光はプラスマイナスで進む

タイトル 「光はプラスマイナスで進む」

光はプラスマイナスで進む

前著からの通し番号十二
(副題)羽田離陸 ニュルンベルク キリストの絵  

既刊「時は流れ始めた、或いはあたしが進む、バートミュンスター まで」という長たらしいタイトルの本の最終部分に、神様気取りで半ば夢物語といったものを書いてしまいましたが、それでもその中で実際の旅の成り行きについても数ページを割いています。今回から小説気取りから離れて、起こったことを起こったままに眺めていきます。

ここに書いてある道のりは、決心するまではどう考えても無理!という一言に尽きるようなことを実行し始めて、ではなぜに決心したかというと無理強いもあり状況がより可能にもなり、未決定状態にうんざりしたこともあり、自分の得に引っ張られたりもしたからであり、その結果、案の定と他人は言うだろうが本人としては落ち着いて案の定などと思う暇もなく、引き摺り回され、解決に奔走する日々でありました。
渡独のために準備した日々は記憶にも残らないほど意味を失っていますねえ。そりゃ歳相応のガタがガタガタ出てくるのに対処を迫られるようなことはありましたけども。主に関節や背骨のヘルニア摩滅によるものと不整脈。


ーー離陸前後あわやーー

時は2018年4月2日、貸家で古家、平屋、ガラス戸と庭周りに特長のある、と言うか要するに外から丸見えと言う欠点を持った住まいを、ろくに片付ける暇もあらばこそ、スーツケース大小と高価なパソコン2機、歩行不能のドイツ男と責任者の半白髪の女が、帰国便に一年の余裕のある格安航空券を名古屋の小さな旅行会社からクレジットカードで購入して、さていよいよ羽田空港の全日空側に立ち現れたのでありました。

象の脚、といえば象も怒るでありましょう、赤黒く傷だらけで皮膚は鱗さながらに覆われて、自分の体内水分を抱えるだけで精一杯という、心臓の無いも同然という初老の男の運搬に加え、スーツケースを詰めること締めること運ぶこと、全てにょうぼのあたしのすることという前提なのであります。知っていますとも。

有難きかな、三十数年前に産んでおいた末の子が家族ともう来ておりました。ごった返した空港ビルを身障者カウンターまでスイスイと誘導され、調子よく、これから時間のある限り彼らとつまり、孫の友理と最後かもしれない二時間の逢瀬を楽しめるはずでありました。
係の女性らの親切で手慣れた仕事ぶり、搭乗券も手に入り、さて突然、誰が叫んだのか、わかりません、インシュリンを忘れた!糖尿病者にとっては命綱、責任者のあたしには大失態。血の気が引くとはこのことでした。最後の瞬間まで冷蔵庫で保存するのだと男が頑張るので、そうしていたら案の定、出発の朝は冷蔵庫ごと忘れ去っていました。

そして、今、出発か諦めるか、今決めなければならないという時でもありました。車を買って間もない息子が二時間あれば往復できると家の鍵を受け取って、走り出し、嫁は近くの薬局へ念のためインシュリンを買いに走り、孫はあまりコンタクトのない父方の祖父母と残され、それでも様子を理解して黙っていました。

時が来て嫁と孫とあっさり別れ、荷物検査ののち、JB、夫の名前ですが、JBの車椅子を征服の女性に任せ、長い長い廊下を、検査場のカゴに腕時計を置き忘れたとも知らずに、肩にめり込む手荷物に喘ぎながら歩いて行きました。搭乗口についたところで制服を着た女性が銀色の冷蔵弁当箱を持って走って来たのを、物珍しく見たあたしは愚かでラッキーでした。それこそ息子が家からとって来てくれたインシュリンだったのです。
勿論、という言葉を使うのは自分でも不審なのですが、ふと時計をしていないのに気づき、JBにはまだ言わずに(うるさいので)ちょっと、とだけ言ってあの長い道を飛んで行きました。まあ、問題なく保管されていて返してくれました。その時に搭乗券やパスポートを見せたかどうか、今は全く覚えていません、ともかく問題がなかったことだけ。

全日空機だけれどもルフトハンザなので、ドイツ人のアテンダントがいます。食事となり、さて血糖値を計らなければと、カバンを開けて、さて男が叫びます。測定セットがない!
それはのちにわかったのですがやはり誰もいない家の男の椅子に忘れてありました。でもさすが世界のルフトハンザです、大柄なドイツ人がかがみこんで測定してくれたのです。愚かでラッキーな我々。


ーー現ナマとレンタカーの次第ーー

半死半生のドイツ男とその介護人然とした妻のあたし、無事にミュンヘン空港に到着、ほとんど一歩も自分で歩く必要なく、外に出るや、タクシーでまず赴いたのは、市内のH V銀行でした。男の考えでは現ナマがもっとも頼りになる、というので有り金の半分を札束にしたのでした。もちろん銀行はそんなことは大嫌いなので、大反対だったのを押し切って、仕返しのように、もらった方が嫌うので実際は使えない五万円札(円に不正確に直せば)が大半なのをも構わず意気揚々と銀行を後にし、次はレンタカー屋まで一走り、ここまではまあうまくやった方です。

数年前に来た時に使ったレンタカー屋エンタープライズです。事前に電話したものの、もちろん当地では普通、マニュアルの車しか在庫がなく、日本でオートマチックに慣れている(道路の左右が逆というのも問題)夫は渋ったけれども仕方なく、大きな黒のフォードを受け入れました。滞在予定の3ヶ月分を現金で支払うからと偉そうに申しました。すると、クレジットカードしか受け付けないと受付のうら若い外国人の娘が申します。信じられない成り行きです。前回はそれでオッケーだったのにと抗弁してもダメの一点張り。そんなご時世なのです。
前回と異なるのはまだありました。その後もありますがまずは、必ず出迎えてくれたハンジーおじさんが病院のベッドから落ちて死亡しており、その婿の親切なライナーも脳溢血で入院中なのでした。男と唯一、話のウマが合うはとこのヴィータすら自身が病気の上、母親が認知症になっていて手があかないのです。

おまけに、とみに頭の働きが弱って来たJBが車を運転できる、とは言えない状態であることが発覚しました。レンタカーエンタープライズの駐車場から出ることができません。レンタカーをスタートさせることもできません。何しろ初めて乗るフォードですし。生きた心地はしません。おまけにそこからミュンヘン市街を突っ切り、郊外のホテルまで、アウトバーンを一部通るのです。死ねというようなものです。どんなことでも起こる覚悟ではありました。しかし駐車場でもうひっかかるとは。

何分かおきにエンストを起こしながら、手と脚がうまく連動できないのです、奇跡的に、神経ピリピリの人間だらけのミュンヘンを出てアウトバーンに入り、そこから出て、やがて見覚えのあるホテルデーマスにたどり着きそうになりました。やれやれです。
そのホテルは2回目なので、地下の駐車場の入り口で、あたしは降りて扉のブザーを押し、もう乗らないで車がくだっていくのを見ようと、したところ、ガガガーッと音がしてJBが運転する車は右側のタイヤを縁石にこすり始めました。左側に座っているので、右の感覚がわからないらしい。あたしが慌てて走り降り追いかけていくと、車はさらに右の車体を壁に擦り始めたのです。あとで聞くと左にオートバイが止まっていたとか。だからと言ってそこまで右に寄らなくても良さそうなものですが。
そしてガタゴトとエンストしながら進み、一番奥の大きな柱をこすって止まりました。
もちろん傷がつきましたが、深い凹みはありませんでした。
知らない車、ドイツの車、鍵をかけるのさえ一時間もかかりました。本当に鍵がかかったのかは定かではありません。こうして思い出すと恐ろしさに襲われます。あたしは忘れようと、思い出しまいといつもしているようです。
でもこれで恐怖は終わりではありませんでした。


ーーホテルよりアウトバーンでニュルンベルクへひたすら恐怖ーー

そもそも何故、我々がドイツくんだりまで来たかという理由はさておき、とりあえずドレスデンに行かなければなりませんでした。それは例のミュンヘンの銀行が、クレジットカードを作ることはできるが、それを郵便で送るので受取人の住所がいる、ホテルではダメだというのです。ミュンヘンにはあたしのママ友の唯子さんがいるのだけど、北のほうを目指しているのでそっち方面にいる親友の弓子さんの住所を貸してもらうしかありませんでした。そういうわけで、ドイツのクレジットカードにありつくためにホテルを出て北へ向かうのです。

弓子さんのいるドレスデンまでは一気に行けません。ホテル滞在中にJBの体調が改善して車を運転できるようになるという、淡い希望にすがっていました。

1週間近く滞在して、さて出発のその日、唯子さんが立ち寄ってくれ、スーツケースを運ぶなど手伝ってくれました。天使のような唯子さん。
いざ出陣、JBは車のエンジンをかけました。バックするはずなのに、前進して前の壁にどしんとぶつかり、下がろうとして、下がっては前に進んでまたぶつかるのです。
その音でちょうど居合わせた何かのエンジニアらが見に来ました。すぐに受付カウンターで見たことのある長身の紳士がきました。それはホテルの持ち主その人だったのです。
問題は、レンタカー屋が返すときにはもってこい、車を引き取りには来れないと主張することです。ミスターデーマスは電話までかけてくれました。
「この男性は車の発進すら出来ない、そんな糖尿病の人をホテルから出発させられない、お宅も責任問題ですよ」と掛け合うのだが、おそらく相手は例の女の子なので埒が明くわけもなく、とうとう最後に彼が自分で運転して車を地下ガレージから出し、外の道に停めてくれ、「ここからはミュンヘンまで行って返すか、さらに乗って行くか、お宅の判断ですよ」と彼も人々も離れて行きました。

残ったのはあたしとJBと唯子さんの三人。ホテルを出るとwi-fiがないのでもう使える携帯すら持たないあたしたちは唯子さんの携帯を借りて、レンタカーエンタープライズの支店をさがし、あたしはそこまでタクシーで行き、(タクシーを呼ぶのはまたホテルのレセプションまで行き)無駄な話で終わってまた戻ってきただけでした。どうしよう。唯子さんにも案がなく、顔を見合すばかりでした。インシュリンを忘れたとき同様、一か八かの決断の時でした。ドレスデンに行く用事は重要でした。親友に会うというだけでなく。
ミュンヘン市街よりアウトバーンの方が運転しやすいように思えました。ひたすら走ればいいのですから、信号はないし。事故になって死ねば死んだときだ、と覚悟はできました。あたしが決定しました。さ、行くよ、とJBに告げ、あっけに取られてたたずむ唯子さんを残して発進したのです。

時速八〇キロと指示が出ているとややほっとする、昔のように百五十キロでぶっ飛ばせる区域は制限されているようでこの点まだしもというところ、数回エンストしてはひどくクラクションを喰らってもそんなことどうしようもないので、もう走り出したら止まらないことにして、五時間、予約のペンションのある村、ツィンドルフまでよくぞたどり着いたものです。

そしてナビでは着いているはずなのに「ペンション古村」が見つからないので、あたしがあたりを走り回って、それでもその場所をなおも見つけ出せないでいる間、JBは車に座って休んでいました。何か言いかけそうにしますが、あたしはそれに構っている暇はなくそこらじゅうを尋ねて周るのに必死でした。やっと親切な角の店のおじさんに教わり、わかったと思っても、入口らしきものは居酒屋しかありませんでした。化かされたようです。おまけにJBが、「ばか、さっきからその前に駐車してるのに、それを言おうとしても見向きもせずに、ばか」と怒っていたのも当然で、路上駐車していたそばに、立て札があり「ペンション 古村」とか確かに書いてあります。

うまいことそこの駐車場に駐車できて、柵の向こうに変な入り口があり、それは居酒屋の裏口と並んでおり、そこで電話して管理人を待つようにと居酒屋の親父が言いました。

室内はふるい古い木造のしつらえ、貧乏な農家の寝室という感じでした。そこでしかし、あたしはイエスキリストに出会ったのです。イエスキリストに帰依する画家の心を見たのです。ドイツへの無鉄砲な旅は、意識の上では夫を母国で看取るという結構なものでしたが本心では、あるいは無意識では神と出会う旅でありました。
何枚写真に撮っても、実物の感じには程遠いのは残念なことです。まあ実物がないとなるとそれはそれで結構雰囲気が出るのも事実です。全ての苦労がここに向かっていたのかと思う他ありません。苦労を辛いとか思う暇もなくなんとかやり通すことだけに一心でした。この絵はここであたしを待っていてくれたのでしょう。そう意味づけることにしました、そうであるはずです。


ーードレスデン列車の往復ーー

4月中旬、あらゆる樹々に若芽が吹き出し、淡い緑色の霞がかかる時節でした。
ニュルンベルクの旧市街を見る間もなく、這々の態で列車に乗りました。列車です。フォードの新車ではなく。

アウトバーンの強行突破作戦の影響としか思えませんが、その翌日せん妄状態で目覚めたJBがその日のうちに病院に収容されてしまいました。できものを切開してもらうつもりだったのに、JBを見た医者たちが騒動して心臓の専門医へと回し、そこから市立病院へ救急車です。みんなが「よくぞここに来ましたね」と口々に言うのですが、あたしたちはわかっていますからはあ~と返事するばかりです。
そして1週間、JBはこれ以上の検査を断り退院すると主張しました。当時は狂気の行いと思われたでしょうが、あとから考えると理性的な行動でした。病院側は百万円くらいをあたしたちからふんだくる予定を立てていましたし、生き延びているのですから。
明日にも頓死ですよと脅されても平気です。さあ次の問題を解決する必要がありました。

この車をどうしたら返すことができるか、ミュンヘンからは持ってくるようにと言われたこと、JBの病などを話したところ、ペンションのある村近くのエンタープライズ支店では、快く引き取りにきてくれました。ミュンヘンとはなんという対応の違いでしょうか。修理費その他かかってもそんなことには代えられません。喜んで支払います。やってきたおじさんたちは(と言っても相当の歳下ですがあたしは自分の歳の感覚が狂っているので)とてもとても好人物でした。天使のようでした、ちょっと太っていたけど。

そう、さて列車です。スーツケースは前日に郵便局までタクシーで運び、直接ドレスデンのホテルへ送り込みました。もう一つの大荷物、JBとそしてホテル滞在中に、親切なライナーの嫁であるJBの別のはとこの知り合いの知り合いが、不要な車椅子を使わせてくれるというので、車椅子付きのJBという荷物、を押して行くだけになりました。

初めて駅で並んで切符を買う、身障者介助も頼む。ドキドキものの仕事でした。しかしこれが結構親切で有能な人たちの連携からなっており、日本でも親切なのだろうけど経験したことがなかったので、ともかく感謝感謝でした。乗り換えがあるのでそこが大変でした。何しろ仕組みと構造がわかっていないので、一人では流石に乗り越えられなかったことでしょう。JBは車椅子のまま大きなカゴに積まれ、そのまま徐々に持ち上げられ、あたしの力で車椅子を中に引っ張り込むのです。JBがいつも肌身離さず持っている大きな鞄とパソコン二機の重たさときたら。おまけに背負っているリュックサックの重さときたら。

ドレスデンはただただ美しい街、美しい人々、美しい花々に溢れていました。

しかし、目的のあるあたしたちは長居するわけではなく、また同じ手続きを踏んで列車で南下を始めました。この度は、乗り換えの列車には何と身障者のための座席がないということがわかりました。あたしたちにはさっぱりわからぬうちに正しい列車に変更になり、その手続きも熟練の介助の人たち頼りでうまうまと乗り継いだのでした。JBにはそんな全てに感謝するいわれはなく、彼らはあたり前の仕事をしたばかりなのです。そして色々と文句を言い、潔癖症丸出しで言うに言われぬほど、変な人丸出しでしたが、私は介護人なので澄ましていました。
空に、まるで映画マトリックスを実現させたような格子が見えました。ジェット機の航雲なのですが、見事に格子柄になっていました。あたしの思うこと感じること、全ては脳内の光の幻であると言っているのです。この光景はまたスマホのカメラに収めました。これがあたしへのご褒美であり確証でもありました。ちゃんと準備してあるのです。

目的地は、バートミュンスター です。どんなところか? JBの大好きだったお祖母さんが住んでいたので子供時代からよく知っていて、ヴィータも住んでいるボース村の割と近くのいわゆる保養地とか。そんなくらいの理由で行こうとしていました。
そうそう、そのお祖母さんというのが、マリアという名前、とても好人物で当時70歳過ぎ、今のあたしとそういえば同じ年頃、青い目が生き生きとしていました。第二次世界大戦で夫と息子は行方不明のまま、JBの母である娘は15歳でソ連に強制収容され炭鉱で5年間働かされました。娘とは無事に出会うことができて、JBを可愛がったことは言うまでもありません。彼女にとってはいつまでも可愛い小さな孫のことをあたしに向かって日本語なら「どうぞよろしくお願いします」と頼みました。そのことがあたしをどうも縛っているようなのです。
マリアお祖母さんは心臓が悪くなったのですが、そのボース村にいる限り辛くなかったらしく、そのことがJBの南下の理由でした。あたしはドレスデンの親友のそばに留まりたかったのですが、そう言われると仕方がありません。

近くの町はバートクロイツナハ、ホテルクローネになんとか予約を取りましたが、階段があり山登りの人が泊まるところらしかったのであたしの心配はつきません。心配と言っても、JBの気に入らなくて怒り出し、あたしが非難されることが心配なのです。誤解なきように。JBには同情すべきところはありますが、唾棄すべき無視すべき、そうでもしなければこちらが壊れてしまうような態度が普通なのですから。

ところでなお一言、ホテルにいる間はネット環境は大丈夫なのですが、スマホは意外にも使いにくくて、それなら使い捨ての電話はと言えば、以前はすぐに買えたのですが、今回はもうダメでした。住所がないと売ってくれないのです。そう言うわけでホテルを電話ではなく次々とネットで予約して渡り歩くことにも利点がありました。もちろん旅行者なので半分くらいの人はそうしてるでしょうが、逆に、ホテルを決定するときのあたしの切迫さ、絶対絶命さ、必死さはあたしたちの下準備も知識も知り合いもなく移住すると言う問題全体がネットのあるなし問題に集約されていることの反映だとも言えます。

JB(その体調と性格)とネットというこの二つの問題が、移住の条件確保に絡んで行くらしいと、次第にわかってきました。


タイトル「光はプラスマイナスで進む」


通し番号十三 
(副題)条件を整えようと?  ナディア登場 どんな意味を与えよう?


ーーホテルクローネからの眺望ーーー

窮状が、問題が、マイナスの波が、影が現れ、なんとかそれを克服する、というプロセスを意識して繰り返してきた「禍福は糾える縄のごとし」の道行きである。

西暦2018年、皐月晴れの今日、五月九日は、順番として陰が現れたなあということである。そうか、そうですか、相わかり申し候。あたしゃもう喜寿が見えてこようとしてるのに、バートミュンスターという、よろよろの年寄りしかいない、ドイツ切っての奇岩の景観と塩分空気による保養地として知られている人口7千人の場所で、二、三百メートルの高さのほとんど直角に切り立った岩の壁に囲まれた、その底にはナーエ川というのが流れていてライン河にに注いているのだが、緑にまた緑の重なるこんなナーエ谷を、これまた誰にも負けなほどによろよろの夫にくっついて所在無く歩く姿を晒して、あたしゃ日本女性のなでしこぶりを顕示しているのである。

とはいえこんなところに来れるだけでも十分に経済的に豊かな年寄りたちであろう。夫婦もいれば、一人ぼちという人もいる。病院か老人ホームか、兼ねたような施設が並び立っている。山はふかふかの色合い満遍なき緑だ。竹がないだけで日本の山村と同じと言える。そこで空だけを見上げていると、日に2回、教会の鐘がガランコロンと鳴り渡り、美しい鳥のさえずりの響き渡るのが大きな違いである。教会といってもカソリックと福音派と二つあって、違う音色で響き渡るのがおかしい。


翌日五月十日に2週間前のことを思い出して書いている。
当日は記憶に残らないほどの出来事だったが、のちに思い返してみて、あ、あれは四月二十七日だったとわかる。つまり、あたしと夫のJBが突然この町に現れたように、ナディアはホテルクローネから三分も離れていない角のカフェレストランで、あたしたちが久しぶりに苺サンディを食べるという罪破りをした「街角カフェ」から確かに美人の顔であたしたちの世界に現れた。

これより前、四月の二十四日に、難解な、変数ばかりの一次関数を解きながら、こんな山中とは知らずにここしか選びようがなくて(というのはネットで最も安い、好都合なホテル出あったので)、何度も言い聞かせながらたどり着いた。この地方はヤツの心臓に良いと納得したところだ。ヤツが自分で決め、あたしも了解、というか、したいようにさせようじゃないか、と腹を括ったという経緯の場所である。長湯治の老人のためにレストランばかりはたくさんあるが、車なしでは不便な坂道の街であった。(ナディアの店も坂のてっぺん近くなので、行きは大変だった。ヤツは五歩歩いては三分立ち止まる。あたしは全財産の入ったやつの鞄持ちでこれが重たいんだな、また。)

4階までエレベーターで上がり、ホテルクローネの部屋のバルコニーから、自殺にもってこい、という絶壁が屏風のように取り巻いているのを初めて眺めわたした時には驚かされた。大昔は海底だったので、塩が断層になって残っているのを取り出す方法として、十世紀も前から編み出されたのがサリーネである。塩の塊っているところへ川の水を追加し、潮が溶け出し塩水になるのを待って、水ごと汲み出す、それからその塩水から特別な仕掛けて延々と水分を抜くのであるが、その時の周囲の空気が海岸のような多分さわやかな効果をある種の病人に及ぼすと信じられているらしい。

実際、四月二十七日、とても暑い日にその高さ四、五メートル、長さ三十メートルはあろうという不思議な木組みを水が滴り落ちるので、何の木の枝が知らないが、びっしりと埋め込まれている外面を塩水がキラキラ光りながら、つまりしぶきを飛ばしながら滴り落ちてくるその下で、日を浴びてしぶきも浴びるのはいい気分であった。地球と意思交換しているような、と思うのはあたしだけだろうけども。

珍しくヤツが機嫌よくしているのはそのせいばかりではなかった。この街に着いた翌晩にはすぐ近くの貸家が売り買いネットに出た。家の賃貸も不動産屋抜きで本人同士がやり取りしてもいいのである。珍しくJBが書いた応募メールには、翌日好意的な返事が来た。日本ではほとんどが聞いたことのある、山のあなたの空遠く幸いすむと人の言う、で有名なカルル・ブッセ、と同じブッセ氏からである。

その翌日、二十六日には喜び勇んで、家を見学に行き、彼があたしと同じ科学オタクらしいこと、夫人がソプラノ歌手であることにこちらは痛く感動した(何故かといえば、あたしに美声を愛すると言う性向がある以外に、ネットの知り合いマリリンさんが同じソプラノ歌手で、その性格が誠に尊敬に値するものだったので)のに対し、向こうはちょうど損失を被っていた(前の借家人が部屋代を払わなかったため)のをこちらが、先手を打ったかのように同じ額の一年分の前払いを申し出たことから、決定となった。初めて現ナマが正しく役立った。

マイナス面はあった。肝心の家がまだ提供するには遠い状況であり、あたしたちは契約が五月一日であったのに、なお九日までホテルを延長せねばならなかった。このためにホテル従業員との関係が親しくなったのは、きっと何かの良い結実を見せることであろう。

もう一つのマイナス面は、確かにその家は面白い作りで、庭もたっぷりあり、あたしにはまるで「秘密の花園」(大昔読んだ少女小説)の話のようにいつもながら神の粋な計らいであったのだが、ヤツの心臓には酷な階段が、しかもかなり危険な形で二つもあったのである。これもいずれ思いもよらぬ方法で、解決されるであろうが。

JBがこれを無視して、というか貸してもらえるかもと舞い上がって気づき損なったので、あるいは真に受けなかったので、あり得なかったような、あるいはぴったりの相性の成り行きで奇跡的な契約となり、その代わりに家主一家は、のろすぎるとはいえ精一杯の助力をしてくれることになったのである。これが四月二十七日である。


ーー住居が手に入る、ナディアに出会う、その意味は?ーー

こんな、宇宙の仕組み、ではない、幻想世界に働く聖霊の法則に則りつつも我々の決定の自由意志の当然の結果として、ホテル暮らしの流浪の民に定住の地が与えられる流れとなった。ナディアも与えられた。愛らしく美しい顔立ちの。
ナディアが運んで来た苺サンディ、大昔、JBがまだ健康で曲がりなりにも夫婦で夜の生活もしていた頃、よく食べた。糖尿になったのもそのサンディ関係ではあっただろうなあ。


それからの怒涛のような陰陽の波が、このバートミュンスター の地にまた来た。
あたしはどう頑張っても美人の範疇に入らない、ただ実物よりも愛らしく見える瞬間もあったらしく、どんな時点で出会ったかにより他人があたしから受ける印象は異なるようだった。今回、東洋人の老婆としてどう見られるのか、どう扱われるのか全くわからない状態だったのに、思いもかけずブッセ夫人はあたしたちのことを好感を持てると初対面で言明し、翌日の現金支払いでも改めた風に言明した。その彼女こそ、たけ高いブロンドの華やかな開けっぴろげな女性であった。

最初のホテルで、あたしのことをJBの娘だと思っていた従業員がいたと聞いて、流石のあたしもひっくり返った。日本ではいっぱしの老婆以外の何物にも間違われない。鏡を見て最もがっかりするのは当の本人である。
旅の都合上ジーンズをはいて(颯爽として)いるが、白い縞模様が目立つ断髪のせいかふと街角で注意を向けられるのに気づくことはあった。まあ違う印象は与えるのだろう。次のホテルでも若いご婦人などと言われたので、これはひよっとするといい展開になるぞ、近くから視力の良い人に見られなければね、などと思われた。何しろ、目と目が離れているベビーフェイスなので、よく言えば。

こんな日頃、周囲の沸き立つ皐月のエネルギーの中にあたしはありありと聖霊の存在を感じられるような気がした。全て、全ての存在するものが聖霊の化身であり内からの光、反射する光に輝いていた。荘厳さに心が沸き立った。忘れてなるものかと、あたしは日記に、秘密のツイッターに記しておいた。そしてヤツは一体どんな意味があるんだと自分に問うたとき、ナンダ事実あたしの人生のテーマではないか、と思い至った。あの哀れな廃人の様な姿が菩薩の仮の姿かとふと思ってしまい、ゾッとしたのであった。


四月三十日。まだホテルクローネにいた時、朝まだき、あたしは突然困った状態に陥った。目覚めるや、わかったのだ。まさに、冗談じゃない、ヤツも聖霊の化身ではないか、そうでないものは存在しないのだから。あたしゃヤツだけはその例外にしていたのだ。困った。困った。が、改めてその事実を踏まえて眺めてみると何一つ腹が立たない様な気がするではないか、たとえ立っても問題ないと思われるのだった。


同じ日、ホテルのレストランより安いので、またケーキが安い割にはJBの好みにあったので、街角カフェに四回目に顔を出し(ということはほぼ毎日)たところ、思いもかけぬ展開が待っていた。

ナディアが親しく側に座って、本当にいい人たちだから(JBのことも含め)家を探しているのなら一緒に住まないか、と言い始めた。え、そんな事をこの人に言ったかしらん、と思ったがよくわからないまま、家賃を分ける話まで進んでいた。そこで彼が「実はもう一年分払った」と苦笑して言った。あたしもナディアも悪げなく、ああ、遅過ぎた~また一年後に話しましょう、と笑った。

翌日五月一日も街角カフェに出かけ、メニューの中の意味不明のもの、アンチパスティなるものを注文した。冷たい料理で、薄切りの牛肉を敷いた上にサーモンペーストを塗ったもので、意味を聞いたがナディアの答えも意味不明だった。あたしは何の気なくあなたはイタリア人でしょうと返した、彼女があたしのことを尋ねたついでに。ところがウクライナ人だと言う。JBの耳にはロシア語の発音が聞き取れていた。

旧ソビエト連邦から独立したウクライナの昨今の政治状況は、クリミア半島が住民投票によりロシアにまた統合されるなど大変な事態であるのはよく聞いていたが、その人々については想像の外であった。あたしには返事のしようもない国だ、クリミア半島のことでも言い出すべきだろうか、と戸惑う始末だった。不意にナディアが言った。
「この頃、音楽かけないと眠れないのよ、私」
「一晩中って意味ですか?」(あたしは彼女のことを親しい言いかけにしていなかった、彼女は外国人の常で誰にでもくだけた言い方を使う)
「そうなの」
と、言ってからまた不意に、
「夫への愛が無くなってね、夫は私を愛してるけど。朝起きると心の中が空っぽなの。もう十年このかた子供四人を育てるのに一生懸命でね、一度も休暇をとったこともない」
他に例がないくらい、彼女の店は毎日、休みなく営業していたので、それはあたしも考えていたことだった。やっぱりそのはずだ。
またナディアが不意に付け加えた。
「薬もらってるの、それを飲み忘れたらもうその日はダメ、眠くて辛くて」
少しタレ目の大きな茶色の瞳にはメイクが施されているのを、あたしはじっと改めて見つめた。美しい眼である。
「夫と結婚した時、貧しくてね、窓のない小屋だったのよ」
「窓がない?」
と、ついあたしは繰り返した。
「そ、窓もないの。パン一個もなくて。両親は何でも持っていたので分けてもらったの」
ナディアが苦笑いするのをあたしはただ驚いて見つめた。

「息子が六、七歳で小さかった時、マスクをした男たちが家を襲ってきた」
何を言い出すのだろうと思った。あとでわかったのだが、当時のソ連のさる筋が、サイコパスの様な重罪犯人を刑務所から出してウクライナ人を襲わせた、というのだ、それは民族消滅作戦の最前線だったそうだ。
「私はめちゃくちゃに殴られたのよ」(何を言い出すのだこの人は!?)
「殺されるところを弟にやっとの事で助けられたの」
あたしは目を見張り口をパクパクさせるのみだった。
「顔中紫色に腫れて、首も縛られて傷があって、腰には火傷の跡が今でも残ってる、多分かまどに押し付けられたのね」
あたしは首を振るのみだった。
「それで祖国を捨ててドイツに逃げてきたの。でも心が病んでいて、カウンセリングを受けてるのよ、今でも」
「まあ、なんて酷い目に」
「それから愛が無くなったの、夫は良い人だけど余り手伝ってくれない」
そしてナディアはまた不意に付け加えた。
「息子二人は、その時母親を助けようとしたけど小さ過ぎてね、それでやはり心が壊れてしまった、薬を飲む日々よ、余り働けない」
あたしはその手の話に弱い。自分の古傷もあるからだ。
「そして弟は薬でも治らない、私を助けようとして酷い目に遭わされて」
ナディアは涙を拭った。あたしも涙が出た。
「でもね、過去はもう考えないでって医者も言うし、私もそう思ってる」
と、ナディアは目を拭った。あたしはまるで映画ででもあるかの様に立ち上がり、彼女の良い匂いのする首を抱いてあげた。日本ではしないだろう。きっときっと良い日が来るからね!と囁いた。
自分とは関係のないところで、起きている世の悲惨、その末端に触れ現在も続く苦悩に触れたのだった。


五月二日、JBは痛くナディアに同情し、また二人を良い人だと認めてくれたことにも共感して会いに行きたがったが、彼の睡眠状態が悪化していて、意識が混濁するときすらあった。あたしにはどんな時も彼の中の聖霊を感じる準備ができていた。

五月三日、二度目の内覧、少し掃除したからと。それまでにあたしは頭を絞ってその変な間取りの家を描き出そうと苦心していたのだが、グーグルの航空写真で初めてわかったことには、あたしの考えの限界を超えてすらいたのだった。神の粋な計らいにもほどがあると言うほどだった。

五月四日、家主のブッセ氏が車で家具の下見に連れて行ってくれた。コブレンツまで遠出して有名なイケアに行ったのだが、その前にバートクロイツナハにあるキリスト教的互助会の様なところに属する、再利用家具店を見せてくれた。そここそ、あたしが先日ネットで見つけていた良心的な人々のなす業が集約したところであった。
病院も併設されていて、何語かもわからないディアコニーと呼ばれていた。あたしは大男で太鼓腹で、可愛い鼻と笑顔のブッセ氏に意味を尋ねた。
「人々が協力してボランテア精神で助け合う組織ですよ」
「ああそうか」とあたしはいきなりとんでもないところから切り込んだ。
「神には助けはいらないけれども、人間はお互いに助け合わないといけないわけですね」
ブッセ氏はどう思ったか知らないがうなずいた。

そこでは価値ある家具が安値で展示されているのだが、JBには古臭過ぎて顔をしかめるばかりなので、あたしもうんざりして店を出ようとした。出入り口で、人々の中にナディアの笑顔を見つけた時、あたしには神の粋な計らいがあまりに露骨なので笑ってしまうほどだった。
彼女に会えたのが嬉しくて笑ったのではなく、体が崩折れそうになったのでも無かった。あたしはそんなに大袈裟に物事を喜ぶ方ではないのだから。しかも、ナディアも初めてたまたま行ったのだそうだ。そして彼女にもアイデアが湧いたのだろうか、夕食に店に行くと、また喜んで抱きついてきて、まず自分から人に施しをするわ、そうすると必ず神様はもっと大きなお返しをしてくださる!と、まさにあたしが読んだのと同じことをいうので心が震えた。
つまり、あたしたちがいくら食べても食事代がかかろうとそれから十ユーロ安くするというのだ。
「それじゃ儲けがないでしょう」
「普通のお客からは普通にもらうわよ。それに私の仕事量に変化があるわけじゃなし」
「まあそう言えばそうだけど」
「あなたたちを見るとね、私たちが逃げてきたときのことを思い出すのよ、何もなく何もわからない、あの気持ちを」
あたしたちにお金がないわけじゃない、でも電話がないことから生じる不便さはいうに言われない、歩けない夫のためにタクシーを呼べない、不動産屋と会う日も取り決められない、車もない。そして間も無く、頼りのネット接続からも絶たれてしまうだろうとは予想しなかった。恐れてはいたが。


翌日、五月五日、JBの息遣い、脚の傷炎症、寒気、横になると溺れる人のように空気を求める。彼の大往生を願っているとは言え、死に瀕したように見える事態に対処するのは難しい。彼の本体である聖霊を透視するばかりだった。どうしたい、あんたは、と自分に問う。いつであろうと彼の大往生。

この日、最悪の体調だったが確か、ナディアの店で夜の九時過ぎバイキングが行われると聞いていたあたしたちは、空腹を我慢していつもの夕食時間を伸ばし、暗がりの中、車椅子で坂道をウンウン言いながら行って見た。しかし真っ暗である。ドアはしまっている。騙されたのか、ナディアはからかっらのか。来てね、となんどもあたしの背を撫でながら言ったのに。
どこを回っても、飲み屋は空いているが食べさせてくれるところはもうなかった。まさにトボトボと、実際はウンウンと、百キロ近い男を押しながらホテルに帰った。翌朝の朝食まで何も食べられなかった。いつもたっぷり食べているせいか、それほど空腹でもなかった。情けない、騙された気分。


五月六日。しかし次の日にも無理して店に行ったが、どこにいたのよ、と言った以外ナディアは大した反応を示さなかった。それでもあたしは彼女に尋ねた、決意を持って。「名前はなんと言うのですか?」それでこの名を知ったのだが、そのときあたしの名前は言わなかった。それは発音しにくいからだったが、考えてみれば失礼な話だった。何れにしてもこの問いによって、あたしは決然と彼女を友人みなす決意を自分に示したのだ。しかし、よく見ると彼女には何人も親しい客がいた。商売上手なのかもしれかった。そして自分の電話番号をあたしにくれ、電話してくれたら食べ物を持って行くから、遊びに行くから、と言った。その日もまだ、あたしにはあげるべき電話がなかったけれども。


五月七日、待ちに待った家主による入居証明書をブッセ夫人が書いてくれた、その紙はあたしが市役所支所に出かけもらって来たものだ。この朝、あたしにまたアイデアが降りた。ナディアが金曜日の夕方、もう明日のバイキング用の卵サラダは作って準備した、と言ったのを思い出した。あたしはガバと起きた。そうか、バイキングは翌日の夕方九時ではなく、午前中朝食の時間のことだったのだ。それで合点がいった。あたしはJBにも告げてしばらく大笑いした。
その日、ナディアは腹痛だと顔を曇らせていた。


五月八日、一緒に車で近くの家具屋に連れて行く、と約束していた朝九時を三十分回ってもブッセ夫人の車が見えなかった。実は勘違いしてホテルのドアを出たのだがまさにそのとき、本当に彼女の車が来て、その開けっぴろげな顔を見たとき、嬉しさがこみ上げたので走って行った。
「あなたって本当に、まるで若い少女みたい」と言われた。
あたしゃ驚き。そりゃないでしょう。
「顔だけじゃなく。衣服や振る舞いもね」と少し方言のあるドイツ語でいう。まあ、習俗にとらわれない方ではあるけれども。それにしてもあんまりな影響力ではある、これもあなたがなさったことですか?


家具屋でとりあえずのベッドとして空気で膨らますのを安く買った。赤い椅子つきの丸テープルを買った。昨日から実際にはブッセ家の末娘アントニアが家の掃除、庭の整理などしていたので、あたしはずっと腕にしていたスワロフスキーの飾りをプレゼントした。声楽を大学で学んでいて、母親と同じくソプラノだと言う。オペラの歌手になりたいのだと言うので、「じゃあ、やっとこの腕輪が日の目を見ますね」「ええ、演奏会でつけて行きますよ」とブッセ氏のいいところばかりを受け継いだ笑顔で受け取ってくれた。自分では宗教的な意味を込めていたものだった。


いよいよ、五月九日ホテルクローネのネット接続とおさらばする日となった。

昨夜あたしはスーツケース二つと、ガラガラと坂道を下り突き当たりの新しい家にすでに入れておいた。ホテルでの最後の朝食を済ませ、残りの荷物とJBとを車椅子に乗せてガラゴロとまた坂道を降りて行った。


この日、やっとアントニアと市の住民課へ住民登録をしに行くのだ。あたしの生地が満州国という幻の国だと言うので役人がパニックになり、なんとなく住民票の許可が降りた。アントニアが若い世代らしく、すぐにスマホを操って満州国の綴りを出してくれた。色がつぎはぎの古い車に乗せてくれ面白かった。しかし結局どこの役所に行ったのかなどはさっぱりわからないまま。やれやれ、目的その一の達成だ。

ここでナディアの店で起こった負の現象がサラダ問題であったのだ。この重大な日もあたしたちは街角カフェで大盛りサラダを頼んで大いに健康を気遣うつもりだった。彼女手作りの美味しいケーキも糖尿病には悪いに決まっているので、そろそろ止めるつもりで。ところがサラダには土が付いていて口の中がザラザラするではないか、これまでも感じたことがあったが無視していた。それは彼女の嫁が作る役目だと言う。
「ナディア、あたしの友達だから言うけどさ、ほかの人もそう思うといけないから、サラダがよく洗ってないみたい、口の中に残るよ」彼女は笑って、まさかそれは最後にパラパラまいた塩のせいよと言うので、「そうだったらごめんなさいね、ただ気になったので」とすぐにあたしは受け流した。明らかだったけれども。


家主の息子の古いソファと空気マットレスのすごい威力と有難さ。JBとは別室で眠りたいと思うあたしではあったけれど、瀕死の呼吸状態の彼を一人にしておくこともできない。この晩もひどかった。ソファの端っこに座った格好で眠るJBに対して足を向け、あたしは直角に空気ベッドに横たわる。その間には足台の椅子があり、その役割はそのうち横になってしまうJBがその上に体を置き、脚はあたしの脚の横へ伸ばせるようにというものである。工夫力、すごい。しかしJBがソファと足台、足台とベッドの隙間に墜落してしまうのは避けられない。しかしそんな日夜を過ごすほかない。

もう一度言おう。やれやれ。住所があることのメリットは多い。これで安物携帯が買える。これでクレジットカードも作れる。その結果イケアのファミリーカード登録ができてオンラインで家具を買い運んでもらえる。あ、違う、ホテルを出たので、新居にはまだネット環境がないのだった~~また元の木阿弥だ~

タイトル「光はプラスマイナスで進む」


通し番号十四 
(副題)ビザとドイツ語試験とネット問題 ツイート参加

ーー負の波、通信手段なしーー

目的の住居が手に入り、ホテルから移るや、負の波がどっときたのですよ。
ブッセ氏にはイケアに、ブッセ夫人にはデンマーク家具屋に、アントニアには住民課へ、そしてサラダ問題も軽く超えたナデイアにはテレコムへ連れて行ってもらいプリペイド電話を買い、ヴィータからは手押し車をもらい、さて欠けるものは通信手段となりました。


主よ、お分かりかどうか知りませんが、勿論お分かりでしょうが、電話とネットがないのは致命的なのです、この時代の人間には。普通に暮らしている人には想像もつかない事態です。普通のことができないのですから。テレコムでプリペイド電話が買うことができました。これでタクシーを呼ぶことは可能。家具屋家具屋、どこにある? ネットでは注文できない、IKEAは遠すぎる。注文できたとしても運び賃、組み立て代は惜しい、たとえ組み立てる男手も器具もないとしても。車はない。駐車場はなく運転能力はない。せめてテレビかラジオが欲しい、よし、テレビはメディアマルクトで買えた。床に直おきだ。さ、これをどうしたら見ることができるか?

またブッセ夫人に尋ねる。息子が知っている、WiFiは多分ケーブルでヴォーダフォンから繋がっている、なのでテレコムではない方が統一が取れる。何しろWiFiがないと持っているスマホが使えないのだ。WiFiWiFiWiFi。ホットスポットはあちこちにあるんです。パソコンをその近くで試したこともあるんです、ただ、あたしの知識や能力も足らなくて役に立たないわけで。

しかしJBはテレコムにこだわり、例のごとく他人の話を信用しないでテレコムと固定電話とネットの契約をしてしまう。テレコムからは、テレビ受信はパラボラアンテナで衛星放送を勧めるのみ、通りの名前をペラペラ言ってそこの店に頼んだら、と他人の事情も知らないで、知るわけがないが、ペラペラと無情なのです。でも住んでいるあたりにそんなアンテナの家を見たことないじゃありませんか、こんな山の中で受信ってそれはないでしょう。あたしが強く言うと、JBが契約を解除すると言いだしました。

そう簡単に行くわけもありません。説明が不十分だったから、と言ってもそうですかと引き下がるわけはありません、ブッセ氏が大丈夫、なんとかしてあげようと一緒に行く予定だったのですが、嘘か本当か、その日に車が故障したとか、JBも観念して契約を遂行させました。そしてテレビ受信はヴォーダホン傘下になったばかりの別会社のケーブルテレビで注文したのです。


その日のあたしの年甲斐もない、またもや年寄りの冷や水というツイート。誰も、神以外に見てくれるわけではありません。神に直接報告しているのみです。電子の手紙。

(神への収支報告。5/11+途方に暮れてナディアにタクシーを呼んでもらおうとすると、車を出してくれテレコムと繋がり安い携帯の望み叶う。12から16までマイナス状態:乗り越える自信を失い鬱屈、より高き自分を見失う。本当の退屈を初めて知る。深い不如意、不可能に陥る。有難い踏み台、スプリングボードであるのに。)

(5/13性愛と性感を忌むべきではないとわかる。それはやはり聖霊との交歓であり、創造の行いであるゆえに喜びの絶頂として肉体にも反映するので。その故に秘されたものでもある。これは自分の思考構築の中での大きな変化だ。生殖のために性欲があるのではなく、交歓の結果として生殖が生じたのかも)


翌日の14日、住民票を持って意気揚々と?あたしたちは外国人局へ出かけました。
全体的に問題なく進み、申請書を受け取ってくれ、第1回の面接の日が決まりました。

ところがそれが八月四日、つまり予定では日本にいて引越し作業をしている時期です。そこでわざわざ延期してもらったのが九月四日です。その頃にはまたドイツに戻っているはずですから。重要要件その1、結婚届は持ってくる予定だったのに、これもJBが持ち出し損ね、三男に頼んで家で探してもらい送ってもらいましたから、揃っていました。ただ一つ、最近の要請として外国人の妻はドイツ語の試験に合格しなければならないのでした。
そして翌々日、16日発覚したこと、幸運にも、と言うべきこと。


ゲーテ協会というドイツ語試験を行う機関に電話したところ、今日がこの地方の最終締め切りだと言うのです。急いで午後4時までにネットで申込書を送りなさいと。場所はマンハイムです。列車です。乗り換えです。

また、ネットです。これがないと、あるいは少なくともプリンタがないともうお手上げの世界なのです、空気がない状態です。そしてあたしたちの持っていた旅行用のプリンタにはケーブルが忘れられてありました。頼りにならない夫を持つとこう言うことになるわけです。
手足をもがれてしまいました。泣くのみです、喚くのみです。


しかしながら、すでに世の初めの時からホテルクローネのフロントに美声の主任とペンシルベニア女性とが配置されていたのです。長逗留をして毎日顔を合わせ親しくなっていて、その後レストランに食べに行ったとき、事情を聞いて古いラジオや傘を貸してくれ、パソコンをロビーで使ってもいいと言ってくれたのです。

それに便乗して、あたしは1、9キログラムのMacBook Proを抱えて、信頼たっぷりの笑い顔でワイファイを使わせて欲しいと頼みます。どうぞ以外の何があるでしょう。そこで悠々とネットで試験申し込みとホテル予約まで済ませました。

するとまたメールで確認が入ってきます。色々とサインや説明や、大変です。プリンタがないとサインを送ることができない、またもやピンチ、と言うので思いついたのがはとこのヴィータに印刷してもらい持ってきてもらいそれにサインして送ると言うものでした。素晴らしい案です。



(5/17聖霊と摂理という新しい把握に至る。嬉しくありがたい。白いニセアカシアの花の香るこの町を厭いそうになっていた時、またありうべき、ありたきこの生と存在へ引き戻される、自分を引き戻した。国や人の違いを論じるより、その同一性は同じ地球の住人という点にある、個性はもちろん異なる。異なるように造られているのだから。)


負の波から明るい善なるポジティブな目的を見出せるか、その戦いであるのですね、要は人々の厚情です。それはあなたの巧みなプレゼントそのものなのですね。


滞在許可を外国人局から発行してもらうための重要案件その2、(1はもちろん住居があること、これはクリア)健康保険組合へ加入すること、これも絶対の目的でした。

電話が手に入ったので(つまり普通の人は足や車で移動して行動するのに身体的にも不自由なあたしたち)やっとやっと連絡が取れ、加入を申請するところまでこぎつけました。

三十年前にミュンヘンで親子三人で加入していたのに、そのころの記録はちゃんとデジタル化されていませんでした。おまけに大組織の意思疎通がとても悪く、あるいはのんびりしていて、あるいは休暇ばかりとっていて、地域担当者のグレフ氏がヒョロヒョロで半ズボンという格好でやっときたとき、神様のように思えたものです。しかし彼の言うことと、事務方のすることが一致せずイライラするばかりでした。

テレコム、保険組合の件について、またも登場してくれたはとこのヴィータが肢体不自由を押して情報を探し、持ってきてくれ、さらに先に触れたドイツ語試験に関するプリント問題も手伝ってもらいました。なんとありがたいはとこなのでしょう、彼女は天使でした。
天使はそこら中にいました。ただその後、ヴィータに会うことはほとんどできなくなりました。彼女が家の階段から墜落し骨折! こちらからも行けません。最後の出会いのチャンスを使って、あたしのドイツ試験を可能にしてくれたのでした。


(5/19 タクシーを待ちながら惨めさと絶望感、しかし山と森は端然と美しい。聖霊と慈愛と摂理に行き着いた自分をも祝福し、さらに高いヴァージョンもあり得べし。ヴィータ、などの人々のあること嬉しい。大失敗に終わりそうなのが胸を締め付ける、悲しさを体験する、日常の出来事に違う意味づけがなされるという作品を書いてみたいが)

思えば、不自由な住まいながら得たものの、生きるための保険、ビザ、それがまだでした。超えるべき山は延々と続くのです。


(5/21月休日、鬱屈に負けそうだったのです、聖霊と慈愛と摂理なる存在よ、この地を祝福するために来たはずなのに。暗い洞窟から出て庭に座り、猫、鳥、緑、囀り、山を見回しているうちにこの苦悩をも愉しめと頭に浮かびました。どんな苦悩が来てもそれを娯しめと。すぐに心が切り替わり、夫すら美しく見えたほどに。)
 


ーー帰国便とドイツ語試験の関係ーー

帰国便のことが突然重要になりました。購入した時からおおよそ3ヶ月という意味で6月25日に決まっていて、それはでも、うまくいけばずらすこともできるという決まりの格安券でした。

ところが、ドイツ語試験は5月末にあり、その結果は6月中旬から発表されるので取りに来いというのです。すると25日離陸が危ういのでした。

おまけにその頃ヴィータのもたらした恐ろしい情報によると、日本人の旅行者には半年の期間中にきっかり90日分(3ヶ月ではなく)滞独が許されるのです。
この説明は、わずかな人しかわからないし、あたしもある夜突然にわかったほどとんでもない仕組みなので、主よ、あなたはもちろん精通されているでしょうが、ともかくそのせいで6月末ギリギリに離陸し、10月1日きっかりにまた戻ってこなければ、10月4日(ここでも一捻りの意外な展開がありました。本来8月だったのを、夏には帰国して借家の処分引越しをしなくてはならないので9月初めに変更してもらった面接予約があったのに、今度はドイツ語試験の結果受け取りのために帰国を遅らす結果、「シェンゲン条約」もあり、7、8、9月すぎて10月初の予約にずらしてもらわざるを得ず、わざわざまた外国人局に出かけたのです、朝早くから一人で。

受付の乙女が言うには、ビザ申請したのだからこのまま滞在できるのですよ。でももし中途半端で帰国すると90日滞在が適用されるのよ。いまどちらかに決めてください。)のビザインタビューに間に合わない可能性が出てくるのでした。

苦悩をも愉しめという言葉がなければ耐えられるものではありません。第一、そのために日本の全日空に電話しようとしてもなかなか時間が合わないのです、7時間の差がありますから。それで仕方なくドイツルフトハンザに電話し始めました。そこからまた恐ろしい事態へ流れて行こうとは。


(5/24偏在なる聖霊よ、夫が「神はビッグバンでバラバラになったのだ」と彼の悟りを述べました。確かに。個別化した神性たちはそれでも一つのものとして、大きな海に包まれて、含まれているのですね。誰かに心配させると言う心配なしに、ここに住みたいと私が思っているらしいのは何かの理由があるはずでしょう。)

(5/26土今日の哲学:聖霊の湧き出で散らふ岩肌より彼を自在に生殺せよ、良心必要なし彼は神の道具なり、思いのままに使い自分の生命を喜び楽しめ、と聞こえるので、ビザをもらうまでは必要なる道具です。大いなる全智なる無限なる聖霊の本質は、人類という形に至り、創造と喜びと自由自在とにあることが顕現されている。それが神の創造の目的である。感覚と意識で捉えるものは水面に揺れる岩山の影)



ーードイツ語試験、転生待望、オカリナの関連ーー

マンハイムにゲーテ協会の宿泊所があることはわかっていましたが、何と無く近づきたくない感じがして、近くと思われるホテルを予約していたのですが、地図をよく見ているうちに試験場の一角にあるという宿泊施設がよかろうと思われてきました。しかしもうかなり日にちが迫っています。仕方なく電話しました。やれやれ、大丈夫だということ。しかし料金や鍵の受け渡しなどなんだかややこしく、想像を絶する感じでした。そしてそうしておいてよかったとわかったのは行ってみた時でした。


(5/27日 ここ数日のうちに亡き子の転生と出会うことに決めているわけです。そのときの嬉しさを想像するだけで号泣しそうに、嬉しさというより聖霊の摂理と慈愛を確信するという感激。銀の砂つぶをまぶした聖霊の体現としてのこの大宇宙にとりわけ神の夢の場としての地球に玩具とギフトを溢れさせて。)


5月末の28、29日はマンハイムまで列車の一人旅。
バートミュンスター 駅から出発。ここは車椅子では無理という駅だ、階段があるのにエレベータもない。一人なのでなんの事なく家から10分の道を歩く。身軽だ。しかし出かけるときは早朝な上に、やはり道中のやりとりがどんな目が出るかわからないのでそれなりに緊張していたらしい。
自分では思わなかった自分の気分だが、大家夫人の犬は感じたらしく、知っているのに私が歩くときにトレンチコートがこすれる音にすっかり怯えてヒイヒイ哭き、脱兎の勢いで階段を駆け上がって帰って言った。そうか、と少し深呼吸をして出発した。

駅ではアジア人女性が一人列車を待っていた。いかにも試験に行くという感じだ。マインツの学生もいるようだった。その中の姿の良い若者が偶然にあたしと相席になってしまった。座るやパソコンを出してせっせと作業するのをちらとみると、電気関係の測量の値らしいページをめくりながら次々に表を並べ、比べている、ときに論文のような場面も使う。そのよそ見もせぬ必死の様子が、ふと亡き長男を思い出させた。学会に行くときの苦労と眠る暇もない極限の有様はあたしには承知のことだった、だから、ひょっとしてこの子があたしの子の生まれ変わりかもとどうしても思いたかった。様子も良い若者のようだった。顔をちゃんと見ることははばかれたし、話しかけるような雰囲気ではなかった。あたしは降りるときも彼から離れないようにしたが、エレベーターで別れることになった。
同じバートミュンスター で乗ったので、近辺に住んでいる子に違いない、その後もキョロキョロしていたがもう見つからなかった。でもそう決めてしまいたかった。


この地方でも女性同士で結構しっかり目を合わせてくる、そしてニコッと笑いかけてくるので、あたしはドッキリ、すぐに笑顔を返せなくて向こうがもう視線を合わせてくれません。半秒ほどの出逢いです。日本との違いはどうだろう、と頭を振るのみでした。

試験は明日なのに、前日朝一番の列車で出かけてよかったのです。大きな大学があるらしく若者の姿が多いところ、そしてまさに大学街に乗り込んでいくのでした。暑い日です。市電で広々とした開拓地みたいな、建設ラッシュの大学街で降りて、さて、と見回すとなんと目の前にゲーテ協会の建物が見えるではありませんか。今日は楽勝とニヤニヤして、さて、この金網の向こうにあるけど、入口はどこかな?

立っている道路の4メートルも下に、新築だけどどちらかと言うと無粋なゲーテ協会建物があり、その周囲は広々として、建設用大型機械と砂ぼこりと労働者の世界です。右に登るか下に下るか、立て札も案内も何もありません。

ちょうど下から(左から)汗をかきかき学生らしい男がくるので、尋ねるとこれを下へ行くと入口がある、と言いますから、今やってきたわけなので正解だろうと早速下へ向かいました。暑いので右への坂は登りたくなくてホッとしました。
しかし、彼はわざと嘘をついたのか、東洋人だから? 

見るところ入り口などなく、雑然たる危険極まりない工事現場が金網の向こうに広がるのみ、あたしは老いの汗を流して歩き続け、降りて行って、網が途切れたところで道もないのに無理やり敷地に入り込みました。誰かに尋ねようにも、大きな機械ばかり人は遠いところにいます。穴にハマったり、ロープにひっかかったり、何かに挟まったりしないよう万全の老いの注意を払い、徐々に横切っていき、建物の裏に着きました。それからまた足元の不確かなところを渡って入り口に近づきましたが、どの扉が何やらわかりません。そこにはいかにも学生然とした若者が屯ろしていたので問題なく、涼しい建物に入りました。老いの汗みどろです。

ごった返しているロビーでしばしぐったりしていました。名前を告げると若い外国人の女性が「まああなた、どうして1級の試験など受けるのですか?」と親しげに言うのでちょっと気分が良くなりました。電話で話した相手だったようです。「だって最低1級と言うことですから」と卑下して、実は得意で急に楽しくなりました。あたしもまだまだいい加減な人間です。

驚いたことに、その会場ビルの隣の馬鹿でかい近代的な便利な宿泊所に泊まるのはあたしだけなんです。付き添いもないのはあたしだけなんです。中にはウクライナからきた家族もいて同年輩のおばあさんが試験を受けるので青くなっていました。あたしはあとはルンルン、と言うそんな感じ、珍しいことでした
何棟もある宿泊施設は不必要なほど至れり尽くせり、孤独な一夜、ほとんど眠れずにいると、隣から面白い音楽が聞こえてきました。後でわかったのですが、それは職員の一人だったのです。


その調子で、問題なく試験を終え正しい臨時出入り口(それは昨日の立ち位置からいうと右方向だったのです、上り坂)から出たところで、焦った様子の乙女が入り口を尋ねてきます。待ってました、と言うごとくあたしは正しい道を指し示しました。珍しく自分へのご褒美、とは思わなかったけれども時間があったので、ちょうど駅構内で座っていたところがお店の前だったこともあり、生まれて初めてマニュキュアをしてもらったのでした。美しい鴇色の。カメラにたくさん自分の指を納めました。


(5/29 時々微笑を抑えられぬ、神といつも共にあれば、歌おう、踊ろう、この身に集中しよう、聖霊の流れるさまを感じよう、それのみが真実で大切なこと。他の何も重要ではない。髪を切り、爪を美しくしてもらう。まだ衰えぬ2箇所ゆえに。自分へのご褒美的に。自身の努力も必要らしい。慌てずに諦めずに理性的に努力を続ける。)


あたしが留守をしたその日に、テレコムから技術者がきて、翌日5/30にはいい加減な男がケーブルテレビ会社からきて、ろくに仕事もしないのに値段ばかり口走って時間がないと帰って行きました。先のテレコムの男も時間に追い回されて、客に怒鳴られていたとか、誰も必死なのはわかるけれどもこちらだって必死なのです。この問題はあとあと尾を引きます。

(6/6ところで、神の思いも掛けない技に驚かされる、というシナリオを自分が欲したとしたらそうなるだろう、お任せという気持ちは神の手段を待つということだが、これと自由意志の関連は? 単に己がそれを楽しんで欲するかということなのか?ところで転生の長男に出会いその子の視点から描く小説はどうだろう。書くのが楽しそうだが。)



数日、梅雨のように雨が続いた。JBの様子は相変わらず紫鬼のようで象のようで怒鳴る元気は無いようだった。その日は薬局に二度も行くハメになり、左脚が痺れる、心臓は動悸を打つという状態だったのだが、ちょうど計算され意図された時刻にあたしが近くの角のセコハン店に近づくと、何かヒョロヒョロと情けない音がする。
あれはひょっとしてオカリナでは、と見ると、軒下のちょっとした場所に金髪の男が膝をつき、それは楽譜を見るための姿勢だったが、首に紐でぶら下げた珍しい赤いオカリナを吹いているところでした。なんとなんと。

私はすぐに近づき、話しかけ小銭をあげました。別に容器がおいてあるわけではなかったけれども。それからオカリナを持ってまた行きました。何か一緒に吹きましょうと言いました。30歳くらいの男は満面の笑みをたたえていました。荷物が多いので浮浪者だろうとは思いましたが汚い感じではなかったのです。

あたしもまだまだ初心者もいいところで、なんと彼はまだ初めて数週間、毎日練習はしているとか、合奏はなんとかできました。ところが、姿勢が悪かったせいか、歩きすぎたせいか、あたしの心臓が早鐘を打ち始め、手足から力が抜けて行く感じになりました。不整脈の症状です。

そのせいであたしは這々の体で、サヨ先生のCDをあげてさようならを言わなくてなりませんでした。あとで大家夫人が「あ、それはヨーハンだわ、お祭りで手わざを見せてくれる」と言いました。彼女に本当はあげるつもりだったのです。その日彼女もとても親切だったけれど。


(6/15 (2週間も飛ばず泣かずだったか)この心身を包む実在、叡智へ、粋な計らい、降って湧いたようなオカリナマン発見。流れが計算されていて、心がそのように動いた、雨も利した、すぐに決心した、この人にCDをあげなくてどうする!と。星のような青い目と笑い合った。浮浪者らしかったのに。)

タイトル「光はプラスマイナスで進む」


通し番号十五
(副題)さらなるネット問題と帰国までの騒動

ーーミュンヘンへ移動、とんでもない離陸ーー

その後は楽しみにして思い切って買ったテレビに悩む日々が続きました。待望の大型4Kなのにチャンネルは山ほどあるのに、リモコンは使い勝手が悪くすぐに接続できませんと言ってくるし、かと言って叩くには薄すぎるのでソケットを抜き差ししてみて、それが意外にも当たりだったりして、さて調子が良くて見ているとさっぱり聞き取れない。耳が悪いのか機械が悪いのか。日本語だったら笑える微妙な言い回しがわからず面白味がないなど、時たま出会う大自然などの画面に吸い込まれそうな例外を除くとがっかり現象でした。


もちろん、6月25日という最初の離陸予定はフランクフルトのルフトハンザに電話して30日に延期してありました。こんな重大な話でもあたしが電話するという情けなさ、それが何とか通じてしまうので、JBが電話上手じゃないかなどと抜かすのでした。

ともかく、今回はスーツケースの数が少なかったので車椅子介助のみ申請して、23日にもうミュンヘンへ列車の旅となったのですがここでもフランクフルトで乗り換えがあり、待っていると何と接続列車が運休になったというのです。もちろん介助の優秀なおじさんおばさんが無線を使ってちゃっちゃっと車椅子専用座席を確保してくれました。JBは黙ってじっと断髪の髪を晒して座っています。すると色白の彼がご婦人に間違われたりする始末。

ミュンヘンについたものの、ホテルが駅のどちら側なのかそれが問題でした。タクシーを使うには決まっているが、どちらの出口か、昔から知り抜いているはずのJBはぼさっとしています。
ホテルの名前を聞いたおじさんが思い当たるらしく、よし、このまま押してゆこうとさっさと先にJBを運んで行きます。悔しいことにスーツケースを持っているだけではなく、もう足運びの遅いあたしはとてつもなく遅れてしまう有様でした。おじさんが時々待っていてくれます。実は本当に目の前だったのです。
そんな便利なホテルを私は選んでいたのでした。まさに若い旅行者のための一夜限りのホテルです。ここに連泊というのは珍しい。


翌日はまた銀行との予約、というか住所などの変更の確認作業。昔を思い出しながらちょっと車椅子散歩などするともうあたしの手首が痛んでたまらずお腹で押して行くのです。


夕食は、普通あたしが道路を渡って駅構内でこれまで食べるチャンスのなかったミュンらしい食べ物を買ってきたり、あるいはJBがうまく目覚めていると昔美味しかったイタリアンアイスを食べに言ったり、豚の足を食べに行ったりやや旅行者気分を味わうのでした。

その間はもちろんのように唯子さんが付き添ってくれ、はとこの知人に借りていた車椅子を一緒に返却するのまでついて行ってくれました。空港リムジンバスで乗って行くときも彼女が付き添い、旅行慣れしているので世話を焼いてくれ、写真もとったりして、普通にじゃあね、バイバイと別れたのでした。


ところで、実は、ホテル内ではあたしはネットを使いっぱなし、というか電話しっぱなしでした。というのも、30日のその変更便が車椅子介助など本当に頼めているのか、次第に心配になり、サイトで確かめ、大丈夫らしいと見て取り、翌日もう一度見ると今度は全く予約が取れていないではありませんか。

そんなバカな、昨日は確かに書いてあったのに!!!
帰れなかったら大変です。3ヶ月の旅行ビザが切れてあたしはドイツで逮捕されてしまう。
JBは一人で残ってしまう。
またフランクフルトに電話してルフトハンザで尋ねると何が何だかわからない様子なのです。
たまらず日本のルフトハンザに電話、しかし時間が7時間ずれているのでその具合の悪さと行ったらありません。
しかし、一筋さんという練達の人に当たり、やはり予約されていないので、新たな便を探したが直通はない、デュッセルドルフで乗り換え、羽田ではなく成田着を提案してきました。
乗り換えは本当に困るのだけど仕方ない、と承諾。
「あした朝9時一番で電話してきてくださいよ、支払いの話をしましょう」 
ところが老いのいい加減さ、眠り込んでしまい、遅くにネットで確かめようとすると、何とまた予約が取れていないではないか!!!

もう真っ青、日本の翌日を今か今かと時計とにらめっこで待って即電話。
一筋さんはまだきてないが、クレジットカードの支払いをすれば確定して見えるようになります、と言う。そうか、フランクフルトの予約もそこまで詰めなかったので確定しなかったのだ!!!

日本で予約したときにちゃんとクレジットカードで支払ってあるので、いくばくかの追加料金がかかるとしても自動的に連携されるものと、はっきり考えていたのではなくさっぱり考えていなかったのでした。


そういう経緯の飛行機に搭乗するために唯子さんと別れたのでした。
そうデュッセルドルフヘまず発つのです。うまく座れました。
でも機械が具合悪いので検証するとか、待たされました。
そして珍しいことに飛ばないということになりました。

車椅子なので全部の乗客の最後に降ろされ、代替便は手遅れで、もう誰もいないガランとした空港内を介助の女性に押されてあちこちカウンターを周り、結局決定した便は、何という神の愛情か、羽田へ直通という理想的なものでした。

その前のはミュンヘン~デュッセルドルフ~成田とは大違いの便利さだったのです。
何と何と、やるわね、神様、と思って座っていると間も無く電子機器が使えなくなりそうでした。はっと気づく。
幸雄だ、もう今ごろは起きようとしている、私たちを成田へ迎えに行こうとして!! 
これでは全く会うことができないではないか。
電話、とりあえず幸雄に電話だ、できた、できたではないか、しかし彼は寝ぼけている、話が通じそうにない。
そうだ唯子さんの電話を待つようにと言う。成田ではなく羽田だと。

次はミュンヘン住まいの唯子さんに電話。東京よりはまだ通じやすい。
「唯子さ~ん、お願いがあるの、幸雄に電話して、番号はこうこう」
「えーまだそこにいるの。何してるの」
「飛行機が飛べなくなって羽田まで直航便よ、時間は云々」


ピン、と禁止のランプがちょうどついた。すれすれだ。

数年前の旅行の帰国時にもトラブルがあったなあと思い出す。モスクワ上空で理由は言わずに急にミュンヘンにユータンだと。クリミヤ半島関係で飛行機が消える事件が続いた頃だったかしらん。最後まで理由は告げられなかった。
おかげで一流のホテルに無料で泊まることができました。湯船が大きかっただけで大した違いを感じなかったのは、あたしたちが貧乏性だからでしょう。


(6/24この身を包む聖霊、叡智よ、一つ一つの課題を超越しつつ「苦境をも楽しむ」の元、予定の日が無であったとも知らず、しかしMrひとすじを遣わされ最適なはずの思わぬ僥倖として頂くことになろうとは。多くの波紋をくぐり抜け、不安を宥め無視しつつ、また呟く「苦境もない、本気にするな」この身は光)


羽田に着くと、息子が待っていました。
あたしたちには円がありませんでした。
口座にも入っていないのでまた息子に十万円借りました。
そして車で連れて帰ってもらいました。

家の中は、ドイツの話など知らぬげに、これまでの生活そのままが残っていました。庭はもうもうと草木が茂っていました。近所中が帰ってきたかやっぱり、という顔をしていました。このまま移住するとは誰も知らないのです。

6/30 光よエネルギーよ、帰国までの三日間見事なまでに暗転と好転を複数回繰り返し、人々の好意により、得たよりも一段と最適な航路へと手渡されて帰ってきました。ドイツが帰すまいとしているようにも見えた程に。美しい言葉を思い出すけれどもメモできない時が残念です。その一つを温めています)

この項 終了
東天
光はプラスマイナスで進む
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