通し番号十三
(副題)条件を整えようと? ナディア登場 どんな意味を与えよう?
ーーホテルクローネからの眺望ーーー
窮状が、問題が、マイナスの波が、影が現れ、なんとかそれを克服する、というプロセスを意識して繰り返してきた「禍福は糾える縄のごとし」の道行きである。
西暦2018年、皐月晴れの今日、五月九日は、順番として陰が現れたなあということである。そうか、そうですか、相わかり申し候。あたしゃもう喜寿が見えてこようとしてるのに、バートミュンスターという、よろよろの年寄りしかいない、ドイツ切っての奇岩の景観と塩分空気による保養地として知られている人口7千人の場所で、二、三百メートルの高さのほとんど直角に切り立った岩の壁に囲まれた、その底にはナーエ川というのが流れていてライン河にに注いているのだが、緑にまた緑の重なるこんなナーエ谷を、これまた誰にも負けなほどによろよろの夫にくっついて所在無く歩く姿を晒して、あたしゃ日本女性のなでしこぶりを顕示しているのである。
とはいえこんなところに来れるだけでも十分に経済的に豊かな年寄りたちであろう。夫婦もいれば、一人ぼちという人もいる。病院か老人ホームか、兼ねたような施設が並び立っている。山はふかふかの色合い満遍なき緑だ。竹がないだけで日本の山村と同じと言える。そこで空だけを見上げていると、日に2回、教会の鐘がガランコロンと鳴り渡り、美しい鳥のさえずりの響き渡るのが大きな違いである。教会といってもカソリックと福音派と二つあって、違う音色で響き渡るのがおかしい。
翌日五月十日に2週間前のことを思い出して書いている。
当日は記憶に残らないほどの出来事だったが、のちに思い返してみて、あ、あれは四月二十七日だったとわかる。つまり、あたしと夫のJBが突然この町に現れたように、ナディアはホテルクローネから三分も離れていない角のカフェレストランで、あたしたちが久しぶりに苺サンディを食べるという罪破りをした「街角カフェ」から確かに美人の顔であたしたちの世界に現れた。
これより前、四月の二十四日に、難解な、変数ばかりの一次関数を解きながら、こんな山中とは知らずにここしか選びようがなくて(というのはネットで最も安い、好都合なホテル出あったので)、何度も言い聞かせながらたどり着いた。この地方はヤツの心臓に良いと納得したところだ。ヤツが自分で決め、あたしも了解、というか、したいようにさせようじゃないか、と腹を括ったという経緯の場所である。長湯治の老人のためにレストランばかりはたくさんあるが、車なしでは不便な坂道の街であった。(ナディアの店も坂のてっぺん近くなので、行きは大変だった。ヤツは五歩歩いては三分立ち止まる。あたしは全財産の入ったやつの鞄持ちでこれが重たいんだな、また。)
4階までエレベーターで上がり、ホテルクローネの部屋のバルコニーから、自殺にもってこい、という絶壁が屏風のように取り巻いているのを初めて眺めわたした時には驚かされた。大昔は海底だったので、塩が断層になって残っているのを取り出す方法として、十世紀も前から編み出されたのがサリーネである。塩の塊っているところへ川の水を追加し、潮が溶け出し塩水になるのを待って、水ごと汲み出す、それからその塩水から特別な仕掛けて延々と水分を抜くのであるが、その時の周囲の空気が海岸のような多分さわやかな効果をある種の病人に及ぼすと信じられているらしい。
実際、四月二十七日、とても暑い日にその高さ四、五メートル、長さ三十メートルはあろうという不思議な木組みを水が滴り落ちるので、何の木の枝が知らないが、びっしりと埋め込まれている外面を塩水がキラキラ光りながら、つまりしぶきを飛ばしながら滴り落ちてくるその下で、日を浴びてしぶきも浴びるのはいい気分であった。地球と意思交換しているような、と思うのはあたしだけだろうけども。
珍しくヤツが機嫌よくしているのはそのせいばかりではなかった。この街に着いた翌晩にはすぐ近くの貸家が売り買いネットに出た。家の賃貸も不動産屋抜きで本人同士がやり取りしてもいいのである。珍しくJBが書いた応募メールには、翌日好意的な返事が来た。日本ではほとんどが聞いたことのある、山のあなたの空遠く幸いすむと人の言う、で有名なカルル・ブッセ、と同じブッセ氏からである。
その翌日、二十六日には喜び勇んで、家を見学に行き、彼があたしと同じ科学オタクらしいこと、夫人がソプラノ歌手であることにこちらは痛く感動した(何故かといえば、あたしに美声を愛すると言う性向がある以外に、ネットの知り合いマリリンさんが同じソプラノ歌手で、その性格が誠に尊敬に値するものだったので)のに対し、向こうはちょうど損失を被っていた(前の借家人が部屋代を払わなかったため)のをこちらが、先手を打ったかのように同じ額の一年分の前払いを申し出たことから、決定となった。初めて現ナマが正しく役立った。
マイナス面はあった。肝心の家がまだ提供するには遠い状況であり、あたしたちは契約が五月一日であったのに、なお九日までホテルを延長せねばならなかった。このためにホテル従業員との関係が親しくなったのは、きっと何かの良い結実を見せることであろう。
もう一つのマイナス面は、確かにその家は面白い作りで、庭もたっぷりあり、あたしにはまるで「秘密の花園」(大昔読んだ少女小説)の話のようにいつもながら神の粋な計らいであったのだが、ヤツの心臓には酷な階段が、しかもかなり危険な形で二つもあったのである。これもいずれ思いもよらぬ方法で、解決されるであろうが。
JBがこれを無視して、というか貸してもらえるかもと舞い上がって気づき損なったので、あるいは真に受けなかったので、あり得なかったような、あるいはぴったりの相性の成り行きで奇跡的な契約となり、その代わりに家主一家は、のろすぎるとはいえ精一杯の助力をしてくれることになったのである。これが四月二十七日である。
ーー住居が手に入る、ナディアに出会う、その意味は?ーー
こんな、宇宙の仕組み、ではない、幻想世界に働く聖霊の法則に則りつつも我々の決定の自由意志の当然の結果として、ホテル暮らしの流浪の民に定住の地が与えられる流れとなった。ナディアも与えられた。愛らしく美しい顔立ちの。
ナディアが運んで来た苺サンディ、大昔、JBがまだ健康で曲がりなりにも夫婦で夜の生活もしていた頃、よく食べた。糖尿になったのもそのサンディ関係ではあっただろうなあ。
それからの怒涛のような陰陽の波が、このバートミュンスター の地にまた来た。
あたしはどう頑張っても美人の範疇に入らない、ただ実物よりも愛らしく見える瞬間もあったらしく、どんな時点で出会ったかにより他人があたしから受ける印象は異なるようだった。今回、東洋人の老婆としてどう見られるのか、どう扱われるのか全くわからない状態だったのに、思いもかけずブッセ夫人はあたしたちのことを好感を持てると初対面で言明し、翌日の現金支払いでも改めた風に言明した。その彼女こそ、たけ高いブロンドの華やかな開けっぴろげな女性であった。
最初のホテルで、あたしのことをJBの娘だと思っていた従業員がいたと聞いて、流石のあたしもひっくり返った。日本ではいっぱしの老婆以外の何物にも間違われない。鏡を見て最もがっかりするのは当の本人である。
旅の都合上ジーンズをはいて(颯爽として)いるが、白い縞模様が目立つ断髪のせいかふと街角で注意を向けられるのに気づくことはあった。まあ違う印象は与えるのだろう。次のホテルでも若いご婦人などと言われたので、これはひよっとするといい展開になるぞ、近くから視力の良い人に見られなければね、などと思われた。何しろ、目と目が離れているベビーフェイスなので、よく言えば。
こんな日頃、周囲の沸き立つ皐月のエネルギーの中にあたしはありありと聖霊の存在を感じられるような気がした。全て、全ての存在するものが聖霊の化身であり内からの光、反射する光に輝いていた。荘厳さに心が沸き立った。忘れてなるものかと、あたしは日記に、秘密のツイッターに記しておいた。そしてヤツは一体どんな意味があるんだと自分に問うたとき、ナンダ事実あたしの人生のテーマではないか、と思い至った。あの哀れな廃人の様な姿が菩薩の仮の姿かとふと思ってしまい、ゾッとしたのであった。
四月三十日。まだホテルクローネにいた時、朝まだき、あたしは突然困った状態に陥った。目覚めるや、わかったのだ。まさに、冗談じゃない、ヤツも聖霊の化身ではないか、そうでないものは存在しないのだから。あたしゃヤツだけはその例外にしていたのだ。困った。困った。が、改めてその事実を踏まえて眺めてみると何一つ腹が立たない様な気がするではないか、たとえ立っても問題ないと思われるのだった。
同じ日、ホテルのレストランより安いので、またケーキが安い割にはJBの好みにあったので、街角カフェに四回目に顔を出し(ということはほぼ毎日)たところ、思いもかけぬ展開が待っていた。
ナディアが親しく側に座って、本当にいい人たちだから(JBのことも含め)家を探しているのなら一緒に住まないか、と言い始めた。え、そんな事をこの人に言ったかしらん、と思ったがよくわからないまま、家賃を分ける話まで進んでいた。そこで彼が「実はもう一年分払った」と苦笑して言った。あたしもナディアも悪げなく、ああ、遅過ぎた~また一年後に話しましょう、と笑った。
翌日五月一日も街角カフェに出かけ、メニューの中の意味不明のもの、アンチパスティなるものを注文した。冷たい料理で、薄切りの牛肉を敷いた上にサーモンペーストを塗ったもので、意味を聞いたがナディアの答えも意味不明だった。あたしは何の気なくあなたはイタリア人でしょうと返した、彼女があたしのことを尋ねたついでに。ところがウクライナ人だと言う。JBの耳にはロシア語の発音が聞き取れていた。
旧ソビエト連邦から独立したウクライナの昨今の政治状況は、クリミア半島が住民投票によりロシアにまた統合されるなど大変な事態であるのはよく聞いていたが、その人々については想像の外であった。あたしには返事のしようもない国だ、クリミア半島のことでも言い出すべきだろうか、と戸惑う始末だった。不意にナディアが言った。
「この頃、音楽かけないと眠れないのよ、私」
「一晩中って意味ですか?」(あたしは彼女のことを親しい言いかけにしていなかった、彼女は外国人の常で誰にでもくだけた言い方を使う)
「そうなの」
と、言ってからまた不意に、
「夫への愛が無くなってね、夫は私を愛してるけど。朝起きると心の中が空っぽなの。もう十年このかた子供四人を育てるのに一生懸命でね、一度も休暇をとったこともない」
他に例がないくらい、彼女の店は毎日、休みなく営業していたので、それはあたしも考えていたことだった。やっぱりそのはずだ。
またナディアが不意に付け加えた。
「薬もらってるの、それを飲み忘れたらもうその日はダメ、眠くて辛くて」
少しタレ目の大きな茶色の瞳にはメイクが施されているのを、あたしはじっと改めて見つめた。美しい眼である。
「夫と結婚した時、貧しくてね、窓のない小屋だったのよ」
「窓がない?」
と、ついあたしは繰り返した。
「そ、窓もないの。パン一個もなくて。両親は何でも持っていたので分けてもらったの」
ナディアが苦笑いするのをあたしはただ驚いて見つめた。
「息子が六、七歳で小さかった時、マスクをした男たちが家を襲ってきた」
何を言い出すのだろうと思った。あとでわかったのだが、当時のソ連のさる筋が、サイコパスの様な重罪犯人を刑務所から出してウクライナ人を襲わせた、というのだ、それは民族消滅作戦の最前線だったそうだ。
「私はめちゃくちゃに殴られたのよ」(何を言い出すのだこの人は!?)
「殺されるところを弟にやっとの事で助けられたの」
あたしは目を見張り口をパクパクさせるのみだった。
「顔中紫色に腫れて、首も縛られて傷があって、腰には火傷の跡が今でも残ってる、多分かまどに押し付けられたのね」
あたしは首を振るのみだった。
「それで祖国を捨ててドイツに逃げてきたの。でも心が病んでいて、カウンセリングを受けてるのよ、今でも」
「まあ、なんて酷い目に」
「それから愛が無くなったの、夫は良い人だけど余り手伝ってくれない」
そしてナディアはまた不意に付け加えた。
「息子二人は、その時母親を助けようとしたけど小さ過ぎてね、それでやはり心が壊れてしまった、薬を飲む日々よ、余り働けない」
あたしはその手の話に弱い。自分の古傷もあるからだ。
「そして弟は薬でも治らない、私を助けようとして酷い目に遭わされて」
ナディアは涙を拭った。あたしも涙が出た。
「でもね、過去はもう考えないでって医者も言うし、私もそう思ってる」
と、ナディアは目を拭った。あたしはまるで映画ででもあるかの様に立ち上がり、彼女の良い匂いのする首を抱いてあげた。日本ではしないだろう。きっときっと良い日が来るからね!と囁いた。
自分とは関係のないところで、起きている世の悲惨、その末端に触れ現在も続く苦悩に触れたのだった。
五月二日、JBは痛くナディアに同情し、また二人を良い人だと認めてくれたことにも共感して会いに行きたがったが、彼の睡眠状態が悪化していて、意識が混濁するときすらあった。あたしにはどんな時も彼の中の聖霊を感じる準備ができていた。
五月三日、二度目の内覧、少し掃除したからと。それまでにあたしは頭を絞ってその変な間取りの家を描き出そうと苦心していたのだが、グーグルの航空写真で初めてわかったことには、あたしの考えの限界を超えてすらいたのだった。神の粋な計らいにもほどがあると言うほどだった。
五月四日、家主のブッセ氏が車で家具の下見に連れて行ってくれた。コブレンツまで遠出して有名なイケアに行ったのだが、その前にバートクロイツナハにあるキリスト教的互助会の様なところに属する、再利用家具店を見せてくれた。そここそ、あたしが先日ネットで見つけていた良心的な人々のなす業が集約したところであった。
病院も併設されていて、何語かもわからないディアコニーと呼ばれていた。あたしは大男で太鼓腹で、可愛い鼻と笑顔のブッセ氏に意味を尋ねた。
「人々が協力してボランテア精神で助け合う組織ですよ」
「ああそうか」とあたしはいきなりとんでもないところから切り込んだ。
「神には助けはいらないけれども、人間はお互いに助け合わないといけないわけですね」
ブッセ氏はどう思ったか知らないがうなずいた。
そこでは価値ある家具が安値で展示されているのだが、JBには古臭過ぎて顔をしかめるばかりなので、あたしもうんざりして店を出ようとした。出入り口で、人々の中にナディアの笑顔を見つけた時、あたしには神の粋な計らいがあまりに露骨なので笑ってしまうほどだった。
彼女に会えたのが嬉しくて笑ったのではなく、体が崩折れそうになったのでも無かった。あたしはそんなに大袈裟に物事を喜ぶ方ではないのだから。しかも、ナディアも初めてたまたま行ったのだそうだ。そして彼女にもアイデアが湧いたのだろうか、夕食に店に行くと、また喜んで抱きついてきて、まず自分から人に施しをするわ、そうすると必ず神様はもっと大きなお返しをしてくださる!と、まさにあたしが読んだのと同じことをいうので心が震えた。
つまり、あたしたちがいくら食べても食事代がかかろうとそれから十ユーロ安くするというのだ。
「それじゃ儲けがないでしょう」
「普通のお客からは普通にもらうわよ。それに私の仕事量に変化があるわけじゃなし」
「まあそう言えばそうだけど」
「あなたたちを見るとね、私たちが逃げてきたときのことを思い出すのよ、何もなく何もわからない、あの気持ちを」
あたしたちにお金がないわけじゃない、でも電話がないことから生じる不便さはいうに言われない、歩けない夫のためにタクシーを呼べない、不動産屋と会う日も取り決められない、車もない。そして間も無く、頼りのネット接続からも絶たれてしまうだろうとは予想しなかった。恐れてはいたが。
翌日、五月五日、JBの息遣い、脚の傷炎症、寒気、横になると溺れる人のように空気を求める。彼の大往生を願っているとは言え、死に瀕したように見える事態に対処するのは難しい。彼の本体である聖霊を透視するばかりだった。どうしたい、あんたは、と自分に問う。いつであろうと彼の大往生。
この日、最悪の体調だったが確か、ナディアの店で夜の九時過ぎバイキングが行われると聞いていたあたしたちは、空腹を我慢していつもの夕食時間を伸ばし、暗がりの中、車椅子で坂道をウンウン言いながら行って見た。しかし真っ暗である。ドアはしまっている。騙されたのか、ナディアはからかっらのか。来てね、となんどもあたしの背を撫でながら言ったのに。
どこを回っても、飲み屋は空いているが食べさせてくれるところはもうなかった。まさにトボトボと、実際はウンウンと、百キロ近い男を押しながらホテルに帰った。翌朝の朝食まで何も食べられなかった。いつもたっぷり食べているせいか、それほど空腹でもなかった。情けない、騙された気分。
五月六日。しかし次の日にも無理して店に行ったが、どこにいたのよ、と言った以外ナディアは大した反応を示さなかった。それでもあたしは彼女に尋ねた、決意を持って。「名前はなんと言うのですか?」それでこの名を知ったのだが、そのときあたしの名前は言わなかった。それは発音しにくいからだったが、考えてみれば失礼な話だった。何れにしてもこの問いによって、あたしは決然と彼女を友人みなす決意を自分に示したのだ。しかし、よく見ると彼女には何人も親しい客がいた。商売上手なのかもしれかった。そして自分の電話番号をあたしにくれ、電話してくれたら食べ物を持って行くから、遊びに行くから、と言った。その日もまだ、あたしにはあげるべき電話がなかったけれども。
五月七日、待ちに待った家主による入居証明書をブッセ夫人が書いてくれた、その紙はあたしが市役所支所に出かけもらって来たものだ。この朝、あたしにまたアイデアが降りた。ナディアが金曜日の夕方、もう明日のバイキング用の卵サラダは作って準備した、と言ったのを思い出した。あたしはガバと起きた。そうか、バイキングは翌日の夕方九時ではなく、午前中朝食の時間のことだったのだ。それで合点がいった。あたしはJBにも告げてしばらく大笑いした。
その日、ナディアは腹痛だと顔を曇らせていた。
五月八日、一緒に車で近くの家具屋に連れて行く、と約束していた朝九時を三十分回ってもブッセ夫人の車が見えなかった。実は勘違いしてホテルのドアを出たのだがまさにそのとき、本当に彼女の車が来て、その開けっぴろげな顔を見たとき、嬉しさがこみ上げたので走って行った。
「あなたって本当に、まるで若い少女みたい」と言われた。
あたしゃ驚き。そりゃないでしょう。
「顔だけじゃなく。衣服や振る舞いもね」と少し方言のあるドイツ語でいう。まあ、習俗にとらわれない方ではあるけれども。それにしてもあんまりな影響力ではある、これもあなたがなさったことですか?
家具屋でとりあえずのベッドとして空気で膨らますのを安く買った。赤い椅子つきの丸テープルを買った。昨日から実際にはブッセ家の末娘アントニアが家の掃除、庭の整理などしていたので、あたしはずっと腕にしていたスワロフスキーの飾りをプレゼントした。声楽を大学で学んでいて、母親と同じくソプラノだと言う。オペラの歌手になりたいのだと言うので、「じゃあ、やっとこの腕輪が日の目を見ますね」「ええ、演奏会でつけて行きますよ」とブッセ氏のいいところばかりを受け継いだ笑顔で受け取ってくれた。自分では宗教的な意味を込めていたものだった。
いよいよ、五月九日ホテルクローネのネット接続とおさらばする日となった。
昨夜あたしはスーツケース二つと、ガラガラと坂道を下り突き当たりの新しい家にすでに入れておいた。ホテルでの最後の朝食を済ませ、残りの荷物とJBとを車椅子に乗せてガラゴロとまた坂道を降りて行った。
この日、やっとアントニアと市の住民課へ住民登録をしに行くのだ。あたしの生地が満州国という幻の国だと言うので役人がパニックになり、なんとなく住民票の許可が降りた。アントニアが若い世代らしく、すぐにスマホを操って満州国の綴りを出してくれた。色がつぎはぎの古い車に乗せてくれ面白かった。しかし結局どこの役所に行ったのかなどはさっぱりわからないまま。やれやれ、目的その一の達成だ。
ここでナディアの店で起こった負の現象がサラダ問題であったのだ。この重大な日もあたしたちは街角カフェで大盛りサラダを頼んで大いに健康を気遣うつもりだった。彼女手作りの美味しいケーキも糖尿病には悪いに決まっているので、そろそろ止めるつもりで。ところがサラダには土が付いていて口の中がザラザラするではないか、これまでも感じたことがあったが無視していた。それは彼女の嫁が作る役目だと言う。
「ナディア、あたしの友達だから言うけどさ、ほかの人もそう思うといけないから、サラダがよく洗ってないみたい、口の中に残るよ」彼女は笑って、まさかそれは最後にパラパラまいた塩のせいよと言うので、「そうだったらごめんなさいね、ただ気になったので」とすぐにあたしは受け流した。明らかだったけれども。
家主の息子の古いソファと空気マットレスのすごい威力と有難さ。JBとは別室で眠りたいと思うあたしではあったけれど、瀕死の呼吸状態の彼を一人にしておくこともできない。この晩もひどかった。ソファの端っこに座った格好で眠るJBに対して足を向け、あたしは直角に空気ベッドに横たわる。その間には足台の椅子があり、その役割はそのうち横になってしまうJBがその上に体を置き、脚はあたしの脚の横へ伸ばせるようにというものである。工夫力、すごい。しかしJBがソファと足台、足台とベッドの隙間に墜落してしまうのは避けられない。しかしそんな日夜を過ごすほかない。
もう一度言おう。やれやれ。住所があることのメリットは多い。これで安物携帯が買える。これでクレジットカードも作れる。その結果イケアのファミリーカード登録ができてオンラインで家具を買い運んでもらえる。あ、違う、ホテルを出たので、新居にはまだネット環境がないのだった~~また元の木阿弥だ~