次の朝、いつものように、職員にパッド交換と更衣をして貰うと、謙三は食堂へ向かった。
もう既に、この階の人たちは集まっていた。社長もすけさんも、少し興奮気味に見えた。社長は、いつもより背筋を伸ばし、すけさんは、きょろきょろあたりを見回し、落ち着きのないように見える。しかし一番興奮していたのは謙三だったかもしれない。うまく車椅子が漕げずに、あっちこっちの壁に、車椅子を当てながら、ようやく、自分の席に着くことができた。
席に着くと、胃瘻のおばあちゃんから、メッセージが届いた。
「ついにやるらしいね。うまくやるんだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ。頑張るんだよ。折しも、今日は真珠湾攻撃の日だね。」
「ありがとう、おばあちゃん」
朝食が終わると、社長からメモ用紙が回ってきた。
『ニイタカヤマノボレ一二〇八
一三時三〇分
鎌田:タクシーに電話連絡
橋のたもとにタクシーを待機させる
↓
鎌田:職員の隙ができたら、すけさんに合
図を送る
↓
全員:ドアの前に移動
↓
鎌田:ドアを開ける
↓
すけさん:かくさんを押して外へ
一目散に駐車場から外へ出る
↓
鎌田:よっこちゃんとみよちゃんを連れ、
すけさんを追いかける。
↓
橋のたもとまで、後を見ずに走る
↓
全員:タクシーに乗り込み蒲田の別宅へ
↓
脱出成功 』
と、とても単純なメモであったが、謙三は、胸の高まりを抑えることができなかった。
朝食が終わると、部屋に戻り、いつものようにデイサービスの荷物を持ち、車椅子の後ろには、一応オムツとパッドを一揃え入れ、一階へ降りて行った。
一階に降りると、いつものように、窓際のよっこちゃんがドアの前に立っている。
「よっこちゃんは、いつでも準備万端だな。よっこちゃんは、きっと、今日のこの日が来るのを、毎日、待っていたに違いない」
と、謙三は思った。
社長は、そのよっこちゃんを連れ、みよちゃんの所へ行くと、今日のことを説明している。
「今日は、お昼に、見守りの職員が寝たとき、外へ連れて行ってあげるから、昼寝はしないようにね。」
「え!おうちに帰れるの?やった!ばんざ~い」
二人とも大喜び
「静かに。これは内緒だから。それにおうちじゃなくて、私の家だからね。」
社長は、すけさんを呼ぶと
「タクシーはさっき連絡して、橋を渡ったところで待つようにしてある。そこまでは、かくさんを押して頑張ってくれ。」
「はい、分かりました。さすが、社長は抜かりがない。」
午前中の体操も終わり、入浴を社長もすけさんも断った。謙三は全く一人では風呂に入れないため、入浴はしたが、その間、社長もすけさんも落ち着きがなく、デイサービスの中でうろうろしている。
入浴が終わると、嚥下体操が始まり、あっという間にお昼ご飯となった。しかし、三人には、午前中の時間がとても長く思えた。
昼食が終わると、ついに昼寝の時間となる。社長もすけさんも、そして謙三さえも、昼寝を断った。
「夕べ寝過ぎたから、今は眠くない。」
と、社長が言うと
「おかしいわね~。いつも早く寝かせろとうるさい人たちが。」
職員が、怪訝そうな顔で言ったが、言い出したら聞かないし、いつもの我儘だろうと、みよちゃんに声をかけた。
「みよちゃん、さあ寝ますよ。」
と声をかけると、みよちゃんは
「今日はね、おうちに帰るの。だから今日は寝ないの。」
三人ともドキっとしたが、職員は
「いつものことか。いいですよ。じゃあ起きてて、テレビでも見といてください。」
よっこちゃんは、いつもの通り、寝ないでドアの近くに立っている。
五人を除いては、皆、ベッドに横になり、昼寝になった。灯りもすべて消され、遮光カーテンも閉められた。ホールは真っ暗になり、テレビだけが煌々と明るかった。
社長は、ホール内をうろうろし、逃亡のタイミングを探していたが、なかなか、事務室の女性も立ち去らない。見守りの職員達も、まだ、テレビを見ていて元気である。
「しょうがない。いましばらく様子を見るか。」
社長も椅子に腰かけ、テレビを見ることにした。テレビを見ながら、うとうとし始めたころ、ふと、ドアの方を見ると、窓際のよっこちゃんが、何やら右手の親指と人差し指で丸を作り、ドアの方から、こっちを見ている。
社長が、急いでドアの方へ行くと、玄関も事務室も真っ暗になり、誰もいなくなっている。そして見守りの職員も、二人ともテーブルにうつ伏せになり、寝てしまっている。
「今だ!」
社長は、すけさんに両手で丸を作り、合図を送った。すけさんは、職員に気付かれないように、そっと謙三の車椅子を押し、ドアの方へ向かった。
社長は、ドアの両側のスイッチを押し、ドアを開け、すけさんとかくさんを送り出すと、みよちゃんを迎えに行った。みよちゃんは
「どこへ行くの?まだみんな寝てるよ。」
「いいから、今は時間が無いんだ。」
朝説明したのに、もうとっくに忘れてしまっているみよちゃんだが、今はまた説明している暇はない。ドアの前で待っていたよっこちゃんと、みよちゃんの二人の手を引くと、ドアの外へ、一目散に飛び出した。
外へ出ると、もう既に、すけさんは駐車場の外へ出ていた。ここの施設は、人工の出島の中にあり、周りを海で囲まれ、人工島から出るには、一本しかない橋の袂まで、海沿いの凸凹した道を走らないといけなかった。
すけさんは、謙三の車椅子を一生懸命に押したが、足が石に躓いてしまい、転んでしまった。その拍子に、車椅子から手が離れ、車椅子は転がったまま、ブロック塀に突き当たってしまった。その衝撃で、謙三は、車椅子から前方へ、ずり落ちてしまった。
ブロック塀の反対側は塀もなく、落ちれば海の中に真っ逆さま、土左衛門となるところだったが、幸いにも車椅子は、塀の方へと転がっていき、命拾いをした。
「大丈夫か。」
社長達も追い付いて来て、すけさんと一緒に謙三を持ち上げ、車椅子に乗せようとしたが、謙三は体格がいいものだから、二人とも汗びっしょりになりながら、ようやく謙三を乗せることができた。
「遅くなった。早く行こう。」
社長は、みよちゃんとよっこちゃんの手を引き急いだ。女性二人は、足はどうもないので、走るのは社長より早く、逆に、二人の方が社長を引っ張る形になった。
「ねえ。私たち何をしているの?どこへ行くの?」
みよちゃんが言った。
「おうちに帰るのよ。やっと帰れるのよ。おうちに帰れば、お父さんも子供たちも待っているのよ。」
よっこちゃんが嬉しそうに言った。よっこちゃんの夫は、とうの昔に亡くなっているし、子供たちだって、みんなよそに行って、家には誰もいないのだが、よっこちゃんには、昔の記憶しか残っていない。
「ともかく、見つからないうちに、早くタクシーのところまで行くんだ。」
海沿いに角を曲がると、少し坂になったところに橋があった。この出島に唯一掛かっている橋で、台風の時など、波が高い時は通れなくなり、孤島となってしまうため、橋は少し高く架けてある。幸い今日は、波もなくスムーズに通れるのだが、そこまでの坂は、車椅子を押すのには結構力が要る。
すけさんが汗だくになりながら、ようやく車椅子を押して橋を渡ると、そこにはタクシーが二台待機していた。一台は普通のタクシーで、もう一台は、車椅子用の介護タクシーだ。
「遅かったですね、社長。さあ早く乗って。追手がすぐにやってきますよ。」
タクシーの運転手二人が、手際よく、車椅子の謙三を、車椅子に乗ったまま介護タクシーへ乗せ、すけさんを助手席へ乗せると、残りの三人を、もう一台の普通タクシーに乗せた。
運転手は、タクシーのエンジンをかけ、発車させると、
「ああ、これで一安心。駆け落ちのかた場を担いだとあっちゃ、我々もこの施設からの仕事が来なくなりますからね。」
「駆け落ちではない!我々は自由を求めて新天地に行くのだ。」
社長が怒って言った。
「へい。社長の別宅ですね。あのお妾さんも綺麗な方でしたからね。」
「分かった、分かった。どうでもいいから早く家に連れて行ってくれ。ところで君は個人情報保護法という言葉を、知っているかね」
社長が運転手に聞くと、
「もちろんですよ。我々運転手にも守秘義務というのがあるんです。絶対に、誰にも言いません。私は、口が堅いので有名なんですから。」
「自分で口が堅いという人で、ほんとに口が堅い人を、見たことがないけどね。」
と言って、みんなで大笑いをした。車に乗ったことで、みんなホッとした。
介護タクシーの助手席では
「いや~。やっぱり、シャバの空気はいいね。」
すけさんが首にかけたタオルで汗を拭くながら言った。
タクシーに乗ったことで、安堵感と落ち着きを取り戻した社長が、窓の外を見ながら
「ほら、歩いている人達を見てごらん。あと十年もすれば、歩いている人の殆どは認知症だ。皆、帰るところが分からず、迷子の年寄りだらけさ。車の運転手も、認知症だらけで、怖くてしょうがない時代になるよ」
タクシーの運転手は、ドキッとした顔で社長を見て言った。
「私はまだ六十代で若いし、認知症なんかじゃないですからね。安心してください。」
タクシーは、海岸線から約二十分位走ると、住宅街へと入って行った。
タクシーの運転手が
「社長。ここら辺でしたかね?」
と言うと、
「そこだ。その右へ曲がった所で降ろしてくれ。」
タクシーは、住宅街の細い道を右に曲がると、大きい屋敷の前で止まった。
タクシーから降り、目の前の家を見ると、そこは高い塀に囲まれ、庭には大きな柘植の木の聳える、二階建ての邸宅だった。
介護タクシーは、すけさんと謙三をおろすと帰っていった。普通タクシーの運転手が
「社長、代金をお願いします。」
と言い、両手を差し出すと、玄関先で、ポケットを探っていた社長が
「おかしいな。鍵が無い」
社長は運転手の方を向いて
「鍵を置いてきたみたいだ。施設に行って俺の部屋から、鍵をもって来てくれ」
慌てて、すけさんは、両手で社長の腕を掴むと
「社長、ちょっと待って。そんなことしたら直ぐにバレてしまうでしょう」
と言うと、社長は腕組みをし
「そうか、そうだよなあ。そうだ、妾は俺が来るだろうと、いつも二階のベランダの窓の鍵を、開けておいてくれた。若しかしたら、まだ鍵が開いているかも知れない」
二階の窓を指さしながら、そう言うと、家の裏に回り、脚立を担いで来た。
そして、運転手の方を向くと
「この脚立で屋根に上り、あのベランダの窓から、中に入ってくれ」
と言うと、運転手はびっくりした顔をして
「ええ! 私がですか?」
社長は、運転手をキッと睨みながら
「他にできる者がおらん。頼む」
と言い、両手を合わせた。
「しょうがないなあ」
運転手は、渋々、脚立を開いて伸ばし、一階の屋根にかけると、脚立を登って行った。
そして恐る恐る、脚立から屋根に移り、ベランダに上がると、二階のサッシを開けようとした。
運転手は五人の方を向くと、両手で大きく丸を作った。
「やった! 開いた。良かった!」
すけさんが大声で叫び、五人は手を取り合って喜んだ。
社長は、運転手に大きな声で叫んだ。
「中に入ったら、階段を降りて、右側の玄関の鍵を開けてくれ」
運転手がサッシから中に入ると、家の中から
「トントントン」
と、階段を降りる音がし、
「ガラガラガラ」
という音と共に玄関が開き、運転手が中から出て来た。
「ばんざ~い。ばんざ~い」
外の五人は抱き合って喜ぶと、すけさんが
「これで、天国の扉が開いた」
と、言った。
社長は、笑顔をきつい顔に変え、運転手を向くと
「ありがとう、おかげで助かった。でも分かってるな!このことは、絶対に誰にも言ったらだめだぞ。くれぐれも頼むぞ」
そう言いながら、社長は財布から千円札を二枚出した。
「釣りは要らん。とっとけ」
と、運転手に渡した。
「社長。千円札があと三枚足りません。介護タクシーなので高いんです。それに屋根に登った手数料」
運転手は、指を一本出しながら、両手の手の平を差し出した。
「何! 足元を見やがって。でもしょうがないか。おかげで助かったんだから」
渋々社長は、一万円札を一枚財布から取り出すと、二千円と交換に、運転手の手の上に置いた。
「有難うございます。くれぐれも、体に気を付けて頑張ってください。施設に帰る際には、また呼んでください」
と、運転手が言うと、社長は怒りながら
「何を! もう二度とあんな所に帰るもんか!」
と言うと、運転手はタクシーに乗り込み、逃げるように引き上げっていった。
社長は、玄関から中に入ると、裏口から顔を出し、手招きをしながら、四人を呼んだ。
「さあ、みんな入ってくれ。こっちにはスロープがあるから、車椅子も入れる」
四人が裏口に回ると、社長は外へ下りてきて
「俺は近くのコンビニに、買い物に行ってくる」
と言って、トコトコと出かけて行った。
すけさんは、謙三の車椅子を押しスロープを登ると、裏口から家の中へ入っていった。そして、女性二人も、その後ろから付いて中へ入っていった。
中に入ると、そこは二十畳くらいのリビングで、ここにも自分で書いた絵が、所狭しと飾ってあり、中央には中曽根・田中角栄・村山元首相の書が飾ってある。
「大したもんだ。さすが社長。なんであんな施設に入っていたんだろう?」
と、すけさんが、不思議そうな顔で言った。
程なくして、社長が帰ってきた
「みんな、ビールとつまみを買ってきたぞ。今日の成功を祝って乾杯だ。すけさん、音頭をとってくれ」
と言い、社長が皆にビールを手渡すと、すけさんが音頭をとった。
「それでは、みなさんの今日の労を労い、そして、全世界の老人たちの夢を、ここに叶えることが出来たことに対し、乾杯をいたします。かんぱ~い。」
みんなニコニコしながら、ビールを高々と天に上げ、乾杯をした。
謙三もうれしかった。感激した。こんなにも簡単に、事が運んでいいのだろうか。謙三は、車椅子を押して貰うだけだったので、簡単に思えたかもしれないのだが、大変だったのはすけさんだった。
施設では禁酒禁煙だったので、みなビールを飲むのは久しぶりだった。特に謙三は、脳梗塞になってから、禁酒を言い渡されていたので、十年ぶりくらいにビールを飲んだ。
「うまい。久しぶりだし、格別、今日のビールはうまい。」
すけさんは、汗をかいたのと、ことを成し遂げた満足感で、ビールのうまさが倍増しているようだった。
ほろ酔い気分の社長が、自分のことを喋りだした
「みんなは白菊会というのを知っているかい。身寄りのない人たちが献体をする大学の会だ。死んだら直ぐに、大学が引き取りに来る。葬式代もいらない。死ぬのに一銭も要らない。その代わりに、ホルマリン漬けにされて、学生たちに切り刻まれる。実は、俺もその会に入っているんだ。あの施設にも、その会に入っている人が、何人もいるよ。」
謙三はぞっとした。
「死んでから切り刻まれるなんて嫌だ。よく、生きているうちに、そんなことを決められるもんだ。考えられない。それに、社長は子供さんたちもいるだろうに。」
そう思った。
すけさんが、
「社長は、息子さんも娘さんもいらっしゃいますよ。どうして献体するんですか?」
と言うと、
「俺は、頑固そのものだった。社員にも子供たちにも。社員にはそっぽを向かれ、子供たちは、皆家を出て行った。だから、面倒を見てくれる人は誰もいない。俺は生涯孤独なんだ。でも、今はみんなが友達という気がしている。生涯の友だ。かんぱ~い。」
皆、ほろ酔い気分だった。
すけさんが、顔を真っ赤にしながら立ち上がって、両手で指揮をし、
「よし皆でいつもの歌を歌おう。せ~の」
♪僕らはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
僕らはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
手のひらを太陽に かざしてみると
真っ赤に流れる 僕の血潮
ミミズだって オケラだって
年寄りだって みんなみんな
生きているんだ 人間なんだ
家中に、皆の歌声が響き渡った。
歌い終わると、皆、拍手喝采した。
すけさんが、お腹に手を当てながら
「でも社長。お腹がすいてきたよ。飯はどうしましょうか。」
と言うと、
「主婦のプロだった女性が、二人いるじゃないか。後で材料を買ってくるよ。ねえ、みよちゃん。」
と、みよちゃんの方を向いて言うと
「私、家事はしたことないの。靴屋で自営業だったから、家事は、全部夫がしてくれたし、包丁も握ったことはないの。」
と、みよちゃんが恥ずかしそうに言った。
「ええ!じゃあ、よっこちゃんだったら。」
と、よっこちゃんを探すと、よっこちゃんは玄関に立っていた。
「ここは私の家じゃない。お父さんもいないし、子供たちもいないもの。私、家に帰りたいの。」
「ダメだこりゃ。また窓際になっている。結局、野郎だけでやるしかないな。」
すけさんは、観念したように言った。
「ん?何か匂うぞ。」
と、社長が鼻をクンクンさせながら、部屋の中の臭いを嗅いだ。
謙三が、自分のお尻を指さし
「えた。えた。」
と言っている。
「何?えた?臭いな。うんこが出たのかい?」
と、すけさんが言うと、謙三は頭を縦に振りながら、お尻を指さす。
「まいったな、こりゃ。社長どうしましょう。」
この家のトイレは洋式で少しは広いが、車椅子が入るには狭すぎる。
「仕方がない。二人でするか。」
社長は、謙三が乗った車椅子を、トイレの前に押して来て、すけさんと一緒に謙三を立たせ、ズボンを降ろし、リハビリパンツとパッドを外した。
「うわ!臭い。」
社長もすけさんも、こんなことやったことがない。右往左往しながら、社長がトイレットペーパーを探すと
「おかしいな。トイレットペーパーが無いぞ」
と、社長が言うと
「ごめんなさい。僕が取りました。」
と、すけさんが、ポケットの中からトイレットペーパーを出した。
「いつの間に。油断も隙もあったもんじゃないな。」
ある程度、お尻をトイレットペーパーで拭くと、謙三をトイレに座らせ
「後は、自分でできるだろう。ウォッシュレットをガンガンかけて、綺麗に拭くんだぞ。ところで、代わりのパッドとかリハパンはどうした?」
謙三は車椅子の後ろを指差し
「そこそこ」
と言うと
社長が、車椅子の後ろのポケットを探ると
「あった、あった。綺麗になったらこれをはけばいいか」
謙三がお尻を洗い終わると、すけさんは、リハパンとズボンを、謙三の足元から突っ込み、パッドを股間にあてた。そして謙三を立たせると、リハパンとズボンを、腰まで持ち上げ履かせた。
「よし、これで一丁上がりだ」
すけさんと社長は謙三を抱え、車椅子まで歩かせ座らせた。
ふと、社長がみよちゃんの方を見ると、足元がびっしょり濡れ、床に水がたまっている。
「あ!やられた。」
みよちゃんは、時々、尿失禁をする事があった。特にビールを飲んだ後だったので、尚更だった。
「すけさん。床を拭いてやってくれ。どうせ、みよちゃんは着替えとか持って来てないだろうな。」
と言うと、社長は奥の部屋に入り、妾のものと思われる、女性用の下着とパジャマを持って来た。そして浴室を指差し
「あそこが風呂だ。シャワーで体を洗って、この服に着替えて来なさい」
と社長が言うと、みよちゃんは服を受け取り、浴室へ向かった。
すけさんは、床を拭き終わると、
「社長。これからも、ずっとこんなことをするんですか。俺もう嫌。」
と言って、床に座り込んだ。すけさんは、全部、自分がしなければならないことに、うんざりしていた。そしてストレスで、近くにあった新聞紙を、破き始めた。いつもは丁寧に破くのに、今日は滅茶苦茶に破き始めた。
「でも、何とかなったじゃないか。そうか、疲れているし、お腹もすいたんだろう。ご飯にしよう。俺が弁当でも買ってくるよ。いや、今夜はお祝いだから、寿司でも取るか」
と言うと社長は、電話の方へ行こうとしたが、なにやら、外から物音が聞こえてくるのに気がついた。
車が何台も止まる音がして、
「バタン、バタン」
と、車のドアが閉まる音がする。そして、外のほうから
「社長。そこにいるのはわかっている。みんなを連れて出てきなさい。」
と、女性の施設長の大きな声がした。
「施設の連中だ。なんで此処にいるのがわかったんだ。きっとタクシーの運ちゃんだろう。あいつは口が軽そうだったからな。」
と、社長が言うと
「社長。あなたがそそのかしたんでしょう。あなた達に、もしものことがあったら、私はどうしたらいいの。」
施設長が、泣きながら外から叫んだ。
「我々は、もう施設には帰らない。我々は自由を手に入れたんだ。」
と、社長が言うと、
「そうだそうだ。もっと利用者を大事にしろ。」
と、すけさんが叫んだ。
「そうだ、そうだ。」
とみよちゃんもよっこちゃんも叫んだ。
「もっと利用者に自由を」
社長も叫んだ。
「もっと、職員の待遇を良くしろ。」
と、謙三は言いたかったが
「あうあうあう。」
としか、言葉にならなかった。
社長はタンスを開けると、手ぬぐいを取り出し頭に巻き、二階へ上っていった。
二階へ上りサッシを開け、ベランダに立つと、外の施設の人たちに向かって、演説をはじめた。
「介護の諸君。街を見たまえ。老人だらけだ。あと十年もしたら、街を歩いている人も、車を運転している人も、ほとんどが老人だらけになってしまう。その大半が認知症だ。行く処も分からない。帰る道も分からない。そういう人達を、どうしていけばいいのか。今、君たち若者は、真剣に考えて行かなければならない。老人を施設に縛り付ける。それじゃ老人の不満が増えるばかりだ。老人に自由を与え、可能性を与え、なおかつ安全に、幸せに暮らせるよう、君たちは、考えなければならない。老人を敬い、老人が、幸せに余生を過ごせる世の中を作らないと、あちこちで反乱が起こるぞ。君達より、老人の方が、圧倒的に数は多いのだ」
社長は、涙ながらに演説を始めた。頭の中では、自衛隊の市谷駐屯地で演説する三島由紀夫と、自分の姿が交錯していた。
「理想は、自分の家で、健やかに過ごすことだ。もしそれが出来ないとしたら、施設を快適に過ごせるようにすることだ。老人を敬いなさい。老人を子ども扱いするんじゃない。戦後の何もない時代から、今の日本を築いてきたヒーローたちなのだ。今は子供みたいかもしれないが、その皺には、ものすごい経験と、知識が刻まれているのだ。」
ビールと興奮とで、少し赤ら顔の社長の目からは、涙が流れ落ちていた。
「我々は、二度とあんな施設に帰るつもりはない。君達は、タクシーの運ちゃんに、ここを聞いたのかもしれないが、我々はここから一歩も外に出ない。」
と、社長が言うと
「社長、タクシーの運ちゃんは関係ないよ。社長は、いい腕時計をしているでしょう。それにはGPSといって、社長がどこにいるかわかる機械が、入っているんですよ。」
と、職員の一人が言うと、社長は訳が分からない顔で
「なんだ、そのデーペーエスというのは」
「人工衛星からの情報で、その時計の居場所が分かるようになっていて、インターネットを見れば、社長が、今どこにいるのかわかるんですよ」
「な、なんだと。ここがわかったのは、俺の腕時計のせいなのか!」
社長は、腕時計を外すと、床に叩き付けた。
「社長。ご飯はどうしてるの?みんなのオムツは有るの?介助できるの?」
と、施設長が言うと
「いや出来ません。僕はもう疲れました。僕は帰ります。」
と、すけさんは、ほとほと疲れた様子で、簡単に折れてしまった。
「何、もうあきらめると言うのか。お前はそれでも男か!」
と社長が怒鳴ると
「社長、もう無理だって。施設に帰れば上げ膳下げ膳。何とかみんなが生きていけるのは、介護の人たちが、世話してくれるお陰だよ。僕はもう疲れた、介護の大変さがわかった。施設に帰る。社長、後は頼みましたよ。」
と、すけさんは言って、とことこ外に出て行ってしまった。
後は頼んだと言われても、社長一人では、到底みんなの世話はできない。すけさんがいたからこそ、何とかここまでやってこれたのだ。
「さあ社長。すけさんがいなかったら、何にもできないでしょう。施設に帰りましょう」
と、施設長が家の中に入って来て、社長の手を取り、外へ連れて行こうとすると、
「分かった。もう観念したよ。ただ、一つだけお願いがある。たまには外出をさせてくれ。もうパチンコにはいかないから」
と言うと、施設長は
「分かりました。たまには許可しましょう。ただ出掛ける時は、必ずあの腕時計を持って行ってください。それと、こんなことは、もう二度としないでください。これで三度目なんだから」
と、言った 。
社長は苦笑いしながら
「わかった、わかった。もう疲れた。二度とこんなことはしない」
と言いながら外へ出ると、謙三は施設の車椅子用のリフト車に、そして、社長達は別の車に乗せられ、施設へと向かった。
車の後部座席に乗っていた社長は
「そうか、あのデーペーエスの付いた腕時計さへ無ければ」
と、心の中でつぶやくと、その目がきらりと光った。
車は、次々と施設の駐車場に到着した。玄関先では、施設の職員が大勢待っていた。
職員や社長達が車から降りると、職員の一人が駆け寄ってきて、社長の手を握り
「良かった。みんな無事で帰って来れた。みなさん、ご苦労様でした。」
と、笑顔で、それでも泣き出しそうな顔をしながら、みんなを労った。
もう回りは、夕焼けで真っ赤に染まっていた。
『陽が沈む
それでも、陽はまた昇る
老人の皺には、
知恵と経験が刻まれている
若者よ、老人から学べ
老人に、尊敬の念を持て
君達もすぐに、老人になるのだ』