赤い糸

 二人は、うつむいて今にも死にそうな表情でため息ばかりついていた。伊達夫妻は、必死に結婚の許しをお願いすべきだと思ったが、単にお願いだけでは納得しそうに思えなかった。ひろ子さんの素晴らしいさを披露する以外ないように思えた。「ひろ子さんは、歌は上手なのよ。まずは、歌が上手だということを訴えることね。次に、料理はどうかしら。ひろ子さん、歌以外に何か、得意なことはないの?」ひろ子は、さみしそうな顔で答えた。「すみません、歌以外、得意なことといわれても、これといったものは」ナオ子は、とにかく材料を探さねばと必死になった。「そう、習い事に通えばいいのよ。今からでも、遅くないわ。とにかく、料理に、お花に、お茶に、着付けに、お母さまが喜びそうな習い事に通うのよ。ひろ子さん、いい」

 

 ひろ子は、顔をゆがめて返事した。「でも、タクシーの仕事があるから、それは、ちょっと。料理ぐらいだったら、どうにか」うなずいたナオ子は、ほかに何かいい方法はないか頭をひねった。「あなた、名案はないの?ボ~~としていても、いい知恵は浮かばないのよ。どうよ、何か思いついた?」伊達は口をとがらせ反論した。「バカ言うんじゃない。俺だって、真剣に考えてるさ。でも、どうしろっていうんだ?ひろ子さんは、今のままでいいんじゃないか?歌はうまいし、やさしいし、思いやりはあるし、美人だし、こんなに素晴らしい女性は、いないんじゃないか。だから、俺たちは、ひろ子さんを選んだんじゃないか?なにも、小細工なんかしなくていい。正々堂々と胸を張って、飾ることなく、立ち向かえばいいんだ。学歴とか、家柄とかで、結婚するんじゃない。二人の気持ちだ、そうだろ。ナオ子」

 

 ナオ子もうなずいた。結婚は二人の気持ち。愛し合っていれば、家庭は守っていける。ナオ子は、自分が浅はかだったことに気づいた。「そうよね。学歴があっても、家系が良くても、愛がなければ、家庭は崩壊する。ひろ子さん、素直な気持ちで、自分をさらけ出して、本当の自分を見せればいいのよ。それでも、お母さまに反対されれば、駆け落ちしなさい。サワちゃん、覚悟はできてるでしょ」伊達は、マジな顔で力強く返事した。「はい。覚悟はできています。刑事をやめてでも、ひろ子さんと結婚します。僕は、どんな仕事でも、やって見せます」ひろ子は、心ではうれしかったが、駆け落ちだけはしたくなかった。沢富には、やらなければならない将来の仕事があると考えていたからだ。

 

 

 


 ひろ子は、結婚のことでみんなに迷惑をかけているようで肩身が狭かった。また、駆け落ちまでして結婚しても、幸せになれないと思えた。「皆さん、心配してくれてありがとう。結婚は、祝福されてするものだと思います。ご両親に反対され、駆け落ちして結婚しても、幸せになれないように思います。もし、お母さまがガンとして反対されれば、あきらめます。サワちゃんの未来を台無しにしてまでして、結婚はできません。サワちゃん、ごめんなさい」沢富は、何と答えていいかわからなかった。いったい、どこが気に食わないんだ、と母親に食ってかかりたい気持ちでいっぱいだった。「そう悲観しないでいいですよ。母親だって、一人の女性です。ひろ子さんの気持ちを踏みにじるようなことはしないはずです。ありのままの姿をぶつけてください。きっと、わかってくれるはずです。二人で、頑張ろう」

 

 1028日(日)二人は、母親と一緒にエルミタージュにやってきた。エルミタージュのオマールエビのご馳走を食べさせ、機嫌を取る作戦に出た。窓際の席で母親と向かい合った沢富は、この店の説明をすることにした。「お母さん、どうです、エルミタージュ、おとぎの国のお店みたいで素敵でしょ。この店に来るといいことが起きるんです。シェフも、ウェイトレスも、すっごくいいかたなんです。ほら、あそこに見えるのは、高校です。先生たちも、よく来られるそうです。この店は、すごく人気があって、県外からも、来られるということです。な~、ひろ子」ひろ子はうなずき小さな声で「はい」と返事した。これ以上言葉が出てこなかった。母親に嫌われているように思えたひろ子はうつむいてしまった。

 

 沢富は、不機嫌そうな顔の母親を見て、無理に笑顔を作り話し始めた。「食事の後は、鏡山(かがみやま)に行きましょう。そこからは、虹の松原が一望できるんです。とても、壮大で、美しいんです。そう、唐津城も見えますよ。きっと気に入ります」母親の表情には、一向に笑顔が現れなかった。母親は、ひろ子に質問した。「ひろ子さんは、一度、離婚なされたと聞きましたが?」離婚と聞いたひろ子は、心臓が止まりそうだった。落ち着け落ち着けと言い聞かせながら、ひろ子は答えた。「はい。22の時に結婚して、24の時に離婚しました」ひろ子は、それだけ言って、うつむいてしまった。母親は、隠し子がいるのではないかと勘繰っていた。「子供は、できなかったんですか?」ヒョイと顔を持ち上げたひろ子は、即座に返事した。「はい。子供はできませんでした」

 

 


 母親は、少しほっとした。さらに質問を続けた。「親御様は、ご健在なのですか?」ひろ子は、少し陰のある表情を作り返事した。「今のところは、どうにか。でも、父親は、体調が悪く。病院通いをしています。でも、姉夫婦と暮らしていますので、心配はしていません。漁業の方は、義理の兄が取り仕切って、跡を継いでいます」母親は、小さくうなずいた。「ひろ子さんは、タクシーの運転手をなされていると聞きましたが、何年ぐらいなされているの?」ほんの少し笑顔を作り返事した。「25歳からです。車が好きなんです。今では、AIタクシーに乗っています。すごく、人気があるんですよ。車内で、カラオケもできるんです」AIタクシーに乗ったことはあったが、カラオケタクシーは初耳だった。「へ~、カラオケね。そういえば、ひろ子さんは、カラオケ女王でしたね。東京でも、ひろ子さん、評判よ。なんだっけ、ほら、ガンダムの歌」

 

 ひろ子は、東京でも人気があると聞かされ気持ちがハイになってきた。「そうですか。うれしいです。水の星へ愛をこめて、アニソンが大好きなんです」母親は、歌が上手なことは評価していたが、だからといって結婚を許す気にはなれなかった。「ひろ子さんは、都会での生活の経験は、おありですか?」ひろ子は、対馬(つしま)と福岡の田舎生活だけであった。「都会は、ありません。田舎者です」母親は、ちょっと顔をゆがめた。「武史は、近々、東京勤務になります。ひろ子さんは、東京でちゃんとやっていけますか?」寝耳に水の話でひろ子は固まってしまった。ひろ子は、沢富はこれからも福岡で勤務すると思っていた。「え、東京ですか?いつからですか?そんなこと聞いてません。いったいどういうこと?」ひろ子は、沢富の顔をにらみつけた。

 

 沢富も初めて聞く話だった。「お母さん、いつ決まったんですか。僕は、県警勤務です。警察庁ではないんです。何かの間違いでしょ」母親は、お冷をほんの少しすすり返事した。「もう、この辺で警察勤務は終わりにするそうです。お父様が、警察庁に戻すといわれてました」沢富は、母親がやってきた理由が今わかった。東京に戻す話をしにやってきたんだと。「お母さま。ちょっと、それはないでしょう。そんなことを今言わなくても。ひろ子さんだって困ってますよ」母親は、全く表情一つ変えず話を続けた。「これは、お父様の指示です。文句があるのなら、お父様に言ってちょうだい。私は、伝えるように言われただけですから」あまりの一方的な話に怒りが込み上げてきた。「まったく、自分勝手なんだから。一言、前もって言ってくれたらいいのに。親父のヤツ」

 


 母親は、不機嫌そうな表情のひろ子をちらっと見て話し始めた。「そういうこと。おそらく、来年は、東京勤務でしょ。でも、法務大臣から、ご褒美があるらしいわよ。よかったじゃない。もうこの辺で、出世してもらわないとね。世間体ってものがあるんですから。私は、ホッとしたわ。二人のことは、お父さんに報告してから、返事します」沢富は、ひろ子の不機嫌な顔を見ているとなんと言っていいかわからなくなってしまった。「とにかく、お母さん、ひろ子さんは、僕にはもったいないくらいの人なんです。気に入ってくれますよね。明るくて、思いやりのある女性です。仕事の相談にも乗ってくれて、すごく、助けてもらってるんです。来春には、結婚したいんです。お母さん、お願いします」沢富は、母親を真剣に見つめた。

 

 一つうなずいた母親は、武史に念を押した。「気持ちはわかったわ。結婚するということは、ひろ子さんを守り、家族を守っていくってことよ。その覚悟は、できてるの」沢富は、背筋を伸ばしはっきりと返事した。「もちろんです。ひろ子さんを死ぬまで守ります。必ず、幸せにします。神に誓います」母親は、少しは大人になったように思えて笑顔を作った。「とにかく、お父様にその気持ちを伝えます。しっかり、自分の将来を考えて、仕事をやることね」なんとなく母親がひろ子さんを気に入ってくれたようでほんの少し安心した。タイミングよく、オマールエビのパスタが運ばれてきた。「お母さん、あごが落ちるぐらいおいしいオマールエビです。さあ、お母さん、食べてみてください」

 

 小さく切ったエビの一片をフォークで口に入れると母親は、ニコッと笑顔を作った。「あら、ほんと。おいしいわ。帝国ホテルの味じゃない。大したものだわ。きっと一流ホテルで修業なされたんでしょうね」喜んでくれたことにほっとしたひろ子は、返事した。「そうなんです。こちらのシェフは、ヒルトンホテルで修業なされたそうなんです。今、すっごく評判が良くて、県外からいらっしゃるお客さんも多いんです。いつも、予約でいっぱいだそうです」母親は、笑顔でうなずいた。「福岡にやってきてよかったわ。空気はきれいだし、おいしい料理もいただけて、最高。武史、福岡で仕事させていただいて、よかったじゃないの。人生は、どこで幸運に巡り合うかわからにわね」

 

 


春日信彦
作家:春日信彦
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