天降り姫 ヒルコの夢 -1-

第7章 最後の聖戦( 1 / 2 )

 

「どこに行ったんだ!」

 もぬけの殻の姫香の部屋を見て、ビャッコは暴れまくった。

「おまえが一人にしてやれと言うから、こんなことになったんだぞ!」

 ヒルコに飛びかかろうとしたビャッコを、ゲンブが取り押さえた。

 ゲンブの目から大粒の涙が零れ落ちている。

「やめて、もうやめてよ、お兄ちゃん!」

 八尺瓊勾玉は小机に無造作に置かれ、カバンの中身が床に散らばっている。

 それらを愛おしそうにヒルコがカバンに詰めた。

「たしかにもっと注意しておくべきだった。夜刀はわれらの隙をつき姫香を捕らえたのだ」

「はぁはぁ……もう暴れない。離せ、ゲンブ」

 涙と鼻水でぐしょぐしょの顔のゲンブに、ヒルコが小さくうなずいた。

 拘束がとけたビャッコが、痛そうに腕をさすった。

「誰かが夜刀の手引きをしたとしか思えんが」

 ヒルコが背後にいるセイとスザクに鋭い目を向けた。セイがヒルコを見返した。

「我らは夜刀とたもとをわかちました。それが姫さまのためになると信じたからです。だからこそ、我らはあなたが奪った肉体の制約をふたたび受けることにしたのです」

「おい、どういう意味だ、それは」

 ビャッコが怒鳴った。

 スザクたちはヒルコに以前、殺されたと言ったのも同然ではないか。スザクがヒルコを睨みつけた。

「我らと敵対したくなくば、イサを解き放ちなさい」

「この前もおれにイサを知らないかとしつこく聞いたよな。おい、スザク。イサって誰だ!」

 いらだつビャッコに向かってセイが悲しげに微笑んだ。

「姫さまとイサは一対なのです。ですから、イサも必ずこの地におみえになっています」

「それは姫香と同じ世界の人間がいるってことか?」

「そうです。お二人が力を合わせれば元の世界へもお帰りになれます。前回、お見えになった姫さまはイサとお帰りになったのですから」

「帰った?  それはどういうことだ?」

 誰もが知っている風なのにビャッコに答える者はいない。

「もういい!  結局のところ、おまえら全員、同じ穴のムジナじゃねぇか。姫香を利用してるだけだ!」

 スザクが鼻で笑った。

「そういう貴方はどうなのですか。天降り姫とイサの邪魔をして貴方は何を得るのですか」

「邪魔……だと」

 ビャッコが大きく深呼吸をして手を見た。

「おれはただ姫香が好きなだけだ」

 ビャッコが強く拳を握った。セイが静かに首を横に振った。

「イサは姫さまと同じようにこの地の物をお食べになりません。だから、あなたはイサにはなれない。姫さまを本当に想うなら、姫さまの前から消えるべきです」

「うるせぇ!  誰だろうと姫香はぜったいに渡さねぇ!」

 ビャッコが剣を握った。

「お姉ちゃんを返せ!」

 ゲンブが武器をかかげた。

「イサを執拗に探すのは、夜刀の為か!」

 ヒルコが目を怒らせた。スザクが挑戦的な笑みを浮かべた。

「天降り姫をヨモツ国に無事お返しすることが我らが望み」

「どうか、イサをお渡しください」

 セイが強いまなざしでスザクを守るように弓を構えた。

 

 

 姫香の目から落ちた涙が水たまりに波紋を広げ、みんなの姿が揺らいで消えた。

「ビャッコ……みんな……」

 混沌とした泥色の空間。その地にできた水たまりを通して姫香は一部始終を見ていた。

(……すべてがはっきりと壊れてしまった)

 内部分裂しかけていたとはいえ、この状況を招いたのは姫香自身だった。そのことに心が引き裂かれそうだ。涙を拭き、背後でほくそ笑んでいる夜刀を見据える。

「夜刀、イサはどこにいるの?」

 みんながイサと言っているのは学生服の少年に違いない。

「夜刀はヒルコの付けた名。に名は無い」

「あなたはいったい何者なの?」

「吾はイサでありナミでもある」

「まさか……あなたがイサなの?」

「否。吾は個であり、個ではない。吾は死しても死ねぬ、イサとナミの魂が集いしモノ」

「ナミ? ナミって、まさかおばあちゃんの、那美家のことなの?」

「左様。は、吾が血を継ぐ子孫、ナミ」

「わたしは、ナミじゃない。氷室姫香だよ!」

「だが、汝は此処に来た。汝こそ、那美の血を受け継ぐただ一人の子女、違うか?」

 たしかに、今の那美家の子供は男子ばかりで、女子はいない。

「此の地は混沌。此処には全てのモノが無く、そして、また全てのモノが在る。故に、自らが望めば全てが叶う地よ」

「それってわたしが望めば元の世界に帰れるってこと?」

「ナミだけの力では叶わぬ。道を示すは現世への執着。吾は現世には執着しておらぬ。吾はイサとナミによって成る。故に、ナミだけを帰す事は出来ぬ」

「ああっ、もういい。希望を持たせ、惑わそうとしても無駄。ヒルコはあなたがこの世界の災厄の元凶だと言った。やはりそれが真実なのよ」

「笑止!  吾を悪に仕立てれば、人は善の心で倒そうとするであろう。天降り姫と名を貰い、使命感は生まれなんだか。ヒルコの言葉に踊らされていないと汝は言い切れるのか、どうだ!」

 夜刀の剣幕に姫香は呑まれていた。

隠匿いんとくしたイサをヒルコは決して出しはせぬ。先ずヒルコを殺さねばならぬ。イサを解き放つには其れしか無い」

「殺すって……そんなこと!」

「汝がヒルコと共に在るならば、子籠こごもりし産むしか現世に帰るすべはないぞ」

 ざわざわと姫香の背中に冷たいものが走った。

「子籠り?」

「イサの赤子をナミが産む。其の子がヒルコよ」

「わたしが子どもを産む? そんな馬鹿な話」

「ならば、汝はヒルコが鏡に映るのを見た事があるか」

「ヒルコは鏡が大好きだもの」

「あるか、と聞いておる」

 鏡に映るヒルコを見たことはない。

「其が答え。此の地は全てが叶う地。只一つ、ヒルコの体を除いてはな」

 混乱してまともに考えることが出来ない。

「そうだ。三種の神器を集めてイサを見つければ」

 夜刀がふくみ笑いをした。

「三種の神器などヒルコが作った足かせに過ぎぬ。頭をいじりたわむたぶらかしておるのよ」

 たしかにこの世界にきてから現世のことを忘れている。

「だけど……」

 どうしてもヒルコが悪とは思えない。頭を強く左右に振り、顔をあげた。

「ヒルコはひねてはいるけど、悪い子じゃない。きちんと話せば、あなたの苦しみだってきっとわかってくれる。それに子供を産むよりもっといい解決方法だって、みんなで探せば必ず見つけられるよ。だから、みんなでまず話し合おうよ」

「面妖な事を言う。吾が双腕そうわんであったセイとスザクが惹かれたのは、其処そこなのであろうな。だが、吾は決してヒルコを容赦せぬ」

「イサは?  もし、本当にヒルコがイサを隠しているんならイサまで死ぬかもしれないんだよ。あなたは子孫を殺してまでヒルコに恨みをはらすの?」

「ヒルコに付くモノは全て滅ぼす。時は満ちた。さ、戦いの場へ参ろう」

 来いというように夜刀が手をのばした。

 

「いやだ、行かない!」

 直感が姫香の口から流れでた。

 姫香は物事を論理的に思考するタイプではない。どちらかといえば、考えすぎて失敗するタイプなのだ。だから、迷ったときは直感に従う。それが今まで生きてきた上で最良の道だった。

「みんなを殺すと言うのなら、わたしはあなたと戦う」

 夜刀の目に宿る深淵を正面から見つめ返す。

「気丈なことよの。だが、吾に勝てはせぬぞ」

「絶対に負けない!」

 みんなといて楽しいと感じた気持ちに偽りはない。

「勝てはせぬぞ……勝てはせぬ……」

 哀しい笑みを残し、夜刀が消えた。 


第7章 最後の聖戦( 2 / 2 )

 

 暗転し、灯りがついた舞台のように景色が一転した。

 泥色の空間に武装した五人がポーズを決め、彫像のように立っている。

「みんなっ!」

 前に進み姫香は強かに鼻を打った。なにか硬いものにぶつかったのだ。

 「痛ぁ。なに、これ?」

 四角い透明の壁が姫香を取り囲んでいる。叩いても壁そのものに反応がない。

 薄っすらと逆転した文字盤が見えた。

「まさか、和時計の中なの。夜刀ッ、ここから出しなさいっ!」

 夜刀の忍び笑いが聞こえた。

「汝の力では破ること叶わぬ。汝が選びし者どもが滅びるさま、とくと見るがよい。其が吾に刃向かった代償なり……ヒヒヒ……フハハハハハ……」

 高笑いが小さくなって消えた。

「ここから出して!  ビャッコ、みんな、聞こえないのっ!」

 大声をあげ、壁を必死に叩くが誰も気がつかない。

「みんな……」

 溢れそうになる涙をこらえる。

「あれが、夜刀本来の姿、八俣の大蛇やまたのおろちですよ」

 スザクが天の沼琴あめのぬごとをかき鳴らした。

 

 みんなの前方の空間に混沌の一部がボコボコと湧きあがった。それが凝り固まり、一つの胴体に八つの頭と八つの尾がうごめく巨大な蛇となった。

 全身を覆う黒いウロコは不気味に光り、目が憎悪の炎を噴出している。その異形の姿に吐き気と震えは止まらず、姫香は忌むべき者への恐怖に骨の髄まで凍りついた。

 ビャッコがひとり空中へ飛びだした。オロチに向かって天駆けるビャッコが初めて小さく見える。

 シュッ、と、二股の舌から発した音に衝撃を受け、姫香に言葉が戻った。

「ビャッコ逃げて。無理だよ!  みんな逃げて!  逃げてっ!」

 姫香の声を打ち消すようにみんなが八俣の大蛇に向かっていく。オロチの八つの頭が鎌首を交互にもたげ火を乱射した。火の速度、太さ、勢いすべてが金朱雀の炎を遥かに凌ぐ。

 それだけではない。火炎は混沌を巻きこみ、いかづちとなって予想できない場所からみんなを狙い打ってくる。上方からのみの銀蒼龍の攻撃が子供の遊びだったかのようだ。

 大鎌のような牙も鋭い鞭のような長い尾も油断を待ち乱舞している。どれに当たっても即死は明らかだった。スザクが戦火から離れ、天の沼琴を一心不乱に弾いている。

「なにをしているのスザク!  あなたは夜刀の仲間なのっ!」

 わずかに微笑んだスザクが、袖から壺を取りだし液体を流した。

「あれは、ヒルコに渡した酒壺。ヒルコは……スザクを信用した……の?」

 はじめは少量だった酒がやがてオロチのまわりで潮流となり、大海となって波打った。

 泳ぎに気をとられたオロチの攻撃が緩慢になる。そこに追い討ちをかけみんなの攻撃が浴びせられる。

 直接攻撃型のビャッコは十拳の剣とつかのつるぎで。ヒルコは天の沼矛あめのぬぼこで、ゲンブは生太刀いくたちで。

 鋼のようなオロチへがむしゃらに突撃していく。それを援護するセイは間断なく生弓いくゆみに矢をつがえ、オロチへ何百何千もの矢を射かけている。

 

「あぶないっ!」

 セイの矢をはじくようにしなったオロチの尾が、ビャッコの体をなぎ払った。ビャッコがごぼっと血反吐を吐いた。その鮮血が一瞬にして消え、ビャッコが咆哮をあげ、オロチへ切りかかっていく。

「なぜ……傷が?」

 ビャッコはたしかに深手を負った。だが、その瞬間に回復した。

「そうか、スザクは回復を専門に請け負ってるんだ」

 スザクの琴の音が絶え間なく、みんなを守っているのだ。

 誰もが、誰かの形勢が悪くなると助けに入る。それが自然になされていた。

 それは打ち合わせたのでは不可能なバリエーションをもった戦い方だった。

「すごい。すごいよ、みんな」

 姫香はみんなと過ごした今までの出来事を思い出した。

 わがままを言い合ったり喧嘩をしたりしたけれど、一緒に旅をすることで生きる力をみんなから与えられていたのだ。

『思い、思われる。助け、助けられる。そんな些細なことをお教えくださいました』

 セイが姫香に確認し、伝えたかった言葉だ。

「わたしが惑い、忘れていただけ」

 思い出した言葉が、清浄な空気を吸いこんだ時のように体の隅々へ染み渡った。

「人は一人では生きていけないから、助け合いながら生きているのだから」

 それは人が人として生きていく上で条件となる姿勢だ。

「わたしは目の前の不安から逃げちゃいけなかったんだ。不安を見据え、それに立ち向かうべきだった。ただ信じればよかったんだ。仲間を。そして、わたし自身を!」

 雷は途絶えたが、大海に順応したオロチはより強く炎を吐き、牙を剥いた。その一方で交互に周囲の酒を呑んでいる。あの勢いではじきに酒を呑み干すだろう。

 みんなは最大限の攻撃をかけている。しかし、それをオロチは虫ほどにしか感じていない。

「わたしにも何かできることが!」

 制服のポケットを探ったが朝使った竹櫛しか入っていない。

八尺瓊勾玉やさかにのまがたまがここにあれば……」

 あきらめては駄目だ。

「八尺瓊勾玉、ここに。わたしのそばに来てっ!」

 強く思い描く。虹色の光りを煌めかせ、長い緒に紡がれた七色の勾玉が姫香の目前に浮いた。

「やった。ここでも術が使える!」

 八尺瓊勾玉を首にかけ、強く握りしめる。

「みんなはいつもわたしを導いてくれた」

 三種の神器さんしゅのじんぎのことを聞いた時、『見つけるとしたら貴女でしょう』と、スザクは言った。

(……と、言うことは)

 姫香が見つけようとすれば、三種の神器は見つかるものなのだ。

 夜刀は三種の神器を足かせと言った。

「だけど、三種の神器を否定はしなかった。なら!」

 突破口は三種の神器だ。

「おばあちゃん、力を貸して。みんなを救う力を!」

 蒔絵の手鏡を思い描いて目を閉じ、前方に向かって手をだす。

「ここに、鏡を!」

 物が現れた感覚に目を開ける。手鏡が両手の中の空間でクルクルとまわっている。嬉しさをかみしめ、今度は更なる進化を強く願う。

八咫鏡やたのかがみへ!」

 小さな鏡がお盆ほどの大きさになり、太陽をかたどった白銅鏡になった。それが、淡い光りを放ちながら頭上に浮いた。そのやわらかな白い光に照らされ、姫香の制服が、白い小袖と緋色ひいろはかまの巫女装束に変わった。

 

「覚醒なさったのですね」

 すぐそばでスザクの声がした。

「あ……」

 姫香の隣でスザクが天の沼琴を弾いている。

「スザク、わたしが見えるの?」

「無論。夜刀の元から逃れたそのお力、お見事です」

 沼琴を弾く手を休めることなく、スザクが言葉を続けた。

けがれは人が本来、魂に持っている力を失わせるもの。明るく、正しく、清らかな心をかき乱すもの。穢れに惑う貴女は、夜刀に容易につけこまれました。我らに天降り姫なくば、勝ち目はありません。けれど、それを知りて尚、彼らは……彼らは、夜刀に戦いを挑んだのですよ」

 みんなは姫香が戻ってくることを信じて、この地に身を投じたのだ。

「迷惑をかけてごめんなさい。でも、わたしきっと勝ってみせるから」

「天降り姫、よくそこまで成長なさいました」

 今はスザクの言葉に素直に耳を傾けられた。

 すでにオロチは酒を飲み干し、周囲は泥の海となっている。スザクが姫香に太陽の笑みを向けた。

「さぁ、天降り姫、仲間とともにオロチを退治いたしましょう」

「うん!」

 スザクに笑顔を返した。

「おこがましいことよの、スザク!」

 夜刀の声が轟き、一匹の大蛇が顔を突きだした。それに人の姿をした夜刀がダブった。刹那、大蛇の舌がスザクをなぎ払った。スザクの姿が消え、遠くで泥しぶきが上がった。

「今お助けします、スザクッ!」

 スザクのあとを追いセイが泥に飛びこんだ。その場所に耳をつんざく音を立てて雷が集中砲火した。

「セイ、スザクッ!」

 どさり、と、血まみれのヒルコとゲンブが落ちてきた。

「ゲンブ、しっかりしてっ!」

 回復薬をゲンブの口に入れる。意識が戻らない。ヒルコがうめき声をあげた。

「薬だよ。飲んでヒルコ!」

 ヒルコにも薬の効果はない。ヒルコが苦しげに手を伸ばして姫香の小袖を掴んだ。

「お前、一人で、変身……したのか……」

「一人じゃないよ。みんなが信じてくれたから」

 ヒルコがぜぇぜぇと荒い息を吐いた。

「ここから離れろ……今の俺の力では……お前を守ってやれん」

「そんなこと言わないで。いつものヒルコらしくないよ」

「心配するなど……ははは……俺は、お前のことが気に入って……いたのだな……」

「イサのいる所を教えて。そうすれば助けられる」

「力が……以前とは比べ物にならん。イサが現れれば……夜刀は……お前たちに宿る。それでは皆死ぬ」

 ヒルコがむせて、ごぼごぼと血を吐いた。

「もうしゃべらないで」

「……返す……ぞ」

 姫香のカバンが浮いた。受け取り、カバンを肩にかける。

「ビャッコに……ち……地図を渡せ……神器が……ヨモツ国への扉を開く鍵だ……」

「地図ね、わかった」

「そして、もし……イサに会うことが叶ったら……」

「会えたら?」

「……くさびもって楔を抜けと……伝えろ……」

 

 ヒルコの意識がなくなった。オロチが笑うような顔を姫香に向けた。

「あぶないっ!」

 姫香とオロチの間にビャッコが駆けてきて、オロチの頭を切断した。

 剣が刃の真ん中で折れ飛び、オロチの頭の一つが泥の海でじたばた動いて息絶えた。

「逃げるんだ!」

 折れた剣で戦いながらビャッコが怒鳴った。

「ゲンブとヒルコを置いていけない。守らなくちゃ二人を……でも、どうしたら……」

 突然、祖母がよく読んでくれた古事記を思い出した。

 男神、伊邪那岐が竹櫛を呪術の道具として使う場面があった。

「おばあちゃん、ありがとう!」

 祖母が守ってくれている気がした。

 ポケットから竹櫛をだす。念じながら竹櫛をオロチに向かって投げる。

「守って!  大好きな人たちを守って!」

 オロチの前方に落ちた竹櫛が竹になり、太く大きく成長してオロチを阻む竹林を作った。

「これでしばらくは……お願い、二人とも起きて!」

 ヒルコとゲンブを引きずろうとしたが重くて動かない。ビャッコが泥の波をあげ、近づいてきた。

「何をしているんだ!」

「オロチが来る前に二人を遠くに。ビャッコも手伝って!」

 ビャッコが二人から姫香を引き離した。

「いいから、おまえは逃げろ。おまえは天降り姫なんだ。逃げて次の機会を待つんだ!」

「いやだ!  絶対に逃げないっ!」

 竹林が一面の炎に包まれた。じきにオロチはこちらへ来るだろう。

「おれは、おまえを失いたくないんだっ!」

 突然、抱きしめられた。

「おまえが、好きなんだ」

「わたしも……好き……」

 姫香をそっと放したビャッコの顔はあまりにも切ない。

「やっとその言葉を聞けたな」

「ビャッコ……」

「それだけでおれに悔いはない。おまえはもう行け」

「やだっ。わたしは逃げないっ!」

 ビャッコの胸に地図を押しつける。

「ヒルコがビャッコに渡せって。わたしはあきらめない。だから、ビャッコもあきらめないで!」

 地図を手にしたビャッコが、グラリとかしいで片膝をついた。

「ビャッコ?」

「あ……ああ、大丈夫だ」

 重い体に鞭打つようにビャッコが立ち上がった。その顔は先ほどまでとはあきらかに違っていた。

「この剣を手にした時から、こいつはおれのものだと感じていた。その意味がやっとわかったよ」

 きっとした顔でビャッコが折れた十拳の剣を泥にかざした。

 ズブズブと折れた刃先が泥の中から現れ、剣が一瞬のうちに修復した。

「さっき、おまえはあきらめないといったな。おれもあきらめない」

 地図を剣に捲きつけ、ビャッコが笑顔で姫香を見た。

「どんなことがあってもおまえと一緒にいる!」

 ビャッコが十拳の剣を一振りした。

「見ろ、これが、草薙剣くさなぎのつるぎだ!」

 剣が美しい宝剣へと変わり、まばゆい輝きを発した。草薙剣の光に呼応して八尺瓊勾玉と八咫鏡も白く輝きだした。

「あ……」

 姫香が見あげた鏡に傷の消えたビャッコが映っている。

 鏡の中でヒルコとゲンブが、ゆっくりと立ちあがった。そして、セイとスザクが姫香のそばにいた。

 ゲンブが笑顔で姫香の手を取った。

「ぼくらのこと大好きだって言ってくれたの、お姉ちゃんが初めてだよ。ありがとう」

「お前の想いが俺たちに体をくれた」

 ヒルコが照れたように顔を伏せた。

「我らは天降り姫のおかげで、やっとまことの仲間になれたのですね」

 スザクの言葉にヒルコが一瞬驚いた顔をして、そして、笑顔になった。

「そうだな。仲間になったのだな」

 静かに微笑んだセイが顔をあげ、竹林をさした。

「さ、オロチが来ますよ」

 

 オロチの七つの頭が燃え盛る竹林を突き破り現れた。オロチの動きを抑止するように三種の神器が強く発光した。

「よしっ、やるぞっ!」

 飛びだしたビャッコを援護するように、スザクが炎の輪の中にオロチを閉じこめた。セイが銀の矢で十四の目を射る。ヒルコとゲンブがもがき苦しむオロチの首を切り落とし、ビャッコが一声のもとに巨体を両断した。痙攣が八つの尾を走り抜ける。

 そして……、静寂が血の海に訪れた。

 八俣の大蛇が、みんなが、三種の神器の発する白い光に包まれていく。

「待て!  おれも一緒に行く!」

 ビャッコが飛んできて姫香を強く抱きしめた。瞬間、目を開けていられぬほどの輝きに見舞われた。

 頭の中に虹色の閃光が跳梁ちょうりょうし、何かがうしおのように二人を押し流した。

最終章 新たな世界( 1 / 5 )

 

 柱時計が刻をボーンボーンと打っている。

「姫香……姫香……」

 名前を呼ぶ声で姫香は我に返った。姫香を抱きしめていたビャッコがニコリと微笑んだ。

「ここ、どこだい?」

 体の下には畳。見慣れた祖母の部屋だ。

「わたしのおうち。おばあちゃんの部屋だよ」

 部屋を見まわすビャッコは、白い着物と黒い袴を着け、腰には日本刀をおびている。

「そうか、おれたち戻ってきたんだな」

 目の前の文机の上に和時計はない。姫香はそばに落ちている学生カバンを引き寄せた。

 ビャッコが柱時計に目をとめて、姫香の腕をとって腕時計を見た。

「時間がたっていないな」

「えっ?」

 腕時計と柱時計の秒針は同じ時間を正確に刻んでいる。

「五時……異界に入った時間」

 オノゴロで無くした腕時計があるのは何故なのだろう。

 それに、ビャッコはこの世界でどうしてこんなに平然としているのだろう。

 突然、周囲が暗闇に包まれ、バタバタと大粒の雨が縁側のガラス戸を打った。間近で稲光がひらめき、すさまじい雷鳴が轟いた。

「きゃぁぁっ!」

 ビャッコにしがみついた。直後、ガラス戸がガラガラと開いた。

「わぁぁ、ひどいわぁぁ」

 ずぶ濡れの母が庭からあがってきた。あわててビャッコから離れる。

「あの、ママ、この人は」

 オロオロしている姫香をちらりと見て、母が雨戸を閉めだした。

「二人ともなにをぼーっとしているの。早く手伝ってちょうだい」

 その声に従い、三人で雨戸を閉めた。

「ふぅぅ、急に暗くなってきたから、ウサギ小屋にシートをかけにきてよかったわ。天気予報じゃ今日は晴れだと言っていたのに、こんなどしゃ降りになるなんてねぇ」

 母が全身を眺めた。

「これじゃぁまるで濡れ鼠だわ。ママ、お風呂に入ってきちゃうわね」

 母がビャッコをじろりと見た。

「あなたは客間で待っていてもらおうかな」

「あの、ぼく、もう失礼しますから」

「何を言っているの。この雨の中を帰せないでしょう。それにね、今日は姫香のお誕生日なのよ。だから、渚くんも一緒にお誕生日パーティーをやりましょうよ」

「でも、ぼくは」

 言葉をさえぎり、母が右の人差し指を立てて横に振った。

「若者は遠慮しないものよ。いいわね」

「は、はぁ」

 強引に話をまとめた母が複雑そうな表情で姫香を見た。

「姫香も制服を着替えてきなさい。さ、早く!」

「あ、うん。わかった」

 学生カバンを手に持ち、姫香は二階にある自分の部屋に上がった。

 

「なにが、どうなってるの?」

 ラフなワンピースにいそいで着替える。こうしている間にもビャッコが消える気がした。二人で抱きあっているのを母は見たはずだ。それを母がとがめなかったのも不思議だった。

「渚……くん?」

 母はビャッコのことを渚くんと呼んだ。

「渚……って」

 思いがけないほど急速に記憶が戻った。

伊佐 い さ……なぎさ?」

 好きだった先輩の名前だ。

「そうよ、ビャッコに学生服を着せれば」

 先輩に瓜二つではないか。

「イサって、先輩のことだったの?」

 部屋をでて階段をおりる。客間の前まできてためらった。

(先輩が……)

 深呼吸をしてそっと中をのぞく。居心地悪そうにビャッコがソファに腰掛けている。

(ほんとうにビャッコが、伊佐先輩なの?)

 先輩だとしてもなぜ剣道着を着ているのだろう。

 ソファの横に立てかけてある日本刀はなんなのだろう。

「あ、姫香」

 姫香に気がついたビャッコが明るく微笑みかけた。

「そんなところにいないで、こっちにおいでよ」

 ビャッコの乱暴さは微塵もない。さわやかな印象だった。

 ロー・テーブルの横を抜け、姫香は向かいのソファに座った。

 二人きりの部屋にゴーゴーと雨音が響いている。

「あのっ、あのね、ビャッコは」

「おいおい、ビャッコはやめろ。おれは、伊佐渚。渚って呼んでくれ」

「あ、うん。渚。あのっ、そのっ、渚が、ビャッコなんだよね」

「そうだよ」

「なぜ、ビャッコって名乗っていたの?」

「なぜかな。そう思いこんでいたんだ」

「どんな風にオノゴロに入ったの?」

「学校から帰ってから、道場で稽古をしていて」

「道場って?」

「おれんち、剣術道場をしているんだ」

「へぇぇ」

 ビャッコが剣の使い手だったことが納得できた。

「異界に入った時間は五時。急に目の前に和時計が現れて、現世の記憶をなくしてしまった。あとは、おまえの知っての通りだよ」

「どうやって、戻って来たの?」

「白い光に包まれたところまでしか覚えてないよ。おかげでこんな恰好のままだ」

 袴をさばいて笑った。その様子があまりにも自然だった。

「もしかして、渚はオノゴロのことを知っていたの?」

「さわり程度にね。おれが中学1年生の時に、母から長子の持ち物として、この刀と祖母の兄の遺書を手渡されたんだ」

 渚が刀に目をやり、ふたたび姫香に目を戻した。

「その遺書にね、異界のことが書かれていた。今じゃ肌身離さず持っているお守りみたいなものだ。どうだい、読むかい?」

「うん。見たい」

 道着の胸元を開き、首からぶら下げているお守り袋から黄ばんだ紙をだして、テーブルに置いた。

「それって……」

「気がついたか? そう、これがオノゴロの地図だったんだ」

 その内容は、強い想いを感じるものだった。

 

 

  戦火厳しく、急ぎ遺言を記す。全て真実なり。

 本日、我は桃太郎の如き異界に入り、出雲に住む女桃太郎、那美モモといふ女性と会ふ

 長き戰いの旅ののちに現世へ戻つたが、自分は駐屯地の宿舎にをり出歩いた様子はない。

 然し、異界に行つたのは紛れなき事実なり。

 伊佐家には、長子にナギの名をつけぬと早死にする、といふ言ひ伝へがある。

 那美家にも似たふしがある故、モモさんとの語らひのなかで気になつたことを留め置く。

 那美家の女は、十七にて死ぬといふ伝承ありしこと。

 異界来訪はモモさんの十七の生誕日であつたこと。

 見慣れぬ和時計を見てのち、ふたり異界に招かれたこと。此の三つなり。 

 伊佐家長子は此の謎を解かねばならぬ。此れは伊佐家長子への遺言なり。

  嘘、偽りなき故、重々心に留め実行いたせ。

 

  三月三日                                                          伊佐凪の介   いさ なぎのすけ

 

 

 しんとした部屋の雨戸を雨が激しく叩く。

「やっぱり、おばあちゃん、異界に行ってたんだ」

 懐にお守りをしまい、渚がにがく笑った。

「遺書を書いた日が、戦死日だそうだ」

「おばあちゃん、凪の介さんとはこっちで会えなかったんだね」

「姫香は、モモさんから異界のことを聞かなかったのか?」

「女桃太郎の話を小さな頃に一度聞いた、と思う。怖い話だったってことしか覚えてないよ」

「おれは、遺書を手にしてからいろいろと調べたよ。夏休みを利用して出雲にも行った。そこで、那美家の女が17に死ぬという噂話も聞いた。だから、まだ1年あると思っていた」

「わたしが17になるのは来年。それなのになぜ今日、異界に入ったんだろうね」

「実際には、17歳とは限らないのかもしれないな。噂話を信じたおれも迂闊だった」

「ほかには?」

「那美家には、おれの歳に近い女の子がいないこと。そして、那美家の血を引く唯一の女子がおまえだとも知った。だから、おまえを守るためにモモさんは出雲を離れて東京に来たんだと確信したんだ」

「そこまで調べたなら、なぜ会いに来てくれなかったの?」

 渚の顔が急に曇った。

「一度だけ来たんだ。そして、家から出てきたおまえとモモさんを追った。この近くの神社で縁日をやっていたっけ。そこで、モモさんが急に倒れたんだ」

「それって、わたしが中学1年生の秋祭りのことね」

 救急車が来るまでの間、姫香は人ごみの中でオロオロしているだけだった。

「露店のそばでおまえたちが参拝を終えるのを待っていた。なぜだかおまえを見るたび、気持ちが揺さぶられるようだった。あの時もおまえに引き寄せられて、一歩、そう、一歩前に出たんだ。その時おれを見たモモさんが叫んだんだ、凪の介さんって」

 記憶のカケラが、北岸村でデジャブを見せたのだろうか。

「おばあちゃん、あの時の話をしては微笑んでいた。凪の介さんを見たと思ったんだ……だから」

 渚がつらそうに目を閉じ、頭をさげた。

「ごめん。あの時は急に倒れられて、怖くなって逃げた。おれは凪の介によく似ていると言われていたけど、そんなに似ているとは思ってなかったんだ。でも、今は逃げてよかったんだと思う。モモさん、去年までは生きていてくれたんだから」

「なに、それ。渚と出会ったら、おばあちゃんが死ぬことになってたみたいじゃないの」

「そうは思いたくない。だけど、モモさんが亡くなったのは、おまえが学校見学にきた次の日だったろ」

「あ、ああ。そうだったんだ」

 姫香は、がく然となった。

 

 

「おやおや、どげして。なんかよいことがあったけんすね」

 祖母にかかれば、姫香の秘密などあってなきがごときだった。

「おばあちゃんにだけ言うんだからね。ぜぇったいママとパパには内緒だよ」

「はいはい」

「今日ね、受験する高校を見てきたんだ。そこに、とってもかっこいい人がいたの」

「ほぉぉ、姫香もそぎゃん年頃になったけんすか」

「やだ、ひやかさないで。遠くから見ただけなんだもの。あ、でもね、先生が1年のイサって呼んでるのを聞いちゃった。わたしが入学したらイサ先輩って呼べるんだよ。それってちょっとうれしいかも」

「そげかね。伊佐かね」

 祖母が懐かしそうに笑って、いつも大切にしている鏡と櫛を姫香の手に握らせた。

「大事におし。これがきっと縁を結んでくれるけん」

 その翌朝、祖母は幸せそうに微笑んだまま、布団の中で冷たくなっていた。

 

 

 ぽたぽたと姫香の目から涙が落ちた。渚がテーブルをまわって姫香のそばに座り、涙を袖でぬぐった。

「二人とも、おれたちが出会うことを願ってくれていたと思う」

 祖母はわたしの幸せを望んだ。そして、今、渚がそばにいてくれることが幸せだった。

「ありがとう。わたしのこと、ずっと見ていてくれたんだね」

「おまえだって、学校でいつもおれのことを見ていただろ?」

 気持ちを見透かされていたことに頬が赤らむ。

「あらがってはみたものの、気持ちを止められなかったってことだ。おれの気持ちは異界で何度も確かめたから、おまえを愛したことに悔いはない」

 真剣な表情で渚に見つめられた。姫香は視線を外して、次に来るべき言葉をはぐらかした。

「でも、オノゴロでは、お肉のことばかり言ってたよ」

「肉は呪いのせいだろ。あそこではおれの理性は欠落していたんだ。いま考えると、あの態度はほんとに恥ずかしいけど、あれもおれだったわけだし。乱暴なところがないとは言えないかもしれないな。え、ええ?  もしかして、今のおれじゃダメってことなのか?」

「そういう意味じゃないけど」

 素直に好きといえなかった。

「今はおれのことをどう思っているんだ?」

「今は……」

 目の前にいる渚は、ビャッコやあこがれの先輩とはどこか違う。

「今は?」

 再度の問い。答えを待つ目がつらい。

「今は……渚のことを……もっと知りたい」

 廊下から母の鼻歌が聞こえてきた。

最終章 新たな世界( 2 / 5 )

  

「ほうら、渚くん、おいしそうでしょう!」

 片面が焼けたステーキを母が嬉しそうに引っくり返した。

 妙に明るく接する母が不気味だった。渚の名前をなぜ知っているのかと聞いた時も、「そんな気がしたのよ」と、話を打ち切られた。轟く雷鳴に母が不安そうに窓を見た。

「まるで台風でもきたみたいねぇ」

「あの、ぼく、なにかお手伝いします」

「そうね、姫香と一緒にお料理を運んでもらおうかな」

 居間に料理が並ぶ。ジュースでの乾杯と誕生祝いの言葉のあと、普段より早めの食事がはじまった。

「おいしいですね!」

 ステーキ、アサリのチャウダー、イタリアンサラダ、水菜とキノコのマリネ、海老のハーブ焼き、チキングラタン、フランスパン。

 机の上の料理を渚はどれもおいしそうに食べた。それを見て感心したように母が息をもらした。

「年頃の男の子って、やっぱりたくさん食べるのねぇ」

「ぼく、あの、すみません」

「あら、変な意味じゃないのよ。食べてもらって嬉しいのよ。この雨で主人も出張先から帰れなくなったし、残っても大変なのよ。だから、がんばって食べてね」

「ほんと、ママって作りすぎ。いっつも残り物を次の日に食べることになるんだもん。ね、もっと食べなよ。ほら、ビャッコ、サラダついであげる」

「えっ?  ビャッコって?  ねー、ねー、渚くんっていつもは、そう呼ばれているの?」

 母は鬼の首をとったような勢いだ。

「違う、違う!  ママの聞きまちがい!」

「そうです。聞きまちがいです」

 慌てふためいてサラダをつぐ姫香に、母が疑りの目を向けている。

「ふぅぅん。ああ、そうそう、そう言えば白虎って風水に出ていたわよね。ちょうど時間じゃない。昨日の続きを観ましょうか」

 母がリモコンを手に持ち、テレビをつけた。大音響とともに画面に青龍、白虎、玄武、朱雀の絵が大写しで現れた。金色に輝く文字で『風水スペシャル第二夜』というタイトルがその上に重なる。

 渚が姫香の耳元で小さく囁いた。

「昨日、おまえもこれを観たのか?」

「あらぁ、渚くんも観たの。風水ってけっこう面白いわよね。ね、姫香」

 今日の母は地獄耳らしい。二人とも何も話せなくなった。

 昨日のダイジェストを放送したところで急に画面が途切れ、ニュース速報が入った。

 女性アナウンサーが緊迫した様子でしゃべりだした。

「トップニュースをお伝えします。現在、瀬戸内海沖で、海底より不思議な泡が噴出しているという情報が入りました。識者の間では海底火山の噴火の可能性もあるという見解です。詳しい調査は環境が整い次第、開始するとのことです。では、次のニュースをお伝えします。首都圏では豪雨と強風のため交通が寸断されています。大雨暴風警報が発令されていますので充分な注意をお願いします。その地域は……」

 画面が文字の羅列に変わり、それをきっかけに渚が席を立った。

「ごちそうさまでした。これでおいとまします」

「こんな雨の中を帰れるはずないでしょう。乗り物だってないのよ」

「なんとかして帰りますから」

「うちに泊まると連絡すればいいわ。ご家族もこんな嵐の中を帰るより安心よ。お誕生日のケーキも残っているし、それに、大事な話だってまだ済んでないものね」

 母の意味ありげな上目遣いに姫香と渚はごくりと唾を呑みこんだ。

 

 渚が家に電話をかけると途中で母が受話器を引ったくった。そのあとはあっという間に泊まることが決まっていた。

 居間をみんなで片付け、台所のダイニングテーブルに場所を移す。

 ハッピーバースディーを歌ってもらい、バースディケーキの蝋燭を消した。ケーキを切り分け、紅茶を入れる母は鼻歌をうたい、いつにも増して上機嫌だ。ティーカップを置いて席についた母が、にこやかに口火を切った。

「で、二人は桃太郎と雉になったの?」

 その言葉は青天の霹靂せいてんのへきれきだった。

「ひ、ひどいよ。盗み聞きなんて!」

 母は紅茶に口をつけながら、二人の反応を楽しんでいる。

「そんなことする訳ないでしょう」

「では、なぜご存知なんですか」

 落ち着いた口調だが渚も戸惑っているのがわかる。

「今日は姫香の誕生日なのよ。異界へ行くなら今日しかないでしょう」

 渚が勢いよく椅子から立ち上がった。

「17歳の時に行くんじゃないんですか?  モモさんは17だったって」

 母が大きく左右に手を振った。

「違うわ。母が異界へ入ったのも、16の誕生日の黄昏時よ。ほら、昔は数えだったでしょ。だから、今の16にあたるのよ」

 力が抜けたように渚が椅子へ腰をおろした。母がケタケタと笑った。

「で、どっちが桃太郎になったの?」

「ぼくたちは、兎と虎になりました」

 渚が神妙に白状した。

「じゃ、桃太郎には誰がなったのよ」

「桃太郎はいなかったのよ。わたしが天降り姫って名前でうさぎになって、渚はビャッコっていう名前で白い虎になったの」

「なぜそんなものになっているのよ」

「わたしにだってわかんないよ。ママの方が詳しいんじゃないの?」

「ママに異界の知識があるのはね、母の桃太郎を暗唱できるほど聞かされて育ったからよ。ママだって運命の人が現れるのを待ってもいたわ。けれど、なにも起こらなかった。そりゃそうよね。対になる男性がいなかったのですもの」

「なぜ、対になる人がいないの。渚のお父さんは?」

「おれの父は婿養子なんだ。祖父と祖母の間には母しかいない。だから、伊佐直系の男はおれまでいなかったんだよ。凪の介以降、最初の長子がおれなんだ」

「なぜ、ママがそのことを知っているの?」

 母がケーキを口にしながら、思い出し笑いをした。

「ふふふっ。調べたのよ。若かったし、あきらめが悪かったのね。無理を言って東京の大学に入り、母から聞いた話を頼りに、凪の介さんの住所を突き止めたの。だから、渚くんのお母さんと知り合って、もう20年以上になるかな」

「ぼくの母と、そんなに前から」

 渚と同じことを母は先にやっていたのだ。

「小さな頃はよく渚くんのおうちにお邪魔したのよ。剣術を応援していたわたしとその膝の上にいた小っちゃな女の子を覚えていない?」

 驚いたように渚が母を見た。そして、驚きと嬉しさのいりまじった表情で姫香に目をやった。

「ひめ……ちゃん……?」

「わたし、覚えてない」

 母がけらけらと笑った。

「ふたりとも小さかったもの。覚えてないのが普通よ」

「母とそれほどの付き合いなら、ぼくが異界のことを調べているのもご存知だったんですよね。ぼくにだけでも教えてくだされば」

 母が手を上げ、渚の言葉を制した。

「二人に黙っていたのは、あなたたちの接触を恐れたからよ。姫香は名字も氷室だし、桃太郎を回避できると思っていた。それなのに、ある時をさかいに和時計が見えるとあなたたちが言いだしたの。わたしたちには見えない和時計がね。その時のわたしたちの驚愕がわかって?」

「それ……おれが……ひめちゃんにキスしたからだ」

「ええっ、キスゥ?」

 いくら小さな頃とはいえ母の前なのだ。姫香は真っ赤になった。

 渚はそんなことはお構い無しに記憶を手繰っている。

「かわいくて大切でキスした。けど、そのあと和時計が見えるようになって。どんどん母さんたちの態度が変わって。全部、おれのせいだ」

「わたしたちが悪いのよ。予想もしてなかった出来事に慌てて、あなたたちを引き離してしまった。渚くんが幼稚園に入って、姫香を忘れたようだって聞いた時には本当にほっとしたのよ」

「忘れたんじゃないんです。ひめちゃんに会いたいと母にどんなに頼んでも駄目でした。だから、罰を受けたんだと思ったんです」

「渚くんのせいじゃないのよ。それはわかってね」

「はい、今は理解できます」

「姫香も苦しんだのよ。ずっと原因不明の熱がさがらなくて、生死に関わるとまでお医者さんに言われてね。それで母に東京に来てもらったのよ」

「嫁姑問題がこじれたからじゃなかったの?」

「ああ、あれは建前よ。ママが助けてと頼んだの。実際、母は渚くんを忘れさせてくれて。あなたをずっと見守ってくれた。感謝しきれないわ」

「おばあちゃんが……ずっと」

「ただ、これはうちのパパも、渚くんのお父さんも知らないこと。聞いて信じられる話ではないものね」

 

 母が顔をすいっとあげた。

「さ、今度はママに異界で何があったのか、くわしく教えてちょうだい」

 母に促され姫香たちは異界でのことをかわるがわる語った。

 話を聞き終わった母が大きなため息をついた。

「まったく恐ろしい話ね」

「夜刀の話。おれが二人いたってこと。何もかもが驚きだな」

「渚は制服でいた時のことは覚えてないの?」

「知らない。制服のおれは何か変なことをしていたのか?」

「別に何も。顏もはっきり見てないし」

「天降り姫という名付けも恐れ入るわ。ヒルコほどさとければ意味を含ませたでしょうね」

「アモリに意味ってあったの?」

「何を言っているのよ。伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの二神が淤能碁呂島おのごろしま天降りあもり、のアモリから母が名づけたでしょう。あなたもいい名前だって喜んでたじゃないの」

「え、そうだったっけ」

 渚がいぶかしげに聞いた。

「アモリって?」

「うちで飼っているうさぎの名前が、アモリって言うの」

「それで、天降り姫になったって言うのか?」

「渚くんの白虎もペットがらみかしら。昔、渚くんちで子猫を飼ってたでしょう。たしか名前は」

「トラです。老猫ですが元気に生きています」

「渚くんが白虎になったは、きっと猫のトラと風水からの連想ね」

「そうか。異界はぼくらの記憶から構成されてたんですね。道具屋、アイテム、宿屋、パラメータ。あれは、ぼくがテレビゲームを知っていたからだ」

「母の誕生日は三月三日の桃の節句。そこから女桃太郎になった。ヒルコは、脳に話しかけると同時に、脳の中まで見ていたのね。やるわねぇ、ヒルコ」

 母がクイズの答えを見つけた時のようにはしゃいでいた。

「あ、はっ……ぐぐっ!」

 急に渚がうめき声をあげテーブルに突っ伏した。手がぶるぶると震え、真っ青な顔から冷や汗がしたたっている。

「どうしたのっ!」

 姫香と母が同時に叫んだ。

「まさか……ヒルコが……一夜で死ぬ……と言ったのは……この……ぐっ」

  吐き気を抑えるように渚が口と腹を押さえた。

たきもと裕
天降り姫 ヒルコの夢 -1-
0
  • 0円
  • ダウンロード