誕生から死後までの意識(増補版)

第二章 NHK 「神の数式」 完全版 


第二章、NHK 「神の数式」完全版 4回 においての素粒子物理学と相対論の流れ


私は、数式や内容についての説明は自分の能力から判断して不可能です。


ここでは、「 神の数式 」に現れた気を付けるべきことを列挙しますので、ユーチューブを見られたあと、詳しくは学校の先生なりにお尋ねください。


一回と二回によって、標準理論の完成まで、三回で標準理論と一般相対性理論を結合した超弦理論、四回でその完成を描かれています。

 


<NHK「神の数式」一回目>


基本素粒子


電子(原子核を回る)・クオーク(核を作り出すもの)・ニュートリノ(クオークから飛び出すもの)


電磁力(電子を原子核に引き寄せる)・強い核力(二種類のクオークを結ぶ)・弱い核力(強い核力からニュートリノを飛ぶ出させる力)・それとヒッグス粒子


電子


ディラック


原子核の周りを周回する電子が、地球のように自転しながら、磁石のような性質を持つことがわかった。


これを、対称性を持った理論にした。(対称性は、見る人によって変化しないこと)


   対称性→回転対称性・並進対称性・ローレンツ対称性


ディラック方程式により、反粒子(反物質)が発見され、それは陽子その他の粒子の説明になった。


 


電磁力


オッペンハイマー


回転対称性・並進対称性・ローレンツ対称性にゲージ対称性で理論化


答えが無限大の数=時間と空間の両概念を変える必要性

 


朝永振一郎


くりこみの手法で、「 無限大 」を解消


 


<NHK[神の数式]二回目>

 


強い核力


チェンニン・ヤン


素粒子中の数がゲージ対称性


陽子と中性子のクオークが同一→非可換ゲージ対称性を加えた理論


 


非可換ゲージ対称性とは、


陽子と中性子、ある物体を回転させる時に、現れる二つの側面にすぎない。


ある粒子を回転させて中性子にする。


 


回転対称性・並進対称性・ローレンツ対称性・ゲージ対称性・非可換ゲージ対称性



パウリにより、強い核力が弱い核力を伝える粒子の質量はゼロになるから、力を伝える粒子の質量は何か?という質問(光子だけが質量ゼロと矛盾する)


 


 

その後


ベータ崩壊における パリティ保存の検証


左巻きに自転をしている電子だけが弱い核力に反応する。


右巻き電子と左巻き電子


弱い核力を感じるのは左巻きだけ

 


カイラル対称性(カイラルとは手のひらのこと)という自然が持つ対称性


左巻きの粒子と右巻き粒子の計測は別


対称性を保もとうとすれば、質量をゼロにしなかればならないので、基本素粒子はすべて質量がないという帰結になる


非可換ゲージ対称性(力を伝える粒子の質量がゼロ)



カイラル対称性(基本素粒子の質量がゼロ)

  ↓

全ての質量がゼロとは、全部が飛び散ること。


 


南部陽一郎


自発的対称性の破れ


(完璧な美さは崩れる運命)  


強い核力から出るクオークは、右巻きと左巻きの二種類のクオークをだし、普通カイラル対称性により、出た二種類のクオークはそれぞれに反応してゼロとなる


粒子と反粒子には、ある種の引力が働き、その引力が充分強い場合、消えずに残るペアが発生する。


このペアになったクオークの沈殿が「 真空 」


「 真空 」には無数のクオークのペアがつまっていて、仮に、一個のクオークが「真空」にはいれば、「 右・左 」と巻き方を変えて進み、光の速さでは進まれず、その「 動きにくさ」がクオークという素粒子の質量となる。


 

その他の粒子の質量はゼロのまま

弱い核力


弱い核力を感じない電子・ニュートリノや弱い核力を伝える粒子に質量はゼロのまま。


 


シェルドン・グラショー


弱い核力を媒介する粒子


力を伝える粒子の質量はゼロ


 


弱い核力の部分的な対称性(グラショ 1964


弱い核力を伝える粒子はW⁺・W⁻粒子とZ粒子の二つに分類される


なぜその重さが存在するかは、不明。


 

重さ(質量)への回答

スティーブン・ワインバーグ


宇宙の真空を満たすものが自発性を破る。


ヒッグス場の中を動く電子の「動きにくさ」が質量(重さ)


 


ゲージ粒子の質量と対称性の破れ(ヒッグス 1964

軽粒子の一つの模型(ワインバーグ 1967

ヒッグス粒子によって、電子や弱い核力を伝える粒子の重さを与える。


 

批判

自然が持つ対称性ヒッグス粒子はゲージ理論の簡潔さを汚す(南部)などの批判を受ける


 

その後

ヨーロッパでワインバーグがいうW粒子やZ粒子が発見され、理論と一致する。


ヨーロッパで巨大な加速施設。


ヒッグス粒子発見。(ヒッグスにノーベル賞)


標準理論の完成


<NHK「神の数式」三回目>


 


超弦理論


 


ミクロの点とされていた素粒子が震える弦


一般相対性理論は、空間のゆがみ=物の重さ・エネルギー


物の重さで空間がゆがむ(第一章、参照)


ブラックホールでは、一般相対性理論は通用しない。


 


一般相対性理論と標準理論を結合させる。


 


一般相対性理論(重力)と標準理論(素粒子の数式)


ブロンスタイン


ミクロの世界  物質と様々な力に重力を組み合わせると、無限大になり、計算不能


無限大個の無限大の出現


 


スターリンによる知識人の弾圧


 


ジョン シュワルツ


ジョエル シャーク


粒子を点ではなく、弦とすると広がりがあり、距離はゼロではなくなり、無限大はなくなるとして、粒子を点と扱っていた部分を削除して、その中身を弦理論に当てはめたら、無限大がなくなる。



<NHK「神の数式」四回目>


超弦理論の誕生


ブラッホールの奥底を計算する数式をめざす。


異次元宇宙は存在するか?


 

疑問

イ)一般相対性理論と標準理論の数式とはかけはなれている。


現実とかけはなれている。


粒子はゼロだが、超言論では質量を持つ


 


ロ)世界が10次元であれば、数式は成立するが、異次元が存在するか?


(次元とは、動くことができる座標軸)



回答


ロ)超ミクロの世界に


カラビヤウ多様体(異次元)の一部が存在する。

 


イ)数式の再計算すると、496という数字の出現


一般相対性理論と標準理論の数式が導き出される


 


ブラックホールの熱(ホーキング・パラドックス)


粒子が動けないのに熱が発生している。


 


ジョセフ ボルチンスキー


Dブレーン(膜)


大量の膜が、ブラックホールの底にある。


ブラックホールにも異次元がある


膜が、その異次元に絡みつき膜の中の元そのものも動くことから、熱が発生する。


 


 


  これに対する私の考えは、後述します。


 


第三章 Web 上で見る 「 般若心経 」の概念

 

Wiki という印は、Wikipedia の省略で、(ク) はその項目をクリックすることです。)

 

般若経 Wiki (ク) 一般に空を説く経典とされているが、同時に呪術的な面も色濃く持っており、密教経典群への橋渡しとしての役割を無視することはできない。

 

般若心経 Wiki (ク) 空性を短い文章で説きながら、末尾に真言(マントラ Mantra)を説いて終わるという構成。

 

   空 (ク)

    シューニヤ サンスクリットの形容詞、名詞形 シューニャター 「空なること」を意味する「空性」と漢訳

「 …を欠いている」「膨れあがった」「うつろな」を意味し、転じて膨れあがったものは「 中空 」

一切法は因縁によって生じたものだから、我体・本体・実体とすべきでなく、空しい(むなしい)こと。

般若 (ク) すべての事物」や出来事を明らかに見抜く深い智慧

 

般若波羅蜜 (ク) 

  波羅蜜  仏教において迷いの世界から悟りの世界へ至ること。そのために、菩薩が行う修行。「彼岸に行った」とは、此岸(迷い)から彼岸(悟り)に到る行。

 

  悟 ()

         「目覚めたるもの」という名詞と「自覚された、・学ばれた」という形容詞

 

  大乗仏教  仏教における悟りは、そのようなブッダの絶対的な境地に到達することから、成仏(無上の悟りをさらにと死んで、この世に未練のこさず仏になること)とも言われる。

 

  ジャイナ経  修行によって業の束縛が滅せられ、繊細な物質が霊魂から払い落されることを「止滅」と称する。その「止滅」の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」となり「生をも望まず、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に達する。(省略)この境地をニルヴァーナ(涅槃)とジャイナ経では称する。(省略)宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種類とする。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(ブドカラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティーカヤ)と称する。これらはみな{実体}であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは存在しないとする。(省略)霊魂(ジーヴァ)とは、その本質は意思を含めた知と生命体であるといえる。インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命体を実体的に考えたものであるが、唯一の常在して誕生する我(ブラフマン)を認めず、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っているとみなせれている。(省略)」

  インド哲学でいう我(アートマン) (ク)

          意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。

「梵」の本来の語義は「呼吸」であったが、そこから転じて、生命、自己、身体、自我、自我の本質、物一般の本質自性、全てのものの根源に内在して個体を支配し統一する独立の永遠的な主体などを意味する。(省略)アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を超えているので、アートマン自体は認識の対象にはならないといわれる。

ウパニシャッドの時代には、アートマンが宇宙を創造したと説かれた。また、アートマンは個人我(小我)であるとともに宇宙の中心原理(大我)であるともされた。ブラフマン(宇宙原理、梵)とアートマンが一体になることを求めたり、ブラフマンとアートマンが同一である(梵我一如)とされたり、真の実在はアートマンのみであって、他は幻とされた。初期のウパニシャッドである「ブリハッド・ウパニシャッド」では、「 …でない」によってのみ、アートマンが定義されたという。その属性を「 …である」と、定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない。また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる。(梵我一如)(省略)

仏教における解釈

釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。                          

 

 

第四章 私の増補版への取り込み (第二章、第三章の解釈と私見)

( 1 )第三章の般若経について

 

私が読んだ仏典は、田舎のおばちゃんたちと「 般若心経 」を唱えたくらいで、僧侶からの教えもなく、教養程度でして、浄土真宗の門徒ですが、ことさらに仏教を学んだこともありません。


一般的な素養として仏教の教えを持っているだけですから、これから書くのも独断と思ってください。

 

般若心経についてはWebで見たくらいで多少の本は読みました。

 

「悟らないと動物に輪廻転生する」など、悟って輪廻の圏外に行きたいんですが、般若心経の最後に呪術のときに使うマントラ(真言)がありまして、その和訳は「 行けるものよ、行けるものよ、彼岸に行けるものよ、仮岸に完全に行けるものよ、悟りよ、幸あれ 」と書いてあって、本によりますと、「 此岸 」は迷いの世界で「 彼岸 」は「 悟りの世界 」というらしいですが、彼岸花(higanbana)という花がありますが、それはお彼岸のとき、死者の墓に手向ける花のよだと思っていましたので、ここの「 彼岸 」は「 あの世 」つまり死を意味するように思われ、生前に悟りたいのに、不可能なのかと思っていました。

 

仏教では、貪・瞋・癡(とん・しん・ち)という三毒(煩悩を毒に例えたもの)を滅しますから、いってみれば、それらは本能であり、生命エネルギーです。

 

それを否定するように感じますが、死んでからは考えられませんから、死んだつもりで考えろという意味に解釈しますと、私の初版で書いた「 死中生なし 生中生なし 」の言葉を思い出しました。

 

引用しますと、下の通りです。

 

『「 死中生有り、生中生無し 」の前段の「 死中生有り 」の「 死 」を生命のエネルギーである気(ki)の終焉とし、「 生 」を宇宙エネルギーである気(ki)と解釈します。

後段の「 生中生無し 」の「 生中 」の「 生 」を生命エネルギーである気(ki)と解釈し「 生存中 」と考え、「 生無し 」の「 生 」を宇宙エネルギーである気(ki)と解釈します。

つまり、後段の「 生中生無し 」というのは、「 誕生 」により、宇宙エネルギーである気(ki)は、生命エネルギーである気(ki)を含む生命体の「 欲 」や「 煩悩 」と交じって、生命体の「 霊 」という形になるから、生存中を示す「 生中 」には宇宙エネルギーの気(ki)は「 生無し 」となります。

前段の「 死中生有り 」というのは、生命エネルギーである気(ki)の終焉である「 死 」により「 欲 」や「 煩悩 」から解き放たれると宇宙エネルギーである気(ki)が残りますから「 生有り 」となります。

そして宇宙エネルギーの気(ki)は、別の生命エネルギーである気(ki)が発生する時に紛れ込み、その生命体の「 霊 」になる。

生命体の「 死 」により、解き放たれていない宇宙エネルギーの気(ki)は「 霊 」として残り「 霊界 」で遊ぶ。』

です。

その結果、「 生 」の「 知 」が得られた時、「 悟った 」と呼ぶのではないかと思いました。

昔は、そんな智慧が発見できなかったので、マントラ(mantora)として、「 呪 」にしたのだろうと思いました。

三毒については、吉村均著の「 神と仏の倫理思想 2009,6,10 78ページ~81ページ」に詳しいです。

その中に書いてありますが、「 仏教では、対象をよいものと捉えることによって生じてくるそれを手に入れたいという気持ち(貪り)対象を悪いものと捉えることによって生じてくるそれを排除したいという嫌悪の気持ち( 瞋り)そのごちらの原因でもあり、仮に貪りや瞋り(いかり)が生じてこない場合でも常に働いている、対象を実体視する間違った捉え方(無知)こそが、煩悩の中でも根本の三つ(三毒)で、それこそが真に私たちを苦しめているものと考える。」(同署、81ページ)

 

私も、これに同意しますので、これから書きます、第二寮の批判的摂取にあたって、この実体視してはいけないことは、注意すべきことだと思います。

 

また、仏教では、縁起縁滅という教えもあります。

 

「 どんなものも原因や条件と無縁で単独に成立しているものはなく、例外は一つもない。これが縁によって起こり、縁によって滅する(縁起縁滅)という仏教の根本的な縁起の教えである。後に成立する大乗仏教では、この縁起(縁滅)の教えを一言で「 すべては空である 」と説き示す。「般若心経」の有名な「 色即是空 」という教えも、このような大乗仏教の代表的な表現法の一つにほかならない。しかし、いうまでもないことであるが、この空の教えは単なる空無・虚無の教えではない。このような縁起・空のことわりにおいて、現象世界は日々に新たに生成し、変化し、消滅してやまないのであり、人はそのような仮象の世界で泣いたり笑ったりして、社会生活を営み、人生を送っている。」

(池田魯参 緒「魔詞止観」 春秋社 2017,3,20  46ページ)

 

 

( 2 )第二章の超弦理論と標準理論(素粒子の数式))からの批判的摂取

 

長年の努力の末、素粒子の標準理論と超弦理論の完成、おめでとうございます。

 

私は数学が不得手で、何が何やらわかりませんが、このたび、日本語でNHKから放送され、その数式が意味することを知りまして、ノーベル賞を授与された理由がわかりました。

 

強い核力から出される素粒子のクオークは、カイラル対称性が崩れるという「 自発的対称性の破れ 」により、普通は、強い核力から出たが右巻きと左巻きのクオークが持つ引力により出た粒子と違った核からでた反粒子に結合し対消滅しますが、対消滅を免れたペアが充満し、その状態である「 真空 」の中で「右」と「左」と交互に変わりながら進むクオークの「動きにくさ」が質量とされましたが、その他の素粒子は質量がゼロの状態が続いていました。

 

しかし、弱い核力のW粒子とZ粒子の質量はヒッグス粒子の中を動きにくさであるとされ、ヒッグス粒子は宇宙を充満しているという仮説がヨーロッパで実証され、待ちに待ったヒッグス粒子の発見でノーベル賞が授与されたことは、喜ばしいことです。

 

また、超弦理論も素粒子は点ではなく弦だったとすることにより、質量もゼロでないとして、標準理論と結合し、一般祖体制理論と素粒子の数式が矛盾なく配置されていることは、喜ばしいことです。

 

そうなれば、宇宙全体が弦状の素粒子で構成され、その結合は「 エネルギー 」によることになると思いますが、神の被造物というのは、素粒子をエネルギー(神)が取りまとめた形で、生起と消滅を絶えず繰り返し、「 エネルギー 」が変化すれば、結合している素粒子が構成する形も変化するから、常なるものはなく、人間も含めて万物が「 現象 」となり、個体として変わらぬものはなく、まさに「 万物が流動する 」しエネルギーが形を変えても消滅することはない「 色即是空 空即是色 」の世界であるという私の考えに近づくのではないかと思います。

 

ただ、数式はこれまで、一度も「 無限大 」つまり計算不能という答えを出していないかといえば、そうでなく、そのたびに、「 くりいれ手法 」の理論や「 自発的対称性の破れ 」なるものが出現し、点であることを修正し、現実に合わせることをした結果なので、本当の神の姿は点であるかもしれないので、純粋に「 神の数式 」とはいえないと思います。

 

しかし、私にとっても大きな意義がありました。

 

アインシュタイン氏はエーテルなんか宇宙にはなくて、伝達は空間であるとされたように思いますが、エーテルを捨てきれなかった私は、「 真空 」は「 無 」ではなく、カイラル対称性が崩れるという「 自発的対称性の破れ 」により、強い核力から出たが右巻きと左巻きのクオークがそれが持つ引力により出た粒子と違った核からでた反粒子に結合し、対消滅を免れたペアが充満した状態であることや、「 エーテル 」が宇宙空間に広がっているとするヒッグス粒子が充満した状態であり、「 無 」ではないことなど興味深くテレビを見せてもらいました。

 

ただ、数式はこれまで、一度も「 無限大 」つまり計算不能という答えを出していないかといえば、そうでなく、そのたびに、「 くりいれ手法 」の理論や「 自発的対称性の破れ 」や「 素粒子は点ではなく弦だった 」というものが出現し、現実に合わせること(実体化)をした結果なので、それは、前述しました吉村氏がいう無知を意味する三毒の中の「癡」であると思いますので、純粋に「 神の数式 」とはいえないと思います。

 

吉村氏は、貪りや瞋り(いかり)が生じてこない場合でも常に働いている、対象を実体視する間違った捉え方(無知)という毒(煩悩)が生じるとも言ってますから。

 

 

それと、一般相対性理論では「 時間 」や「 空間 」という概念を「 光の速さ 」で統一したのに、他方の素粒子理論にはそんな痕跡がない。

 

数式は関係であり、その数式に従ったからこそ、宇宙が膨張していることや、素粒子理論でも、数式の対称性に従ったからこそ、電子の外の基本素粒子を発見できたように、人為的に数式を操作しないことが、新たな発見に導くことを考えますと、人が修正した状態の標準理論と超弦理論の結合では、宇宙の全てがわかる数式を手にしたとは、言いずらいと思います。

 

数式が神(エネルギー)の関係ならば、小さいところの差異こそ、無視することはできないと思います。

 

 

( 3 )私の理論への取り込み

 

私は、初版で次のように書きましたので、引用します。

 

『「 色即是空 」、「 空即是色 」というが、私の考えは仏教とは違い、前段は、色(実体)はエネルギーが諸条件の衝突により「 形 」を変えたものだから、本来は空(エネルギー)であるが、空(エネルギー)は「 時間 」とは関係なく変化するから、恒常的ではないと解釈し、後段は、空(エネルギー)は五感に訴える色(実体)を通してしか判断できないが、色(実体)はエネルギーの形であり常に変化しているから、五感には恒常的ではなく、変化する現象的な実体として現れると解釈する。

恒常的とか現象的とかいう実体は、五感が必要とする「 精神的な概念・意識 」であると私は解釈する。

このように考えると、日本の原始時代に「 やおよろず 」の神がいて、万物の宿るという考えも、「 神 」をエネルギーと考えると、一応、納得をしている。』

 

 

 

昔の私は「 空 」というのがわからずに、大乗仏教の龍樹が一番嫌いでした。

 

初版で、エネルギーを「 神 」とし、空間を「 神の身体 」だとしました。

 

これは、仏教で、法身と報見と応見を考えた結果です。

 

よく見ますと、日本語で「 身体 」は「 空だ 」と同じ 「kareda]という「 よみ 」をしますし、「 空 」は「 からっぽ 」という意味だと思いますが、どうしても想像することが出来ず、「 物質 」と等価で結ばれる「 エネルギー 」ではないのかと思い、モノはエネルギーでエネルギーはモノだとしますと、モノに台風や蜃気楼なども含めると、現象といわれる形が不明なものもモノになり、エネルギーが現象の裏に隠れていると考えました。

 

現象を通してしかエネルギーは私たちの目には見えないのではないか?

「 即 」を使って「 色 」と「 空 」を結んでいるのは、色(現象)は空(エネルギー)であり、空(エネルギー)は色(現象)を通してしか判明しないことを意味するのではないか?

 

そう思って、仏教とは全く違いますが、「 空 」は「 エネルギー 」としたのです。

 

当然、人間もみな「 現象 」であるということになります。

 

自然条件を、縁と考えると、この世はすべて縁起縁滅であるという考えにも通じると思います。

 

こういう考えは、私だけかなと思いましたが、ある僧侶が「 空 」は「 いのち 」そのものとか、「 時間も空間も、じつは意識が概念へ移行する過程で生み出しているもの」 で「 波動というものは、おそらく耳だけではなく、もっと幅広く「 いのち 」に直接訴える力をもっている」などと書いておられるのを見ました。

 

私が考える、人体のエネルギーは「 いのち 」そのものだということになると思います。

 

シューマン波も波動で、「 いのち 」、例えば脳波に直接、影響しているかも知れないと思います。

 

こんな状態で、第一章を見ていますと、人体は平等に素粒子によって構成され、その人がアメリカ人ならそのDNAで素粒子を結合させ、日本人なら先祖代々のDNAで同じ素粒子を構成し、すべての人類は同じで、クオークやヒッグス粒子で地球の人類ものすべてがつながり、宇宙空間の星々にも、ヒッグス粒子で数珠繋がりになっているのかもしれない。

 

そして、万物の素粒子が流動し、万物が、「 色即是空 空即是色 」の関係であることになる。

 

つまり、神(エネルギー)の前では、みな平等であると思われ、日本の神仏習合に重なると思います。

 

 

( 4 )新展開(妄想)

 

これから、もし悟ったらどうするのかについて書きます。

 

本邦初公開の妄想ともいえる観念論ですので、遠慮される方は、拒みません。

 

さて、私は、69歳の年金生活者ではありますが、生きている人間です。

 

宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーは、何かのご縁で、母親の中で霊魂に結集されて私をお作りになり、この子が生きて行けるように、頭脳をはじめ人間として備えるべき臓器をお作りになり、ソフトウェアとして本能を仕込まれたと思います。

 

誕生した私は、本能を早速動員して、呼吸して頭脳を働かせたでしょう。

 

お釈迦は、貪・瞋・癡(とん・しん・ち)という三毒(煩悩を毒に例えたもの)を滅して悟るようにいわれます。

 

三毒の中の生活は、本能の一部であったソフトウェアを極限にまで肥大化させ、本能のおもむくまま生きることだと思います。

 

私は、これは、本来、脳の中にあって、時空間の軸を左右の脳で作り出し、生きるために自己中心に情報を収集、貯蔵して大脳を中心にして、人間がほかの動物に負けない動物にしてあげようという神(エネルギー)の意図だと思います。

 煩悩も、本能の一部で、神(エネルギー)から頂いたものであり、その探求に徹することも、神(エネルギー)を追求することで、悪いことではないと思います。

 

ですが、「死中生あり、生中生あり」や初版で申しましたように、それらは、生命エネルギーが終焉を迎えると、それらは滅するものであり、その後、後世に続くものは、煩悩から抜け出た宇宙(自然)エネルギーですので、それを、生前に発見して「 人間らしく生きなさい 」ということを、お釈迦さまがおっしゃっているのだと思います。

 

生前に、お釈迦さまの意見を達成した状態が、ジャイナ教でいう涅槃(ニルヴァーナ)で、「生をも望まず、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地だと思います。

 


 

これが悟りの状態だと思うのですが、仏教徒は輪廻転生から逃れるために、こういう修行をすると思いますが、それを望まない人は、どうするのか?を考えたのが、この章です。

 

 

私は、「 色即是空 空即是色 」を理解し、現象の中で動くエネルギーを捉えることを目的としますので、それはどうすれば良いかを考えました。


よく、政治家が「 中道 」を行くと申しますが、あれを何も考えずに行動しますと、偏りのない中立で、どっちつかずの政治家になると思います。

 ところが、「 中道 」が意味するところが、極端から極端へ動くエネルギーに沿った行為をすることだと考えますと、エネルギーさえ捉えておけば、世の中が、これからどっちの極端に走るかがわかり、その方向で行為するのが、「 是々非々 」の人間の態度だと思うのです。 

形だけ「 中道 」で、この世がどう流れるかじゃなくて、いかに選挙に勝つかだと思う政治家は、根本から、三毒を捨てる所から出発すべきでしょう。

 

もし、政治家でないとしたらどうでしょう?

 

例えば、藤井聡太さんのようなプロ将棋棋士であったら、どうでしょう。

 

「 将棋は格闘技 」でも書きましたが、プロの技術的な、あるいは意識的な技を十分に研究された後、対局する相手の駒の必然的な動きを知ることだと思いますが、それは、その場で最善手を指すことだとしましたが、よく考えますと、駒を動かすのは対戦相手の意思や気持ちだと思います。

 

それを、これまでの将棋生活で培ってきた勝負勘(カン)で、察することだと思いますが、相手に聞くわけにもいかないので、無意識である勝負勘(カン)を相手の心に伸ばして、相手の気持ちを察することだろうと思います。

 

勝負勘といっても、感覚ですから、何を見て、五感で感じるのかが問題ですが、私は、相手の態度から気持ちを察して行動することだと思います。

 

このことは、一般人である私の場合にも当てはまると思います。

 

我欲を抑え、相手の気持ちを知り、相手の気持ちが嫌悪に流れることを意図するなら「 イヂメ」でしょうし、励ましたり、立ち直らせることを意図するなら「 愛 」でしょう。

 「 イヂメ 」をする人は、相手の気持ちがわかり、「 愛する 」ことが出来る人かも知れません。

 宗教でいう「 愛 」も、こんな悟った人がする行為かもしれません。

 我欲にまみれた「 愛 」が、「 打算 」であるように、我欲を抜いた愛こそ「 愛 」であって、親が子に施す「 無償の愛 」が「 愛 」と言われる理由はこれだろうと思います。

 もし宗教の愛が、私の考えた愛でありますなら、信者に最初から「 愛 」を求めることに、反発することもあると思います。

 

何に対して「 愛 」するのか?

 

それは、相手の気持ちがわかり、その相手が置かれている状況を知るとき、「 愛 」が生まれるのではないでしょうか?

 それが、自分に向いたら、どうするか?

 

自分を「 愛する 」ことです。

 自己中心に考えを巡らせるのではなく、我欲を抜いて自分を見たとき、どうするかは、「自分探し」をした人はわかると思いますが、これまで岐路を生き抜いてきた自分が、この先、どのような方向に進むべきか?生きている意味は何か?生まれてきた自分に課せられた課題は何か?死はこれまでのコンプレックスから解放してくれる契機かもしれない(死ねば同じだから)が、その前に、この身で何を残すべきか?などを知ることが、自己愛だろうと、私は思います。

 

どうしてなのか理由も知らずに、今まで苦労して生きてきた自分の気持ちを察し、その自分が目指すべき方向を知らせて、より良き自分になるように思うことが、愛することだと思います。

 

年齢が若い時に気づけば、実現することが可能かもしれません。

 

以上、私は「 気持ち 」を五感で感じることを書きました。

 

風景や人物は、五感で知ることが出来ますが、前述したWikipedia で、インド哲学においての「アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を超えているので、アートマン自体は認識の対象にはならないといわれる」ように、自分の気持ちも相手の気持ちもわからないと思われるかもしれませんが、私はこのように考えます。

 

 

第二章にありましたように、また初版でも書きましたが、人間は細胞の塊で、その中には「 空間 」があり、その空間には素粒子が詰まっており、それが「 身体(からだ)」であり、細胞の空間は、身体の外にある空間の素粒子とつながっているだろう。

 

「 呼吸 」によって空間中の素粒子を体内に取り込み、細胞を動かすエネルギーに変えているから、宇宙(自然)エネルギーとのつながりもあるだろう。

 

地球を周回するシューマン波も随時、脳波と入れ替わっているかも知れない。

 

こうして、自分で「 無意識 」で誰にも知られないと「 意識 」しても、自然に流れ出す構造になっているのだと思います。

 

「 気持ち 」は無意識で、自分の身体が自分を判断するのですが、身体(からだ)は「 空だ(からだ)」でして、無意識の気持ちは、身体の動きで、外部に漏れだしていると思います。

 

日本では、人柄とか家柄とか「 育ちがよい、わるい」と申しますが、それは、その身体から漏れ出す「 無意識 」、いいかえれば、「 人格 」が漏れ出すのだと思います。

 

その流れだした気持ちという「無意識」を、相手がどのように反応するかで、自分の気持ちを知るのだろう。

 

ちょうど、鏡で自分を見るように。

 そのようにして知った自分を反省し、また改めて自分を作るのだと思います。

コンピューターやAIや動物と人間が違うのは、人間は「 人格 」を持つことです。

 私の人格が動物と同じでしたら、AIは私を動物と判断するでしょうから、面倒な人格などに触れず、AIに支配され、飼育されるのも一つの方法なのかも知れません。

  

忘れていけないことは「 仏教の目的は、人格の完成である 」ということです。

 

 ですが、アートマンを認める私は、これを信じきることが出来ないのです。

ですから、初版に書きましたように、私は輪廻転生してしまうのだろうと思うのです。

kandk55
作家:高口克則
誕生から死後までの意識(増補版)
0
  • 0円
  • ダウンロード

2 / 4

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント