遺伝子分布論 22K

サトーの話3

  説得は呆気なく終了した。どうも前々から
 宇宙に出たいと思っていたらしい。
 
「どうしてもダメならお金持ちの知り合い作って
 子どもだけ連れて出てもよかったのよ」
 と妻はニッコリ笑った。
 
 ジムの建物内に住める家具付きの部屋が空いて
 るとのことで、荷物をまとめて持てないものは
 箱詰めして郵送し、そして家を出た。夜逃げ
 のごとく。
 
 そして行先は月の裏側にある第三エリアと呼ば
 れる宙域。
 
 一番近い海洋上にある宇宙エレベータで上がり、
 そこからシャトルを使って移動する。どちらも
 高速のものを選ばなければ発車時でもシート
 ベルトなしでくつろげる。
 
 いったん第一エリアでシャトルを乗り換え、
 第三エリアへ向かう。宇宙行き出張を一度でも
 やっておけばよかった。無重力帯の移動含めて
 不慣れなことこのうえない。しかし意外と旅は
 快適に過ごせた。
 
 第三エリアでシャトルを降り、そこでいったん
 ホテル泊した。そこで、ジムの所長のボブと
 会った。たまたま別件で出ており、翌日
 いっしょに移動することになった。
 
 ジムに着いて旅装を解いたあと、ボブから例の
 双子を紹介してもらった。確かに二人とも
 地球で見た少女よりもひと回り体が大きく、
 肌も褐色で強そうだった。似てはいるが。
 
 ついでに同じ日に入門することになった女の子
 も紹介された。アミという。金髪の14歳。
 なんでも音楽活動をやっていて、体づくりの
 ために入門するだとか。
 
 なんとなくごつい筋肉の男ばかりがいるところ
 を想像していたので、少し気が楽になった。
 あとで勘違いであることに気づくのだが。
 
 仕事はジムでのトレーニングの様子を記事に
 して発信すること。というわけで、1か月の
 基礎トレーニングのあとに、本格的な
 トレーニングが開始された。
 
 地獄の始まりだった。
 

サトーの話4

  入って一か月目からスパーリングを始めて、
 それでも2か月間ほどは、あの双子はかなり
 手加減してくれていたんだな、と後で思った。
 
 実は学生時代に球技をやっていて、けっこうな
 ところまで行ったんだ。運動神経には自信が
 あった。そりゃ30代でなまってた部分もある
 が、最初の1か月の地獄のような筋トレや
 走り込みで、かなり戻っていたはずだ。
 
 しかし、最初の一か月が天国だったのはすぐ
 判明した。とにかく立っていられない、
 ひたすらボコボコにされる。いや、一応こちら
 からも攻撃させてくれる。でもすべて、打とう
 が投げようが、すべてカウンターで返される。
 
 たまに部外者が合同練習にくるが、双子と
 けっこういい勝負をしていた。どれだけ強いん
 だとあとで聞いてみたが、外の人間にはあまり
 技を見せないらしい。とくに試合で当たる
 可能性のある人間には。
 
 たまにジェレイドも練習にくる。そりゃ
 もちろん最初のうちはボコボコにされてたが、
 日が経つにつれ、ジェレイドとはそこそこ
 やりあえるようになっていた。いや、もちろん
 負けるのだが、耐えられる時間が少しづつ
 延びてくる。
 
 とはいえ双子には相変わらずやられっぱなし
 だった。こちらの実力が伸びるのにあわせて
 段階的に手加減をなくしていっているように
 見える。むしろ、こっちが弱くなったのかと
 感じるときさえある。
 
  妹のジェシカは優しい。
 いつもスパーリング後のアドバイスがてら
 フォローしてくれる。
「あなたはセンスが良くてリズムがあるから
 技にかかるのよ」
「センスのないひとと練習すると強い選手でも
 調子が落ちるから」
 
 プロなのにおれみたいなのと練習してていい
 のか聞いてみた。
「たまに格下と練習して、勝つイメージを作る
 のも重要なのよ」
 
 うーむ。
 
  妻は元々料理が得意だったので、ジムの
 料理班に入ってはりきっていた。格闘家の体を
 作るための料理はいろいろと制約が多くなって
 くるが、そこがかえって面白いらしい。
 
 記事も開始して1か月も経たないうちに人気が
 出てきた。それは、ジェニーとジェシカが人気
 があり、彼女らとの練習を記事にしていること
 もあるが、とにかくこのジムはいろんなところ
 にいっていろんな練習をする。
 
 打撃系か、投げ技か、というレベルではない。
 とにかくあらゆる格闘技の練習をする。それも、
 最新理論に基づいたかと思えば、ものすごく
 古風な練習法もやる。
 
 そして料理も、練習メニューをあるていど考慮
 したものになっているらしい。つまり、ジムに
 入門どうこうというよりも、単純に健康法的な
 面で人気が出た。
 
 もちろん、私が毎日ヘロヘロになっていること
 は書かない。
 

サトーの話5

  とにかくこのジムはよく泳ぐ。
 この流派の特徴らしい。常に水をイメージしろ
 だと。
 
 こっちはスパーリング中にそんな余裕はないん
 だよ。
 
 でもまあそこまではいい。おれはなぜかほぼ
 毎日、ドラムを叩く練習をやらされている。
 リズムが大事なんだと。納得いかないが、
 ジェシカにそう言われると何も言い返せない。
 
 そうだ、楽器と言えば、あの女の子、アミの
 ことを書かなければならない。まあ単純にいう
 と、強かった。
 
 一応ジェシカに血縁かどうか聞いてみたが、
 違うという。もともとやっている音楽活動の
 関係で、週に3回トレーニングに参加できる
 かどうかという感じだが、数か月でどうも
 おれとは違う特別メニューも秘密の部屋で
 こなしているらしい。
 
 スパーリングも、むしろ最初のうちのほうが
 いい勝負できた。技を覚える速度が半端なく
 速いらしい。若いからだと思うようにしている。
 双子ほどボコらないのは自分の指を気遣って、
 アーティストだから、と本人談。
 
 もちろん楽器もおれよりうまい。本人の専門は
 弦楽器らしいがドラムも他の楽器もうまい。
 そして、ドラムの先生になってくれている。
 金は払わなくていいよ、とのこと。
 
 おじさんには若い世代の音楽の話はよくわから
 ないが、その方面ではけっこうな有名人なの
 かもしれない。
 
 そう、有名人と言えば、ドン・ゴードンと双子
 の練習をみることができた。無差別級で世界
 ランカーの、このジム男子でおそらく最強の
 ひとだ。サインをくれと言いたい。
 
 勉強のためにスパーリングを見ていいという。
 この日は主にジェニー相手に試合形式で練習
 していた。印象としては、当然というか、
 ジェニーがおされぎみだった。無差別選手相手
 に渡り合えるだけで充分なんだけど。
 
 だが、そのあとジェシカが教えてくれた。
 ジェニーが不利になるルールでやってたんだと。
 例えば、ジャケットマッチ。掴み易くなれば
 小さい方が確かに不利か。
 
 ほかにもあるのか聞いてみた。
「股間にひじうちを決めてはいけないとかー」
「練習だからケガさせてはいけないとかー殺して
 はー」
 
 なるほど。
 
「まあそのうちわかるよ」らしい。
 

サトーの話6

 「シントウケイ、ですか」
 
 何やらまた新しい練習が始まった。分厚い筋肉
 を「浸透」してその内部に衝撃を与える打撃
 方法らしい。
 
「効果あるんですか?」
 エマに聞く。それを教えるために本部まで来て
 いた。
「前にあなた入院するのしないのってなったよね、
 たしかジェニーとの練習で」
 
 思い出した。先月だったか、いつになくうまく
 技をしのげていたと思ったら、珍しく焦った
 のか、ジェニーが胴を拳でなく手のひらで
 打った。そして、そのあと動けなくなった。
 
 打った直後、腹部の苦しさにうずくまる瞬間、
 なぜかジェニーの顔が青くなっていたのを
 思い出す。
 
「シントウケイが入りかけたのよ」
 
「ジェニーが焦ってたでしょう?あれで臓器交換
 とかいう話になると、打ったほうが自腹って
 うちのルールだから」
 
「けっきょく検査で問題無かったけど、検査分は
 あの子払ってるよ、罰金罰金」
 
 うーむ、命にかかわる状況だったのか。
 医学が進化したとはいえ。
 
 それから、特製の水の入った革袋をひたすら
 打つ練習が追加された。水泳の練習も何気に
 増えた。シントウケイの威力を高めるために
 さらに水を意識せよ、だと。
 
 ちょっと気になったのは、記事には書いては
 いけないらしい。そして、のっぴきならない
 事態に巻き込まれはじめたのではと勘づいた
 のはその次に追加された練習だった。
 
 ドンさんとアミと、三人一組のチームになって、
 対多数の練習をするというのである。ドンさん
 はしばらく公式の試合を休止して、アミは
 トレーニングに参加する日を増やして。
 しばらくライブも演らないとか。
 
 アミがやっていた秘密の練習とは、シントウ
 ケイのことだったらしい。そしてすでに
 かなりの使い手になったらしい。
 
 それで、対多数用の練習相手が到着する前に、
 3人を2対一に分けて仮のスパーリングを
 やった。ん、意外と戦えるぞ、おれが一人の
 場合以外は。
 
 もちろんアミは人間相手にシントウケイを
 使ってはいけない。そしてドンさんはシントウ
 ケイを使えない。主に敵を引き付ける役まわり
 らしい。
 
 タッグの息もそれぞれ合ってきたところで3人
 の仲も良くなってきた。
 
「サトーさん、一度ライブ観にきます?」
「年下なんでドンと呼んでくださいよ、試合呼び
 ますよ」
 
「サトーさん、わたし、足でもシントウケイ打て
 るようになったんだよ」
 練習終わりのカームダウンの時間に、そう言っ
 て足の裏をそっとへそのあたりに持ってくる。
 
 光速の速さで半歩後ろに飛びのいて、背中に
 冷たい汗を感じながら、「お嬢ちゃん、大人を
 からかってはいけないよ」
 と言おうとしたそのとき、和気あいあいの
 雰囲気の中で、
 
 背後から声がした。
 
「こんにちわ」
 
 振り返って、そこに、あいつがいた。
 そして、そっと右手を差し出してくる。
「はじめまして」
 
 おれは、
 そっと腰を落とし、
 アゴを引いてかまえた。
 
Josui
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