社長は、笑顔をきつい顔に変え、運転手を向くと
「ありがとう、おかげで助かった。でも分かってるな!このことは、絶対に誰にも言ったらだめだぞ。くれぐれも頼むぞ」
そう言いながら、社長は財布から千円札を二枚出した。
「釣りは要らん。とっとけ」
と、運転手に渡した。
「社長。千円札があと三枚足りません。介護タクシーなので高いんです。それに屋根に登った手数料」
運転手は、指を一本出しながら、両手の手の平を差し出した。
「何! 足元を見やがって。でもしょうがないか。おかげで助かったんだから」
渋々社長は、一万円札を一枚財布から取り出すと、二千円と交換に、運転手の手の上に置いた。
「有難うございます。くれぐれも、体に気を付けて頑張ってください。施設に帰る際には、また呼んでください」
と、運転手が言うと、社長は怒りながら
「何を! もう二度とあんな所に帰るもんか!」
と言うと、運転手はタクシーに乗り込み、逃げるように引き上げっていった。
社長は、玄関から中に入ると、裏口から顔を出し、手招きをしながら、四人を呼んだ。
「さあ、みんな入ってくれ。こっちにはスロープがあるから、車椅子も入れる」
四人が裏口に回ると、社長は外へ下りてきて
「俺は近くのコンビニに、買い物に行ってくる」
と言って、トコトコと出かけて行った。
すけさんは、謙三の車椅子を押しスロープを登ると、裏口から家の中へ入っていった。そして、女性二人も、その後ろから付いて中へ入っていった。
中に入ると、そこは二十畳くらいのリビングで、ここにも自分で書いた絵が、所狭しと飾ってあり、中央には中曽根・田中角栄・村山元首相の書が飾ってある。
「大したもんだ。さすが社長。なんであんな施設に入っていたんだろう?」
と、すけさんが、不思議そうな顔で言った。
程なくして、社長が帰ってきた
「みんな、ビールとつまみを買ってきたぞ。今日の成功を祝って乾杯だ。すけさん、音頭をとってくれ」
と言い、社長が皆にビールを手渡すと、すけさんが音頭をとった。
「それでは、みなさんの今日の労を労い、そして、全世界の老人たちの夢を、ここに叶えることが出来たことに対し、乾杯をいたします。かんぱ~い。」
みんなニコニコしながら、ビールを高々と天に上げ、乾杯をした。
謙三もうれしかった。感激した。こんなにも簡単に、事が運んでいいのだろうか。謙三は、車椅子を押して貰うだけだったので、簡単に思えたかもしれないのだが、大変だったのはすけさんだった。
施設では禁酒禁煙だったので、みなビールを飲むのは久しぶりだった。特に謙三は、脳梗塞になってから、禁酒を言い渡されていたので、十年ぶりくらいにビールを飲んだ。
「うまい。久しぶりだし、格別、今日のビールはうまい。」
すけさんは、汗をかいたのと、ことを成し遂げた満足感で、ビールのうまさが倍増しているようだった。
ほろ酔い気分の社長が、自分のことを喋りだした
「みんなは白菊会というのを知っているかい。身寄りのない人たちが献体をする大学の会だ。死んだら直ぐに、大学が引き取りに来る。葬式代もいらない。死ぬのに一銭も要らない。その代わりに、ホルマリン漬けにされて、学生たちに切り刻まれる。実は、俺もその会に入っているんだ。あの施設にも、その会に入っている人が、何人もいるよ。」
謙三はぞっとした。
「死んでから切り刻まれるなんて嫌だ。よく、生きているうちに、そんなことを決められるもんだ。考えられない。それに、社長は子供さんたちもいるだろうに。」
そう思った。
すけさんが、
「社長は、息子さんも娘さんもいらっしゃいますよ。どうして献体するんですか?」
と言うと、
「俺は、頑固そのものだった。社員にも子供たちにも。社員にはそっぽを向かれ、子供たちは、皆家を出て行った。だから、面倒を見てくれる人は誰もいない。俺は生涯孤独なんだ。でも、今はみんなが友達という気がしている。生涯の友だ。かんぱ~い。」
皆、ほろ酔い気分だった。
すけさんが、顔を真っ赤にしながら立ち上がって、両手で指揮をし、
「よし皆でいつもの歌を歌おう。せ~の」
♪僕らはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
僕らはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
手のひらを太陽に かざしてみると
真っ赤に流れる 僕の血潮
ミミズだって オケラだって
年寄りだって みんなみんな
生きているんだ 人間なんだ
家中に、皆の歌声が響き渡った。
歌い終わると、皆、拍手喝采した。
すけさんが、お腹に手を当てながら
「でも社長。お腹がすいてきたよ。飯はどうしましょうか。」
と言うと、
「主婦のプロだった女性が、二人いるじゃないか。後で材料を買ってくるよ。ねえ、みよちゃん。」
と、みよちゃんの方を向いて言うと
「私、家事はしたことないの。靴屋で自営業だったから、家事は、全部夫がしてくれたし、包丁も握ったことはないの。」
と、みよちゃんが恥ずかしそうに言った。
「ええ!じゃあ、よっこちゃんだったら。」
と、よっこちゃんを探すと、よっこちゃんは玄関に立っていた。
「ここは私の家じゃない。お父さんもいないし、子供たちもいないもの。私、家に帰りたいの。」
「ダメだこりゃ。また窓際になっている。結局、野郎だけでやるしかないな。」
すけさんは、観念したように言った。
「ん?何か匂うぞ。」
と、社長が鼻をクンクンさせながら、部屋の中の臭いを嗅いだ。
謙三が、自分のお尻を指さし
「えた。えた。」
と言っている。
「何?えた?臭いな。うんこが出たのかい?」
と、すけさんが言うと、謙三は頭を縦に振りながら、お尻を指さす。
「まいったな、こりゃ。社長どうしましょう。」
この家のトイレは洋式で少しは広いが、車椅子が入るには狭すぎる。
「仕方がない。二人でするか。」
社長は、謙三が乗った車椅子を、トイレの前に押して来て、すけさんと一緒に謙三を立たせ、ズボンを降ろし、リハビリパンツとパッドを外した。
「うわ!臭い。」
社長もすけさんも、こんなことやったことがない。右往左往しながら、社長がトイレットペーパーを探すと
「おかしいな。トイレットペーパーが無いぞ」
と、社長が言うと
「ごめんなさい。僕が取りました。」
と、すけさんが、ポケットの中からトイレットペーパーを出した。
「いつの間に。油断も隙もあったもんじゃないな。」
ある程度、お尻をトイレットペーパーで拭くと、謙三をトイレに座らせ
「後は、自分でできるだろう。ウォッシュレットをガンガンかけて、綺麗に拭くんだぞ。ところで、代わりのパッドとかリハパンはどうした?」
謙三は車椅子の後ろを指差し
「そこそこ」
と言うと
社長が、車椅子の後ろのポケットを探ると
「あった、あった。綺麗になったらこれをはけばいいか」
謙三がお尻を洗い終わると、すけさんは、リハパンとズボンを、謙三の足元から突っ込み、パッドを股間にあてた。そして謙三を立たせると、リハパンとズボンを、腰まで持ち上げ履かせた。
「よし、これで一丁上がりだ」
すけさんと社長は謙三を抱え、車椅子まで歩かせ座らせた。
ふと、社長がみよちゃんの方を見ると、足元がびっしょり濡れ、床に水がたまっている。
「あ!やられた。」
みよちゃんは、時々、尿失禁をする事があった。特にビールを飲んだ後だったので、尚更だった。
「すけさん。床を拭いてやってくれ。どうせ、みよちゃんは着替えとか持って来てないだろうな。」
と言うと、社長は奥の部屋に入り、妾のものと思われる、女性用の下着とパジャマを持って来た。そして浴室を指差し
「あそこが風呂だ。シャワーで体を洗って、この服に着替えて来なさい」
と社長が言うと、みよちゃんは服を受け取り、浴室へ向かった。
すけさんは、床を拭き終わると、
「社長。これからも、ずっとこんなことをするんですか。俺もう嫌。」
と言って、床に座り込んだ。すけさんは、全部、自分がしなければならないことに、うんざりしていた。そしてストレスで、近くにあった新聞紙を、破き始めた。いつもは丁寧に破くのに、今日は滅茶苦茶に破き始めた。
「でも、何とかなったじゃないか。そうか、疲れているし、お腹もすいたんだろう。ご飯にしよう。俺が弁当でも買ってくるよ。いや、今夜はお祝いだから、寿司でも取るか」
と言うと社長は、電話の方へ行こうとしたが、なにやら、外から物音が聞こえてくるのに気がついた。
車が何台も止まる音がして、
「バタン、バタン」
と、車のドアが閉まる音がする。そして、外のほうから
「社長。そこにいるのはわかっている。みんなを連れて出てきなさい。」
と、女性の施設長の大きな声がした。
「施設の連中だ。なんで此処にいるのがわかったんだ。きっとタクシーの運ちゃんだろう。あいつは口が軽そうだったからな。」
と、社長が言うと
「社長。あなたがそそのかしたんでしょう。あなた達に、もしものことがあったら、私はどうしたらいいの。」
施設長が、泣きながら外から叫んだ。
「我々は、もう施設には帰らない。我々は自由を手に入れたんだ。」
と、社長が言うと、
「そうだそうだ。もっと利用者を大事にしろ。」
と、すけさんが叫んだ。
「そうだ、そうだ。」
とみよちゃんもよっこちゃんも叫んだ。
「もっと利用者に自由を」
社長も叫んだ。
「もっと、職員の待遇を良くしろ。」
と、謙三は言いたかったが
「あうあうあう。」
としか、言葉にならなかった。
社長はタンスを開けると、手ぬぐいを取り出し頭に巻き、二階へ上っていった。
二階へ上りサッシを開け、ベランダに立つと、外の施設の人たちに向かって、演説をはじめた。
「介護の諸君。街を見たまえ。老人だらけだ。あと十年もしたら、街を歩いている人も、車を運転している人も、ほとんどが老人だらけになってしまう。その大半が認知症だ。行く処も分からない。帰る道も分からない。そういう人達を、どうしていけばいいのか。今、君たち若者は、真剣に考えて行かなければならない。老人を施設に縛り付ける。それじゃ老人の不満が増えるばかりだ。老人に自由を与え、可能性を与え、なおかつ安全に、幸せに暮らせるよう、君たちは、考えなければならない。老人を敬い、老人が、幸せに余生を過ごせる世の中を作らないと、あちこちで反乱が起こるぞ。君達より、老人の方が、圧倒的に数は多いのだ」
社長は、涙ながらに演説を始めた。頭の中では、自衛隊の市谷駐屯地で演説する三島由紀夫と、自分の姿が交錯していた。
「理想は、自分の家で、健やかに過ごすことだ。もしそれが出来ないとしたら、施設を快適に過ごせるようにすることだ。老人を敬いなさい。老人を子ども扱いするんじゃない。戦後の何もない時代から、今の日本を築いてきたヒーローたちなのだ。今は子供みたいかもしれないが、その皺には、ものすごい経験と、知識が刻まれているのだ。」
ビールと興奮とで、少し赤ら顔の社長の目からは、涙が流れ落ちていた。
「我々は、二度とあんな施設に帰るつもりはない。君達は、タクシーの運ちゃんに、ここを聞いたのかもしれないが、我々はここから一歩も外に出ない。」
と、社長が言うと
「社長、タクシーの運ちゃんは関係ないよ。社長は、いい腕時計をしているでしょう。それにはGPSといって、社長がどこにいるかわかる機械が、入っているんですよ。」
と、職員の一人が言うと、社長は訳が分からない顔で
「なんだ、そのデーペーエスというのは」
「人工衛星からの情報で、その時計の居場所が分かるようになっていて、インターネットを見れば、社長が、今どこにいるのかわかるんですよ」
「な、なんだと。ここがわかったのは、俺の腕時計のせいなのか!」
社長は、腕時計を外すと、床に叩き付けた。
「社長。ご飯はどうしてるの?みんなのオムツは有るの?介助できるの?」
と、施設長が言うと
「いや出来ません。僕はもう疲れました。僕は帰ります。」
と、すけさんは、ほとほと疲れた様子で、簡単に折れてしまった。
「何、もうあきらめると言うのか。お前はそれでも男か!」
と社長が怒鳴ると
「社長、もう無理だって。施設に帰れば上げ膳下げ膳。何とかみんなが生きていけるのは、介護の人たちが、世話してくれるお陰だよ。僕はもう疲れた、介護の大変さがわかった。施設に帰る。社長、後は頼みましたよ。」
と、すけさんは言って、とことこ外に出て行ってしまった。
後は頼んだと言われても、社長一人では、到底みんなの世話はできない。すけさんがいたからこそ、何とかここまでやってこれたのだ。
「さあ社長。すけさんがいなかったら、何にもできないでしょう。施設に帰りましょう」
と、施設長が家の中に入って来て、社長の手を取り、外へ連れて行こうとすると、
「分かった。もう観念したよ。ただ、一つだけお願いがある。たまには外出をさせてくれ。もうパチンコにはいかないから」
と言うと、施設長は
「分かりました。たまには許可しましょう。ただ出掛ける時は、必ずあの腕時計を持って行ってください。それと、こんなことは、もう二度としないでください。これで三度目なんだから」
と、言った 。
社長は苦笑いしながら
「わかった、わかった。もう疲れた。二度とこんなことはしない」
と言いながら外へ出ると、謙三は施設の車椅子用のリフト車に、そして、社長達は別の車に乗せられ、施設へと向かった。
車の後部座席に乗っていた社長は
「そうか、あのデーペーエスの付いた腕時計さへ無ければ」
と、心の中でつぶやくと、その目がきらりと光った。
車は、次々と施設の駐車場に到着した。玄関先では、施設の職員が大勢待っていた。
職員や社長達が車から降りると、職員の一人が駆け寄ってきて、社長の手を握り
「良かった。みんな無事で帰って来れた。みなさん、ご苦労様でした。」
と、笑顔で、それでも泣き出しそうな顔をしながら、みんなを労った。
もう回りは、夕焼けで真っ赤に染まっていた。
『陽が沈む
それでも、陽はまた昇る
老人の皺には、
知恵と経験が刻まれている
若者よ、老人から学べ
老人に、尊敬の念を持て
君達もすぐに、老人になるのだ』