くわしく教えてちょうだい」

 母に促され姫香たちは異界でのことをかわるがわる語った。

 話を聞き終わった母が大きなため息をついた。

「まったく恐ろしい話ね」

「夜刀の話。おれが二人いたってこと。何もかもが驚きだな」

「渚は制服でいた時のことは覚えてないの?」

「知らない。制服のおれは何か変なことをしていたのか?」

「別に何も。顏もはっきり見てないし」

「天降り姫という名付けも恐れ入るわ。ヒルコほどさとければ意味を含ませたでしょうね」

「アモリに意味ってあったの?」

「何を言っているのよ。伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの二神が淤能碁呂島おのごろしま天降りあもり、のアモリから母が名づけたでしょう。あなたもいい名前だって喜んでたじゃないの」

「え、そうだったっけ」

 渚がいぶかしげに聞いた。

「アモリって?」

「うちで飼っているうさぎの名前が、アモリって言うの」

「それで、天降り姫になったって言うのか?」

「渚くんの白虎もペットがらみかしら。昔、渚くんちで子猫を飼ってたでしょう。たしか名前は」

「トラです。老猫ですが元気に生きています」

「渚くんが白虎になったは、きっと猫のトラと風水からの連想ね」

「そうか。異界はぼくらの記憶から構成されてたんですね。道具屋、アイテム、宿屋、パラメータ。あれは、ぼくがテレビゲームを知っていたからだ」

「母の誕生日は三月三日の桃の節句。そこから女桃太郎になった。ヒルコは、脳に話しかけると同時に、脳の中まで見ていたのね。やるわねぇ、ヒルコ」

 母がクイズの答えを見つけた時のようにはしゃいでいた。

「あ、はっ……ぐぐっ!」

 急に渚がうめき声をあげテーブルに突っ伏した。手がぶるぶると震え、真っ青な顔から冷や汗がしたたっている。

「どうしたのっ!」

 姫香と母が同時に叫んだ。

「まさか……ヒルコが……一夜で死ぬ……と言ったのは……この……ぐっ」

  吐き気を抑えるように渚が口と腹を押さえた。

最終章 新たな世界( 3 / 5 )

 

 ほどなくして渚の痛みが引いた。

「まだ顔が青いよ。苦しいんじゃない?」

「いや、さっきよりずいぶんいい。おまえは? 体はなんともないか?」

「うん、わたしはなんともないよ。でも、どういうことなんだろう」

「虎の魔物を倒したあと、ヒルコが言っていたろう。もし万一、食べることが叶ったとしても、ヨモツ国に戻れば一夜を待たずして死ぬ、と」

「あ……」

「その意味がいま、腑に落ちた。あれはおまえにじゃなく、おれに向けた言葉だったんだ。そして、その一夜とは……零時がおれのタイムリミットだという意味だ」

「それって、渚が死ぬってこと?  そんなの嫌っ!」

 姫香の手に渚がやさしく手を置いた。

「おれだって死にたくない」

 母があわてた。

「ちょっと待ってよ。死ぬって。そんな気がするだけじゃないの?」

「いえ、この痛みはこの世のものとは違います。助かるには異界でやったように呪縛解除の方法を探すしかありません」

 二人の肩を抱いて母が引き寄せた。

「きっとどこかに助かるヒントがあるわ。それを見つけましょう」

 椅子に座り紅茶に口をつけた母の手は震えていた。

 

「時間がないから、女桃太郎とオノゴロとを比較した話だけをするわね」

 姫香と渚がうなずいた。

「母は陣羽織に鉢巻という桃太郎の姿になって、女桃太郎と呼ばれたの。凪の介さんは若武者風の装いをして、しもべの雉を武器として使ったわ。そして、女桃太郎は12匹の鬼と壮絶な戦いをしたの。気になるのは、やはりヒルコ。母の時は川を流れてきた桃の中に肉が入っていて、それがヒルコと名乗るの。そして、ヒルコは女桃太郎の家来になった」

「家来? 案内役じゃなくて?」

「そう、そして、ヒルコが体を揃えてなったのは、猿」

 あの高慢なヒルコが猿になるとは信じがたかった。

「ゲンブの代わりは、アワシマという犬ね。力があるのに感情が幼いところが、ゲンブとそっくりだわ」

「猿と犬は、人間になったんですか?」

「いいえ。話が進むと同種の強い動物へと変身したわ。ヒルコは、日本猿から妖怪の狒々ヒヒ、天狗に似た猿田彦という猿へ。アワシマは、仔犬の四国犬が、日本狼、巨大な狛犬へとね」

「変だな、子として産まれる気なら、人間になるはずだ。なぜ、ならなかったんだ」

「あなたたちと結末が違ったからじゃないかしら」

「おばあちゃんの結末はどうなったの?」

「母と凪の介さんは、鬼の王と和解して現世へ帰ってきたのよ。母の話では、どう贔屓目に見てもヒルコが悪で、鬼が善だったわ。ヒルコとアワシマって古事記にも不完全な子として出てくるでしょ。ママも昔からこの二人にはずっと引っかかっていたのよ。だから、大学で古代文学を専攻もした。渚くんちは伊邪那岐流だから古事記には詳しいわよね」

「はぁ、まぁ」

「ママ!  わたしたちが知りたいのは呪縛解除の方法なの。それを教えてよ!」

 もう十一時をまわっているのだ。どこまでも平行線のような母の話が役に立つとは到底思えなかった。机に突っ伏した姫香の肩に渚が手をやった。

「お母さんにそんな言い方をしちゃいけない」

「だって……」

「脱線しちゃったわね。あせってもいい考えは出ないわ。お茶を飲んで落ち着きましょうか」

 母がティーポットに紅茶の葉を入れてお湯を注いだ。

 その動作を見ていた渚がふと思いついたように聞いた。

「女桃太郎に食べ物は出てきましたか?」

「きびだんごね。母が渡したきびだんごを食べて、ヒルコとアワシマは仲間になったの。だけど、姫香と同じように母も凪の介さんも食べられなかったわ」

「やっぱりそうか。セイも、イサは食べないと言い切っていました。あの世界で食べる行為をして、生き残ったのはぼくが初めてなんだ」

「おばあちゃんと違うことばっかりで参考にならないよ」

「違うことばっかりか。いや、似てる部分もある。食べるか、食べないかだ」

「それって、似てるって言えるの?」

「ヒルコの思考回路なら、前の行動パターンを進化させるに違いない。食べ物、変身、ヨモツ国……それらを繋ぐ法則が何かあるはずだ」

「……あっ!」

 母が小さな叫び声をあげ、姫香をちらりと見た。

「なに、ママ。気がついたことがあるなら言って」

「あ、うん。また関係ないって怒られそうだけど」

「いい、言って!」

「ヨモツ国って、黄泉よ みの国のことじゃないかしら」

 渚の目が輝いた。

「ぼくもそうだと思います」

「それって、古事記のお話だよね?」

「そう。黄泉の国のくだりに食べ物が出てくるの。難産で死んだ妻のイザナミが恋しくて、夫のイザナギは黄泉の国へと妻を迎えに行くのよ。すると、イザナミは、『わたくしは、黄泉戸喫よもつへぐいをした』つまり、『黄泉の国で煮炊きした物を食べて黄泉の国の住人になったから帰れない』、とイザナギに言うのよ。ようは、同じ釜の飯を食べて同族意識を持ったってことなんだけど、これって体が変化したと取れなくもないわよね」

 渚が何かに思い当たったように顔をあげた。

「ヒルコが、ゲンブに戸喫へぐいはヨモツ国へのくさびだと言っていました」

 姫香が頬に手をやった。

「待って。クサビって言葉……わたし、ほかでも聞いた……どこだっけ……あっ!  ヒルコが、イサに会えたら、楔をもって楔を抜けと伝えろって!」

「そうか。おれは肉を食べ異界の住人になった。そして、ここでも肉を食べた。これが楔を抜く鍵だ」

「だから、呪縛解除ができ……」

 言いかけた言葉を姫香は呑みこんだ。渚のあぶら汗はまだひいてはいない。

「楔を抜くためには、ほかにもまだ何かあるんだ。なんだ。何があるんだ」

 カチャンと音をたてて、ティーカップが姫香たちの前に置かれた。

「さ、紅茶をどうぞ。本当はね、こんな時にはリラックス効果のあるミントティーがいいのよ。だけど、今日はちょうどミントがなくって」

「それだ!  それもです!」

 渚が椅子を倒して立ちあがった。

「ミントってハッカのことですよね!  食べた薬は、どれもハッカの味でした!」

「ママ、おばあちゃんのハッカ飴を出して!」

「ないわよ。もうそんなもの」

「ほかにミントのものはないんですか?  ガムとか飴とか」

「ないわ。庭にミントを植えてはいるけれど、今日はこの雨だし」

 言葉を聞き終わらないうちに姫香の体は駆けていた。背後から母の声があがる。

「外はひどい雨なのよ!  ミントが無事かどうかだって!」

 考えている暇はない。玄関ドアに手をかけた時、姫香は渚に腕をつかまれた。

「おれが行く!  おまえは家にいろっ!」

「そんな体で無理だよ。それに渚はミントがどこに植えてあるか知らないでしょ!」

「仕方ない。一緒に行くぞ!」

「渚くん、ちょっと待ちなさい!」

 追いかけてきた母があきらめ顔で靴箱を開けた。

「主人の草履を履いていきなさい。二人とも気をつけるのよ」

「はい。お借りします」

 渚が深々とお辞儀をして、靴箱から草履を取った。

 

「うわ、ひどい雨!」

 外は空の栓が抜けたようなどしゃぶりだ。

 強風と豪雨に吹き飛ばされそうな体を渚に支えられながら姫香は庭を進んだ。なぎ倒された植木がミントの植えてある場所に覆い被さっている。それを二人でどけるとひしゃげたミントがあった。渚がミントを株ごと引き抜き、家に向かって歩きだした。

「姫香、先に行け!」

 渚に前へと強く押され、振り返った。渚の肩口が裂け、腕から血が流れている。

「何っ、何があったの!」

 渚がミントをかじり、立てかけてある庭ぼうきを手にした。

「いいから、行けっ!」

 がしゃん、と音をたて、姫香の足元に壊れた和時計が落ちてきた。

「どこから、これが?」

 見上げた雨脚の先に、滅ぼしたはずの兎と鼠の合体魔物、トソが無数にいる。

「なぜここに!」

 トソたちが急降下してくる。渚が振りまわすほうきは確実にトソに当たっている。だが、トソは透明になったように庭ぼうきを素通りし噛みついてくる。

「きゃぁぁっ!」

 払っても払っても何匹ものトソが姫香に噛みついてきた。

「いやぁぁぁ!」

 その恐怖と痛みに姫香は膝を折った。

「だらしがないぞ、姫香」

 聞き覚えのある声だった。

「まさか……」

 顔をあげるとヒルコとゲンブが立っていた。ヒルコには金色の髪と眉があった。

「お姉ちゃんしっかりして」

 ゲンブが姫香を抱き起こした。

「ありがとう、ゲンブ」

「へへへ。ぼく、ほんとはアワシマって言うんだ。隠しててごめんね」

 瞬時にトソの群れが分解して消え、傷と痛みがなくなった。上空から落ちてきた火打石が地面に弾けて分解して消えた。

「イサ、刀だ!」

 ヒルコが客間にあった刀を放り投げた。刀をがっしりと受け取り、渚が叫んだ。

「遅いぞ!」

 仲間と逢えたことを喜んでいる。そんな声だった。

「体を保つのに時間がかかった」

「おれの楔は抜けたのか!」

 腰から抜いた刀があわく光っている。

「安心しろ。もう抜けた」

 ヒルコがニヤリと笑った。姫香はヒルコをにらみつけた。

「なぜ渚にこんなことをしたのっ!」

「仕方なかった。葦の原に召還した途端、イサは夜刀に見つかった。咄嗟に十二支の中の動物に変身させ夜刀を欺こうとしたが、イサは夜刀の手に落ち呪縛までかけられる始末」

「なぜ、おれに楔を打った!」

「夜刀は混沌で物を食べて人が死ぬのを何度も見ている。イサだと露見せぬ唯一の方法……それが、戸喫だったのだ」

「おまえは、異界でモノを食ったら死ぬと知っていたろう。おれをはじめから殺す気だったのか」

「そうではない。おまえが食べた肉は、肉に見せていただけの空気だ」

「空気?」

「異界に空気は無い。時間の無い世界だから人間にも空気は必要ない。あれは人を召喚した時に一緒に入ってきた現世の空気を肉に見せかけたモノだ。戸喫をしても空気なら何事もなく消化できる予定だった」

「見せかけたって……あんなにリアルだったのにか?」

「リアル過ぎたのかもしれん。俺の予想を超え、肉の形や匂いが異界に強く楔を打ちこんでしまった。イサの体の負担を無くそうと、モモにもらった薄荷飴を中和薬として用いたがそれすら楔になった。戸喫をすると死ぬという後天的に作られた条件反射が、いつの間にか先天的な無条件反射に変わっていたのだ」

「それで現世に戻ってまで呪縛解除させたのか」

「無条件反射は、自らが呪縛解除するしか方法がないからな」

「おれはセイからも肉と薬をもらったぞ。あれは?」

「セイもスザクも元はこの世界の者だ。鬼としてモモとも会っている。その時に空気と飴を手に入れたのだろう。同じ構造だと確認したからこそ、お前とゲンブにも食わせた。無論、俺はお前なら呪縛解除できると信じていたぞ」

「この嘘つきめ。死ぬ確率の方が高かったろう。動物への変身はどうなんだ。おれたちになにか影響はあるのか」

「どちらも視野脳と形態を少しいじっただけだ。問題ない」

「ま、待って。じゃぁ、オノゴロにいた学生服の伊佐先輩は?」

「ああ、あれも夜刀の気をそらすための幻覚だ」

「おまえ、臆面もなくよくペラペラとしゃべれるな」

 そう言いながら渚が大きく肩の力を抜いた。アワシマがヒルコの袖を引っ張った。

「ね、もう来ちゃったよ」

 ゆらり、と空気が動き、突然、総毛立った。

 

 ヘドロのように周囲がぼこぼこと波打ち、異界で出会った魔物が次々と湧きだした。魔物たちの後方に白い大蛇が身をくねらせている。シュッツ!  と、大蛇の舌が音を発し、夜刀の声があたりに響いた。

が恨みを消すことは叶わぬ。決して生み出させはせぬ。逃しはせぬぞ」

「やれやれ」

 ヒルコが肩をすくめた。

「すまんな。お前たちとのえにしをたどって俺たちは現世ここに来た。そのあとを追って夜刀も来てしまったようだ。それともう一つ」

「ごめんなさい。ぼく」

  すまなさそうに頭をたれるアワシマを見て、ヒルコが金色の巻き毛をいじりながら、にが笑いした。

「こいつ、夜刀からの回収物をどこぞに落としたらしくてな。それを依り代よりしろにして魔物がこちらに出てきているのだ」

  渚がサッとアワシマを見た。

「いくつだ!」

「ええっと、お姉ちゃんのはちゃんと返したから」

「数える必要はない。すべての魔物が出て来られるだけの数があった」

  ヒルコが飄々ひょうひょうと告げた。

「うっ!」  

 渚がうめいてひたいを抑えた。指の間から真っ赤な血が滴り落ちる。渚の頬を猿が爪でえぐったのだ。

 マシラ犬がキキキと笑った。それを渚が刀で斬りおろした。地面に落ちた魔物が古銭に変わり、錆びてぼろぼろとくずれて消えた。

「ヒルコ!  さっきみたいに魔物を消せっ!」

「俺を頼るな。夜刀が宿りし物は壊れた。混沌に長くあった物も形ありて無いも同じだ。所詮、闇に力を得る怨念。朝日が昇ればすべて消える」

「朝まで何時間あると思ってんだ。一匹づつでも異界であんなに手こずったんだぞ!」

「俺は一刻も早く体を維持する方法を見つけねばならん。できねば、また混沌へと逆戻りだ。お前たちも死ぬなよ。お前たちが死ねば、できたばかりの俺たちの体が崩壊する。この世ではまだお前たち二人の力がないと体を保てぬからな」

  渚があきれたように言葉を吐いた。

「ヒルコ、おまえ、自分のことばっかりだな」

「当然だろう。おい、アワシマ、いい加減にやめろ」

「だって、よくわかんないんだもん」

「興奮を解いて、力を弱めろ」

 アワシマが大きく深呼吸した。雨足が弱まり、雨がやんだ。

 ヒルコとアワシマの姿が足元から薄れていく。

「どこに行く!  手をかせ!」

「俺たちはまだ揺れている」

 アワシマの姿がかき消えた。

「消える前にセイとスザクを呼んできて!」

「お前が現世に帰ることがあれらの望みだった。その望みが叶い、光に包まれ浄化した。あの二人は混沌にも、この世にもいない」

「わたし、セイにもスザクにもお礼を言ってない」

  ヒルコがニタニタ笑う顔だけになった。

「そう、あれらは最後にこう言っていたぞ。皆、すこやかに、とな」

 とうとうヒルコの姿もなくなった。

「あいつら、らしいな」

 渚がふっと笑って剣を構えた。 

最終章 新たな世界( 4 / 5 )

 

 母が両手をかざしながら玄関からでてきた。

「ああ、よかった。雨、やんだのね」

「ママ、逃げてっ!」

 周囲には魔物が隠れているのだ。

「何のこと?  あらまぁ、二人ともずぶ濡れ……」

「お母さんには見えないんだ。こいつらの狙いはおれたちだ。行くぞ!」

 渚に手をひかれ、庭から路地へと走った。

「どうしたの? どこに行くのっ! 姫香っ! 渚くんっ!」

 母の呼び声を背に路地を進む。

 

「この先に神社がある。あそこなら人がいないよ」

「わかった!」

 前方から突進してくる牛馬魔物に向かって渚が突き進む。刀が一閃し、牛の首がボトリと落ちて闇に呑まれた。真珠が2粒、地面にはじけ飛んだ。その横を走り抜けながら、次に出現した一頭の羊魔物も渚はあっけなく切り倒した。刀を自在に使う渚の姿はビャッコそのものだった。

「きゃっ!」

 前に虎の魔物が躍りでた。刀の柄に手をかけた渚の手をおさえる。

「ま、待って」

 黄虎おうこの目が何かを告げていた。

「わたしたちを助けてくれるんだよ」

 姫香は笑顔で渚を見た。そこに渚の悲痛な顔があった。

 羊魔物のトゲが渚の背中に無数に突き刺さっている。トゲが抜けた瞬間、刺さっている穴という穴から血しぶきがあがった。咆哮に似た悲鳴をあげて渚がくずおれた。その渚の横を抜けて虎が跳躍し、羊魔物をかみ殺した。

「渚っ!」

「はぁはぁ……だいじょうぶだ」

 刀を杖にして渚がよろよろと立ち上がった。

「これは朝になれば消える幻想だ。こんなことで死なない。心配すんな」

「う、うん」

 渚に肩をかして歩く。

 神社の鳥居をくぐった途端、狛犬の背後から猿犬マシライヌの頭が歯を剥き襲ってきた。

「がうぅぅ!」

「おれを嘗めるな!」

 一喝して渚が臍帯を斬った。犬の頭がコロコロと足元まで転がってきて闇に溶けて消えた。階段沿いの木々をほかのマシラ犬が飛び移るのがチラチラと見える。階段をのぼりきり姫香はほっと息をついた。

やしろはすぐそこ。あっ!」

 社の屋根に大蛇ヤトがとぐろを巻いている。そのそばにマシラ犬が三匹、姫香たちをバカにしたように見猿、言猿、聞猿の姿勢で並んでいる。

 

「姫香、離れろ!」

 突き飛ばされた。地面に手をついて姫香は顔を上げた。

 地響きを立てて突進してきた巨大なイノコの背に渚が飛び乗り、刀を突き刺した。イノコが大きくのけぞった。すかさずその喉笛に黄虎が食らいつく。

「ぶひひぃぃ!」

 断末魔の悲鳴をあげてドスンとイノコが倒れ、消失した。イノコの背から吹っ飛んだ渚が、大木に激突して木の根元に落ちた。その上にイチョウの葉がばらばらと舞い落ちる。

「渚っ!」

 転げるように姫香は渚のそばに入り、ぐったりとなった体を抱きしめた。木の幹にべったりと血がついている。

「しっかりして、渚っ!」

 渚の体のあちこちから肉が見え、そこから血が滝のように流れ落ちている。恐ろしいほどに変貌した渚の姿は心が散り散りに砕けるほど辛い。その痛みを変われるものなら変りたいと姫香は切に思った。そして、渚も同じ気持ちだとその目が告げていた。

「行け……朝まで……逃げ……きれ……」

 手が姫香を押そうと弱弱しく動いた。その手を強く握る。

「異界でも言ったよ。わたし、絶対に逃げない。だから、渚もあきらめないで」

 渚が力なくふっと笑った。

「そう……だったな」

 魔物たちの笑い声に似た雄叫びが周囲から沸き起こった。

 渚のうつろな目線の先に傷だらけの黄虎がいた。

「あいつ……仲間に……なったんだな……」

 渚の頭ががくりと落ちた。

「渚っ!」

 咄嗟に渚の心臓に耳をあてる。心臓は動いている。

「よかった、気を失っただけ……ああっ!」

 三匹のマシラ犬が姫香の前にじりじりと詰め寄ってくる。

「ガゥゥゥ」

 黄虎が守るように姫香の前に立った。その姿がビャッコとだぶった。

(ああ、そうだった……)

 急速に仲間だったみんなの姿が姫香の心に鮮やかに蘇ってきた。

 (そうだよ、わたしは異界で学んだではないか。自分自身の心が強くなければ人を助けられないことを)

 姫香に向かってみんなが笑顔で道を指し示していた。

(命をかけてもいい。渚を助けたい。この想いが力になるのなら……) 

 体に術を使う時の感覚があふれた。

「わたしに力を!」

 瞬時にワンピースが巫女装束に変わる。

 マシラ犬が姫香の発する白い光に呑まれて消えていく。

 血の跡と傷が消え、意識を取り戻した渚が体を起こした。

「おまえ、ここでも術が……」

「聞いて。わたしたちはいつも戦うことを考えていた。でも、それは間違いだったのよ」

「何を言っているんだ」

 渚が伸ばした手を逃れ、姫香が空中に浮かび上がった。

「何をする気だ、姫香、姫香っ!」

 社の大蛇に対峙するように姫香が空中で静止した。

「夜刀、わたしは渚と出会えて幸せだよ。セイとスザクも出会えて幸せだったと思う。それがどういうことか、ほんとうは夜刀にもわかっているんでしょう?」

 威嚇するように大蛇がシャーッと牙を剥いた。

 

「姫香! 降りて来い、姫香!」

 地上から姫香の名を呼ぶ渚の声が聞こえる。

「渚、わたしを見ていてね」

 小さな声でそう言って、大きく深呼吸をして姫香は目を閉じた。

(セイ、スザク、わたしの力がなんなのかやっとわかったよ。わたしの力はスザクと同じいやの力。穢れを払い清める力だったんだね)

 ふと、遠い昔に祖母が見せてくれた赤茶けた写真を思い出した。

 そこに写る祖母の小さな頃の姿は、スザクに似ていた気がする。

(おばあちゃん、わたしがんばるからね)

 持てる力を信じ、言葉がいずるままに任せる。

「天空より高き処、地底より深き処、高天原より天降りし伊邪那美の命以て、ぬばたまのこの黒き穢れ、我が封印いたしましょう!」

 突如、姫香の喉の奥に黒い妖気が流れた。怨念のおぞましい感覚が体の隅々まで満ち、体を駆け巡る恐怖や苦痛に押し潰されそうだ。

「ククク……」

 闇の中から人の姿をした夜刀が、ゆっくりと近づいてきた。

 どうやら姫香は体から離れ、魂だけがこの地にいるらしい。

「汝、彼の地に赴く寸前に、吾が宿りしモノを見たであろう」

 和時計の幻影がゆらりと揺れた。

時計あれはな、現世と混沌の狭間に落ちておったのだ。故にヒルコが混沌を開く時、人間にも見えた。ヒルコが在れを見て何と言うたか教えてやろうか。此れではまるで、伊邪那岐イザナギ黄泉比良坂よもつひらさかの入り口を塞いだ千引の石ちびきのいわではないか、とな。どうだえ、愉快であろう?  ヒヒヒヒヒ」

 狂ったように夜刀が笑った。

「伊邪那岐……黄泉比良坂……古事記の?」

 

 古事記の場面を鮮明に思い出した。

 男神・伊邪那岐イザナギみことと女神・伊邪那美イザナミの命は、高天原たかまがはらの神に国づくりを命じられ、淤能碁呂島おのごろしまへと天降あもる。まず女神から声をかけて交わるが最初に生まれたのは水蛭子ヒルコ。水蛭子は不具の子であったため、葦の船に入れて流し捨てられてしまう。次に生まれた淡嶋アワシマは、子の数にも入れてもらえない。女から先に声をかけたのがいけないと、今度は男から声をかけて交わる。すると、国生みの儀式は成功し、正常な国々が次々と生まれ出す……。

 

 祖母は姫香に古事記を読み聞かせた。あれはあの世界を示唆しさしていたのだろうか。

 

 

「吾が記憶、見せてやろう」

 夜刀が白い着物の袖をサッと振った。

 

 和時計を抱えた少女が混沌の彼方にたたずんでいる。

 少女がヒルコに似た青年に悲しそうにいった。

「なぜこんな所にわたしを連れてきたのですか?」

「体を作ってくれ。正常な体を」

「あなたを恨むわ……恨むわ……」

 うわずったその声は正気とは思えなかった。

 

「彼女を助けてあげて!」

 姫香は叫んだ。夜刀が少女を指さした。

「過ぎし時には戻れぬ。よく見ておけ」

 

 少女が和時計から針を引き抜き、ずぶりと喉元に刺して息絶えた。

 その鮮血は和時計に赤い色をつけた。

「見よ。イサも程無く死ぬ」

 死んでいる少女を見つけた少年が、驚愕の面持ちでもう片方の針を握った。少年の体は疲労困憊している。よろよろと立ち上がった少年が、ヒルコに一太刀浴びせようとしてその場に倒れ伏した。

「混沌の流れに、生身の体が絶えられぬのだ」

 

「今までにどれほどのイサとナミが死んだか、計り知れぬわ」

 召喚され窒息して死んだ者、体が引き裂かれた者、食べ物を食べて苦しみもだえ死んだ者……何人ものイサとナミの姿がフラッシュバックして消えた。

 すべてのイサとナミがヒルコの足元で死んでいた。

 

「どうだえ、此れでもヒルコを殺すなと言うかえ?」

「そうじゃない、そうじゃなくて」

 急に夜刀が顔を前に突きだした。

「汝は何を考えている。なぜ今更、寄坐よりましとなることを選ぶ」

「わたしの心を見れば、何を望んでいるかわかるでしょう?」

「ならば、見せて貰おう」

 夜刀が冷酷な笑みを浮べ去っていった。

 

 ヒルコとアワシマが駆けてきた。

「姫香!」

「お姉ちゃん!」

「ヒルコ、アワシマ、来てくれたんだね。きっと来てくれると思ってた」

 ヒルコの顔が悲しそうにゆがんだ。

「寄坐なぞ……なぜ、あれを乗り移らせたのだ。夜刀を浄化できねば死ぬのだぞ」

 アワシマが姫香の横にくずおれた。

「お姉ちゃん、なぜこんなことをするの。殺されちゃうよ」

「そんなことないよ。お互いに誤解しているだけ。わたしはその誤解を解きたいの」

 遠くで密やかに夜刀が笑っている。

「俺は……俺はな……」

 映像が揺らめきヒルコの記憶が姫香に流れこんだ。

 

 

(ドコダ……ココ……)

 気がつくとヒルコとアワシマは混沌とした空間を流れていた。ただ父と母に会いたかった。俺たちを生んだ父と母だ。死ぬはずはない。俺たちは迷子なのだ。

 俺は長い年月、父と母を求め彷徨った。弟のアワシマは泣くばかりだ。

 苦難の末、俺は母の手がかりを見つけた。この地に召喚すると来たのはナミだった。

(方法ハ完璧ダ。ダガ、何故コイツガ来タノダ)

 ナミは母ではない。しかし、たしかに母の残り香を身に持っている。

(コノ男ハ誰ダ)

 ナミが身に持つ八咫鏡やたのかがみの中に映る伊邪那岐と伊邪那美は父と母だ。ナミは父母への道標に違いない。八咫鏡をさぐるうちにイサの痕跡を見つけた。試しにイサを召還するとナミまで同時に異界に来た。それ以降、イサとナミは常に一対となって異界に現れるようになった。

 イサだけを召喚することができない。召喚はナミの年齢に関係あるようだ。ナミの体が子供から大人へと変容する時。心が夢と現実を混在できる儚い時。この条件でのみ、混沌ここへの道が開くのだ。

(二人ハ、父母ト関ワッテイル)

 だが、色々な事柄は深く封印されていて解読ができない。

 真実を知るには俺たちが外に出て、父と母を見つけるしかないのだ。

 イサから古事記の知識を得た。俺たちは不具の子だそうだ。人間は形がないと認めない。俺たちが外に出られないのも形がないからだ。

(俺達ノ本当ノ形……正常ナ形ハ)

 何度、形を作ってもそれを留めておけない。

 俺たちは父イザナギと母イザナミから生まれた。ここでイサとナミに形を作らせるしかない。けれども、人間ふたりは弱く何度呼びこんでもすぐに死んでしまう。俺たちに恐怖するだけで愛してもくれない。

黄昏時たそがれどきガイイ……)

 外界には時間がある。イサとナミを時の狭間はざまに呼びこめば、体と魂の分離も急激にはやってこない。

 人間の脳を操るのは容易い。だが、大脳をいじることで記憶の欠損を生じる。しかし、それは些末な事柄だ。時間の観念や心象風景からの世界創造は二人の行動に有益だ。

(アレハ、何ダ?)

 いつしか死んだ者たちの怨念が外界との境に凝縮し、放置していた和時計に宿った。

 イサとナミのために昼夜を作った直後、怨念の実体化現象が起こった。怨念を排除しようとすると今度は十二支の魔まで現れた。力は拮抗きっこうし、怨念は世代を重ねるごとに呪いを増幅させている。

(邪魔ヲスルナ)

 俺たちは争いたいのではない。父と母に逢いたいだけなのだ。

 

 

「かわいそうなヒルコ。かわいそうなアワシマ」

 ヒルコの過去が切なく映った。

「夜刀もあなたたちと同じなんだよ。異界に取り残され、怖くて、寂しくて、悲しかったの。異界にいた時のわたしと同じ。寂しさにみんなが振りまわされていたの。そのせいで、お互いを憎んでしまったんだよ」

 地獄の炎で炙られる苦痛が体をなめた。

「け……れど、いいこともあったよ。伊邪那岐と伊邪那美がみんなを結んでくれた。苦しいこともあったけれど、こうしてみんなと出逢えて……わたし、ほんとうによかった……幸せだった……よ」

 思考が途切れだした。

「ヒルコ、アワシマ、夜刀……みんなを……愛して……いるよ……愛して……る……」

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!」

 アワシマが狂ったように泣いている。ヒルコがはらはらと涙をこぼした。

からだはただのからでしかない。それがこの地に来て初めてわかった。こんなモノのために俺はイサとナミを苦しめてきた。大切なのは、体ではなく心なのだとお前に会うまで俺は知らなかったのだ。すまない。俺がすべて間違っていた。姫香、罪を負うのはお前ではない。俺だ。体に執着していた俺が悪かったのだ。だから、死ぬな。死ぬな、姫香!」

 闇が体を侵食しもぎ取っていく。

「みんなを……渚を……愛して……る……」

 姫香は意識を無くした。

 

 

 地上へ落下してきた姫香の体を、渚が受けとめた。

「姫香、しっかりしろ」

 ゆすっても意識が戻らない。

「おまえ、いったい何をしたんだ。おれはどうしたらいいんだ」

 姫香を抱きしめる渚をじっと夜刀が見下ろしていた。

「ナミは吾が手中にある」

 姫香を見つめたまま渚がさびしげな笑みを浮かべた。

「おれにも姫香の言っていた仲間の意味がやっとわかったよ」

「其は何か?」

「伊邪那岐が伊邪那美と一緒にいたければ黄泉の国の者になればよかった。戦わず、愛し合えばよかったんだ」

「ナミは死ぬ。イサは吾を恨むであろうな?」

「姫香がどんな運命を受け入れたとしても、おれは姫香とずっと一緒にいる。ただそれだけのことだ」

 夜刀がうれしそうに微笑んだ。

 

 

 姫香の脳裏に一筋の光が射した。

「汝は、吾と会い幸せと言うた。愛していると言うた」

 夜刀の声が、澄み切ったせせらぎのように流れた。

「罪が白日の下に出で、吾が心は癒された。吾は清浄の地に参ろう」

 そばに寄ってきて、夜刀が何かを握らせた。

「最後に汝の望み、聞かせよ」

 夜刀が淡く白く輝いている。

「わたしの望みは……渚と……」

 

 やわらかくあたたかな白い光が姫香の全身を包んだ。黄虎が姫香の頬をひとなめし、夜刀の後を追って光の中へ消えた。そして、アワシマとヒルコの笑顔が、脳裏に一瞬閃いた。

 そして、苦痛がフッとなくなった。

 ゆっくりと目を開けると、そこには渚の泣きそうな顔があった。

「姫香、よかった!」

 渚が強く姫香を抱きしめた。

「渚……これ……」

 姫香の手の中には祖母の竹櫛があった。

 

 暗闇に突然、ミラーボールのようにキラキラとした光が走った。

 二人の上にはらはらと光の粒子が舞い落ちる。

 その懐かしい感覚にそれが誰だかわかった。

「……ヒルコ」

 光が嬉しそうに一巡して、夜空を駆け抜けていった。

 満月の下、動くことも忘れてじっと二人は抱き合っていた。

最終章 新たな世界( 5 / 5 )

 

 テレビをつけっぱなしにしたまま、姫香の母は渚の母と長電話をしていた。

 ニュース速報が、『瀬戸内海沖に湧いた泡が急に消えた』と何度もテロップを流している。

 風呂を終えた姫香は花柄のパジャマにカーディガンを羽織り、祖母の部屋から庭におりた。

 いつもより大きく見える満月があたりを煌煌と照らしている。湯上りの体にひんやりとした清浄な空気が気持ちよかった。

「おーい、アモリ、元気?」

 濡れているシートを兎小屋からはずす。兎が光る目をキョトキョトと動かした。

「ここにいたのか」

 浴衣姿の渚が縁側に座った。

「やっぱ、パパの浴衣じゃ丈が短かったね」

「いいんだ。貸してもらえただけでありがたいよ」

 肩のタオルで髪を拭きながら渚が兎を見て微笑んだ。

「おまえの方がうんと小さかったな」

「今は大きいけど、おばあちゃんと縁日で買った時はミニウサギだったんだよ。ね、アモリ」

 二人をチラチラ見ながら、アモリは鼻をヒクヒクさせている。

「アモリで、天降り姫か」

 渚がまじまじと姫香を見た。

「今でもおまえ、巫女になれるのか?」

「うーん、どうだろう?」

 深呼吸して姫香は力の限り巫女を思い描いた。

「ふふっ。ぜんぶ力を使っちゃったみたい」

「それでよかったのさ。もうあんな思いはこりごりだからな」

「そうだね」

 二人で笑った。そばに母がやってきて渚の横に腰をおろした。

「渚くんのお母さんも無事なことを泣いて喜んでらしたわよ」

「ご心配をおかけしました」

 渚が頭をさげた。

「ママ、テレビ見た?」

「ニュースの、海の泡が消えたって話?」

「わたしね、あれはアワシマじゃないかなって思うんだ」

「おれもそんな気がしたよ。ゲンブは異界でも水と縁が深かったからな」

「ヒルコはなぜ光になったんだろ。わたしは、ヒルコは人間になりたいんだとばっかり思っていたよ」

「ああ、おれもだ」

 母があくびをかみ殺した。

「数え切れないほどの年月によって発達した知能が、どういう選択をしたかはわからないけれど。古事記のヒルコって、ひるのような骨のない子とか不具の子って解釈が多いのよね。でもね、そのほかにも色々なものがあってね。その中の一つにお日様の子っていうのがあったわ」

 最後のヒルコの意識に陰はなかった。

「ああ、そうか。日子ひるこは、正常な体を手に入れたんだね」

 水と光、それが彼らの地上での姿だったのだ。

「二人ともちゃんと高天原に帰れたかなぁ」

 いつの間にかみんなで月を見ていた。

「ああ、もうダメ。眠い」

 母が立ち上がった。

「渚くんのお布団は居間にあるから、そっちで休んでね」

「はい。ありがとうございます」

「二人とも湯冷めしないうちに寝るのよ。じゃ、おやすみぃ」

 大きなあくびをして母はフラフラといってしまった。

 

 静寂のなか、異界での想いを抱きしめ、長い間二人で縁側に座っていた。

 月が明るく周囲を照らしている。やわらかな風が包むように流れていく。木の葉や花々の水滴がキラキラと光った。荒れ果てていてもここは美しい世界に違いなかった。

『天降り姫は黄泉よもつ国から来る』と、ヒルコは言った。

 ヒルコにとってこの世界が命に限りある『よみの国』だったとしても、虚無の冬から新たに生まれくる春が訪れるように、薙ぎ倒された木々もすべての生き物も、明日にはまた新たな命を紡いでいく。

(この世界で……)

 姫香が顔をあげるとやさしいまなざしが見つめていた。

(生きていこうな)

 黒曜石の瞳がささやいた。

 そっとつないだ手の中に二人の未来がひろがっていた。

 

END 

 

たきもと裕
天降り姫 ヒルコの夢 -1-
0
  • 0円
  • ダウンロード