天降り姫 ヒルコの夢 -1-

第7章 最後の聖戦( 2 / 2 )

 

 暗転し、灯りがついた舞台のように景色が一転した。

 泥色の空間に武装した五人がポーズを決め、彫像のように立っている。

「みんなっ!」

 前に進み姫香は強かに鼻を打った。なにか硬いものにぶつかったのだ。

 「痛ぁ。なに、これ?」

 四角い透明の壁が姫香を取り囲んでいる。叩いても壁そのものに反応がない。

 薄っすらと逆転した文字盤が見えた。

「まさか、和時計の中なの。夜刀ッ、ここから出しなさいっ!」

 夜刀の忍び笑いが聞こえた。

「汝の力では破ること叶わぬ。汝が選びし者どもが滅びるさま、とくと見るがよい。其が吾に刃向かった代償なり……ヒヒヒ……フハハハハハ……」

 高笑いが小さくなって消えた。

「ここから出して!  ビャッコ、みんな、聞こえないのっ!」

 大声をあげ、壁を必死に叩くが誰も気がつかない。

「みんな……」

 溢れそうになる涙をこらえる。

「あれが、夜刀本来の姿、八俣の大蛇やまたのおろちですよ」

 スザクが天の沼琴あめのぬごとをかき鳴らした。

 

 みんなの前方の空間に混沌の一部がボコボコと湧きあがった。それが凝り固まり、一つの胴体に八つの頭と八つの尾がうごめく巨大な蛇となった。

 全身を覆う黒いウロコは不気味に光り、目が憎悪の炎を噴出している。その異形の姿に吐き気と震えは止まらず、姫香は忌むべき者への恐怖に骨の髄まで凍りついた。

 ビャッコがひとり空中へ飛びだした。オロチに向かって天駆けるビャッコが初めて小さく見える。

 シュッ、と、二股の舌から発した音に衝撃を受け、姫香に言葉が戻った。

「ビャッコ逃げて。無理だよ!  みんな逃げて!  逃げてっ!」

 姫香の声を打ち消すようにみんなが八俣の大蛇に向かっていく。オロチの八つの頭が鎌首を交互にもたげ火を乱射した。火の速度、太さ、勢いすべてが金朱雀の炎を遥かに凌ぐ。

 それだけではない。火炎は混沌を巻きこみ、いかづちとなって予想できない場所からみんなを狙い打ってくる。上方からのみの銀蒼龍の攻撃が子供の遊びだったかのようだ。

 大鎌のような牙も鋭い鞭のような長い尾も油断を待ち乱舞している。どれに当たっても即死は明らかだった。スザクが戦火から離れ、天の沼琴を一心不乱に弾いている。

「なにをしているのスザク!  あなたは夜刀の仲間なのっ!」

 わずかに微笑んだスザクが、袖から壺を取りだし液体を流した。

「あれは、ヒルコに渡した酒壺。ヒルコは……スザクを信用した……の?」

 はじめは少量だった酒がやがてオロチのまわりで潮流となり、大海となって波打った。

 泳ぎに気をとられたオロチの攻撃が緩慢になる。そこに追い討ちをかけみんなの攻撃が浴びせられる。

 直接攻撃型のビャッコは十拳の剣とつかのつるぎで。ヒルコは天の沼矛あめのぬぼこで、ゲンブは生太刀いくたちで。

 鋼のようなオロチへがむしゃらに突撃していく。それを援護するセイは間断なく生弓いくゆみに矢をつがえ、オロチへ何百何千もの矢を射かけている。

 

「あぶないっ!」

 セイの矢をはじくようにしなったオロチの尾が、ビャッコの体をなぎ払った。ビャッコがごぼっと血反吐を吐いた。その鮮血が一瞬にして消え、ビャッコが咆哮をあげ、オロチへ切りかかっていく。

「なぜ……傷が?」

 ビャッコはたしかに深手を負った。だが、その瞬間に回復した。

「そうか、スザクは回復を専門に請け負ってるんだ」

 スザクの琴の音が絶え間なく、みんなを守っているのだ。

 誰もが、誰かの形勢が悪くなると助けに入る。それが自然になされていた。

 それは打ち合わせたのでは不可能なバリエーションをもった戦い方だった。

「すごい。すごいよ、みんな」

 姫香はみんなと過ごした今までの出来事を思い出した。

 わがままを言い合ったり喧嘩をしたりしたけれど、一緒に旅をすることで生きる力をみんなから与えられていたのだ。

『思い、思われる。助け、助けられる。そんな些細なことをお教えくださいました』

 セイが姫香に確認し、伝えたかった言葉だ。

「わたしが惑い、忘れていただけ」

 思い出した言葉が、清浄な空気を吸いこんだ時のように体の隅々へ染み渡った。

「人は一人では生きていけないから、助け合いながら生きているのだから」

 それは人が人として生きていく上で条件となる姿勢だ。

「わたしは目の前の不安から逃げちゃいけなかったんだ。不安を見据え、それに立ち向かうべきだった。ただ信じればよかったんだ。仲間を。そして、わたし自身を!」

 雷は途絶えたが、大海に順応したオロチはより強く炎を吐き、牙を剥いた。その一方で交互に周囲の酒を呑んでいる。あの勢いではじきに酒を呑み干すだろう。

 みんなは最大限の攻撃をかけている。しかし、それをオロチは虫ほどにしか感じていない。

「わたしにも何かできることが!」

 制服のポケットを探ったが朝使った竹櫛しか入っていない。

八尺瓊勾玉やさかにのまがたまがここにあれば……」

 あきらめては駄目だ。

「八尺瓊勾玉、ここに。わたしのそばに来てっ!」

 強く思い描く。虹色の光りを煌めかせ、長い緒に紡がれた七色の勾玉が姫香の目前に浮いた。

「やった。ここでも術が使える!」

 八尺瓊勾玉を首にかけ、強く握りしめる。

「みんなはいつもわたしを導いてくれた」

 三種の神器さんしゅのじんぎのことを聞いた時、『見つけるとしたら貴女でしょう』と、スザクは言った。

(……と、言うことは)

 姫香が見つけようとすれば、三種の神器は見つかるものなのだ。

 夜刀は三種の神器を足かせと言った。

「だけど、三種の神器を否定はしなかった。なら!」

 突破口は三種の神器だ。

「おばあちゃん、力を貸して。みんなを救う力を!」

 蒔絵の手鏡を思い描いて目を閉じ、前方に向かって手をだす。

「ここに、鏡を!」

 物が現れた感覚に目を開ける。手鏡が両手の中の空間でクルクルとまわっている。嬉しさをかみしめ、今度は更なる進化を強く願う。

八咫鏡やたのかがみへ!」

 小さな鏡がお盆ほどの大きさになり、太陽をかたどった白銅鏡になった。それが、淡い光りを放ちながら頭上に浮いた。そのやわらかな白い光に照らされ、姫香の制服が、白い小袖と緋色ひいろはかまの巫女装束に変わった。

 

「覚醒なさったのですね」

 すぐそばでスザクの声がした。

「あ……」

 姫香の隣でスザクが天の沼琴を弾いている。

「スザク、わたしが見えるの?」

「無論。夜刀の元から逃れたそのお力、お見事です」

 沼琴を弾く手を休めることなく、スザクが言葉を続けた。

けがれは人が本来、魂に持っている力を失わせるもの。明るく、正しく、清らかな心をかき乱すもの。穢れに惑う貴女は、夜刀に容易につけこまれました。我らに天降り姫なくば、勝ち目はありません。けれど、それを知りて尚、彼らは……彼らは、夜刀に戦いを挑んだのですよ」

 みんなは姫香が戻ってくることを信じて、この地に身を投じたのだ。

「迷惑をかけてごめんなさい。でも、わたしきっと勝ってみせるから」

「天降り姫、よくそこまで成長なさいました」

 今はスザクの言葉に素直に耳を傾けられた。

 すでにオロチは酒を飲み干し、周囲は泥の海となっている。スザクが姫香に太陽の笑みを向けた。

「さぁ、天降り姫、仲間とともにオロチを退治いたしましょう」

「うん!」

 スザクに笑顔を返した。

「おこがましいことよの、スザク!」

 夜刀の声が轟き、一匹の大蛇が顔を突きだした。それに人の姿をした夜刀がダブった。刹那、大蛇の舌がスザクをなぎ払った。スザクの姿が消え、遠くで泥しぶきが上がった。

「今お助けします、スザクッ!」

 スザクのあとを追いセイが泥に飛びこんだ。その場所に耳をつんざく音を立てて雷が集中砲火した。

「セイ、スザクッ!」

 どさり、と、血まみれのヒルコとゲンブが落ちてきた。

「ゲンブ、しっかりしてっ!」

 回復薬をゲンブの口に入れる。意識が戻らない。ヒルコがうめき声をあげた。

「薬だよ。飲んでヒルコ!」

 ヒルコにも薬の効果はない。ヒルコが苦しげに手を伸ばして姫香の小袖を掴んだ。

「お前、一人で、変身……したのか……」

「一人じゃないよ。みんなが信じてくれたから」

 ヒルコがぜぇぜぇと荒い息を吐いた。

「ここから離れろ……今の俺の力では……お前を守ってやれん」

「そんなこと言わないで。いつものヒルコらしくないよ」

「心配するなど……ははは……俺は、お前のことが気に入って……いたのだな……」

「イサのいる所を教えて。そうすれば助けられる」

「力が……以前とは比べ物にならん。イサが現れれば……夜刀は……お前たちに宿る。それでは皆死ぬ」

 ヒルコがむせて、ごぼごぼと血を吐いた。

「もうしゃべらないで」

「……返す……ぞ」

 姫香のカバンが浮いた。受け取り、カバンを肩にかける。

「ビャッコに……ち……地図を渡せ……神器が……ヨモツ国への扉を開く鍵だ……」

「地図ね、わかった」

「そして、もし……イサに会うことが叶ったら……」

「会えたら?」

「……くさびもって楔を抜けと……伝えろ……」

 

 ヒルコの意識がなくなった。オロチが笑うような顔を姫香に向けた。

「あぶないっ!」

 姫香とオロチの間にビャッコが駆けてきて、オロチの頭を切断した。

 剣が刃の真ん中で折れ飛び、オロチの頭の一つが泥の海でじたばた動いて息絶えた。

「逃げるんだ!」

 折れた剣で戦いながらビャッコが怒鳴った。

「ゲンブとヒルコを置いていけない。守らなくちゃ二人を……でも、どうしたら……」

 突然、祖母がよく読んでくれた古事記を思い出した。

 男神、伊邪那岐が竹櫛を呪術の道具として使う場面があった。

「おばあちゃん、ありがとう!」

 祖母が守ってくれている気がした。

 ポケットから竹櫛をだす。念じながら竹櫛をオロチに向かって投げる。

「守って!  大好きな人たちを守って!」

 オロチの前方に落ちた竹櫛が竹になり、太く大きく成長してオロチを阻む竹林を作った。

「これでしばらくは……お願い、二人とも起きて!」

 ヒルコとゲンブを引きずろうとしたが重くて動かない。ビャッコが泥の波をあげ、近づいてきた。

「何をしているんだ!」

「オロチが来る前に二人を遠くに。ビャッコも手伝って!」

 ビャッコが二人から姫香を引き離した。

「いいから、おまえは逃げろ。おまえは天降り姫なんだ。逃げて次の機会を待つんだ!」

「いやだ!  絶対に逃げないっ!」

 竹林が一面の炎に包まれた。じきにオロチはこちらへ来るだろう。

「おれは、おまえを失いたくないんだっ!」

 突然、抱きしめられた。

「おまえが、好きなんだ」

「わたしも……好き……」

 姫香をそっと放したビャッコの顔はあまりにも切ない。

「やっとその言葉を聞けたな」

「ビャッコ……」

「それだけでおれに悔いはない。おまえはもう行け」

「やだっ。わたしは逃げないっ!」

 ビャッコの胸に地図を押しつける。

「ヒルコがビャッコに渡せって。わたしはあきらめない。だから、ビャッコもあきらめないで!」

 地図を手にしたビャッコが、グラリとかしいで片膝をついた。

「ビャッコ?」

「あ……ああ、大丈夫だ」

 重い体に鞭打つようにビャッコが立ち上がった。その顔は先ほどまでとはあきらかに違っていた。

「この剣を手にした時から、こいつはおれのものだと感じていた。その意味がやっとわかったよ」

 きっとした顔でビャッコが折れた十拳の剣を泥にかざした。

 ズブズブと折れた刃先が泥の中から現れ、剣が一瞬のうちに修復した。

「さっき、おまえはあきらめないといったな。おれもあきらめない」

 地図を剣に捲きつけ、ビャッコが笑顔で姫香を見た。

「どんなことがあってもおまえと一緒にいる!」

 ビャッコが十拳の剣を一振りした。

「見ろ、これが、草薙剣くさなぎのつるぎだ!」

 剣が美しい宝剣へと変わり、まばゆい輝きを発した。草薙剣の光に呼応して八尺瓊勾玉と八咫鏡も白く輝きだした。

「あ……」

 姫香が見あげた鏡に傷の消えたビャッコが映っている。

 鏡の中でヒルコとゲンブが、ゆっくりと立ちあがった。そして、セイとスザクが姫香のそばにいた。

 ゲンブが笑顔で姫香の手を取った。

「ぼくらのこと大好きだって言ってくれたの、お姉ちゃんが初めてだよ。ありがとう」

「お前の想いが俺たちに体をくれた」

 ヒルコが照れたように顔を伏せた。

「我らは天降り姫のおかげで、やっとまことの仲間になれたのですね」

 スザクの言葉にヒルコが一瞬驚いた顔をして、そして、笑顔になった。

「そうだな。仲間になったのだな」

 静かに微笑んだセイが顔をあげ、竹林をさした。

「さ、オロチが来ますよ」

 

 オロチの七つの頭が燃え盛る竹林を突き破り現れた。オロチの動きを抑止するように三種の神器が強く発光した。

「よしっ、やるぞっ!」

 飛びだしたビャッコを援護するように、スザクが炎の輪の中にオロチを閉じこめた。セイが銀の矢で十四の目を射る。ヒルコとゲンブがもがき苦しむオロチの首を切り落とし、ビャッコが一声のもとに巨体を両断した。痙攣が八つの尾を走り抜ける。

 そして……、静寂が血の海に訪れた。

 八俣の大蛇が、みんなが、三種の神器の発する白い光に包まれていく。

「待て!  おれも一緒に行く!」

 ビャッコが飛んできて姫香を強く抱きしめた。瞬間、目を開けていられぬほどの輝きに見舞われた。

 頭の中に虹色の閃光が跳梁ちょうりょうし、何かがうしおのように二人を押し流した。

最終章 新たな世界( 1 / 5 )

 

 柱時計が刻をボーンボーンと打っている。

「姫香……姫香……」

 名前を呼ぶ声で姫香は我に返った。姫香を抱きしめていたビャッコがニコリと微笑んだ。

「ここ、どこだい?」

 体の下には畳。見慣れた祖母の部屋だ。

「わたしのおうち。おばあちゃんの部屋だよ」

 部屋を見まわすビャッコは、白い着物と黒い袴を着け、腰には日本刀をおびている。

「そうか、おれたち戻ってきたんだな」

 目の前の文机の上に和時計はない。姫香はそばに落ちている学生カバンを引き寄せた。

 ビャッコが柱時計に目をとめて、姫香の腕をとって腕時計を見た。

「時間がたっていないな」

「えっ?」

 腕時計と柱時計の秒針は同じ時間を正確に刻んでいる。

「五時……異界に入った時間」

 オノゴロで無くした腕時計があるのは何故なのだろう。

 それに、ビャッコはこの世界でどうしてこんなに平然としているのだろう。

 突然、周囲が暗闇に包まれ、バタバタと大粒の雨が縁側のガラス戸を打った。間近で稲光がひらめき、すさまじい雷鳴が轟いた。

「きゃぁぁっ!」

 ビャッコにしがみついた。直後、ガラス戸がガラガラと開いた。

「わぁぁ、ひどいわぁぁ」

 ずぶ濡れの母が庭からあがってきた。あわててビャッコから離れる。

「あの、ママ、この人は」

 オロオロしている姫香をちらりと見て、母が雨戸を閉めだした。

「二人ともなにをぼーっとしているの。早く手伝ってちょうだい」

 その声に従い、三人で雨戸を閉めた。

「ふぅぅ、急に暗くなってきたから、ウサギ小屋にシートをかけにきてよかったわ。天気予報じゃ今日は晴れだと言っていたのに、こんなどしゃ降りになるなんてねぇ」

 母が全身を眺めた。

「これじゃぁまるで濡れ鼠だわ。ママ、お風呂に入ってきちゃうわね」

 母がビャッコをじろりと見た。

「あなたは客間で待っていてもらおうかな」

「あの、ぼく、もう失礼しますから」

「何を言っているの。この雨の中を帰せないでしょう。それにね、今日は姫香のお誕生日なのよ。だから、渚くんも一緒にお誕生日パーティーをやりましょうよ」

「でも、ぼくは」

 言葉をさえぎり、母が右の人差し指を立てて横に振った。

「若者は遠慮しないものよ。いいわね」

「は、はぁ」

 強引に話をまとめた母が複雑そうな表情で姫香を見た。

「姫香も制服を着替えてきなさい。さ、早く!」

「あ、うん。わかった」

 学生カバンを手に持ち、姫香は二階にある自分の部屋に上がった。

 

「なにが、どうなってるの?」

 ラフなワンピースにいそいで着替える。こうしている間にもビャッコが消える気がした。二人で抱きあっているのを母は見たはずだ。それを母がとがめなかったのも不思議だった。

「渚……くん?」

 母はビャッコのことを渚くんと呼んだ。

「渚……って」

 思いがけないほど急速に記憶が戻った。

伊佐 い さ……なぎさ?」

 好きだった先輩の名前だ。

「そうよ、ビャッコに学生服を着せれば」

 先輩に瓜二つではないか。

「イサって、先輩のことだったの?」

 部屋をでて階段をおりる。客間の前まできてためらった。

(先輩が……)

 深呼吸をしてそっと中をのぞく。居心地悪そうにビャッコがソファに腰掛けている。

(ほんとうにビャッコが、伊佐先輩なの?)

 先輩だとしてもなぜ剣道着を着ているのだろう。

 ソファの横に立てかけてある日本刀はなんなのだろう。

「あ、姫香」

 姫香に気がついたビャッコが明るく微笑みかけた。

「そんなところにいないで、こっちにおいでよ」

 ビャッコの乱暴さは微塵もない。さわやかな印象だった。

 ロー・テーブルの横を抜け、姫香は向かいのソファに座った。

 二人きりの部屋にゴーゴーと雨音が響いている。

「あのっ、あのね、ビャッコは」

「おいおい、ビャッコはやめろ。おれは、伊佐渚。渚って呼んでくれ」

「あ、うん。渚。あのっ、そのっ、渚が、ビャッコなんだよね」

「そうだよ」

「なぜ、ビャッコって名乗っていたの?」

「なぜかな。そう思いこんでいたんだ」

「どんな風にオノゴロに入ったの?」

「学校から帰ってから、道場で稽古をしていて」

「道場って?」

「おれんち、剣術道場をしているんだ」

「へぇぇ」

 ビャッコが剣の使い手だったことが納得できた。

「異界に入った時間は五時。急に目の前に和時計が現れて、現世の記憶をなくしてしまった。あとは、おまえの知っての通りだよ」

「どうやって、戻って来たの?」

「白い光に包まれたところまでしか覚えてないよ。おかげでこんな恰好のままだ」

 袴をさばいて笑った。その様子があまりにも自然だった。

「もしかして、渚はオノゴロのことを知っていたの?」

「さわり程度にね。おれが中学1年生の時に、母から長子の持ち物として、この刀と祖母の兄の遺書を手渡されたんだ」

 渚が刀に目をやり、ふたたび姫香に目を戻した。

「その遺書にね、異界のことが書かれていた。今じゃ肌身離さず持っているお守りみたいなものだ。どうだい、読むかい?」

「うん。見たい」

 道着の胸元を開き、首からぶら下げているお守り袋から黄ばんだ紙をだして、テーブルに置いた。

「それって……」

「気がついたか? そう、これがオノゴロの地図だったんだ」

 その内容は、強い想いを感じるものだった。

 

 

  戦火厳しく、急ぎ遺言を記す。全て真実なり。

 本日、我は桃太郎の如き異界に入り、出雲に住む女桃太郎、那美モモといふ女性と会ふ

 長き戰いの旅ののちに現世へ戻つたが、自分は駐屯地の宿舎にをり出歩いた様子はない。

 然し、異界に行つたのは紛れなき事実なり。

 伊佐家には、長子にナギの名をつけぬと早死にする、といふ言ひ伝へがある。

 那美家にも似たふしがある故、モモさんとの語らひのなかで気になつたことを留め置く。

 那美家の女は、十七にて死ぬといふ伝承ありしこと。

 異界来訪はモモさんの十七の生誕日であつたこと。

 見慣れぬ和時計を見てのち、ふたり異界に招かれたこと。此の三つなり。 

 伊佐家長子は此の謎を解かねばならぬ。此れは伊佐家長子への遺言なり。

  嘘、偽りなき故、重々心に留め実行いたせ。

 

  三月三日                                                          伊佐凪の介   いさ なぎのすけ

 

 

 しんとした部屋の雨戸を雨が激しく叩く。

「やっぱり、おばあちゃん、異界に行ってたんだ」

 懐にお守りをしまい、渚がにがく笑った。

「遺書を書いた日が、戦死日だそうだ」

「おばあちゃん、凪の介さんとはこっちで会えなかったんだね」

「姫香は、モモさんから異界のことを聞かなかったのか?」

「女桃太郎の話を小さな頃に一度聞いた、と思う。怖い話だったってことしか覚えてないよ」

「おれは、遺書を手にしてからいろいろと調べたよ。夏休みを利用して出雲にも行った。そこで、那美家の女が17に死ぬという噂話も聞いた。だから、まだ1年あると思っていた」

「わたしが17になるのは来年。それなのになぜ今日、異界に入ったんだろうね」

「実際には、17歳とは限らないのかもしれないな。噂話を信じたおれも迂闊だった」

「ほかには?」

「那美家には、おれの歳に近い女の子がいないこと。そして、那美家の血を引く唯一の女子がおまえだとも知った。だから、おまえを守るためにモモさんは出雲を離れて東京に来たんだと確信したんだ」

「そこまで調べたなら、なぜ会いに来てくれなかったの?」

 渚の顔が急に曇った。

「一度だけ来たんだ。そして、家から出てきたおまえとモモさんを追った。この近くの神社で縁日をやっていたっけ。そこで、モモさんが急に倒れたんだ」

「それって、わたしが中学1年生の秋祭りのことね」

 救急車が来るまでの間、姫香は人ごみの中でオロオロしているだけだった。

「露店のそばでおまえたちが参拝を終えるのを待っていた。なぜだかおまえを見るたび、気持ちが揺さぶられるようだった。あの時もおまえに引き寄せられて、一歩、そう、一歩前に出たんだ。その時おれを見たモモさんが叫んだんだ、凪の介さんって」

 記憶のカケラが、北岸村でデジャブを見せたのだろうか。

「おばあちゃん、あの時の話をしては微笑んでいた。凪の介さんを見たと思ったんだ……だから」

 渚がつらそうに目を閉じ、頭をさげた。

「ごめん。あの時は急に倒れられて、怖くなって逃げた。おれは凪の介によく似ていると言われていたけど、そんなに似ているとは思ってなかったんだ。でも、今は逃げてよかったんだと思う。モモさん、去年までは生きていてくれたんだから」

「なに、それ。渚と出会ったら、おばあちゃんが死ぬことになってたみたいじゃないの」

「そうは思いたくない。だけど、モモさんが亡くなったのは、おまえが学校見学にきた次の日だったろ」

「あ、ああ。そうだったんだ」

 姫香は、がく然となった。

 

 

「おやおや、どげして。なんかよいことがあったけんすね」

 祖母にかかれば、姫香の秘密などあってなきがごときだった。

「おばあちゃんにだけ言うんだからね。ぜぇったいママとパパには内緒だよ」

「はいはい」

「今日ね、受験する高校を見てきたんだ。そこに、とってもかっこいい人がいたの」

「ほぉぉ、姫香もそぎゃん年頃になったけんすか」

「やだ、ひやかさないで。遠くから見ただけなんだもの。あ、でもね、先生が1年のイサって呼んでるのを聞いちゃった。わたしが入学したらイサ先輩って呼べるんだよ。それってちょっとうれしいかも」

「そげかね。伊佐かね」

 祖母が懐かしそうに笑って、いつも大切にしている鏡と櫛を姫香の手に握らせた。

「大事におし。これがきっと縁を結んでくれるけん」

 その翌朝、祖母は幸せそうに微笑んだまま、布団の中で冷たくなっていた。

 

 

 ぽたぽたと姫香の目から涙が落ちた。渚がテーブルをまわって姫香のそばに座り、涙を袖でぬぐった。

「二人とも、おれたちが出会うことを願ってくれていたと思う」

 祖母はわたしの幸せを望んだ。そして、今、渚がそばにいてくれることが幸せだった。

「ありがとう。わたしのこと、ずっと見ていてくれたんだね」

「おまえだって、学校でいつもおれのことを見ていただろ?」

 気持ちを見透かされていたことに頬が赤らむ。

「あらがってはみたものの、気持ちを止められなかったってことだ。おれの気持ちは異界で何度も確かめたから、おまえを愛したことに悔いはない」

 真剣な表情で渚に見つめられた。姫香は視線を外して、次に来るべき言葉をはぐらかした。

「でも、オノゴロでは、お肉のことばかり言ってたよ」

「肉は呪いのせいだろ。あそこではおれの理性は欠落していたんだ。いま考えると、あの態度はほんとに恥ずかしいけど、あれもおれだったわけだし。乱暴なところがないとは言えないかもしれないな。え、ええ?  もしかして、今のおれじゃダメってことなのか?」

「そういう意味じゃないけど」

 素直に好きといえなかった。

「今はおれのことをどう思っているんだ?」

「今は……」

 目の前にいる渚は、ビャッコやあこがれの先輩とはどこか違う。

「今は?」

 再度の問い。答えを待つ目がつらい。

「今は……渚のことを……もっと知りたい」

 廊下から母の鼻歌が聞こえてきた。

最終章 新たな世界( 2 / 5 )

  

「ほうら、渚くん、おいしそうでしょう!」

 片面が焼けたステーキを母が嬉しそうに引っくり返した。

 妙に明るく接する母が不気味だった。渚の名前をなぜ知っているのかと聞いた時も、「そんな気がしたのよ」と、話を打ち切られた。轟く雷鳴に母が不安そうに窓を見た。

「まるで台風でもきたみたいねぇ」

「あの、ぼく、なにかお手伝いします」

「そうね、姫香と一緒にお料理を運んでもらおうかな」

 居間に料理が並ぶ。ジュースでの乾杯と誕生祝いの言葉のあと、普段より早めの食事がはじまった。

「おいしいですね!」

 ステーキ、アサリのチャウダー、イタリアンサラダ、水菜とキノコのマリネ、海老のハーブ焼き、チキングラタン、フランスパン。

 机の上の料理を渚はどれもおいしそうに食べた。それを見て感心したように母が息をもらした。

「年頃の男の子って、やっぱりたくさん食べるのねぇ」

「ぼく、あの、すみません」

「あら、変な意味じゃないのよ。食べてもらって嬉しいのよ。この雨で主人も出張先から帰れなくなったし、残っても大変なのよ。だから、がんばって食べてね」

「ほんと、ママって作りすぎ。いっつも残り物を次の日に食べることになるんだもん。ね、もっと食べなよ。ほら、ビャッコ、サラダついであげる」

「えっ?  ビャッコって?  ねー、ねー、渚くんっていつもは、そう呼ばれているの?」

 母は鬼の首をとったような勢いだ。

「違う、違う!  ママの聞きまちがい!」

「そうです。聞きまちがいです」

 慌てふためいてサラダをつぐ姫香に、母が疑りの目を向けている。

「ふぅぅん。ああ、そうそう、そう言えば白虎って風水に出ていたわよね。ちょうど時間じゃない。昨日の続きを観ましょうか」

 母がリモコンを手に持ち、テレビをつけた。大音響とともに画面に青龍、白虎、玄武、朱雀の絵が大写しで現れた。金色に輝く文字で『風水スペシャル第二夜』というタイトルがその上に重なる。

 渚が姫香の耳元で小さく囁いた。

「昨日、おまえもこれを観たのか?」

「あらぁ、渚くんも観たの。風水ってけっこう面白いわよね。ね、姫香」

 今日の母は地獄耳らしい。二人とも何も話せなくなった。

 昨日のダイジェストを放送したところで急に画面が途切れ、ニュース速報が入った。

 女性アナウンサーが緊迫した様子でしゃべりだした。

「トップニュースをお伝えします。現在、瀬戸内海沖で、海底より不思議な泡が噴出しているという情報が入りました。識者の間では海底火山の噴火の可能性もあるという見解です。詳しい調査は環境が整い次第、開始するとのことです。では、次のニュースをお伝えします。首都圏では豪雨と強風のため交通が寸断されています。大雨暴風警報が発令されていますので充分な注意をお願いします。その地域は……」

 画面が文字の羅列に変わり、それをきっかけに渚が席を立った。

「ごちそうさまでした。これでおいとまします」

「こんな雨の中を帰れるはずないでしょう。乗り物だってないのよ」

「なんとかして帰りますから」

「うちに泊まると連絡すればいいわ。ご家族もこんな嵐の中を帰るより安心よ。お誕生日のケーキも残っているし、それに、大事な話だってまだ済んでないものね」

 母の意味ありげな上目遣いに姫香と渚はごくりと唾を呑みこんだ。

 

 渚が家に電話をかけると途中で母が受話器を引ったくった。そのあとはあっという間に泊まることが決まっていた。

 居間をみんなで片付け、台所のダイニングテーブルに場所を移す。

 ハッピーバースディーを歌ってもらい、バースディケーキの蝋燭を消した。ケーキを切り分け、紅茶を入れる母は鼻歌をうたい、いつにも増して上機嫌だ。ティーカップを置いて席についた母が、にこやかに口火を切った。

「で、二人は桃太郎と雉になったの?」

 その言葉は青天の霹靂せいてんのへきれきだった。

「ひ、ひどいよ。盗み聞きなんて!」

 母は紅茶に口をつけながら、二人の反応を楽しんでいる。

「そんなことする訳ないでしょう」

「では、なぜご存知なんですか」

 落ち着いた口調だが渚も戸惑っているのがわかる。

「今日は姫香の誕生日なのよ。異界へ行くなら今日しかないでしょう」

 渚が勢いよく椅子から立ち上がった。

「17歳の時に行くんじゃないんですか?  モモさんは17だったって」

 母が大きく左右に手を振った。

「違うわ。母が異界へ入ったのも、16の誕生日の黄昏時よ。ほら、昔は数えだったでしょ。だから、今の16にあたるのよ」

 力が抜けたように渚が椅子へ腰をおろした。母がケタケタと笑った。

「で、どっちが桃太郎になったの?」

「ぼくたちは、兎と虎になりました」

 渚が神妙に白状した。

「じゃ、桃太郎には誰がなったのよ」

「桃太郎はいなかったのよ。わたしが天降り姫って名前でうさぎになって、渚はビャッコっていう名前で白い虎になったの」

「なぜそんなものになっているのよ」

「わたしにだってわかんないよ。ママの方が詳しいんじゃないの?」

「ママに異界の知識があるのはね、母の桃太郎を暗唱できるほど聞かされて育ったからよ。ママだって運命の人が現れるのを待ってもいたわ。けれど、なにも起こらなかった。そりゃそうよね。対になる男性がいなかったのですもの」

「なぜ、対になる人がいないの。渚のお父さんは?」

「おれの父は婿養子なんだ。祖父と祖母の間には母しかいない。だから、伊佐直系の男はおれまでいなかったんだよ。凪の介以降、最初の長子がおれなんだ」

「なぜ、ママがそのことを知っているの?」

 母がケーキを口にしながら、思い出し笑いをした。

「ふふふっ。調べたのよ。若かったし、あきらめが悪かったのね。無理を言って東京の大学に入り、母から聞いた話を頼りに、凪の介さんの住所を突き止めたの。だから、渚くんのお母さんと知り合って、もう20年以上になるかな」

「ぼくの母と、そんなに前から」

 渚と同じことを母は先にやっていたのだ。

「小さな頃はよく渚くんのおうちにお邪魔したのよ。剣術を応援していたわたしとその膝の上にいた小っちゃな女の子を覚えていない?」

 驚いたように渚が母を見た。そして、驚きと嬉しさのいりまじった表情で姫香に目をやった。

「ひめ……ちゃん……?」

「わたし、覚えてない」

 母がけらけらと笑った。

「ふたりとも小さかったもの。覚えてないのが普通よ」

「母とそれほどの付き合いなら、ぼくが異界のことを調べているのもご存知だったんですよね。ぼくにだけでも教えてくだされば」

 母が手を上げ、渚の言葉を制した。

「二人に黙っていたのは、あなたたちの接触を恐れたからよ。姫香は名字も氷室だし、桃太郎を回避できると思っていた。それなのに、ある時をさかいに和時計が見えるとあなたたちが言いだしたの。わたしたちには見えない和時計がね。その時のわたしたちの驚愕がわかって?」

「それ……おれが……ひめちゃんにキスしたからだ」

「ええっ、キスゥ?」

 いくら小さな頃とはいえ母の前なのだ。姫香は真っ赤になった。

 渚はそんなことはお構い無しに記憶を手繰っている。

「かわいくて大切でキスした。けど、そのあと和時計が見えるようになって。どんどん母さんたちの態度が変わって。全部、おれのせいだ」

「わたしたちが悪いのよ。予想もしてなかった出来事に慌てて、あなたたちを引き離してしまった。渚くんが幼稚園に入って、姫香を忘れたようだって聞いた時には本当にほっとしたのよ」

「忘れたんじゃないんです。ひめちゃんに会いたいと母にどんなに頼んでも駄目でした。だから、罰を受けたんだと思ったんです」

「渚くんのせいじゃないのよ。それはわかってね」

「はい、今は理解できます」

「姫香も苦しんだのよ。ずっと原因不明の熱がさがらなくて、生死に関わるとまでお医者さんに言われてね。それで母に東京に来てもらったのよ」

「嫁姑問題がこじれたからじゃなかったの?」

「ああ、あれは建前よ。ママが助けてと頼んだの。実際、母は渚くんを忘れさせてくれて。あなたをずっと見守ってくれた。感謝しきれないわ」

「おばあちゃんが……ずっと」

「ただ、これはうちのパパも、渚くんのお父さんも知らないこと。聞いて信じられる話ではないものね」

 

 母が顔をすいっとあげた。

「さ、今度はママに異界で何があったのか、くわしく教えてちょうだい」

 母に促され姫香たちは異界でのことをかわるがわる語った。

 話を聞き終わった母が大きなため息をついた。

「まったく恐ろしい話ね」

「夜刀の話。おれが二人いたってこと。何もかもが驚きだな」

「渚は制服でいた時のことは覚えてないの?」

「知らない。制服のおれは何か変なことをしていたのか?」

「別に何も。顏もはっきり見てないし」

「天降り姫という名付けも恐れ入るわ。ヒルコほどさとければ意味を含ませたでしょうね」

「アモリに意味ってあったの?」

「何を言っているのよ。伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの二神が淤能碁呂島おのごろしま天降りあもり、のアモリから母が名づけたでしょう。あなたもいい名前だって喜んでたじゃないの」

「え、そうだったっけ」

 渚がいぶかしげに聞いた。

「アモリって?」

「うちで飼っているうさぎの名前が、アモリって言うの」

「それで、天降り姫になったって言うのか?」

「渚くんの白虎もペットがらみかしら。昔、渚くんちで子猫を飼ってたでしょう。たしか名前は」

「トラです。老猫ですが元気に生きています」

「渚くんが白虎になったは、きっと猫のトラと風水からの連想ね」

「そうか。異界はぼくらの記憶から構成されてたんですね。道具屋、アイテム、宿屋、パラメータ。あれは、ぼくがテレビゲームを知っていたからだ」

「母の誕生日は三月三日の桃の節句。そこから女桃太郎になった。ヒルコは、脳に話しかけると同時に、脳の中まで見ていたのね。やるわねぇ、ヒルコ」

 母がクイズの答えを見つけた時のようにはしゃいでいた。

「あ、はっ……ぐぐっ!」

 急に渚がうめき声をあげテーブルに突っ伏した。手がぶるぶると震え、真っ青な顔から冷や汗がしたたっている。

「どうしたのっ!」

 姫香と母が同時に叫んだ。

「まさか……ヒルコが……一夜で死ぬ……と言ったのは……この……ぐっ」

  吐き気を抑えるように渚が口と腹を押さえた。

最終章 新たな世界( 3 / 5 )

 

 ほどなくして渚の痛みが引いた。

「まだ顔が青いよ。苦しいんじゃない?」

「いや、さっきよりずいぶんいい。おまえは? 体はなんともないか?」

「うん、わたしはなんともないよ。でも、どういうことなんだろう」

「虎の魔物を倒したあと、ヒルコが言っていたろう。もし万一、食べることが叶ったとしても、ヨモツ国に戻れば一夜を待たずして死ぬ、と」

「あ……」

「その意味がいま、腑に落ちた。あれはおまえにじゃなく、おれに向けた言葉だったんだ。そして、その一夜とは……零時がおれのタイムリミットだという意味だ」

「それって、渚が死ぬってこと?  そんなの嫌っ!」

 姫香の手に渚がやさしく手を置いた。

「おれだって死にたくない」

 母があわてた。

「ちょっと待ってよ。死ぬって。そんな気がするだけじゃないの?」

「いえ、この痛みはこの世のものとは違います。助かるには異界でやったように呪縛解除の方法を探すしかありません」

 二人の肩を抱いて母が引き寄せた。

「きっとどこかに助かるヒントがあるわ。それを見つけましょう」

 椅子に座り紅茶に口をつけた母の手は震えていた。

 

「時間がないから、女桃太郎とオノゴロとを比較した話だけをするわね」

 姫香と渚がうなずいた。

「母は陣羽織に鉢巻という桃太郎の姿になって、女桃太郎と呼ばれたの。凪の介さんは若武者風の装いをして、しもべの雉を武器として使ったわ。そして、女桃太郎は12匹の鬼と壮絶な戦いをしたの。気になるのは、やはりヒルコ。母の時は川を流れてきた桃の中に肉が入っていて、それがヒルコと名乗るの。そして、ヒルコは女桃太郎の家来になった」

「家来? 案内役じゃなくて?」

「そう、そして、ヒルコが体を揃えてなったのは、猿」

 あの高慢なヒルコが猿になるとは信じがたかった。

「ゲンブの代わりは、アワシマという犬ね。力があるのに感情が幼いところが、ゲンブとそっくりだわ」

「猿と犬は、人間になったんですか?」

「いいえ。話が進むと同種の強い動物へと変身したわ。ヒルコは、日本猿から妖怪の狒々ヒヒ、天狗に似た猿田彦という猿へ。アワシマは、仔犬の四国犬が、日本狼、巨大な狛犬へとね」

「変だな、子として産まれる気なら、人間になるはずだ。なぜ、ならなかったんだ」

「あなたたちと結末が違ったからじゃないかしら」

「おばあちゃんの結末はどうなったの?」

「母と凪の介さんは、鬼の王と和解して現世へ帰ってきたのよ。母の話では、どう贔屓目に見てもヒルコが悪で、鬼が善だったわ。ヒルコとアワシマって古事記にも不完全な子として出てくるでしょ。ママも昔からこの二人にはずっと引っかかっていたのよ。だから、大学で古代文学を専攻もした。渚くんちは伊邪那岐流だから古事記には詳しいわよね」

「はぁ、まぁ」

「ママ!  わたしたちが知りたいのは呪縛解除の方法なの。それを教えてよ!」

 もう十一時をまわっているのだ。どこまでも平行線のような母の話が役に立つとは到底思えなかった。机に突っ伏した姫香の肩に渚が手をやった。

「お母さんにそんな言い方をしちゃいけない」

「だって……」

「脱線しちゃったわね。あせってもいい考えは出ないわ。お茶を飲んで落ち着きましょうか」

 母がティーポットに紅茶の葉を入れてお湯を注いだ。

 その動作を見ていた渚がふと思いついたように聞いた。

「女桃太郎に食べ物は出てきましたか?」

「きびだんごね。母が渡したきびだんごを食べて、ヒルコとアワシマは仲間になったの。だけど、姫香と同じように母も凪の介さんも食べられなかったわ」

「やっぱりそうか。セイも、イサは食べないと言い切っていました。あの世界で食べる行為をして、生き残ったのはぼくが初めてなんだ」

「おばあちゃんと違うことばっかりで参考にならないよ」

「違うことばっかりか。いや、似てる部分もある。食べるか、食べないかだ」

「それって、似てるって言えるの?」

「ヒルコの思考回路なら、前の行動パターンを進化させるに違いない。食べ物、変身、ヨモツ国……それらを繋ぐ法則が何かあるはずだ」

「……あっ!」

 母が小さな叫び声をあげ、姫香をちらりと見た。

「なに、ママ。気がついたことがあるなら言って」

「あ、うん。また関係ないって怒られそうだけど」

「いい、言って!」

「ヨモツ国って、黄泉よ みの国のことじゃないかしら」

 渚の目が輝いた。

「ぼくもそうだと思います」

「それって、古事記のお話だよね?」

「そう。黄泉の国のくだりに食べ物が出てくるの。難産で死んだ妻のイザナミが恋しくて、夫のイザナギは黄泉の国へと妻を迎えに行くのよ。すると、イザナミは、『わたくしは、黄泉戸喫よもつへぐいをした』つまり、『黄泉の国で煮炊きした物を食べて黄泉の国の住人になったから帰れない』、とイザナギに言うのよ。ようは、同じ釜の飯を食べて同族意識を持ったってことなんだけど、これって体が変化したと取れなくもないわよね」

 渚が何かに思い当たったように顔をあげた。

「ヒルコが、ゲンブに戸喫へぐいはヨモツ国へのくさびだと言っていました」

 姫香が頬に手をやった。

「待って。クサビって言葉……わたし、ほかでも聞いた……どこだっけ……あっ!  ヒルコが、イサに会えたら、楔をもって楔を抜けと伝えろって!」

「そうか。おれは肉を食べ異界の住人になった。そして、ここでも肉を食べた。これが楔を抜く鍵だ」

「だから、呪縛解除ができ……」

 言いかけた言葉を姫香は呑みこんだ。渚のあぶら汗はまだひいてはいない。

「楔を抜くためには、ほかにもまだ何かあるんだ。なんだ。何があるんだ」

 カチャンと音をたてて、ティーカップが姫香たちの前に置かれた。

「さ、紅茶をどうぞ。本当はね、こんな時にはリラックス効果のあるミントティーがいいのよ。だけど、今日はちょうどミントがなくって」

「それだ!  それもです!」

 渚が椅子を倒して立ちあがった。

「ミントってハッカのことですよね!  食べた薬は、どれもハッカの味でした!」

「ママ、おばあちゃんのハッカ飴を出して!」

「ないわよ。もうそんなもの」

「ほかにミントのものはないんですか?  ガムとか飴とか」

「ないわ。庭にミントを植えてはいるけれど、今日はこの雨だし」

 言葉を聞き終わらないうちに姫香の体は駆けていた。背後から母の声があがる。

「外はひどい雨なのよ!  ミントが無事かどうかだって!」

 考えている暇はない。玄関ドアに手をかけた時、姫香は渚に腕をつかまれた。

「おれが行く!  おまえは家にいろっ!」

「そんな体で無理だよ。それに渚はミントがどこに植えてあるか知らないでしょ!」

「仕方ない。一緒に行くぞ!」

「渚くん、ちょっと待ちなさい!」

 追いかけてきた母があきらめ顔で靴箱を開けた。

「主人の草履を履いていきなさい。二人とも気をつけるのよ」

「はい。お借りします」

 渚が深々とお辞儀をして、靴箱から草履を取った。

 

「うわ、ひどい雨!」

 外は空の栓が抜けたようなどしゃぶりだ。

 強風と豪雨に吹き飛ばされそうな体を渚に支えられながら姫香は庭を進んだ。なぎ倒された植木がミントの植えてある場所に覆い被さっている。それを二人でどけるとひしゃげたミントがあった。渚がミントを株ごと引き抜き、家に向かって歩きだした。

「姫香、先に行け!」

 渚に前へと強く押され、振り返った。渚の肩口が裂け、腕から血が流れている。

「何っ、何があったの!」

 渚がミントをかじり、立てかけてある庭ぼうきを手にした。

「いいから、行けっ!」

 がしゃん、と音をたて、姫香の足元に壊れた和時計が落ちてきた。

「どこから、これが?」

 見上げた雨脚の先に、滅ぼしたはずの兎と鼠の合体魔物、トソが無数にいる。

「なぜここに!」

 トソたちが急降下してくる。渚が振りまわすほうきは確実にトソに当たっている。だが、トソは透明になったように庭ぼうきを素通りし噛みついてくる。

「きゃぁぁっ!」

 払っても払っても何匹ものトソが姫香に噛みついてきた。

「いやぁぁぁ!」

 その恐怖と痛みに姫香は膝を折った。

「だらしがないぞ、姫香」

 聞き覚えのある声だった。

「まさか……」

 顔をあげるとヒルコとゲンブが立っていた。ヒルコには金色の髪と眉があった。

「お姉ちゃんしっかりして」

 ゲンブが姫香を抱き起こした。

「ありがとう、ゲンブ」

「へへへ。ぼく、ほんとはアワシマって言うんだ。隠しててごめんね」

 瞬時にトソの群れが分解して消え、傷と痛みがなくなった。上空から落ちてきた火打石が地面に弾けて分解して消えた。

「イサ、刀だ!」

 ヒルコが客間にあった刀を放り投げた。刀をがっしりと受け取り、渚が叫んだ。

「遅いぞ!」

 仲間と逢えたことを喜んでいる。そんな声だった。

「体を保つのに時間がかかった」

「おれの楔は抜けたのか!」

 腰から抜いた刀があわく光っている。

「安心しろ。もう抜けた」

 ヒルコがニヤリと笑った。姫香はヒルコをにらみつけた。

「なぜ渚にこんなことをしたのっ!」

「仕方なかった。葦の原に召還した途端、イサは夜刀に見つかった。咄嗟に十二支の中の動物に変身させ夜刀を欺こうとしたが、イサは夜刀の手に落ち呪縛までかけられる始末」

「なぜ、おれに楔を打った!」

「夜刀は混沌で物を食べて人が死ぬのを何度も見ている。イサだと露見せぬ唯一の方法……それが、戸喫だったのだ」

「おまえは、異界でモノを食ったら死ぬと知っていたろう。おれをはじめから殺す気だったのか」

「そうではない。おまえが食べた肉は、肉に見せていただけの空気だ」

「空気?」

「異界に空気は無い。時間の無い世界だから人間にも空気は必要ない。あれは人を召喚した時に一緒に入ってきた現世の空気を肉に見せかけたモノだ。戸喫をしても空気なら何事もなく消化できる予定だった」

「見せかけたって……あんなにリアルだったのにか?」

「リアル過ぎたのかもしれん。俺の予想を超え、肉の形や匂いが異界に強く楔を打ちこんでしまった。イサの体の負担を無くそうと、モモにもらった薄荷飴を中和薬として用いたがそれすら楔になった。戸喫をすると死ぬという後天的に作られた条件反射が、いつの間にか先天的な無条件反射に変わっていたのだ」

「それで現世に戻ってまで呪縛解除させたのか」

「無条件反射は、自らが呪縛解除するしか方法がないからな」

「おれはセイからも肉と薬をもらったぞ。あれは?」

「セイもスザクも元はこの世界の者だ。鬼としてモモとも会っている。その時に空気と飴を手に入れたのだろう。同じ構造だと確認したからこそ、お前とゲンブにも食わせた。無論、俺はお前なら呪縛解除できると信じていたぞ」

「この嘘つきめ。死ぬ確率の方が高かったろう。動物への変身はどうなんだ。おれたちになにか影響はあるのか」

「どちらも視野脳と形態を少しいじっただけだ。問題ない」

「ま、待って。じゃぁ、オノゴロにいた学生服の伊佐先輩は?」

「ああ、あれも夜刀の気をそらすための幻覚だ」

「おまえ、臆面もなくよくペラペラとしゃべれるな」

 そう言いながら渚が大きく肩の力を抜いた。アワシマがヒルコの袖を引っ張った。

「ね、もう来ちゃったよ」

 ゆらり、と空気が動き、突然、総毛立った。

 

 ヘドロのように周囲がぼこぼこと波打ち、異界で出会った魔物が次々と湧きだした。魔物たちの後方に白い大蛇が身をくねらせている。シュッツ!  と、大蛇の舌が音を発し、夜刀の声があたりに響いた。

が恨みを消すことは叶わぬ。決して生み出させはせぬ。逃しはせぬぞ」

「やれやれ」

 ヒルコが肩をすくめた。

「すまんな。お前たちとのえにしをたどって俺たちは現世ここに来た。そのあとを追って夜刀も来てしまったようだ。それともう一つ」

「ごめんなさい。ぼく」

  すまなさそうに頭をたれるアワシマを見て、ヒルコが金色の巻き毛をいじりながら、にが笑いした。

「こいつ、夜刀からの回収物をどこぞに落としたらしくてな。それを依り代よりしろにして魔物がこちらに出てきているのだ」

  渚がサッとアワシマを見た。

「いくつだ!」

「ええっと、お姉ちゃんのはちゃんと返したから」

「数える必要はない。すべての魔物が出て来られるだけの数があった」

  ヒルコが飄々ひょうひょうと告げた。

「うっ!」  

 渚がうめいてひたいを抑えた。指の間から真っ赤な血が滴り落ちる。渚の頬を猿が爪でえぐったのだ。

 マシラ犬がキキキと笑った。それを渚が刀で斬りおろした。地面に落ちた魔物が古銭に変わり、錆びてぼろぼろとくずれて消えた。

「ヒルコ!  さっきみたいに魔物を消せっ!」

「俺を頼るな。夜刀が宿りし物は壊れた。混沌に長くあった物も形ありて無いも同じだ。所詮、闇に力を得る怨念。朝日が昇ればすべて消える」

「朝まで何時間あると思ってんだ。一匹づつでも異界であんなに手こずったんだぞ!」

「俺は一刻も早く体を維持する方法を見つけねばならん。できねば、また混沌へと逆戻りだ。お前たちも死ぬなよ。お前たちが死ねば、できたばかりの俺たちの体が崩壊する。この世ではまだお前たち二人の力がないと体を保てぬからな」

  渚があきれたように言葉を吐いた。

「ヒルコ、おまえ、自分のことばっかりだな」

「当然だろう。おい、アワシマ、いい加減にやめろ」

「だって、よくわかんないんだもん」

「興奮を解いて、力を弱めろ」

 アワシマが大きく深呼吸した。雨足が弱まり、雨がやんだ。

 ヒルコとアワシマの姿が足元から薄れていく。

「どこに行く!  手をかせ!」

「俺たちはまだ揺れている」

 アワシマの姿がかき消えた。

「消える前にセイとスザクを呼んできて!」

「お前が現世に帰ることがあれらの望みだった。その望みが叶い、光に包まれ浄化した。あの二人は混沌にも、この世にもいない」

「わたし、セイにもスザクにもお礼を言ってない」

  ヒルコがニタニタ笑う顔だけになった。

「そう、あれらは最後にこう言っていたぞ。皆、すこやかに、とな」

 とうとうヒルコの姿もなくなった。

「あいつら、らしいな」

 渚がふっと笑って剣を構えた。 

たきもと裕
天降り姫 ヒルコの夢 -1-
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