神仏習合と私

私の考えの展開

私の立場は以上ですので、明治維新と称して、体制を幕府から天皇に変え、諸外国のように、政治体制を整えた明治政府は、それまで続いた「 神仏習合 」を廃止し、「 廃仏毀釈 」を断行して、「 神道 」を中心としましたが、日本の良き伝統だった人倫に沿う政治ではなく、その心を捨てさせて、思想を神道一本にしたのが間違いだったと思います。

 

聖徳太子以前の日本の争いごとをする民族に戻り、富国強制をし、誤った「 神 」の解釈のもとに、国民を戦争に駆り立て、それを阻止する勢力を「 非国民 」とレッテルを貼って犯罪者のごとき仕打ちをしたのは、大きな間違いでした。

 

当時の国際状況として、やむをえない措置であることは仕方がないかも知れませんが、その「 仏の心 」を持った日本帝国陸軍将校が、戦地でその「 仏の心 」を発揮し、戦後、戦争犯罪者と日本は見られながらも、その将校は現地人から感謝されています。

 

現在でも「 仏の心 」を持つ自衛隊員が、現地から感謝されるのを見ると、やはり、明治政府がした行為は、国民を劣悪な人の道に導いたといわざるを得ません。

 

 

私は、このように考えますので、忖度を強要したり、喜んで忖度する高級官僚である公務員を見たり、宗教に興味がない人たちが育てるであろう子供を想像するにつけ、将来の日本の行方が心配されます。

 

彼らには、国民を思う「 仏の心 」は」あるのだろうか?

 

父母として、子供の何を教えるのか?肉体の快楽か?

 

ですから、「 子に対する親の責任 」として、以下に引用する記事を書いたのです。

 

以下は引用です………………………

 

 

被害に遭遇した東北のひとたちが、災害時に列を作り、順番に救助品を受け取ったり、あるいは、皆が協力して学校給食の支度をするのを見た外国人は驚くといいますが、その人たちは、自分の親から、日々、そのような行動をするように言われているから、したことであり、法律があるとか宗教があるということが、原因ではないと思うのです。

 

明治時代、外国の人に同じような質問をされた新渡戸稲造は、日本には武士道があるといったそうですが、その時の日本はまだ侍の思想が濃厚で、彼らの親の子に対する養育態度が武士道に沿っていたものと考えます。

 

現在、同じような質問を受けた場合は、何とお答えになるでしょうか?

 

私は、明治政府が否定した、日本に独特な「 神仏習合 」の考えがいまだに国民の根本にあると考えます。

 

明治政府は、愚かでした。(資料編 ヘーA,B,トーA,B)

 

薩摩も長州も愚かで、戦後の日本の思想家も愚かでした。(資料編 ニーC)

 

私は、この「 神仏習合 」の考えこそ、日本が育んだ、素晴らしい思想だと思います。

 

それは、私の電子書籍の「 誕生から死後までの意識 」で書きましたが、災害のエネルギーは「 神 」なのです。

 

順番を作って救助を待つというのは、「 神の前では皆が平等だ 」、つまり災害の前には皆が平等だというに等しく、「 皆が平等だ 」というのは、多分、古来は仏教だったり戦後は、民主主義の思想ではないかと私は思います。

 

そういう考え、つまり、すべての物には神が宿る、言い換えれば、すべては神が化身したものだという古来の思想が、日本人の中にあるのではないかと思うのです。

(資料編 イーA,B,C,D,E,F)

 

日本人は、正月は神社に参拝したり、結婚式は教会で、死ぬ時はお寺さんから、僧侶を呼ぶのに、平気でクリスマスを祝ったり、ハロウインで仮装することに疑問を感じるでしょう。

 

それは、宗教を持っていないともいわれるかも知れませんが、生き死には「 神 」が担当し、生活様式は仏様をはじめとする宗教が担当すると、私は考えます。

 

「 神 」はエネルギーですから、自分の力の及ぶとこはなくただ従い、仕事や遊びの神が宿って、自分はそれに従うだけである。

 

それに反して「 宗教 」は選択するものであり、古来の日本では仏教も何を本尊にするかで、違う宗派があり、選択することができたのもその原因のひとつではないかと、私は思います。(資料編 ローA)

 

先ほど、明治政府は愚かだというのは、彼らが戦争という人類の罪を犯そうとしたとき、「 仏 」であることを捨ててしまったために、戦争という人道を無視した国家に反対すべき仏教徒がいなく、罪だと思う民衆がいなかったから、彼らがいう「 神 」を信じて、「 死んで神となれ 」といって、特攻隊と称して民衆を殺したのです。

(資料編 ヘーA,B,トーA、B)

 

戦後の思想家が愚かであるのは、「 神仏習合 」など思いもせずに、戦前の「 神 」を否定したいがために、 「 神 」を否定するマルクス主義の唯物論に走ったり、象徴天皇を認めなかったり、特攻隊を軽くみたり、「 君が代 」の由来を本来とは意味を説明せずに、それと違う天皇賛美の国歌としたり、戦争で死んでいった人の屍(しかばね)の上に立った平和を、憲法を改正し、戦後のように軍隊を復活させ、戦争可能な日本にすることが、戦争で死んだ人への我らの責務というのは、まったくの「 お門違い 」で、死んだら神になることは、「 死んだら物理エネルギーになって生まれ故郷のエネルギーに戻って子孫を守ること 」であり、靖国神社の桜になって、参拝を待っているのではないのです。(資料編 ニーC,ヘーA,トーB)

 

それなのに、総理も閣僚も、靖国神社の英霊を拝するというが、それは、戦前の「 神 」と同じ頭であり、戦前から脱却したいなら、「 神仏習合 」を身に着けるべきだと思います。(資料編 ヘーA,B トーA,B)

 

それは難しいことではないと思います。

 

死んだら神になりますが、生きているときは、「 仏 」のようの行動せよということで、仏教でもキリスト教でもなんでもいいから、「 人格完成 」を求めて、「 人道的に行為 」すればよいと思います。(資料編 ローA,ハーB)

 

 

 

 

 

 

資料編 Ⅰ (幕末までの神仏習合)

< 資料編 >

 

始めに、

 

私は、田舎のおばちゃんが言うように、自分の人体も含めて自然の中に神が宿っていれば、仏も宿っていると考えますから、無神論といえば無神論であり、一切万有は神であり、神と世界は一体とする汎神論といえば汎神論であり、一神教な見方からすれば無神論であります。

 

神道を信奉するのでもなく、キリスト教徒でもなく、仏教の僧侶でもなく、一般の人のように、一応は仏教徒であると考えています。

 

私の考えは、前回、ブログで書きました。

 

これは私が都合の良いように図書館から借りた二冊の本から、引用した記事ですから、主観的です。

 

ですから、前回のブログの資料編とでもいっておきます。

 

引用する書籍を下に書きます。

 

1)「 日本とは何かということ」 司馬遼太郎・山折哲雄 NHKライブラリー

                          2003年5月15日

        司馬遼太郎(1923~1996)

        山折哲雄 (1931~    )

 

本2)「 神と仏の出逢う国 」 鎌田東二 角川選書 平成21910

 

        鎌田東二(1953~    )

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Ⅰ、 幕末までの思想

 

イ)神仏が習合する前

 

私は、ブログで、飛鳥時代に発布された聖徳太子の憲法十七条で、神仏習合があったと書きましたが、実際は、もっと前から神仏習合はあったでしょう。

その以前に、縄文時代があり、弥生時代がありますから、その時代の「 神仏 」を探っていこうと思います。

まず、日本には日本の自然がありました。

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A)「日本の自然というのは、ものすごく不安定で、その不安定さの原因が地震・台風・洪水・津波である。

これはもう百年、二百年の問題ではなく、まさに千年・二千年の長期にわたって続いてきた自然条件だった。

だから、そういう自然がひとたび暴れだし、猛威をふるうとき、日本人はもうその自然の脅威の前に頭をたれるほかなかった。

従順になって、自然に反逆するなど、はじめから諦めている。

そのかわり、日常的には、そういう非常時のためにできるだけの備えはしておく。」

「天然の無常という独特な感覚を抱いて、自然の猛威に対処し、自然が引き起こす災害に耐えてきた」「その天然の無常という感覚が、さきほどの吉田松陰の淡泊な精神とか、無私の精神とどこかで通い合っている」(本1、)44~45頁)

 

B)柳田国男さん(1875~1962)によれば、「村を見下ろす山から祖先の霊が農業神として村に訪れ、祝福し、そこから一年の農作業がはじまり、秋祭りで神への感謝が行われ、神は再び山へ帰っていく、というもので彼はそのようなサイクルで暮らす人々を、常人と名付けた。」(本3、)51頁)

 

C)本居宣長(1730~1801)の死後観は、「神道の安心とは、安心なき安心であると述べている。

それはことさらに安心立命を求めず、死んだら魂が山に行ってこの世の子孫を見守っているという、漠然とした感情が日本人の考えであり」(本2、)168頁)

 

D)山折氏(1931~  )は「西方十万億土の浄土観というものが日本にはいってまいりますと、日本人は簡単に変えてしまいまして、浄土は山の中にあるよという「山中浄土観」という考え方をつくってしまいます。

山は古くからわれわれにとっては宇宙の中心であったし、自分たちの先祖が宿っているところでもありました。

「万葉集」などを見ますと、死んだ人の霊魂は山に登るということがうたわれておりますし、そのうえ、山そのものが神だという神体山の信仰が、もう「万葉集」の時代からあるわけですね。

そういう意味での自然との協調の感覚といいますか、最近の言葉でいうと「共生」の感覚といってもいいだろうと思いますけれど、それがずっと千年以上も続いてきている。」(本1)13頁)

 

E)「その縄文時代は、自然をカミと感知し崇める、自然万物の中にさまざまな霊威・霊性を見出すアニミズム的・トーテミズム的な自然信仰や精霊信仰が中心であった」(本2、)150頁)

 

F)漢字の「 神 」音読みの「 シン 」の意味と、訓読みする日本の「 かみ 」の意味とは違って「 かみ 」は「 存在への最大の敬意の表現である。

かくして「神=かみ」は、神性・神威・神格・霊性・霊威・霊格を総称し包括する「 神聖フォルダー」であり、また「 神聖カテゴリー 」である。

本居宣長は「古事記伝」において、「世の常ならずすぐれたる徳(こと)のありて可畏(かしこ)きもの」と「かみ」を定義したが、そこでは、偉大なものは、どんなものでも「神=かみ」になる可能性がある。

別の言い方をすれば、どのようなものでも畏怖や経緯を以て祀ることにより「神=かみ」となるのである。

こうして、すごい、と思えるものはみな「神=かみ」となりうるのだから、いたるところに「神=かみ」は生まれることになる。」

「雨後のたけのこのように「神=かみ」が増殖してくる。

それらをまるごと一括総称して「 八百万の神々 」と呼んだ。」

「この「八百万の神々 」とは、ある種、融通無碍な、多様な存在次元や存在形態を含んでいる。

そのような多様性を持った、すごい威力を持つ、すなわち神聖なエネルギーにかかわるさまざまな情報や状態や形態を統合し、まとめ束ねる結集点である「フォルダー」として「神=かみ」という語が発明された。」(本2、)19~20頁)

 

 

 

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私は、神道の「神」は宇宙(自然)エネルギーとしたのは、上記の人たちの言葉からも肯定されると信じます。

 

ひょっとして、私の中には、はるか縄文文化の思想がしみ込んでいるのかもしれません。

 

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ロ)それでは、「 仏 」とは何でしょう。

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A)「 仏 」はブッダ(仏陀)のことであり、「 彼は「真理=法」に覚醒した人物、悟りを開いた人物である。

ブッダの道は仏教、すなわち悟りを開いた人の説く真理の教え(仏法)であり、悟りを求めえて、世界の現象をありのままに見つめるところから真の人の道、悟りないし解脱の道を実現しようとした宗教の革命児なのである。

ここに、伝承文化としての神道と伝承文化への批判と超越としての仏教の原理的違いがある」(2、70頁)

 

「ブッダの悟りは、無我とか無常とか縁起とか無自性とか空とまとめられる。

要するに、人間は一般的に物事を実体ととらえ、それに執着するところに欲望の自縄自縛や業が生起して、結局、輪廻の鎖から抜け出せないのだという考えである。

したがっておのれの欲望の根っこに何があるかを正見し、徹底的にその実体のなさに気づくことが根本的に大事になる。こうして、仏教で説く無我も空も、単なる無ではなく、関係性の相対性・相依性・仮像性を表わす概念となる。」(本2、)76頁)

 

 

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「要するに……」以降の文は、般若心経の「 色即是空 空即是色 」とおなじことだと思い、「 仏 」はひとの生きる道を示すもので、ブッダは「 かみ 」とは違う感じがします。

ですから、仏教の目的は「 かみになることではなく、自分の行為を人倫に反していないかを反省して「 人とは何かを悟ること 」だと思います。

 

私は、「 仏 」れは、「 生命エネルギー 」とみなすのは、「 誕生から死後までの意識 」で書いたとおりです。

 

つまり、「 宇宙(自然)エネルギーと人体が持つ生命エネルギーは違うものであるという解釈です。

 

したがって、特攻隊で死んだ人は、靖国神社の桜になって参拝されることを待っているのではないと想います.

 

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ハ)神仏習合させた人

 

B)「聖徳太子は、シャーマニスティックな予知能力があった。」

「聖徳太子はこうした直観知に加え、外典・内経(内経とは仏教および仏教に経典・外典とは儒教)を学んでいる。

つまり、当時の最先端の知識であった儒教と仏教をともに学び、それをもとにしながら」「こうして、憲法十七条を制定するが、その第一条は「和を以て貴しと為し、さかふることなきを宗とせよ」という。

聖徳太子は国内統一を「 和 」と「 天皇 」という概念と体制によってはかり、日本を仏教精神に基づく中央集権的な統一平和国家にしようとした。

それは精神性の高い国家理念としての「憲法」の提示であり、日本の政治構造の土台の確立でもあった。」

「豪族間のさまざまな争いを目の当たりにしてきた聖徳太子にとっては、平和を構想するためには、社会的なルールを取り決め、その基盤に道徳を置くだけでは足りなかった。

そのさらに中核に仏教という精神基盤を置くことが重要だった。

この路線はその後も長く形は守られ、日本の宗教文化の基本路線となってゆく。仏教と儒教と神道という三つが相互に共存しながら今日まで続いているのが日本の宗教文化の骨格であるが、その骨格を聖徳太子が定め、精神的なインフラ整備をしたとされるのである。」(本2、)85頁)

 

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これで、どうやら聖徳太子が神仏習合を実行したといえると思いますが、民間レベルで神仏習合したケースは書いてありませんが、私は、山岳信仰をする修験道の開祖である役小角(役行者)だと思います。

 

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C)「 古代からのアニミズム的・シャーマニズ的な宗教文化を基盤にしながら、新たに導入された道教や仏教、とりわけ密教的仏教を取り込みながら修行し、蔵王権現や弁財天を感得し、」「造形表現となったのが、大峰修験道の本拠地・吉野蔵王堂の本尊の蔵王権現である」(本2、)93頁)

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これは、「 誕生から死後までの意識 」で書いた、山伏が般若心経を口づさむという根拠になると思います。

これは、「 色即是空 空即是色 」を修行で感得できるかもしれないからです。

 

その後、空海や最澄がでて、戦国時代にキリスト教が出てくる。

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D)「豊臣秀吉は、イエズス会のバテレンたちが潜在的に企図している、キリスト教的信仰による国家支配という宗教的野望に気づき、バテレン追放令を政策として出し」、徳川幕府は「最終的に鎖国政策を実施し、政治的統一を達成して、幕藩体制をつくりあげた。」(本2、)164頁)

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資料編 Ⅱ (幕末から現在)

Ⅱ、幕末から現在まで

 

 

ニ)幕末から明治へ

 

A)「天皇家も公家も寺社も世俗化する中、」「芸能的庶民文化が栄える一方で、宗教ではなく学問が大いに発展深化した。

伊藤仁斎や荻生徂徠の古学から影響を受けて本居宣長や平田篤胤の国学などの古学=国学が勃興し、儒学においても朱子学、水戸学が展開して栄えた。」(本2)、166頁)

 

 

B)本居宣長(1730~1801)

 

「源氏物語」に代表される王朝の日本的な美意識や精神性を「物のあわれを知る」ととらえ「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」と歌った。」

「物のあわれを知る」ことの中核には、自然美の感受がある。自然の細やかなうつろいを繊細な美的感情とともに感受する心。本居宣長はそれを日本的精神や日本的心の中核にイメージして、いた。(本2)、167頁)

 

本居宣長の死後観は、「神道の安心とは、安心なき安心であると述べている。それはことさらに安心立命を求めず、死んだら魂が山に行ってこの世の子孫を見守っているという、漠然とした感情が日本人の考えであり」(本2、)168頁)

 

 

C)平田篤胤(1776~1843)

 

「本居宣長の没後の門人。」「本居宣長のような文学的な情緒主義に満足できなかった国学者」「最大の関心事は、霊性の根拠であり、死後の霊魂の行方と鎮まりであり、霊界の真相であった。

人間は死んだらどうなるのか、霊魂はどのようにしてやってきて、死後どこへいくのかといった、霊魂観や他界観がわからなかったら、真の意味での大和心も確立できないと考えた。

こうして平田篤胤は、師の本居宣長とはまったく異なる神道観と神道論を展開していったのである。

没後の門人を名乗った平田篤胤は、師匠の説とは全く違う観点と説を問題定義し、物の怪に強い関心を持ち、妖怪やお化けの研究に真面目に取り組んだ。」(本2)168頁)

 

「本居宣長は、しょせん闇の部分は不可知の領域だから、そんなことに頓着しないのが日本人で、それが「安心なき安心」の心の境地なのだといって、霊の領域をそれ以上追求することはなかった。

本居宣長は、光の当たった表の美しい部分を価値づけた国学者であり、それはいわば雅の表の神道である。

それに対して平田篤胤は、闇の部分に焦点を当てる物の怪と裏の神道を展開し、幽冥界を主たる研究領域に定位した。

こうして、霊的世界を探求することが平田国学の根本テーマになった。

それが、物の怪の消息を知る国学となり、魂の行方を捜す復古神道になっていったのである」(本2、)170頁)

 

 

 

「平田篤胤の神道論の中には、日本が世界一の根源の国で、日本が中心であるという思想がある。

 

日本神話が世界中の神話の元で、それが各国各地に伝わって世界の諸神話になっていったのであり」「日本中心の思想が彼の中にあった。

そこで、こうしたきわめてナショナリスティクな日本中心主義は当然のごとく排外思想すなわち尊王攘夷思想と結びついて、幕藩体制を打倒し、明治維新を招来する格好のイデオロギーになっていく。

なぜなら、幕藩体制を覆すイデオロギーとして旗幟鮮明で、大義名分も持つ復古神道的な尊王思想が機能したからである。

つまり、徳川将軍家よりももっと古くて正統性があり、日本統治の頂点に立ち得る正当な支配者は天皇であり、征夷大将軍の任命権は形式的には天皇にあったために、天皇を担ぎ出すことによって現政権、すなわち徳川将軍家の支配による幕藩体制を転覆させるという政権打倒のシナリオが描かれたのである。

このようにして、平田神学は、一面では、勤皇思想、尊王思想、日本中心主義、排外主義によって、ヨーロッパ列強国に対して徹底的に抗戦して、敵を追い出していくというイデオロギーのよりどころとされた。

 

最初期は尊王と攘夷が結び付いていたが、アメリカやイギリスの軍隊がいかに強力であるかを目の当たりにして、文明開化思想が時の流れになっていく。

こうして、西洋の文物を導入していく文明開化の流れが生まれてきた。

その幕末の激動期に日本民族主義をつくった一人の代表的イデオローグとして平田篤胤は利用された。

その際、幽冥研究の部分はあまり注目されず、日本主義、民族主義のほうに焦点が当たり、それが明治維新を推進していく一つの原動力になったわけである。」(本2、)171~172頁)

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ヘ)明治から第二次世界大戦の敗戦まで

 

神仏分離政策

 

A)「東照宮建立は古代神話とも中世神話とも違う政治神話なのである。

また、水戸藩や会津藩など、一部の藩では、神仏分離の政策が進められた。

近代は世俗化した時代の次の新たな国づくりの時代で、再び統一神話が必要とされた。

そこで、どういう神話ができたかというと、それは西洋列強国に対抗する、古代の夢よもう一度という王政復古という律令神話の復活であり、制度的には神祇官の復興であった。」

 

「このようにして、明治時代の宗教政策、宗教行政はめまぐるしく変わっていったのである。

そこには一貫したポリシーはなかったと言える。

 

重要なのは、ここにおける最初の大方針、グランド・デザインが、すでに江戸時代に水戸藩でも進められていた神仏分離政策であった点である。

 

神と仏を、はっきりと分けること。

 

続いて、その政策に促されて、廃仏毀釈運動が行われ、多くの貴重な神仏習合文化が破壊された。そして明治五年に修験道が廃止させた。

修験道こそ神道と仏教がミックスした日本独自の習合宗教であったために、その廃止による被害には甚大なものがあった。」

「慶応三(1987)年、大政奉還されて、王政復古となり、明治天皇が即位した。

そして明治元年、祭政一致の制を復活し、全国の諸神社を神祇官に所属させ、続いて神仏分離と五箇条の御誓文が実施された。」

「明治天皇が伊勢の神宮に参拝し、これが天皇の神宮参拝の始めとなる。

そして、九段に東京招魂社(のちの靖国神社)が創建され、戊申戦争の戦死者を祭り、靖国神社や諸県の護国神社の起こりとなった。」(本2、)175頁)

 

B)「王政復古的な、いにしえをもう一度呼び出すという作業(和への回帰)と、一番新しい先端文明を取り入れる作業(洋への参入)を結合する。」

「その過程で、平田神道は敗退していった。

この過程は、神仏分離令、王政復古、文明開化、富国強兵、殖産興業、キリスト教解禁、信教の自由、政教分離原則の取り組みという政策実行過程であった。

そしてそれは同時に、民間の自由民権運動と結びついていって、最終的にその決着として、明治二十二(1989)年に大日本帝国憲法(明治憲法)が制定される。

こうして、明治二十二年二月十一日に大日本帝国憲法が発布され、皇室典範が制定される。続く明治二十三年に教育勅語発布。

この時代に日本の路線、法治国家としての大枠が出来上がるのである。

そのときに天皇は万世一系にして日本の国家元首であり、日本を統治する神聖にして不可侵の存在であるという、万世一系、神聖不可侵の条項ができた。

 

これが新しい国家神話「対抗的、外向的一者」の確立である。

 

古代においても、天皇についてこのような規定はなかった。

律令体制においてもこれほど天皇を神格化したことはなかった。

そのような、万世一系、神聖不可侵という規定で、大日本帝国憲法を制定した。

それを日本独自の国家体制として、プロイセンの絶対王政などをモデルにし取り入れながらそれまでの律令体制的な古いシステムに接ぎ木した。」

「それが明治二十年代から三十年代に、日清戦争(明治二十七年)と日露戦争(明治三十七年)に勝利を収め、やがて第一次世界大戦の後、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入していき、昭和二十(1945)年、日本は敗戦を迎える。そして敗戦の後、日本国憲法、つまり現憲法が確立するに至る。それは次なる「 象徴的・総和的一者」体制の形式でもあった。」(本2、)179~180頁)

 

ト)一神教された国家神道

 

A)「伊藤博文がそう思ったセンス。

つまり、ヨーロッパの各国、いまでもスウェーデンやデンマークを思いだしてもらえばよくわかりますが、そしてまたヨーロッパの国旗を思えばわかることですが、ほとんどの古い国の国旗が十字ですね。

だから、国家の基礎の中に、つまり「 圧搾空気 」のようにして地盤があって、それがキリスト教で、その上に国家という屋台が立っている。

その国家という屋台は、地面にベチャッと基礎工事もせずに立っているものではないのですね。

キリスト教的な倫理観および気分の上に国家が立っているということです。

伊藤博文はよく考えたと思うのです。

かれが、その時に「万世一系ノ天皇」というものを考えざるをえなかったのは、日本の近代化の苦しみだろうと思います。

「万世一系ノ天皇」というだけでは、やはり明治二十年代にはまだ思想化できないので、そのへんにある神道を(国家神道にもう既にしつつありましたが)国家神道にするということは、神道というものを、結果として、われわれの心から離れさせてしまった。

国家神道に仕上げられた神道も気の毒なのですが、それを、キリスト教に代わる「圧搾空気」にしようとしたのですね。これはもう、普遍性もないものにしてしまった」(本1)16頁)

 

B)「万世一系ノ天皇」だけではやはり近代国家の精神的基軸としては非常に弱い。堅固な中心軸とはなりえないという懸念があったのではないか。

その強化策のひとつとして、儀礼的に荘厳にする装置をつくりだそうとしたと思うのですね。

 

何をやったかというと、伝統的な神道の中から儀礼の部分を取り出して切り離し、天皇を中心とする祭りのシステムをつくりあげました。

 

そのうえで、この祭りのシステムは宗教ではない、祭祀であると、言い逃れたわけですね。

 

一般的に宗教と祭祀の分離政策といわれるものです。

そうすれば「政教分離」という近代的な原則にも違反しないのだというふうに、抗弁したわけです。

祭祀は宗教ではないのだから、「王(=天皇)の正統性を保証する儀礼として活用してもよいのだという論理です。

その結果、伝統的神道は天皇儀礼と一体化して、いわば一神教化といってもいいし、キリスト教化したのではないかと私は思うのですね。

明治の近代化の過程で蒙った神道の変化ですね。

それは、一神教化といってもいいし、キリスト教化といってもいいのではありませんか。」(本1、)18頁)

 

C)「文明開化の中で、国家体制も、政治体制もいわばキリスト教化することになりました。

 

それが中央集権制と結びついて、一神教という形で現れ、天照大神と天皇を直結させる系譜信仰というものが、そのうえにつくりだされることになったわけですね。

神道界の多くの方がたが今日に至るまで、神道は宗教でないということを言われるようになった。

神道はどう考えても宗教であるにもかかわらず、そのような歴史的な経過をたどったにもかかわらず、神道があたかも宗教でないかのごとく考える習性がいつのまにかできあがってしまいました。

神道の非宗教化ということを、意識的、無意識にやってきてしまっているように、私には見えるのです。」(本1、)19頁)

 

D)「文明というものを、宗教ぬきで、キリスト教ぬきで受容したために、ひよっとすると日本の近代化はムダなくすっと、短期間で実現することができたような気がするんですが。」

「そうですね。チューリップの根っこごと持ってこずに、チューリップを茎だけ切って花瓶にさすと、かえってきれいで生きいきしてますからね。」(本1、)26頁)

 

後記 憲法九条改正と靖国神社

「 神仏習合と私 」を書いてみて、恥ずかしながら、国家神道の施設である「 靖国神社 」について、初めて、鎌田東二さんの「 神と仏の出逢う国 」を通して知ることが出来ました。

 

日本は「 神国 」とよくいわれますが、これまでは、元寇の役で、攻めてきた元の船舶を「台風 」が沈めて、日本をまもってくれたから、そういうのだろうぐらいにしか、思いませんでした。

 

しかし、「 神仏習合と私 」を書いているうちに、「 日本は縄文の時代から神を感じ取り、百済から来た「 仏教 」を取り入れてきて、自然の神を信じているから、「 神国 」といわれるのではないかと思い始めました。

 

 

私たちの生活に、縄文から続く習俗が、自分がきづかない中で自然に取り入れられて、年の初めに神社に行き、年末はクリスマスを祝うという行為に対して、外国人から、「 日本人の宗教は何なのか? 世界に圧倒的な信者を持つキリスト教の学校は、日本にたくさんあって、首には十字架をかけている日本人がキリスト教徒ではないことが信じられない 」とかいう言葉になると思います。

 

日本には霊山といった山々があったり山を「 御神体 」とする神社もあります。

 

 

昔から山岳信仰があったのは、「 神仏習合と私 」に書いたように、人は死んだら山に戻るといった信仰があり、鎌田さんの本によれば、江戸時代の本居宣長もそう考えていたようです。

 

 

ところが、本居宣長の没後、弟子と称した平田篤胤が、本居宣長が軽視していた霊魂を研究し、その後、薩摩や長州が唱える「 勤皇思想 」や「 尊王攘夷思想 」に、幕藩体制を覆すイデオロギーとして利用され、西洋の軍隊が強烈であることを知り、「 文明開化思想 」がおこると共に、平田篤胤の思想が衰退し、「 王政復古 」と「 神仏分離 」と「 廃仏毀釈 」が断行され、「 王政復古 」の名のもとに、聖徳太子のころの神仏習合に元ずく政治とは正反対の、万世一系とする天皇を現人神として、神道を宗教ではなくて「 祀り」とする「 国家神道 」を基礎とした中央集権国家となり、戦争で亡くなったミタマを祀る国家神道の施設として「 靖国神社 」が出来たと、私は認識しました。

 

 

恥ずかしながら、昔、学校でこのような日本の歴史を教えて頂いたはずなのに、私は、鎌田さんの本を見るまでは知らず、私のように無知な人に分かるように、鎌田さんに本から盗用ともとれるほど、引用しました。

 

いままでの私は、歴史を知らないため、戦争の軍歌などを聞きながら、戦死された人たちは、靖国神社の桜になって、我々の参拝を待っているんだと思いこんでいました。

 

しかし、「 神 」を「 自然エネルギー 」だと解釈すると、戦死された人たちのミタマは日本に残した家族のもとに戻るでしょうし、「 ミタマは靖国の桜になるんだ 」と勝手に、戦死された人のミタマに靖国神社の桜になるように方向づけをすることは出来ません。

 

天皇が供養として祀るのならば、その意味があるかも知れませんが、総理大臣は靖国神社に参拝するというのに、昭和天皇が戦場の各地に巡行されましたが、死ぬまで靖国神社に参拝されなかったのが不思議です。

 

それに、現政権は、毎年参拝する靖国神社のことには触れずに、憲法九条を廃止し、「 国軍 」を創設するといいますが、不幸にして亡くなった国軍の人を、靖国神社に祀るのでしょうか?

 

戊申戦争や第一次、第二次大戦で戦死された人と一緒に祀るのでしょうか?

 

もし、「 国軍 」の戦死された人のミタマを家族のもとで祀るというなら、現在、靖国神社で祀られている戦死された人は、なぜ靖国の桜になって、毎年、靖国神社で桜花を咲かせねばならないのでしょうか?

 

その人たちのミタマは、いつになったら、家族のもとに戻るのでしょうか?

 

それと、今までの戦死された人は、天皇を主権とする日本国救済の犠牲者ですが、これから将来の「 国軍 」の戦死されたひとは、まさしく国民を守るために亡くなるのですから、同じ扱いをして、いままで祀られたミタマとこれから祀られるミタマは同意するのでしょうか?

 

それに、アメリカもいうように、アメリカの戦略武器があったからこそ、日本の自衛隊の自衛する武器も進歩したんだと思います。

 

まだ、アメリカも後ろにいて、沖縄の基地も返還されずに駐留を許している状態の今、どうして、相手国に武力を行使する「 国軍 」が必要なのでしょうか?

 

薩摩や長州の一部の考えで、軍備拡張した戦争に突き進んだ経験を反省しなければなりません。

 

明治政府がしたように、国家神道を復興させるのですか?

 

私たちが「 神国 」といわれる意味を良く認識したうえで、単なる自民党の憲法改正案だけではなく、世界各国の憲法を、マスコミやネットで公開し、国民全体の広い議論が必要だと思います。

 

広ク会議を興シ 万機公論ニ決スベシ

kandk55
作家:高口克則
神仏習合と私
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