なぜ、引きこもりに陥るのか?それは、人とのかかわりで”嫌な思い”をしたくないからです。学校に行けば、他の生徒と先生から、バカだとか、ネクラだとか、クサイだとか、ブスだとか、靴に画びょうを入れられたりとか、殴られたりとか、恐喝されたりとか、様々ないじめを受ける。部活では監督や他の部員にもっと必死に頑張れと非難される。会社では、仕事ができず同僚から非難され、上司からクビにするぞとパワハラを受ける。
上記のような不愉快な状態が続けば、誰しも学校や会社にはいきたくない気持ちになってしまう。そして、自分が傷つかないように、自己防衛として家の中に引きこもる。さらに、家族から引きこもりを非難されると、家族とも会話をしなくなる。
私の場合、幸運にも自活できた。だから、世間でいう引きこもりではないかもしれない。でも、やはり、精神的引きこもりだと思う。なぜか、それは、対人関係がもたらす恐怖や不安から身を守ろうと精神的に逃避しているからです。
内在する恐怖や不安は、そう簡単に消え去ることはない。だから、人は恐怖や不安を感じないようにするために、また、自分をいやすために、何らかの対策を取ろうとする。例えば、夢中でゲームを何時間もする。多量のお酒を飲んで酔っ払う。宗教にのめりこむ。ほとんど毎日パチンコをする。
恐怖や不安から逃避しようとする引きこもりの心理は、自活できている人たちでも、起きていると思います。人それぞれに、引きこもりの方法が違うに過ぎないのではないでしょうか?私の場合は、小説を書くという引きこもりと思っています。
あくまでも個人的な意見ですが、小説家は、自己の性格と常識に対峙する引きこもりだと思っています。でも、引きこもることによって得た様々な気持ちを言語化し、それらを発信する引きこもりです。
心の支えとなった小説
すでに述べたことですが、小説は架空の世界です。だから、実務的に日常生活に役に立つというわけではありません。だったら、小説は不必要ではないか?と思われますが、なぜか、小説は存続しているのです。それは、やはり娯楽として不可欠だからでしょう。
まず、小説とのかかわりについて述べますと、中学校までは、それほど小説に関心がありませんでした。小説に関心が起き始めたのは、高校に入ってからです。小説を書き始めたのは、高校2年生からだったように思います。
なぜ、小説を書くようになったのか?この点を考えてみると、今一つはっきりしないのですが、おそらく、学力不振による進学の不安から、また、現実と対峙することからくる恐怖や不安から、可能な限り逃れたい一心で小説を書き始めたのではないかと思われます。小説の世界は、架空の世界です。その自由で無限の世界に酔いしれたかったのでしょう。
今、振り返って思うと、小説を書くという心の支えがあったことは、思春期において奇跡的な幸運だったように思えます。もし、小説を書くことがなかったならば、自己嫌悪に陥り、引きこもりになっていたことでしょう。
小説を書く上での基本的技術
まず、小説を読むという点から考えてみると、読むのが好きになるのは、読んでいて楽しいからです。なぜ、読んでいると楽しいのでしょうか?個人差はあるでしょうが、思うに、小説が作り出したドラマで、読者が登場人物になって、恋愛できたり、名探偵になれるからではないでしょうか。
では、小説を書くということはどうでしょう。小説を書くということは、読者の言語力、理解度、感性を考慮しながら、自分の言語力で独自の架空の世界を作り上げるということです。
そこで、作品を構成していく上で基本的な技術があります。それは、一つの世界を作り上げていく場合、自分の好きな面と嫌いな面とを”同時に”書かなければならないという点です。
誰しも、愛される自分や尊敬される自分を書くことは好むでしょう。でも、反社会的な自分やバカにされる自分を書くのは嫌いでしょう。でも、一つの世界を作り上げていく過程では、”表の世界”と”裏の世界”を組み合わせて行かなければなりません。だから、どうしても、自分が不愉快になることも書く必要が出てくるのです。