神仏習合と私

資料編 Ⅱ (幕末から現在)

Ⅱ、幕末から現在まで

 

 

ニ)幕末から明治へ

 

A)「天皇家も公家も寺社も世俗化する中、」「芸能的庶民文化が栄える一方で、宗教ではなく学問が大いに発展深化した。

伊藤仁斎や荻生徂徠の古学から影響を受けて本居宣長や平田篤胤の国学などの古学=国学が勃興し、儒学においても朱子学、水戸学が展開して栄えた。」(本2)、166頁)

 

 

B)本居宣長(1730~1801)

 

「源氏物語」に代表される王朝の日本的な美意識や精神性を「物のあわれを知る」ととらえ「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」と歌った。」

「物のあわれを知る」ことの中核には、自然美の感受がある。自然の細やかなうつろいを繊細な美的感情とともに感受する心。本居宣長はそれを日本的精神や日本的心の中核にイメージして、いた。(本2)、167頁)

 

本居宣長の死後観は、「神道の安心とは、安心なき安心であると述べている。それはことさらに安心立命を求めず、死んだら魂が山に行ってこの世の子孫を見守っているという、漠然とした感情が日本人の考えであり」(本2、)168頁)

 

 

C)平田篤胤(1776~1843)

 

「本居宣長の没後の門人。」「本居宣長のような文学的な情緒主義に満足できなかった国学者」「最大の関心事は、霊性の根拠であり、死後の霊魂の行方と鎮まりであり、霊界の真相であった。

人間は死んだらどうなるのか、霊魂はどのようにしてやってきて、死後どこへいくのかといった、霊魂観や他界観がわからなかったら、真の意味での大和心も確立できないと考えた。

こうして平田篤胤は、師の本居宣長とはまったく異なる神道観と神道論を展開していったのである。

没後の門人を名乗った平田篤胤は、師匠の説とは全く違う観点と説を問題定義し、物の怪に強い関心を持ち、妖怪やお化けの研究に真面目に取り組んだ。」(本2)168頁)

 

「本居宣長は、しょせん闇の部分は不可知の領域だから、そんなことに頓着しないのが日本人で、それが「安心なき安心」の心の境地なのだといって、霊の領域をそれ以上追求することはなかった。

本居宣長は、光の当たった表の美しい部分を価値づけた国学者であり、それはいわば雅の表の神道である。

それに対して平田篤胤は、闇の部分に焦点を当てる物の怪と裏の神道を展開し、幽冥界を主たる研究領域に定位した。

こうして、霊的世界を探求することが平田国学の根本テーマになった。

それが、物の怪の消息を知る国学となり、魂の行方を捜す復古神道になっていったのである」(本2、)170頁)

 

 

 

「平田篤胤の神道論の中には、日本が世界一の根源の国で、日本が中心であるという思想がある。

 

日本神話が世界中の神話の元で、それが各国各地に伝わって世界の諸神話になっていったのであり」「日本中心の思想が彼の中にあった。

そこで、こうしたきわめてナショナリスティクな日本中心主義は当然のごとく排外思想すなわち尊王攘夷思想と結びついて、幕藩体制を打倒し、明治維新を招来する格好のイデオロギーになっていく。

なぜなら、幕藩体制を覆すイデオロギーとして旗幟鮮明で、大義名分も持つ復古神道的な尊王思想が機能したからである。

つまり、徳川将軍家よりももっと古くて正統性があり、日本統治の頂点に立ち得る正当な支配者は天皇であり、征夷大将軍の任命権は形式的には天皇にあったために、天皇を担ぎ出すことによって現政権、すなわち徳川将軍家の支配による幕藩体制を転覆させるという政権打倒のシナリオが描かれたのである。

このようにして、平田神学は、一面では、勤皇思想、尊王思想、日本中心主義、排外主義によって、ヨーロッパ列強国に対して徹底的に抗戦して、敵を追い出していくというイデオロギーのよりどころとされた。

 

最初期は尊王と攘夷が結び付いていたが、アメリカやイギリスの軍隊がいかに強力であるかを目の当たりにして、文明開化思想が時の流れになっていく。

こうして、西洋の文物を導入していく文明開化の流れが生まれてきた。

その幕末の激動期に日本民族主義をつくった一人の代表的イデオローグとして平田篤胤は利用された。

その際、幽冥研究の部分はあまり注目されず、日本主義、民族主義のほうに焦点が当たり、それが明治維新を推進していく一つの原動力になったわけである。」(本2、)171~172頁)

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ヘ)明治から第二次世界大戦の敗戦まで

 

神仏分離政策

 

A)「東照宮建立は古代神話とも中世神話とも違う政治神話なのである。

また、水戸藩や会津藩など、一部の藩では、神仏分離の政策が進められた。

近代は世俗化した時代の次の新たな国づくりの時代で、再び統一神話が必要とされた。

そこで、どういう神話ができたかというと、それは西洋列強国に対抗する、古代の夢よもう一度という王政復古という律令神話の復活であり、制度的には神祇官の復興であった。」

 

「このようにして、明治時代の宗教政策、宗教行政はめまぐるしく変わっていったのである。

そこには一貫したポリシーはなかったと言える。

 

重要なのは、ここにおける最初の大方針、グランド・デザインが、すでに江戸時代に水戸藩でも進められていた神仏分離政策であった点である。

 

神と仏を、はっきりと分けること。

 

続いて、その政策に促されて、廃仏毀釈運動が行われ、多くの貴重な神仏習合文化が破壊された。そして明治五年に修験道が廃止させた。

修験道こそ神道と仏教がミックスした日本独自の習合宗教であったために、その廃止による被害には甚大なものがあった。」

「慶応三(1987)年、大政奉還されて、王政復古となり、明治天皇が即位した。

そして明治元年、祭政一致の制を復活し、全国の諸神社を神祇官に所属させ、続いて神仏分離と五箇条の御誓文が実施された。」

「明治天皇が伊勢の神宮に参拝し、これが天皇の神宮参拝の始めとなる。

そして、九段に東京招魂社(のちの靖国神社)が創建され、戊申戦争の戦死者を祭り、靖国神社や諸県の護国神社の起こりとなった。」(本2、)175頁)

 

B)「王政復古的な、いにしえをもう一度呼び出すという作業(和への回帰)と、一番新しい先端文明を取り入れる作業(洋への参入)を結合する。」

「その過程で、平田神道は敗退していった。

この過程は、神仏分離令、王政復古、文明開化、富国強兵、殖産興業、キリスト教解禁、信教の自由、政教分離原則の取り組みという政策実行過程であった。

そしてそれは同時に、民間の自由民権運動と結びついていって、最終的にその決着として、明治二十二(1989)年に大日本帝国憲法(明治憲法)が制定される。

こうして、明治二十二年二月十一日に大日本帝国憲法が発布され、皇室典範が制定される。続く明治二十三年に教育勅語発布。

この時代に日本の路線、法治国家としての大枠が出来上がるのである。

そのときに天皇は万世一系にして日本の国家元首であり、日本を統治する神聖にして不可侵の存在であるという、万世一系、神聖不可侵の条項ができた。

 

これが新しい国家神話「対抗的、外向的一者」の確立である。

 

古代においても、天皇についてこのような規定はなかった。

律令体制においてもこれほど天皇を神格化したことはなかった。

そのような、万世一系、神聖不可侵という規定で、大日本帝国憲法を制定した。

それを日本独自の国家体制として、プロイセンの絶対王政などをモデルにし取り入れながらそれまでの律令体制的な古いシステムに接ぎ木した。」

「それが明治二十年代から三十年代に、日清戦争(明治二十七年)と日露戦争(明治三十七年)に勝利を収め、やがて第一次世界大戦の後、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入していき、昭和二十(1945)年、日本は敗戦を迎える。そして敗戦の後、日本国憲法、つまり現憲法が確立するに至る。それは次なる「 象徴的・総和的一者」体制の形式でもあった。」(本2、)179~180頁)

 

ト)一神教された国家神道

 

A)「伊藤博文がそう思ったセンス。

つまり、ヨーロッパの各国、いまでもスウェーデンやデンマークを思いだしてもらえばよくわかりますが、そしてまたヨーロッパの国旗を思えばわかることですが、ほとんどの古い国の国旗が十字ですね。

だから、国家の基礎の中に、つまり「 圧搾空気 」のようにして地盤があって、それがキリスト教で、その上に国家という屋台が立っている。

その国家という屋台は、地面にベチャッと基礎工事もせずに立っているものではないのですね。

キリスト教的な倫理観および気分の上に国家が立っているということです。

伊藤博文はよく考えたと思うのです。

かれが、その時に「万世一系ノ天皇」というものを考えざるをえなかったのは、日本の近代化の苦しみだろうと思います。

「万世一系ノ天皇」というだけでは、やはり明治二十年代にはまだ思想化できないので、そのへんにある神道を(国家神道にもう既にしつつありましたが)国家神道にするということは、神道というものを、結果として、われわれの心から離れさせてしまった。

国家神道に仕上げられた神道も気の毒なのですが、それを、キリスト教に代わる「圧搾空気」にしようとしたのですね。これはもう、普遍性もないものにしてしまった」(本1)16頁)

 

B)「万世一系ノ天皇」だけではやはり近代国家の精神的基軸としては非常に弱い。堅固な中心軸とはなりえないという懸念があったのではないか。

その強化策のひとつとして、儀礼的に荘厳にする装置をつくりだそうとしたと思うのですね。

 

何をやったかというと、伝統的な神道の中から儀礼の部分を取り出して切り離し、天皇を中心とする祭りのシステムをつくりあげました。

 

そのうえで、この祭りのシステムは宗教ではない、祭祀であると、言い逃れたわけですね。

 

一般的に宗教と祭祀の分離政策といわれるものです。

そうすれば「政教分離」という近代的な原則にも違反しないのだというふうに、抗弁したわけです。

祭祀は宗教ではないのだから、「王(=天皇)の正統性を保証する儀礼として活用してもよいのだという論理です。

その結果、伝統的神道は天皇儀礼と一体化して、いわば一神教化といってもいいし、キリスト教化したのではないかと私は思うのですね。

明治の近代化の過程で蒙った神道の変化ですね。

それは、一神教化といってもいいし、キリスト教化といってもいいのではありませんか。」(本1、)18頁)

 

C)「文明開化の中で、国家体制も、政治体制もいわばキリスト教化することになりました。

 

それが中央集権制と結びついて、一神教という形で現れ、天照大神と天皇を直結させる系譜信仰というものが、そのうえにつくりだされることになったわけですね。

神道界の多くの方がたが今日に至るまで、神道は宗教でないということを言われるようになった。

神道はどう考えても宗教であるにもかかわらず、そのような歴史的な経過をたどったにもかかわらず、神道があたかも宗教でないかのごとく考える習性がいつのまにかできあがってしまいました。

神道の非宗教化ということを、意識的、無意識にやってきてしまっているように、私には見えるのです。」(本1、)19頁)

 

D)「文明というものを、宗教ぬきで、キリスト教ぬきで受容したために、ひよっとすると日本の近代化はムダなくすっと、短期間で実現することができたような気がするんですが。」

「そうですね。チューリップの根っこごと持ってこずに、チューリップを茎だけ切って花瓶にさすと、かえってきれいで生きいきしてますからね。」(本1、)26頁)

 

後記 憲法九条改正と靖国神社

「 神仏習合と私 」を書いてみて、恥ずかしながら、国家神道の施設である「 靖国神社 」について、初めて、鎌田東二さんの「 神と仏の出逢う国 」を通して知ることが出来ました。

 

日本は「 神国 」とよくいわれますが、これまでは、元寇の役で、攻めてきた元の船舶を「台風 」が沈めて、日本をまもってくれたから、そういうのだろうぐらいにしか、思いませんでした。

 

しかし、「 神仏習合と私 」を書いているうちに、「 日本は縄文の時代から神を感じ取り、百済から来た「 仏教 」を取り入れてきて、自然の神を信じているから、「 神国 」といわれるのではないかと思い始めました。

 

 

私たちの生活に、縄文から続く習俗が、自分がきづかない中で自然に取り入れられて、年の初めに神社に行き、年末はクリスマスを祝うという行為に対して、外国人から、「 日本人の宗教は何なのか? 世界に圧倒的な信者を持つキリスト教の学校は、日本にたくさんあって、首には十字架をかけている日本人がキリスト教徒ではないことが信じられない 」とかいう言葉になると思います。

 

日本には霊山といった山々があったり山を「 御神体 」とする神社もあります。

 

 

昔から山岳信仰があったのは、「 神仏習合と私 」に書いたように、人は死んだら山に戻るといった信仰があり、鎌田さんの本によれば、江戸時代の本居宣長もそう考えていたようです。

 

 

ところが、本居宣長の没後、弟子と称した平田篤胤が、本居宣長が軽視していた霊魂を研究し、その後、薩摩や長州が唱える「 勤皇思想 」や「 尊王攘夷思想 」に、幕藩体制を覆すイデオロギーとして利用され、西洋の軍隊が強烈であることを知り、「 文明開化思想 」がおこると共に、平田篤胤の思想が衰退し、「 王政復古 」と「 神仏分離 」と「 廃仏毀釈 」が断行され、「 王政復古 」の名のもとに、聖徳太子のころの神仏習合に元ずく政治とは正反対の、万世一系とする天皇を現人神として、神道を宗教ではなくて「 祀り」とする「 国家神道 」を基礎とした中央集権国家となり、戦争で亡くなったミタマを祀る国家神道の施設として「 靖国神社 」が出来たと、私は認識しました。

 

 

恥ずかしながら、昔、学校でこのような日本の歴史を教えて頂いたはずなのに、私は、鎌田さんの本を見るまでは知らず、私のように無知な人に分かるように、鎌田さんに本から盗用ともとれるほど、引用しました。

 

いままでの私は、歴史を知らないため、戦争の軍歌などを聞きながら、戦死された人たちは、靖国神社の桜になって、我々の参拝を待っているんだと思いこんでいました。

 

しかし、「 神 」を「 自然エネルギー 」だと解釈すると、戦死された人たちのミタマは日本に残した家族のもとに戻るでしょうし、「 ミタマは靖国の桜になるんだ 」と勝手に、戦死された人のミタマに靖国神社の桜になるように方向づけをすることは出来ません。

 

天皇が供養として祀るのならば、その意味があるかも知れませんが、総理大臣は靖国神社に参拝するというのに、昭和天皇が戦場の各地に巡行されましたが、死ぬまで靖国神社に参拝されなかったのが不思議です。

 

それに、現政権は、毎年参拝する靖国神社のことには触れずに、憲法九条を廃止し、「 国軍 」を創設するといいますが、不幸にして亡くなった国軍の人を、靖国神社に祀るのでしょうか?

 

戊申戦争や第一次、第二次大戦で戦死された人と一緒に祀るのでしょうか?

 

もし、「 国軍 」の戦死された人のミタマを家族のもとで祀るというなら、現在、靖国神社で祀られている戦死された人は、なぜ靖国の桜になって、毎年、靖国神社で桜花を咲かせねばならないのでしょうか?

 

その人たちのミタマは、いつになったら、家族のもとに戻るのでしょうか?

 

それと、今までの戦死された人は、天皇を主権とする日本国救済の犠牲者ですが、これから将来の「 国軍 」の戦死されたひとは、まさしく国民を守るために亡くなるのですから、同じ扱いをして、いままで祀られたミタマとこれから祀られるミタマは同意するのでしょうか?

 

それに、アメリカもいうように、アメリカの戦略武器があったからこそ、日本の自衛隊の自衛する武器も進歩したんだと思います。

 

まだ、アメリカも後ろにいて、沖縄の基地も返還されずに駐留を許している状態の今、どうして、相手国に武力を行使する「 国軍 」が必要なのでしょうか?

 

薩摩や長州の一部の考えで、軍備拡張した戦争に突き進んだ経験を反省しなければなりません。

 

明治政府がしたように、国家神道を復興させるのですか?

 

私たちが「 神国 」といわれる意味を良く認識したうえで、単なる自民党の憲法改正案だけではなく、世界各国の憲法を、マスコミやネットで公開し、国民全体の広い議論が必要だと思います。

 

広ク会議を興シ 万機公論ニ決スベシ

kandk55
作家:高口克則
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