【彼女】
「シンデレラ(灰まみれの女)?今はそう呼ばれているの?」
「ええ。いつもほこりやゴミまみれだから…匂うでしょう?無理しなくていいのよ。」
そう言って、私は彼女との距離を広げようとした。私達は横に並んで座っていたのだが、肩と肩がくっつくほど近くにいたのだ。
「平気よ。可哀想に、こんなに痩せて…食事もろくにとっていないでしょう?」
彼女は優しくそう言いながら、離れるどころか片手で私の頬を優しく撫でた。無理をしている様子は全く見られなかった。
私は彼女の正体を問わなかった。何者かを知っていたから。しかしそれでも、この時の私には優しい言葉や対応が非常に心に沁みずにはいられなかった。
その先が破滅であると知っていても、そんな目先の利益に囚われるほど、私の心は弱かったのだ。
「死にたい…」
という台詞をきっかけに、感情が爆発したように本音があふれ出た。
「死にたい…もう死にたい…もう嫌だ…毎日、怖くて苦しくて痛くて…でもここを出て、一体どこへ行けばいいの?!どうやって生きていけるの?!」
「私が助けてあげる。今すぐ助けてあげるわ、シャルロッテ。」
彼女はそう言いながら、私を優しく抱きしめた。それはとても暖かくて柔らかだったので、縋らずにはいられなかった。
【復讐】
「ホラ、見て。」
彼女が指差す先に、階段上部に立つ父がいた。
「背中を思いっきり蹴りなさい。今なら誰も見ていないから。大丈夫、後の事は私に任せて。」
私は暗澹たる喜びを感じながら、怨念こめてその背を蹴った。
その時、私の中で何かが傷つき、悲鳴をあげた気がしたが、この暗い喜びが十分に隠蔽してくれたのでほとんど気にならなかった。
命に別状は無かったものの、父は半身不随となり、家中で最も力の無い人間に成り下がってしまったので、私に代わり姉や継母の不満の捌け口となった。
彼女らは死なない程度に父を虐げ、「役立たず」「お荷物」「さっさと死ね」などと罵った。
父の世話はもちろん私に与えられた仕事の一つであったが、それを怠っても咎められる事は無かった。
私は残飯やゴミを食事として父に与え、しかも親切に食べさせずに彼の寝ている部屋のドアの前に置いておいた。父は息も絶え絶えに這って、手掴みでそれを食べねばならなかった。
父が閉じ込められた、その部屋は彼の排泄物やらで異臭を放っており、父の体は日に日に弱り、元々脆かった彼の精神は崩壊しつつあった。
「次はあの2人ね。お金は用意できる?」
彼女がそう尋ねるので、私は継母の財布からこっそり引き抜いてきた。
「十分、足りるわ。」
彼女はそう言ってにっこり笑い、私を路地裏に連れて行った。
そこには汚い身なりをした男達が、酒を飲んだりタバコを吸ったり、トランプで何か賭けをしているようだった。
私は彼らに近寄るのも怖かったが、彼女が「私がついてるから大丈夫」と言い背中を押すので、勧められるがまま彼らの元へ行き、こう言えと彼女に言われた通りの事を言った。
変わった趣味の婦人が二人居て、彼女らに依頼されて来たのだが、彼女達を暴行して一生足腰立たない程にしてやってほしい。前金でこれだけ出すからと言い、私は持ち金の半分を出した。
彼らがあまりに簡単に、その話に乗ったので私はびっくりした。こんな話を普通信じるだろうか?いや、何も失う物の無いであろう彼らだから真意などどうでも良かったのかもしれない。
さて、確かお城で舞踏会が開かれ、そこで王子が結婚相手を探すらしいとの事だったが、継母と姉はそこへ出掛けて行った。
父という働き手を失った彼女らは、なんとかして収入源を確保しようと必死であった。
ところが移動中、私が依頼した男達が一斉に彼女らに襲い掛かる。継母は思わず姉を差し出し、助けを求める娘の声を後ろに逃げ延びようとしたが、行く手を塞がれ結局2人とも捕まってしまった。
翌朝、出勤や買い物へ行く途中の人達は、ボロ雑巾のように捨てられた彼女達を避けたり、指差して笑ったりしていた。
同じく半身不随になった彼女達と父を、私は同じ部屋に閉じ込めた。
父は「天罰が下った」と彼女らを嘲笑い、彼ら三人は互いに罵り合い、憎み合い、不自由な体で争い、傷つけ合った。
私は愉快だった。不快で愉快という矛盾した感情を感じていた。
私の中にある何かは、ますます傷つき、悲鳴も大きくなっているがそれでも、彼らへの憎悪の強さから、まだ目を背けていられる程度であった。
その憎悪は、これだけの事をしてもまだ解消されずに存在する。それも、ますます膨らんでいるように感じられる。
頭が、心が破裂しそうに苦しい。
そこで彼女が提案した。
「彼ら三人を使って、それを吐き出せば良い。きっとすっきりするわ。」
彼らが私を虐げるのに、よく使っていたステッキが再び血に濡れている。ただし、今それを握っているのは彼らではなく私だった。
そして芋虫のようにうずくまり、苦しそうに呻いているのも私ではなく彼らだった。
「頼む…俺はこいつらと違って、実の父親だろう?!助けてくれ…大目に見てくれ…」
「この野郎!自分だけ助かろうったってそうはいかないよ!」
そう言いながら、命乞いする父に継母と姉が掴みかかる。血や汚物にまみれた、芋虫のように這う事しかできない3人は、泣きながら掴み合い、殴り合う。
違う…これは違う。こんな事をしても、溜まりに溜まった憎悪は解消されない事がはっきりと分かった。
同時に、彼らへの憐憫の情を隠蔽する苦痛も限界に近い状態と悟った。
もう嫌だ。やめよう、そしてせめて病院に彼らを連れて行こう。私も警察へ行かなくては…
「彼らにされた事を忘れたの?!そんな事をすれば…今、彼らを許せば一生後悔するわよ?!許しちゃいけない…悔いの無いよう、徹底的に復讐しなさい!」
彼女の言葉が私の心に響き渡り、私を恐怖させる。彼女の言う通りにしなければ、確かに私は一生涯公開し続けるであろうという恐怖だ。頭ではそれをはっきり否定しているというのに。
それでも私はか弱い抵抗を試みて、こう叫んだ。
「怖いのよ!あんなに死にたかったのに今は死ぬ事がとても怖い…自分の突き進む先を知っている。それを考えると、心臓が凍りつくように恐ろしい!」
「考えてはいけない!大丈夫…あなたはまだ若いし、体も健康なのだから。猶予の期間は長い。奴らへの復讐を終えた後でも遅くはないわ。ね?」
なんという巧みな誘惑だろう。彼女の言う通りにすれば破滅すると知っているのに、私のか弱い心はその誘惑に嬉々として従おうとする。
私の心は彼女によって、かんじがらめに縛られ、彼女の言う通りにしか動けなくなっていた。私の心から望む事をしようとすれば、彼女により戒めを受け、それをする事ができない。
まるで奴隷だ。
いや、これこそ奴隷だ。
私の心から望む事…本当は、全てを水に流し、皆で仲良く暮らしたかった。しかしそれを為すには、私の心はあまりにも愚かしく、か弱すぎた。
あまりにも簡単に、憎悪を掻き立てられた。
情けなさや恐怖、閉塞感等を感じ、私は泣き出したが、彼女は容赦無く私に命令する。
血まみれのステッキを再び握れ、と。だから私は震える手でゆっくりとステッキを持った。
3人の居る部屋へ行き、復讐しろと命令するが、私は行きたくない、行くべきではない。それよりも病院へ…警察を…
「今奴らを許せば、あなたは一生涯後悔する!猶予は長い、復讐し終えてからでいい!」
彼女の叱責が鞭打つように、心に響く。
たまらず、私はうずくまり号泣していた。なす術も無かった。
ふと、ある小節が脳裏をよぎった。
もし右の眼があなたをつまずかせるのなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
もし右の手があなたをつまずかせるのなら、切り取って捨ててしまいなさい。
体の一部が無くなっても、全身が地獄に堕ちない方がましである。
それは私の脳裏に、まるで死刑宣告のように冷酷に響いた。
でも確かに、私に手が、目がある限り、彼女は私を利用可能だ。
私は力なく立ち上がり、ふらつきながら三人の居る部屋へ向かった。
私を見て怯える三人に、静かにゆっくりと語りかける。声に感情が無いのが自分でも分かるほどだった。
実際、この時の私は感情を無視できるほど疲労していた。
「あなたがたを生かそうとするなら、私は自らの眼を、手を失わねばなりません。
でもそれが嫌なので、私が生きるためにあなた方が死んでください。」
私は一体何を言っているのか?後から冷静に考えると、要は彼女に屈したという事になる。つまり「私が生きるためにあなた方が死んで」と言ったが、実際は私も含めた無理心中と言った方が正しいのかもしれない。
豚に食われ、断末魔の叫び声をあげる彼らを、私は遠くから眺めている。
恐怖から必死に目を逸らして。
どうしてこんな事をしなければならないのだろう、破滅しかもたらさないというのに。
古今東西、人身御供は珍しくない。しかし私は思う。彼らはその時、人命ではなく自らの魂を捧げていたのでは、と。そして引き換えに偽の安らぎ、気休めを得ていたのだ。
あまりに重すぎる代償を支払い、くだらないにも程があるものを得ていたのだ。今の私のように。
しかし悪霊に憑かれた豚は、向かう先が破滅と知っていても足を止める術すら持たない。