時は流れ始めた、或いはあたしが進む、バートミュンスター まで

十一  心を鎮めて次の時、神と付き合いながらの異国の日々を次第に思い出そう
    その試みの一つ

  小品  「揺れる水面」      


  一話
 もし私が私について自由に、思う存分、隠すことなく話しても良いと言うようなことが起こった時があったとする。私は自分が神であることを誰にも気づかれないようにしてきた。人間の内で暮らしてみたいと言うただの好奇心、というか究極の好奇心、あなたにおいて私を感じたい気持ちが自ずと物質創造へと反映するのである。

 いつから自分を個別化して、人間の内に潜んでいたかと尋ねられると、およそ三万年くらい前、ということになる。つまり前に進む時間軸において、大脳の進化が現在の状態にまで達した頃である。

 すると瞬く間に砂つぶが落ちてゆき、人類の天才たちが次第に私と言う真理を追い詰め追いすがってきた。願っても無いことだ。無限という概念を人間が考え始め、数学という範疇で「無限プラス無限は」などという等式を扱い始めた。ここ百年のこと。

 大脳の重さと容量には一定枠があるが、そこから紡ぎ出される想像、イメージ、思考は
私に似て無限であり、無限大無限長、超無限ですらある。


 ところで、神である、と自白するからにはこの現世が誤解に満ちていることを考慮すべきである。特に、「神」についての誤解。人類は私、あるいは想像の私に対して様々な名称をつけた。今、私は日本語を話していて、かみ、という言葉の由来は、「隠身(かくりみ)」、つまり「隠れて見えない存在」からきている。「く」と「り」をも隠したのである。要するに、その意味は、人類には見えない、視覚のどこにも私から発する光子が入ってこないということ。死角である。

 つまり私は光を発しない、人類が鋭敏な機械を作り私を観察しようとすると、その瞬間にもうそこにはいない。消えたかのように見えるが、これは神の神秘的な秘密の部類に入るが、超超ミクロな粒子ですら私ではなく、ふっと波動となって霧散する。波動が私の動きである。一個ではなく、無限に、無数に、どこにでも存在する、あるいは存在すらしないが、在る。

 言葉の限界にぶつからざるを得ない。有無の概念を超えるのである。在りてかつ無きも同然だが、幻のような、「やや在るに近い世界」を(ああ、言葉の一つ一つが使いづらいことだ)無限に作ることはあったし、あるし、あるだろう。(この時間軸の人類的な一方性は私が課した縛りである)

 そうだ、たくさんの縛りをその幻想世界に作っておいた。有限であること、まずはこれが一番目。時間は光とともに存在し、空間も光とともに存在する。光の彼方は、漆黒であり無いも同然なので、有限である。

 それでも人類には十分に広大無限であり、この目の前の宇宙の仕組みを知る科学者こそ、従来の概念による神を信じないとはしても、自らが追い求める、解明しようとする相手である真理、宇宙の仕組み、法理の複雑高邁甚大さには愕然とせざるを得ない。ここに大いなる叡智を、見ざるを得ない。それは人類の肉体においても、またその特徴たる頭脳の仕組みにしても、複雑精緻な仕組みには学者こそ驚き呆れ、誰がこれを作りなしたのかと訝るのも当然である。とは言え、まだ単に物理的な真理というにすぎないのだが。

 道はまだ遥か。私にどこまで迫ってくるか、私のおいた縛りと解けの縁故において。

 私は意地悪でそうしているのではなく、人類を本当に私の実子として扱っているからこそである。(しかし本当の所は、誰でもその核心において時空を超え真理そのものなのであるが)



 この議論の出だしに戻ろう。誰が私に何を尋ねるというのか、とりあえず誰かが尋ねるとして、尋ねられる対象としての私が、無のように広大無辺、無限大ないしは無限小であってはならない。諸君と同じような有限の姿で描かれなければならない。しかしその姿を人類の文化にすぎないとして、信じない人間は増えている。宗教への疑いだ。ただ、無神論者であっても、知りたがっている。自分たちが真理を知りたがっていることの意味を知らないままだとしても。

 地球上のおおよその現状はこうだ。

 ネガティブなことにのみ注目して、まるで神が人類を苦悩させるために大脳を与えたかのように、この生の意味を問い、目的を問い、死があることに絶望し、不幸と不運を神に呪い、あるいは幸運を幸福を神に願って祈る。同じ神に、二つの対抗するグループが勝利を祈ったりもする。人類は殺しあう。どんな理由であれ。もっとも人類は助け合いもするが。あるいは無視したり苦しめたりいじめたりする。我が子を愛したりたまには殺したりする。向上心があるかと思えば怠けたり自暴自棄になったりする。それは運命のなす業であるとしか思えない。

 確かに、確かに、相対的ではあってもそれぞれが苦悩している、あるいは種々の理由で喜ぶ場合もある。




  二話
 人類の一人を俯瞰して、空間的時間的に眺めて観察してみよう。
 祖先探求家、とでも言えるようなひとかたまりの人々なら、インターネットを駆使してあらゆる情報をかき集め、十世代前の先祖グループを探し出せる。私にはもちろん、知識の全てが備わっているので、人類の最初の一人からの増加は逐一承知である。

 この手の祖先の数が思いの外膨大であり、重なり合っていること、個々に唯一無二である生命体の綿々たるつながりについては、二十一世紀、ほとんどの人類が学んだり、考えたりして承知している。

 それを踏まえた上で、任意に一人の島国の住人を今、みてみよう。この人物が目下のところ私なのである。

 魂はグーグルのサーチエンジンの完全版のようなもので、全て必要な時に必要な解決を知っている。が、ここで、これからここに書かれることの前提条件として私についての誤解の最たるもの、に触れておこう。

 キリスト教の聖書の創世記にはこう書いてある。全能の神エホバが言葉を発し、光が生まれ、そこから地球の生態系を作り、自分の似姿であるアダム、そしてその肋骨からイヴを作った。ライオンもうさぎも共に暮らして楽しかった。満足だった。美しさと叡智とは完璧だった。

 それから、堕天使である蛇が肉と頭脳を目覚めさせた。私は怒って、罰したそうだ。が矛盾したことも言ったようだ(そう書いてある)。
 アダムは汗して糧を得ること、イブは苦しんで子を産む事。
 だがその前に「産めよ増えよ、地に満てよ、地のものを支配せよ」とか妙なことを告げた、と書いてある。その解釈だが、おかしなことに、誰もオカシイなあとは思わなかったようだ。それを真に受けて、人類は肉欲、繁殖、殺生、権力、戦争、地球破壊へと突き進んだ。

 一方で、罪の意識と恐怖と不安から自由にならないままである。殺し合いや病気のせいで、肝心の脳を使った真理の追求は遅々として進まなかった。二千年もかかってビッグバンという現象と量子の世界をやっと知った。天才たちが身を粉にして探求した。

 そうだよ、人類よ、この遅さも神の罰だったという意見もある。余り知られていないが。
 心あるものの、永遠の悲しい問い、何故に我々は存在するのか、どうせ死ぬのに、苦しんで絶望して! 何故に存在するのか???

 しかし、人類よ、安心せよ、神は罰など与えない。神の辞書にはその言葉はない、その概念はない、そんなことを思いつきもしない。
 何故なら。。。。神の定義上、そんなことはあり得ない。不可能である。砂の一粒たりと神が間違って造ったものは存在しない。

 神は完璧無比、パーフェクトである。だから神と呼ばれるのだ。オントロジーではある。生物や人類を苦しめるためにこの世を造ったのではない。第一、君達は苦しんでいない。そう思っているだけである。苦しみのように感じるのはただの幻覚であり、仮想なので、ハッと目を覚ませば消える。百パーセント消える。無かったかのように。無かったのだ。

 数日前にみまかった白寿の老人がいて、兜太と言う変わった名前だったが、日々の瞑想として、亡くなった知己の名前を呼んでいたのだが、そうして、魂を呼び出して語ったりする三十年のうちに、人生の不条理への怒りにいくら燃えていても、死後の世界の穏やかさをしみじみ感じざるを得なくて、ついには生きたままで極楽往生したのであった。

 彼は俳句の名人であったが、人類が各種のエンターテインメントに血道をあげる気持ちは、創造者の私には当然のことである。現代におけるその最たるものとしてゲームと呼ばれる遊びは、今後ますます技術的に発展して、リアルか幻か区別がつかなくなるだろう。
 子は親に似るものだ。


 人類の感情、情緒の種類はそれほど多くない、と言っていい。複数の感情が混ざっていることも当然ある。
 その発生には一定のパターンがある。山本徹、というのが私が目下保護している質量体の名前である。言葉を使うとその傍から、記号学的問題が立ち現れる。この場合は、物理学的な説明が必要だろう。

 すでにかなり人口に膾炙しているように、原子核の大きさを野球のボールだとすると、原子の外枠は野球場全体に及ぶという比率になる。そこを光の速度で回転しているのが(余りにも速いので雲のように見える、見える?)電子であり、その空間は真空(何もないという意味ではない、そんな場所をも通過するようなミクロの素粒子もある)である。原子同士は電子を共有することによってかすかに触れ合い結合し、化学法則に従って分子となり、やや安定する。安定するとさらに結合を増やす。原子核の中にいくつの粒子があるかによって、元素が(元素表にあるような)規則的に作られ、各自の性格ができる。

 ある程度の塊をアミノ酸と名付け、二〇種類ある。それを組み合わせて生命の体ができるだが、その前に、ロゴのような組み合せの効く形をした塩基のうち四種類が選ばれて隣り合ってくっつく。そのくっつきが数回続き一つの遺伝情報を担う。違う並びで違う回数でくっついて別の遺伝情報となる。それが繋がって、、、二本螺旋、、、染色体、、、細胞核、、、細胞(ミトコンドリア細胞も)、、、七十兆個まで、肉体の各部分が遺伝子の、あるいは各種ホルモンの製造司令によってせっせと作られる。

 外との接触による情報のフィードバック、各臓器間の情報交換、見事な連携プレーだ。
 私ですら見とれるほどの大活躍である。
 みんなでみんなを作るのだ。そういえば、最近ロボットに優秀な人工知能を入れて人間まがいの動作をさせるよう発展していることについて、危惧の声がある。いまにロボットが自分で自分を作ってしまうだろうと。おかしい、生物の構成はまさに自分で自分を作っているのに。生体ロボット。

 ともかく、あまり想像もつかないとは思うが、肉体の基礎にはこの「真空」がある。総体的に、生物の体の基盤は原子核である。真空によって、エネルギーである電子によって取り巻かれている。その大きさは何と表したらいいのか、それは人類の概念では表現できない。

 実は、私は今「山本徹」の肉体を守っている、形成している、生かしている、のである。ただ、当人の意識においては私を認識していない。人類が探し求める真理も救いの神も自分の中にあるのだが、それを忘れている。というのもその状況が私の仕組みなのだから。


  ボク、山本徹いう生粋の関西人やけどな。人間、日本人、五五歳、それと生涯未婚、別に欲してそうなったわけやないけど。まあ、どうしてやろ、疑おてしまうんや、この女性が好意を寄せてくれはるのは本当にボクを知っての上やろか、ボクという人間に対する愛やろか、それとも結婚いう妥協やないやろか、むしろ? などと気を回しているうちに、同居の母も亡くなりぃして、親族いうたら割と近くに住んでいる妹家族だけになってしもうた。

 大阪大学を受験しようかと思うほどの成績やったから、まあ人並みの頭ではあったと思うで。仕事は中堅の自動車セールスマン、人と話すのは苦にならない質やしな、比較的楽しく過ごしてきたんや。いわゆるバブルも、はじけたバブルも経験した。一貫してサムライ魂、のような生き方への幼い、というか、純な憧憬が消えへんかったのは、家庭いう責任を持たんかったせいかもしれんけど、それの体現が合気道というものでな。

 合気道の開祖、ヒゲの長い、小さな盛平じいさん、やっぱ武道の天才やな。こんなに気楽に呼んだらみんなに怒られるわ。物理学と宗教をミックスさせた感あり。
 身体力学をよく把握し、攻撃者の重心をすっとずらすと、相手はもう自らを放り投げるしかない、骨を折りたくなければな。接点の一箇所に全身の力、あるいは気を集中させたらそりゃすごい力が発生するいう仕組みやね。気、て、まあエネルギーやん。見えない。でも効果絶大。ここから、ややミステリアスな、神的な部分が仄見えるやろ。

 え、誰に向かって話してるって? あ、あ、そうか、今はシュートさんや、ボクの頭の中のひょろ長いイギリス人。彼、合気道好きでな、ボクともちょうどいい相手、腕前がね。ボクやや英語できるからな、二人でああだこうだ、手の組み方を研究したり試したり、楽しいで。最後は畳の上でゴロンと転がる、その楽しさ! 

 戦っているように見えるけど、それは目的じゃないのんや。競争でもない、仮想の戦い、身体と精神、物理と形而上学との絡み合いの研究、うん、そうやな、かっこいいやろ。もちろん、もし誰かに突然襲われたら、とかボクの体験やけど、車に当てられたら、そこで日頃の反射神経が効くんや、あっという間に投げ飛ばしたり、車に飛ばされても猫のようにくるりと回転して地面にしゃがんどる。(まてよ、猫いうのはその割りにはよく車に礫かれとるなあ、そうか、あれは光が眩しすぎて身動き取れないせいやと聞いたで)

 山本徹は、咳払いした。つい嵌まり込んでいたシュートとの話を打ち切る。半ば気を失っていたのか。

 誰も知らない、自分に今何が起こっているのか。自分でもわからない、ただ背中と胸が痛んでたまらない。それをこらえようとすると、猛獣のような咆哮が喉から溢れる。それをやめることもできない。瞬時、少し痛みが和らいだとき、柔らかい微笑の顔が浮かんだ。どこと言って欠点のないブロンドの女の顔、それはシュートの奥さんの顔だ。シュートにはどこか、遺伝子の質の悪さ、よのうな部分があった。そう言ってはおこがましいが。彼女には彼には勿体無いような、上質の遺伝子を山本は感じる。シュートの異様なところについ引っかかってしまった彼女マリーに、ダグ・シュートはまさに彼女の上質なところに彼の遺伝子を送り込んだのだ。八歳の息子ハーッシュは天使のような声をしている。子供だとはいえ、わずかの時間で関西弁を自由に操る、それは大した出来であった。

 妄想の中にいるうちに、救急医がやっと診てくれた。大動脈が裂けかかっているのではないかという。裂けてしまっていたらもう命はなかったろう。

 不思議なことに、命拾いした山本徹にはしかしもう合気道は無理そうだった。 入院中はただひたすら安静、血流を正し、栄養バランスを管理され、山本徹の体は真面目に反応し、また浮世に戻って来た。

 合気道の道場に一歩入ったとき、彼は毎度発声練習をして、自分の声が響き渡るのを楽しんだものだ。実は彼には美声があり、市の合唱団で長く歌っていたのだ。そういえば、マリーの両親はともに英国ではオペラ歌手だそうだ、家で合唱するのだと聞いたことがある。まるで夢のような場面ではないか、自分がまだ結婚を諦めているわけではない、とわかっていた。

 しかし、とりあえず、どうしよう。会社では閑職扱いになり、まだ役に立つかどうか自分でもわからないのだった。散歩の代わりに、家の周りの土を掘り返して、畑を作ることにした。下手なりに大根、人参、ネギ、葉の物が育つ。妹に分けても余ったのは、近所の弧老の家に配って回った。どの家でも、爺さん婆さんには顔を輝かせて助かる~~と言われた。ふんふん、とそんな帰り道ではつい歌の練習をした。小さなボランティアか、と呟いて。

 リハビリも兼ねて、と思っているうちに、スーパーで彼らに頼まれた買い物もすることが次第に多くなっていった。昔、母が八百屋の注文聞きの若者に夕食の献立の相談がてら要な食材を持って来させていたのを思い出した。買うついでのサービスだった。
 近所を回るうちに、これまで接触のなかった人々のうち特に困窮している家が意外に多いと気づく、ここは大阪市の北側、ベッドタウンとも言える中流の洒落た中都市で、金持ちも山手には邸宅を構えていた。もちろん、山本徹の家も安普請の平屋建てではあったが。

 春先、山本徹は脇目もふらず、鍬を振るっていた。無心である。声がして、
「いつも両親がお世話になっていまあす」
と言う、同時に子供の声も
「いつもお世話になってまあす」
と聞こえた。誰のことかと思いつつ顔をあげると、小道によく似た母と子がこちらを向いて笑っているので、徹も自動的に笑いを返す。
「この先の坂の上、田村の娘なんですう」
と語尾を伸ばして言う声が若々しく響いた。色白でふっくらしている。それだけで十分だと瞬間的に徹は感じた。
 それが出会いであった。
「いい声をしてますね」
と徹が敏感に察して言う。
「そうですかあ」
とコロコロと笑う。それから田村の老夫婦からの情報で、かの子がシングルマザーであり、介護士をして子を育てている、その子は一年生だとわかった。妙に利発そうな眼差しが印象的な。

 冬の間の入院生活からやっと啓蟄の虫のように這い出たような気がした。特に死にたいと切実に思ったわけではないが、死ぬならそれでもいいと何処かで思っていた。両親はすでにあの世にいるし、この世に心残りも無いではないがまっすぐに心穏やかに生きてきたのを自分に褒めるような心持ちでもあった。

 そして、人の助けになりたい、もしできるなら、と感じている自分に気づいてもいた。何かが、さらさらと流れていた。特に努力しなくても目の前の諸々に心穏やかに、ありのままに接することの平安が徹の中にはあった。こんな自分を賜ったのは前世の因縁かな、とチラと思ったがまた忘れてしまった。

 まあ、ボクの顔はノーブルな方やしな、そんなに悪い印象は与えへんと思うけど、と山本徹はひとりごちつつ、三十過ぎくらいに見えたさっきの母親を思い描いては鍬を振るっていたのだが、恋の始まりのような高揚した、あたりの色合いが変化したような気がするかと気をつけていても、それほどでもなかったけれども、それでもわずかに幸せな気分ではあった。脳の扁桃体あたりにある恋愛の、というか性愛のスイッチが入らなかったのはそれは年齢のせいかもしれんなあ、とまたひとりごちた。

 昔、性愛関係ではお互いに満足していたが、感情関係では、というか人格関係では最悪という相手に出会ったことがある。女の動作や、言葉、意見、考え、反応、嫌悪感と非難の多さ、否定的な悪意に満ちた判断、食べ物の好み、色、自然、動物への好き嫌い、どこにもうなづきあい、微笑み合い、認め合って親しく尊び合うという接点がなかったのには参った。第一、他者を認める、仲良くしよう、という態度がゼロだった。世界中を彼女が呪い、呪詛と憎悪のことばを吐き続けるのを、徹が我慢していなければ一日として付き合いは続かなかっただろう。 有り体に言えば、嫌いなタイプだった、おそらく彼女の方も徹のようなやわで優しげな、人の良すぎる男では物足りなかったはずである。しかし、神の言葉通りに性愛のホルモンはバンバンと出ていて、生命を、人間を突き動かすのみ、そこに本来は選り好みはないのだが、一つおそらくより良い遺伝子を選ぶ、という生存競争上の戦略が隠されていて、時に、性愛の相手が一人に決まる場合がある、それを恋愛と呼び、文化的にロマン的な結びつきと思わせ、子を育てるのにふさわしい環境を整える一助とするらしかった。徹はそう教わった。文化人類学などをまあ、いい加減な気持ちで専攻したからであったが。

 要するに、もともと誰でもいいから性愛が満たされて、日常生活であまり齟齬がなく、できればにっこりし合うほどの相性の良さがあればもう満点なのだ。あれ、どうしたんや、自分? 山本徹はあまりに適当な自分に驚く。かなり気難しいここ十年であったのに。

 そうやな、執着、依存、それが問題ちゅうわけか。恋したら執着する、嫉妬する、愛されたくなる、所有したい、所詮そういうことやったんや。人間の品を落とす、、、どうしたんや、この悟りみたいな考えは? 死にそうになったおかげで? なんか憑き物が落ちてしもうた? ようオカンが言うてたが、人生はあざなえる縄の如し、となあ。ところであざなえる、ってどんな漢字やったやろ、帰ったら調べよ。

 採れたばかりの大根を数本、新聞紙でくるんだのを箱に入れて、ちょうど自転車でコンビニに持って行くところだった。夕闇がおりて、空の色がすみれ色だったし、上限の繊月が西空にかろうじて引っかかっているのを見ながら、人気のないのを幸い、ちょうど3月のコンサートの演目に決まったイタリア語の歌を口ずさんだ。まだ完全には覚えていない。

 山本さあん、と声がかかったので、山本徹がキュッとプレーキ音をさせたのはセブンイレブンの手前の歩道であった。まだ寒さの真っ最中なので、路地や道端に雑草一つも咲いていないが、人間の花の笑顔がそこにあった。一回り小さな笑顔も添えて。

 笑顔はいいもんや、と咄嗟に感じた。田村さんの娘さんは、先ほどは、と言い、昨日はまた母がお世話になりましたそうで、と新たにお礼を言い始めた。アハ、いえいえ~と山本も言う、お互い様ですよって。これ何?と子供が、よく見ると男の子らしい、女の子のような感じだったが、よく見るとどうも男の子だった。子供は、自転車の荷台の箱を突っついている。これこれ、と母親が注意する。
「これな、大根が入ってるでボクが作ったやつ。送りに来たん」
と半ば母親に説明したのだが、子供は少しも納得していない、さらに
「どうして、誰にぃ」
と尋ねて来た。その子供らしい押しの強さについ母親も笑ってしまっている。その程度の反応が山本は好きだ。子供に躾が厳しすぎるのは見ていて心が痛む方だった。
「誰にってか、え~っとおじさんの先生にや」 
「先生って誰~?」
 母親がまた笑っている。息子の頭を少しさわりはしたが口では咎めなかった。 
「吉田先生」 
「へえ、何の先生?」 
「合気道の先生」 
「大根好きなの、その先生?」
 そう訊かれるとは思っていなかった山本は不意をつかれて、どもった。 
「大根、大根、嫌いっちゅう人はあまりおらへんで、第一採れたてで美味しいはずやし」「ふぅん」 
「キミ、大根好きか?」 
「大根、、、まあ料理によるよね~」
 このもっともな返事に大人は笑い出した。

 それから、コンビニに双方入っていき、用事を済ませる。山本徹は弁当を買い、母子も夕食らしきものを買っている。それとなく見ていると二人分だ。そういえば、と山本は思い出そうとする、田村さんの奥さんは確かハーフとかで、二人には娘と孫がいるが、別に住んでいるとかだったかいな~、記憶は確かではない。

「では、どうも」
と、山本があまり厚かましくないように遠慮してさっさと済まそうとすると、母親が答える前に
「またあしたもくるからな~」
と、子供が言うので、
「お。そうか、じゃ採れたての大根あげるさかい」
と思わず言ってしまった。母親の方は可愛くて仕方ないというように、我が子をまた撫でながら、ころころと笑った。
 なかなか、最近ないようないい感じの人やなあ、と思う。神さん、と人間の癖で、大空を見上げて語りかけた。ありがとう、どうも、いつも。いいプレゼントまたいただきました。山本徹の意識は自分がそうつぶやく声を聞いた。



 私、大きな神、太神であるが、は決して手は出さない。いわゆるちょっかいは出さない。全ての決定は人類の自由に任せてある。その結果がどうなるかは決まっているが、取り立てて良いとも悪いとも言えない。どっちにしろ最後は大団円である。最初からそうだ、大団円でないことはあり得ない。この私が唯一の存在なのだから、全ては最初から永遠まで完全無欠、パーフェクト、間違いなし、極楽浄土なのである。これには大いに不満の声が上がることだろう。何万年にも渡り、呪詛の声が上がっている。これだけ神に祈っても何のことも起こらないではないか、と。

 しかし考えてもみて欲しい。先にもすでに触れたことだが、神に願いをかけても、相反するチームの願いが同じく勝利であるなら、どう頑張っても半分はがっかりする。勝負事や戦をしなければいいのだが、まあしてもいいのだが、勝ち負けにこだわってはいけない。楽しく勝負するならいい。結果がどうであれ、楽しく遊べたことが素晴らしいのである。

 そして肝心な点は人類がそのことを思い出すかどうか、であり、もちろん覚えているのだが、表面意識のバリアーを超えてまさに今、現在、そのことを思い出せたらしめたものなのである。

 ところで、この山本徹君が人生の達人になるための準備を私はちゃんと整えておいた。大病に際して泰然自若と応対したのは見事だった。心に引っ掛かりが少ない、執着の少ない環境と生活が役立ったのである。これはイエスの言葉にすでに現れている真理の一つ、この世を動かしているシステムの仕組みである。そして彼は頼りになる暖かい家庭を思い描いている、諦めずまっすぐに決めている、その幸せの可能性を選定している。

 そうであればまた、システムのもう一つの仕組みが有効になり、同類の同種のものが集まるようになる、自ずと。彼の願いは具体的な形を取り始めるだろう。しかし、その幸せをより確かに体験するためには、第三の仕組みが働き出す。
 禍福は糾える縄の如し、と私が彼の母親に言わせたごとく、光と対照的な闇が姿を表す。それを克服して初めて光の輝かしさが一層身に沁みる。そのような法則がある。

 一見私の意地悪のように思うだろう、神ならさっさと幸せにしてくれ、と思うだろう。それは神の概念の履き違い、勘違いである。神は、私は完璧であるので、不幸せな存在は創らなかった。聖霊である私と表裏一体の物質宇宙が不完全であるわけがない。人類の意識にそう見えるだけだ。人類は真理の美しさ、完全さを忘れて生まれてくる。それも私の意地悪ではない。

 私の愛をたっぷりと受けて、それ自身完全である分身たちが遊べるように、ちょうど人類が架空のゲーム世界でハラハラして遊ぶように、遊び場としての幻想世界をこしらえたのだ。ただ、その仕組みや法則がわかっていては、本来の自由意志を発揮できない。自由は無制限の愛と一対である。

 最初から満足が与えられていれば、大した体験にはならない、普通のこととして慣れてしまう。しかし、その前に克服すべき暗黒が現れると、それとの対象によって、自由と選択を通して、本来の目的である光明が強まるはずだ。つまり、人類の行動の責任は、一見暗黒に見えることが現れても、山本徹君の大病の場合のように、あまりそれに拘らないで行き過ぎさせることである。相手をあまり憎んだり、追いかけたり、思い出したり、不安がったり、悔しがったりしない。現状を受け入れる。できればこれくらいで済んでよかった、ありがとうございますと言ってもらえるといいだろう。

 まあ、それとても、私と人類の遊びではあるが。彼らは知らないけれども。遊びだがしかしこの遊びが真理の遊びなのである。実はみんなわかっている。ただ生まれるときには忘れることになっている。

 人類が私のあり方を想像しやすいように、こう記してみよう。私は存在する全てであり、私はエネルギーである。真善美の全てであり、無限の愛そのものである。人格ではなく、人間の想像は及ばないのだが、なんとかぼんやりとでも想像してみてほしい。

 そんな神がいわば鏡を覗く。いわば湖面を覗く。
 自分を写してその完璧さをみようとして。私の唯一の願いである。
 鏡の中は幻である。そこには私の小さな似姿たちが活動している。真善美を体験しようとして。
 影や歪みを事前に経験しては真の愛を感じて歓喜する、ことになっている。

 人類が永遠の問いのように謎を追いかけている、その謎の答えである。

 人類存在の理由は(全宇宙も含め)影を押しのけ、一歩一歩とより高い境地に達することである。影に気を奪われてはいけない。それから死を恐れてはいけない。死は恐れではなく待ちに待った喜びの、真理と神とに出会える機会なのであるから。

 かと言って、この幻想世界が修練、ないしは試練の場であるわけではない。真理を思い出しさえすれば瞬時に問題は解決するようになっている。この種の大問題に関して、「死すべきもの人間」という有名な言葉があるが、死を意識する人類には苦しみがつきまとうのは確かであろう、しかし、死とはなにか、死の様相と死の感覚は、これまでの想像を大いにこえている。極楽浄土という想像は当たっている、それは保障しよう。



(ん? 何かおかしいんとちゃうか) 山本徹の胸が一つトンと鳴った。旧姓に戻って田村かの子となっている彼女が頻繁に両親を訪れていて、それはたとえ出会うことがなくても徹には喜ばしいことだったのだが、夜遅くまであかりが灯っていたり、男の怒声や、子供の泣き声が風に乗ってふっと聞こえることが重なった。父親の田村の爺さんがそんな声を出すわけはなく、別に暮らしている息子のなんとかいう人も見かけただけだが愛想の良さそうな人柄である。

 そや、と、所在ない時外国のテレビドラマをよく見ている徹には曲がりなりにも思いつくことがある。(ひょっとして前夫のドメスティックバイオレンス?)(接近禁止令? 日本にもあるはずやが)と思って外を見透かしたが、その夜は静かだった。次の日の夕方、坂を早足で降ってくる田村かの子の姿があった。笑ってはいない、そのまま徹に会釈して去っていこうとするのを、
「ち、ちょっと、ちょっとあれですけどね、万事オーケー?」
と茶化した風に尋ねてみた。ドラマの真似になってしまった。

「あ、あの、今夜ヘルパーの夜勤で、私がね、子供をこっちに預かってもらおう思うて、急いで行くとこで」
 無理な笑顔になっている。
「そうでっか、気ぃつけて」
と見送ったが、自分こそ田村家の様子に気をつけようと思うのであった。

 寒い夜になった。十時ごろ、いきなり大声が北側から聞こえたので、徹はすわ、と立ち上がった。気が良くて、人助けを気軽に始める性格であるのは知っている。しかし今回は田村家ということもあるせいか、どこか胸が潰れるような不愉快な気持ちを感じて、山本徹は大きく息を吸った。

(ボクは合気道の黒帯二段や、というのはかなりのものや、けど何しろ大動脈が壊れかかっている身であるなあ、それがこの変な気持ちと関係あるのやろうか)きちんと動きやすい靴を履き、身に添った上着を着た。人助け、は代償が、自分がその時に得るものが大きいのだ。それは自己満足かもしれない、と冷静に判断している、しかし今は、妙に不安だった。無力感さえあった。(おかしいで、ちょっと。どうしたんやボク、いつも鷹揚にしてるやろ、こら、)突然「くそっ!」と心から言葉が出てきた。「くそオヤジめ!」


 だ、誰や、くそオヤジて、、、母親が亡くなってからは、すっかり忘れていたはずの記憶だったのが急に噴き出してきたらしい。

 典型的だった、酒、母への非難、叩く音、母の息遣い、それらを隣の部屋で聞いていた。母を守りたかった、小学一年という自分が不甲斐なかった。恐怖と怒りで小さな拳が震えていた。幸いにも、オヤジは家を出て、どこかで行方もわからなくなった。そうかあ、いわゆる抑圧してたみたいやな、ボクも。心理学の本も読んだことがあるし、テレビの教養番組などでも知っている。オヤジがいる間は、安心して母親に甘えることもできなかった、むしろいつも見張っていたのだ、だれかが危害を加えないかと感じて。
 徹は少し自分に混乱しながら、でも、お母ちゃんは安らかに亡くなりはった、それでボクもそろそろ気が落ち着いたはずではあるけど、と忙しく考えを走らせた。


 目の前ではしかし、二つの影がもつれ合っていた。田村さんと大柄な男がお互いに腕をつかみ合っていたのだ。
「どしとんのや!」と徹は思わず怒鳴った。
「お前、お年寄りに何しよんや!」
「関係ないやろ、すっこんでろ!」
「暴力に関係ないはないぞ」
俺の子ぉや、返せ、会わせろ、ゆうてんのんじゃ!」
「そんな様子では無理やろ、たとえ会わせてもいい、思うても」

 男は短気らしく、徹に詰め寄って来た。
「一応ゆうとくけど、ボクは合気道二段でな」
「俺かて空手やっとったんや」
「武道するもんが老人を掴んでどうする!」
「こいつ、関係ないわい!」
と、叫ぶと同時に、徹の胸に向かって、かなり鋭いつきが入って来た。

 稽古からしばらく遠ざかってはいるが、伸びてくる相手の腕に添うように、徹の胸が半身になって、それを避けた。同時に片手が相手の腕に上から触れた、別の手は相手の脇の下にずずっと入り込む。肩が寄り添うと、男の重心はもう前倒れになり、ひとりでに前にタタラを踏んで走り込んだ。危うく土手から落ちそうになり、男はかっとなって振り向くと、両手で襲って来た。

 徹はそれを下からポンと跳ね上げ、ついでに両腕を大きく開いた、しかしその高さに左右の高低があるので男の重心がまた偏る。慌てて元に戻そうとする力に、同じ方向に徹の腕の力が加勢したので、自分の加速力で飛び出そうとしたところを、引き止められ、今度は大きい円状に遠心力で引き回される。そこでまたそれを防ごうして、男がまさに抵抗した方向に徹の力が加わり、もう頭から倒れるほかなくなってしまう。頭をぶつけたくなければ、徹の力の導くままにでんぐり返しをして転がるより他ない。

 でんぐり返しの練習は空手ではあまりやらないので、男はしたたかに腰を地面に打ち付けた。戦意喪失。ちょうど呼ばれて、自転車で警官が到着、一件落着。


 ほんとは、もっと英語でうまく話せたらいいんやけどね、シュートさんの奥さんのマリーさん、お世話になりました。ボクが勝手に憧れて、多分恋心みたいな気持ちになってしもうてたんですが。ほとんど知らない人を恋するなんて妙なことやとはわかっても、わかっても心が、頭が暴走しよるんですな。アホらしいエネルギーの無駄。ま、とんでもないことに発展する前に、かの子さんが現れてくれてほんま助かりましてん。

 これはもう太鼓判でっせ。万に一つの快挙に当たったとしても、元々が恋心は利己的やないですか? お返しが欲しい、愛を返して欲しい、そこにしか目的はないんですから。
 もちろんボクはかの子さんが大好きやから、暴走ポイントへと切り替えるのはできるでしょう。いいや、そんな阿呆らしいことしまへん。ソウルメイト。彼女の幸せがボクの願いです。其のためなら身を引いてもいいんです。(身を引く、というほど近づいてはおりまへんけどね)彼女が頑なだったり、意地悪だったりしたらボクもこんなに好意は持ちまへん。

 あ、ちなみにボクの武勇伝はお聞きでしょうが、投げ飛ばしたというてもかっとなったわけじゃないですからね、ちゃんと良さそうな場所を見て転ばしたんでっせ。

 なぜか女性と深い縁がなく若い盛りを過ごし、辛苦を共にした母親の他界、自身の病、道ならぬ恋心、乱闘騒ぎ、悪いことを数え上げたら確かに不運ばかり、「と思うやろな」と、山本徹は妹の冴子にいきなり言って、一人で頷いている。
「そう思うやろ、冴子も」
「は? なに急に」 
「いやナ、ボクの人生不運ばかりみたいやろ」 
「まあな、わたしかて似たようなもんやんか」
「でもダンナも子供も授かったしな」
「まあね、少し強運や」
 強運というほどでもないが、と山本徹は心のうちで笑った。世に妹のいる男はたくさんいるだろうが、勘が良く愛情豊かな妹がいてくれることはこの上なくめでたい、と言わざるを得なかった。

 いわゆる不運と不運の間には、しかし例えば最近ではかの子さんとの交情があり、これはもう最高なのだ。シュートさんには男の友情を、マリーさんには恋心を、感じた、これも美しい出来事であった。病の前には合気道という深い楽しみが付け加わって、人の体と人の精神、さらにその奥の何かの意味を思わされ、形而上学的な人生の味が加わった。
 その前からずっと母親の病気と死の間も仲間で歌うことができた、歌うのは実によかった。何よりも、人生の良いことを感じて忘れず、真剣にそれらを数え上げ、ありがたく、感謝の気持ちまでになること自体、とんでもない幸運やないか。
「でっしゃろ?」とまた幻のシュートさんが徹の話し相手である。


 大げさに言えば、娘ほどの歳の差があるかの子と結婚までするのかどうか、形式はわからないが、今後もずっと交渉が続くことを二人ともに願っているのであった。会うのが楽しみで、会うことになると嬉しく、会うとただただ楽しく充たされると彼女が言うのを、徹は完全に己を解き放って聞いている。自分もそうだと返す。疑いや不安はなく、親友のようで、家族のようで、いつの間にか腕をくっつけあって並んで座っている。ふと気づくと暖かい若い腕であった。頭を寄せ合うとまるでカップルのようだ、しかしそれ以上を求
めて焦がれるのではなく、すでに十分に幸せであった。
「なんやろな、これは、この感じは?」 「そうやなあ」 
「世間の瑣事とは縁遠いなあ」 
「世にも稀、という」 
「だいたいボクらはずっとそばに暮らしてたんや、でもいつもお隣の小さな女の子やった」 
「なあ、今夜あたし夜勤外れたし、おうちへ泊りにいこか」 
「いいで、そうしよう。どうなるかな、ボクら。どうなるにしても幸せな気持ち、それは間違いないし」 
「ふん、そうそう」
 その後、すぐに肉体的に結ばれたわけではなかったのも面白いことであった。どちらも性経験のある大人でありながら、いわゆる性的絶頂のみを目指していないのである。あれこれの段階を楽しんで踏んでいった。そこまでのところでなんら不満が残るわけではなく、次回、そこから少し新しい体験があるだけでおおいなる充足であった。
 田村さん夫婦は二人が熱々だと笑っていた。近所もそうみなしていた。が、そんな関係ではなかった。もっと熱々だった。



 人類の最大のテーマ、生と死と性と神について人類が編み出してきた考え、あるいは嘘は、少し私のデザインとは異なる。しかし異なるのもまた私のデザインである。人類のDNAを十分に混ぜて、種々のパターンが生じるよう、暴走する性欲を考案した。結婚という形式も老婆の長生きも子供の発育環境を考えての配慮である。
 ところで、完璧の神の存在は必要だろうか? このままのカオスでいいとも言えないか? 神という定義を創造したのは人類のその脳のみであったとか? あとは脳神経の構築した幻像であり、それでいいのではないか?

 しかし、その幻像世界の構造の法則が、一つには形而上学的霊的な仕組み、別には物質の法則(これは人類がかなり追求してきている、ほとんど神性とのすれすれの境界までに)、これらの二層の超絶的智慧と働き方が実在するのは事実である。そう言わざるを得ない。

 ホーキング博士が「神は必要とはいえない、神はいなくてもいい」とか、ややこしい表現を使ったそうだが、人類の欲する慈悲深い情愛に満ちた救いの神のあり方が存在するかどうかは、わからないはずであろう、それを欲するように造作したとも言えるけれども、とりあえず人類の感じかたは悲観的であろうとも、とりあえず法則だけで十分完璧に進行していっている。そうでなくては完璧の存在とは言えない。それは確かだ。

 法則は何一つ滞りも間違いもなく働いている。光の世界と物質の世界において、私は存分に存在しかつそれを感じている。それが神聖ということである。どう考えても結論は、唯一、神霊しか存在しないということになる。




「揺れる水面」
  第三話
 
 人間という言葉が示すように(当然ながら日本語でのという限定で)、出会いによって綴り合わされている「人生」だ。無垢の赤子にとってすら、すでにその両親との出会いが決定的な影響を(すでに胎児の時から)持つ。それを心の履歴書の第一ページと呼ぶことができよう。例えばあたしの場合は。

 と、書く気満々だったけれども、両親について書き並べてみても月並みで退屈なだけなのに気づいた。代表的なシーンを置くだけで十分かも。


 土曜日、お天気だと半ドンで帰宅した父も一緒に、おにぎりとお茶を持ってどこか、近所の公園に出かけたものだ。そこで写した白黒の写真にほっぺをピンクにするすべを母が編み出した。

 夕食、丸いちゃぶ台を4人で囲むと、弟が嬉しそうに言った。「うちはみんな可愛いねー、お父ちゃんもお母ちゃんもお姉ちゃんも僕も」私にも本当にそんな風に見えた。みんなが頷いて幸せだった。

 父がそんな時言った、「うちみたいにお父ちゃんとお母ちゃんが仲の良い家族で本当によかったんだよ」私は、その前後、近所で父母は一緒にお風呂に入ると言いふらして(自慢ではなく単に事実として)両親にかなり気恥ずかしい思いをさせたらしい。

 今から思うと可笑しなことに、少女のあたしには家事の手伝い、女性らしい身のこなし、花嫁になるという憧れ、など母からも全く刷り込まれなかったのである。それどころかあるとき、十歳くらいだったろうか、病気がちのあたしが、「将来は看護婦さんになろうかな」と言った時、父の反応は、「なんだ、看護婦になるくらいなら医者になれよ」であった。驚いたよね。驚いたことで、社会からすでに女としての洗脳を受けていたのが今ならわかる。

 そしてこの一言は、職業選択の壁を打ち破らせた。大学進学を控えての希望職種調査欄には、父自ら書き込んでくれた。「研究、思索的仕事」 これは父自身への願いであったのかもしれない。
 さらに、これまたややおかしいのだが、小学校の校長の朝礼の訓示?を覚えている。覚えているそのことがおかしくもある。それは「群集心理に惑わされるな」という内容であった。こんな内容を強く記憶していることもさらにおかしい。

 ともあれ、その時からまさに大海のごとき可能性が広がったのである。

(と、大見得を切ってみても所詮庶民の私であった。こう書いているのは、このアラサー時代の原稿を見つけた七十三歳の老婆である。こうして漠とした時の流れを見渡していると、この文章の一つ一つに形容しがたい時の分断をみざるを得ない)

 (また四十年余り昔に戻って)
 高校時代の、いや恐らく一生を通じての(確かにそうだがやがて影響を乗り越えた)一冊の本、それはロマン・ロランの「ジャンクリストフ」である。私は受験勉強そっちのけで、ページをめくるのが勿体無く思われたほどに、一行一行をむさぼり読んだ、のちに親友が「舌なめずりしながら」という読書姿勢を教えてくれたがまさにそんな感じで。私の目からまさに鱗が落ちた。人間の精神性、内面性の扉が重々しく開かれたのである。それまでのセンチメンタルな少女趣味はいつの間にか遠ざけられた。自分の将来の姿が、可愛く優しく女性らしく、とは想像できなかったなあ。

 と、オババのあたしは過去の最初をしばらく彷徨っていた、あの頃始まったことが今ここに繋がっているのだろうか、青臭い問い、人間がある意味は何?生まれて死んでどうするの? それがここまで続いている、やはりそうなのだろう。少しでも真剣に生きようと思えば。
 
 悲しみをたたえた眼差しの、左側の横顔を、つい正面から見つめたくて左に部屋を移動してしまう。その横顔がこの小さな、数百年の古い村の、特に壊れかかったペンションの一室に現れたとき、あたしは本当に文字通り目を見張った。

 イエスは岩山のような高いところに腰掛けて、あたりには野の花がそれぞれの花の形と色のさまにそよいでいるようだった。左手の遠くには満月らしき円形が半ば見えている。雲に覆われてもいるがその光の静けさは、あるいは心を寄せられたかのような優しさは暗い空の頼りであった。

 真っ白な長襦袢のような衣服の上に、暗い色のローブのおなじみの姿である。髪は肩に軽くかかるほどで、額を見せている。両手を膝の上で軽く組んで祈っているようだった。足は素足である。それが痛々しい感じに思われた。

 白い顔色となだからかな眉、どこか下に向けられた目元、鼻筋がほどほどであり口ひげが髪の色と同じである。こんなユダヤ人がいるような、いないような、柔らかくて優しい、何よりも悲しげである。自分の運命を思ってなのか、人々の感じている苦悩を哀れんでいるのだろうか、そのどちらとでも見る人によって解釈される。

 画家の名前は書いてない。名もない昔の、イエスを愛する画家であろう。今ここでこの日本人のオババに見つけられて、心から愛されてしまったその絵の中に生きるイエスの その心情と命と愛と信仰が、そよ風のように、その場所に吹き渡っている。

 いくら写真に撮っても、実際の色より褪せて見える。農家の寝室に飾られたイエスの姿は、妙なことにしかし、テレビドラマに出て来るルシファー役の俳優と似た感じがした。彼はかってないほどにこの八〇歳のオババの気に入った俳優であった。そのドラマでは、顔自体、と言うよりその設定のキャラクターと、もちろん神(悪魔ルシファーは神のお気に入りの長男?)とのエディプスコンプレックス的な関係が、悪と死と罰というキリスト教(善悪二面の功罪があるが、死に対するやや慰めになったのは人類の必要にかなったのだろう。これはわたしの注釈である)問題の探求者であるオババにとってはこの上なく愉快で興味深かった。

 そうか、このオババが今も、ここに至ってもかくもこの男、つまり夫だが、に引っかかっているのは神のプランであるとしか言えないのかもな。とっくに捨て去ったとしても、どこかでわかっていた、同じ無駄な時間がまたやってくるだけだと。またこの国に戻ってキリストに対面する、それがプランだったのだ。やっとそのための心の調整と準備が整っている。


 先日、いつものように変数XYZの未確定な一次方程式に捕まっていた時、あたしは自分の中にあるはずの、あるしかない神霊を感じようとして、一つの幻を思い描くことができた。

 神霊は光の存在である。光が全方向に発せられる、その末端には光の無い影が生じるであろう。個々の人類の担当である光の範囲は小さくて限定されているのだ。生じた影をお互いが感得する。それぞれが自分の感得した他の存在の影を見て、それが実在だと思う。そんな仕組みである。自分一人の感得世界しか知らないが、知らずにお互いに影響し合うのだ。そうして現在の地球のような総合的な、物質が仮想する仮想の物質世界が構築されるのだ。

 その上にまた一つ、人類が神の能力を発揮してしまったインターネットの世界が、仮想であり実在では無いのに実在化された世界が構築された。何というこの世の仕組みであろうか。問題は人類がそのことを知らない、意識していないということである。
 そもそも宗教は、教会は、いわゆる聖職者はこの仕組みを伝えるために存在しているのであっただろう。しかし何故にそれどころでは無い悪や愚までも犯すような宗教となっているのか、地上の権力欲、そんなものだろうか。聖職者は、こんなにまで人類を操り愚行へと仕向けていることが地獄行きに値するとは思わないのか、それとも本当は神霊の仕組みを信じていないのだろうか。

 あたしゃその時を待っているんだ。答えが湧いてくる、というか、答えを自分が思い出すその時を、逃さぬように。まあ、どうせ肉体が滅び、神霊として形而上学的世界に戻れば全ては明らかにわかってくるから、まあ、待てばいい話だけれども。別に焦らずに、、、、そうか、オババもさっさと死ねばよかったのか、健康に気をつけて長生きしてこの世で真理を知るまでは、などと思うのも愚だったかも。いやいや、そんなはずはない。何故なら、それでは物質世界の創造が無意味になってしまう。その意味こそ、創造の意味こそ神霊存在の意味と同義であるはずだ。神霊はそれそのものである物質世界において神性を実感しようとする。


 人生のいろいろな局面で、あたしは本当に呑気坊主だった、能天気だった、後ろ髪など引かれず意気揚々と前進して次のステージに登ったものだ、別に舞台に立ったわけではないが。

 子供時代に転勤ばかりの父について家族で各地を回ったときも、引越しが決まると、わーいと叫んだ。別に嫌なことが起こっていたからではなく、冒険精神と言おうか。高校、大学、就職、結婚、出産、ホイホイと喜び楽しみながらの人生に恵まれた、のであろう。それどころか、離婚してドイツにまで渡った。ここまでが上り坂だったかな。この後にも楽しく面白いことが起こると楽しみにしていた。

 そうではなかった。人に批判されたことなどなかった甘えん坊のあたしだったのに日々批判され怒鳴られるようになった。これまでのように行動することが今度は許されなかったのだ。七年我慢した、それも密かに相手を打擲しねじ伏せる祈り(実は相手の素晴らしい真の姿を拝み出すという趣旨であったのだが)によって。

 そこへ次の転機がきた。不思議にもまた日本に戻れることになった。夫がいい職を得たのだ。やっと暗いトンネルを抜けるのだと思った。

 しかし、そうは問屋が卸さない、という典型になった。あたしが死の床にいる父親に会いに行き、翌晩父が身罷ったまさにその刻に、ヤツは待ってましたとばかり女を作った。あろうことか男女として相性が良く、決して別れようとせず、あろうことか妻妾同居すら計ったのであった。その後に起こったことはただただ恥であった。不倫関係が終わったのは、ヤツが心筋梗塞を起こして入院してからだ。
 その後は、後五年の余命、と言われるままに、それなら、となお結婚を持続した。


 ある日の不吉な電話が、あたしの全人生を破壊した。前婚の長男が将来を果無んだのであった。親子関係は考えられないくらいうまく行っていた。ただヤツが邪魔だった、居るだけで邪魔だったのだ。あたしのやりたいことを邪魔する存在だった、それのみの存在。

 数十年して、やがて五年などではなく、すぐにも頓死、と医者に言われて、老後のための引越しをする羽目になった。その時も癖のように、どこか期待していたかもしれない、が勿論のこと、案の定、また不自由が極まったし恥も忍ぶしかなかった。


 そして、今、あたしとヤツは、八十をすぎたあたしは、重病のヤツを連れて、数歩歩けるだけで、紫色の唇になり息切れする薬漬けの男を車椅子に乗せ、スーツケース諸々と、全ての手配をドイツ語でしながら、ホテルからホテルへ、街から街へと、白刃をわたるような、神経のすり減る一月を過ごして、しかも目的を果たせないままでいたのだった。

 目的とは、ヤツを大往生させるためのドイツでの住まいを見つけることであった。

 誰でもがその無謀さ、無計画さ、不可能さ、絶望を知っていた。諌められ忠告された。あたしととりわけヤツだけが、そんな事実を知りたくなかった。実際はもっとひどかった。あまりに無知で準備が整っていなかった。おまけにヤツは入院することになったりした。医者は退院させまいとしたが、ヤツはその頑固な医者不信から治療を断り、病院を逃げ出した、というのも我々にはおまけに、ドイツでの健康保険がかかっていなかったのだ。

 あたしゃ妙に元気だった。新しい、より意味ある自らの創造の道を歩むゆえだったのか、あるいは不整脈の錠剤と精神安定剤コンスタン、それにヒアルロン酸とDHAプラスセサミンのサプリメントを真面目に飲んでいたせいか、つまりそれも自分の創り出した現象だったが、快眠快食快便であったし、ドイツ語を意外にも闊達に喋ることもできた。何語で話しているかわからないくらい自然でもあって少々のアクセントや間違いを自分の魅力にすらできそうだった。オババの魅力と容認されやすさを発揮。。。ふふふ


 ドイツ放浪生活、時に明日の宿も知れぬ日々が二〇日続いていた時、場所はドレスデン、さくらんぼやりんごやすももの花盛り、新芽の若緑、鳥の歌、暖かい日光が燦々と子供達の金髪に降り注ぐ、この世のパラダイスさながらの、視線が合えば微笑みを交わす人々、通りで倒れている人をみんなで助けようとする街角、そんなドレスデンに住むあたしの旧友と、彼女の不運に見舞われたにもかかわらず精一杯生きている夫に会うことができたにもかかわらず、彼らの危惧と助言(確かにヤツは十分に要介護状態三以上であろう)もすでに遅く全ての介護施設は満杯であって、しかもたとえ空きがあったとしても住民票も保険も病歴も記録されていない移住者に簡単な道であろうはずもなく、ヤツはやたらと毒づくばかりでその道をそもそも嫌がるばかりで、あたしは世界中からあらゆる方向から責めを押し付けられ解決へと動くことが要請されていたにもかかわらず、まず第一歩の次のホテル獲得に難儀していたのだが、それはなぜかというと、ホテルと言っても、まずクレジットカードを要求されず、キャンセルの余裕があり、ネット環境とエレベーターありという、この4点をクリアしなくてはならない、そのどれかが欠けてもおおごとになるから、それで時間に迫られて予約してしまったのを、後悔してすぐにキャンセルし、また後悔して申請し直す、その時にさらに介護施設を斡旋してくれる団体からの返事を待つのに、まだ泊まっているホテルにもう一泊延長可能か、をまず確認し、クリアし、それから日にちをずらして次の(と言っても単にヤツに押し切られただけの保養地であるが)ホテル、先にキャンセルしたばかりのところへ申請し直す、という不確定変数を一つずつ祈るような切迫性を秘めて決定していきながら、いつも絶えず、ヤツの体調という変数が全てをおじゃんにする確率も計りながら、死ぬことを願いながらあるいは今死ぬなと罵りながら、それが半日の経緯なのである。


 待っていた電話は来ず、必須の条件、心臓にその地の空気が良いという経験のある(と言ってもヤツの愛する祖母のこと)小村バートミュンスター を列車で目指すのであった。


 ネットで下調べしていた時間の列車がマインツまで行くので乗り換えるのだが、車椅子客をそれごと持ち上げる箱があるのでその手配をしてもらう。これは無料である。これは前々日に駅で行った。

 前日にスーツケース二つをホテルに送り出しておく、その時郵便局すらどこにあるかわからないので、ネットで探してタクシーで行くとそこは美容院が片手間にやっているところで、書付の方式が揃っていなかった。

 たくさんのタクシーに乗ったが、皆おじさんたちは親切であった。あたしは老女の魅力を利用してうまく立ち回り、うまく会話し、情報を得、チップを弾んだ。すると思い荷物を持ち上げてくれるのだ。

 思い出す、右の耳がほとんど聞こえないあたしには、ただでさえ困難な方言の違いはほとんど気にならなかった。何故なら耳に届いていないからである。適当に雰囲気でうなづいておく。本国人であるヤツはここにきてすら、あたしに頼る癖が抜けずぼんやりしているので、皆あたしに話しかける。ったく! 


 イエスに導かれたニュルンベルクのボロボロのペンションの大男が一泊延長を受け入れたのち、次のニュルンベルク市内のホテルの一見軽薄そうな息子が一泊延長を受け入れた時、不覚にもあたしは泣いた、そして彼を祝福した。

 全てにこんなに大げさに反応するのは、恩寵という感激を思い知るからばかりではなく、この世の仕組みの中で、こんなにも蔓延っているスマホなるものが、全くスマートではなく、国内しか通用しない、国際的に使うととんでもない料金となるのだが、当然少しやり方を工夫できるようにまでは進展しているが、そのカラクリがまったく理解できない、理解できないままでも使えればいいのだが、そうでもない、そういう日常当たり前の電話が、あるいはクレジットカードがないばかりに、あちらでぶつかりこちらで頭を抱えるのであった。

 例えば、ボロボロペンションの大男に電話するのに、公衆電話を見つけ、硬貨を入れ、番号を回して通じるまでにどんな苦労と冷や汗があったか、経験したものでないとわからないだろう。しかも一刻を争う、という状態で。

 遅れたら宿無しになるのだ。やっと宿無しを避け得て、ホッとした途端に気づく、大事な大事なヤツのインスリンをペンションの冷蔵庫に置いたままで、もう誰もいないので取り出せないということに!! 

 思えば、羽田を発つとき、前婚の次男が親切にも見送りに来てくれていたのに、インスリンを家の冷蔵庫におき忘れたままだったので、全員が青くなり、息子が車でかろうじて時間内に取りに行ってくれ、せっかくの逢瀬に話もできなかったのであった。憎らしいインスリン!!!

 そして、にもかかわらず全てを統率して進ませてくれた?多分?あの世から仕組まれたこの世の良き仕組みあり。

 そうそう、次男にはその後もお世話になった。
 例のあたしを泣かせたホテルの予約にクレジットカードが要求されていた(これは当たり前の現象らしい)のに、ヤツが入院先にカードを持って行ってしまっていたので、あたしのクレジットカードを使うほかなかったのだが、なんとその日本の口座にここ一月ほとんど入金がない状態だった。
 一計を案じ、次男に十万円借金した。彼がネットでなんとか私の口座にお金を補填したのだ。そうでなければ2千円ほどしか残っていなかった。上手くいったからよかったようなものの。


 小村バートミュンスター の、ホテルクローネのマネージャーは、低音のいい声であった。何度か電話してエレベーターや階段の様子を確認した。というのもそこは主に山登り好きの根拠地であるらしく、車椅子は考慮していないというのだ。どこに登るか? ツークスピッツェではない。

 二百メートルほどの切り立った崖のある岩山、ドイツではまさに奇観である。空の半分がそんな山で閉められたバートミュンスター、まさに珍しい。普通は低い丘と林が延々と果てしなく続くドイツの野原風景なのだ。

 ともかく、その空気の良さそうな高台のホテルクローネについたとき、あたしはどうしてか、本心から嬉しかったのでマネージャーにそう告げたのであった。
 リラの花がドレスデンと同じくらいの開き加減で何気無い風情でどこにでも茂っていた。ここに長逗留する覚悟はできていた。ヤツの好きなようにさせると。

 バルコニーから奇岩を眺め、あまりの景観に笑い合ってから、早速パソコンに向かう我々であった。あたしとヤツは思いを一つにした。ここで住居を見つける。それから日本に帰り、貸家を整理し本格的に引っ越す。

 あたしの母が半年前に施設で高齢で亡くなったのが有り難くさえ思われる。何故なら母を置いて日本を去ることはとても出来なかっただろうし、母が亡くなったからこそこうしてとんでもないことをまた始めたのであった。心配する人がいないので。しかも、あたしにはなき人たち、父母、弟、長男の気配が嬉しく感じられた、一緒にいることがわかった。

 それにしても、よく考えると今更ながら言うのも愚かしいが、なかなか無理難題であった。家を買うとすると、我々の予定三カ月では終わらないだろう、家を借りるとすると、クレジットカードの他に借金がない、家賃を怠ったことがないなど三種類の書類が必要なのに、その何一つ無いのだ。

 ヤツはバカだ。結婚証明書も忘れたので、あたしのビザは観光ビザしかない。むざむざと、無駄に大金を使って帰国する羽目になることは大いに可能性が高かった。先ごろ思いついて手続きした無借金証明はなんと日本に送られているはずだった。
 そこまで思い至ったとき、この現実はぶち当たって初めてわかったことだったので、ホテルに着いてから理由もない安堵と決意を感じたのちではあり、急に不意に強い絶望に襲われた。


 それでも、何もしないわけにいかない、二ヶ月間は帰国できないと言うチケットに縛られている。

 あたしはこの老いた体の中に一粒光を放っている神霊を感じようとした。とりあえずヤツを大往生させること、みんなに嫌われないであたしにも嫌われないで、少なくとも。

 これはあたしの練習でもあるのだろう、神霊の仕組みがそうさせると言うのではなく、あたしが素晴らしい仕組みにうまく合致していくための日々の一歩一歩なのであろう。呼吸するように。
 呼吸の目的がこの仕組みの認識であること。思考も行動も意識も。つまりいわゆる神霊以外に存在はない、それのみで、この物質世界もかの見えない世界もただそれのみで成っている。

 そうだ、もう一つ、ヤツが自分を愛し、母親を許し、みんなと世界と和解し、愛されていること、愛していること、愛のみがあることを感じることができるように、それが肝心のことだ。この完璧の世界の仕組みはまさに神業である。ただ我々の意識するものはかなりめちゃくちゃだ。ここをどう乗り越えるか。あたしなどにはわからない。できることをするのみだ。

 ここ、ドイツならざる、空気の澄んだ、海水の育んだ塩分の神秘に満たされているここ、ここに住みたい。今度こそさらなる坂道を転げ落ちたりしない、神霊との一体を忘れず、本分と実相と真性を思い出そう。ヤツに曲げられてはならない。



 到着は二千十八年四月二十四日水曜日であった。
 奇岩は窓からあたしを覗いていた。あたり中にある感嘆措く能わずと言うシステムを賛美するとしてもただ人類の見る不景気な様相のみが問題になっている。それが嘘であり、非実在であり、夢幻だと宣言する勇気は相当きつい。

 二十五日にはネットの最新の「仲介抜き賃貸情報」にホテルから数百メートルの家があり、応募には自身の紹介を書いてくれるよう要請されていた。流石にヤツが頑張って要請した。

 二十六日には見学、あれこれウマが合って内定を得た。階段があるのはヤツには避けるべきところだったが、余りに齟齬がないので相手の了承を受ける以外になかったのは何の手配だったのか。

 二十七日には契約書に署名し、こちらの申し出により一年分の部屋代を支払ったのであった。ちょうど同じ額を損失したばかりだという家主は、この奇遇に出逢う所以を持っていたのだろう。

 ともかく残りの時間をこの追及にかけようとして眠ったある夜、おとといのことだ。
 目が覚めて、驚いた。自分のミス、エラーが突然わかったのだ。あり得ない間違い、大ボケ、アホだあたしゃ。
 誰にであれ、何に対してであれ、心を開き神霊の光を感じ尊さに共感と感涙を捧げることができるようになったと言うのに、ただ一人例外があった。
 思いもしなかった、ただただあたしを苦しめ、不自由にし邪魔ばかりする人物がいて、彼も神霊の現れであることを全く考えもしなかった。誰あろう、あたしの夫であった。

 あたしは、済まないような気持ちで、改めて見るように横でいびきをかき、苦しげに浅い息遣いをしている夫をこっそり見つめた。真正面から見るのは気が引けた。横目でチラチラ見た。
 この男も神の光そのものであるのか。これは大変だ。あたしが変化しなきゃなんない。オーマイゴッド!

 これまでも同じことを読んだり聞いたりしたであろうが、初めて心の奥底に落ち込んだ。水面に映る岩山の姿、ある時は美しくそのままに、ある時は乱れて暗い、それが人類の感得する(と思っている)物質世界である。

 あたしにはかの子の生んだひ孫がいるんだ。本当に賢くて何かが違う。あの子を授かるためにこのダメ男(と思い込んで来たが)と娘を作り、婿の田村との間に孫娘かの子が生まれた。

 今、一筋の幸せの道を思い出したあたしの身内が、ささやかな貢献を周囲に広げていると思う。

 あたしだって、いく先々で全てを祝福して歩いている。
 自己満足、詮なきことであってもかまやしない。まずはそれが肝心である。

 死んだらもっと楽しい。     

                      「揺れる水面」了


東天
時は流れ始めた、或いはあたしが進む、バートミュンスター まで
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