言語・記号は関数として機能する
言語・記号というものはどうやって生み出されるか考えてみましょう。まず、五感からの刺激を受けた言語脳細胞が一定の運動を行います。次に、その運動は言語・記号概念を作り出します。そして、さらに、視聴触覚で認識することができる物体を生産します。この生産された物体が言語・記号(文字、音声、点字)なのです。
例えば、視覚によって認識される黒色、赤色、青色などの文字、聴覚によって認識されるところの音声、触覚によって認識される点字など。
そこで、特に重要なことがあります。言語・記号は、脳細胞の運動が生み出した産物であって、現実の物質や運動そのものではないということです。身近な例でいえば、太陽と言う言葉は、あくまでも宇宙に浮かぶ目に見える太陽とリンクした”言語”であって、宇宙に存在する太陽”そのもの”ではないということです。
このようなことは、言われなくともわかっているといわれる方が多いでしょうが、現実には、意外と誤解しやすいのです。例えば、国家と言う言葉は、あくまでも一つの言語でしかありません。でも、国家という文字を目にすると、観念的には存在しますが、気持ちの上では、あたかも、国家という普遍的な物体が実在しているように感じるのではないでしょうか。
また、観念的な国家と言う言葉の受け取り方は、人それぞれ千差万別と言っていいのではないでしょうか。そう考えると、ある言語・記号は、各人の脳細胞に多大な作用を引き起こすが、その作用の結果は、複雑に異なるといえるのです。
脳細胞機能を数学的に表現っすると、ある言語・記号と対応する概念は、無限に存在するといえるのです。だから、すべての人が、ある言語・記号をまったく同じ概念として、共有できるわけではないのです。また、日本語を理解できない外国人にとっては、日本語は、言語・記号として機能しなくなるということにもなるのです。
憎しみの考察
すでに、人間は生まれながらに恐怖心が内在していると述べましたが、この恐怖心は、いろんな憎しみを生み出しています。また、人間関係を考えるうえで、憎しみの考察は不可欠です。そこで、考察する方法として視聴覚的手法や言語的手法が考えられますが、私としては、最も適した道具は、言語的手法ではないかと思います。憎しみという感情的な観念も、具体的に理解するには、言語を利用する必要があると思います。
家族であっても、夫婦の憎しみ、親子の憎しみは、大なり小なり、存在します。人は、常に憎しみを抱きながら生きているといっても過言ではありません。生活していくうえで、必ずと言っていいほど生み出される憎しみは、人間関係を考察するうえで重要なテーマであるがゆえに、多くの小説家は、憎しみについて考察しています。
ほとんどの人は、いじめを受けた場合、いじめを受けたことによる心の傷の痛みを、自分自身で消し去ることは不可能に近いでしょう。だから、自分をいじめた対象に憎しみを持つのです。言い換えれば、憎しみを持つことによって、心の傷の痛みをいやしているといえるのです。
いじめられたことによる心の傷の痛みは、おそらく、死ぬまで続くのではないでしょうか。それならば、いかにしてその痛みをいやし、憎しみを消し去ればいいのでしょうか。いじめた相手を殺害すれば憎しみは消え去るのでしょうか?自分がいじめられたように、自分より弱いものをいじめれば、気分がすっきりするのでしょうか?
憎しみというものは、いかなる方法によっても、癒されないと思っています。ならば、どうすべきなのでしょうか。死ぬまで、憎しみを抱き続け、苦しみ続けて、死ぬ以外ないのでしょうか。痛みを感じないように、憎しみを抱かないように、神の信仰に頼る以外にないのでしょうか。
一生心から消え去ることのできない憎しみは、自覚されなくとも、必ず心を苦しめ、性格形成に大きな影響を与え続けていきます。そして、言葉に表さなくとも、表情、行動、肉体に必ず現れてきます。親にいじめられて育った人は、自分が親になった場合、その人は、無意識に自分の子供をいじめる場合が多々あるのです。