「黄 昏」 ~平成・老人ホームの乱~

6.決行

次の朝、いつものように職員にパッド交換と更衣をして貰うと、謙三は食堂へ向かった。

もう既にこの階の人たちは集まっていた。社長もすけさんも、少し興奮気味に見えた。社長はいつもより背筋を伸ばし、すけさんはきょろきょろあたりを見回し、落ち着きのないように見える。しかし一番興奮していたのは謙三だったかもしれない。うまく車椅子が漕げずに、あっちこっちの壁に車椅子を当てながら、ようやく自分の席に着くことができた。

席に着くと胃瘻のおばあちゃんからメッセージが届いた。

「ついにやるらしいね。うまくやるんだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ。頑張るんだよ。折しも今日は真珠湾攻撃の日だね。」

「ありがとう、おばあちゃん」

朝食が終わると、社長からメモ用紙が回ってきた。

 

『ニイタカヤマノボレ一二〇八

 一三時三〇分

鎌田:タクシーに電話連絡

      橋のたもとにタクシーを待機させる

             

鎌田:職員の隙ができたら、すけさんに合

図を送る

            

全員:ドアの前に移動

       ↓

鎌田:ドアを開ける

       ↓

すけさん:かくさんを押して外へ

     一目散に駐車場から外へ出る

       ↓

鎌田よっこちゃんとみよちゃんを連れ、

すけさんを追いかける。

       ↓

   橋のたもとまで、後を見ずに走る

       ↓

全員:タクシーに乗り込み蒲田の別宅へ

       ↓

     脱出成功         

 

と、とても単純なメモであったが、謙三は胸の高まりを抑えることができなかった。

朝食が終わると、部屋に戻り、いつものようにデイサービスの荷物を持ち、車椅子の後ろには一応オムツとパッドを一揃え入れ、一階へ降りて行った。

一階に降りると、いつものように窓際のよっこちゃんがドアの前に立っている

「よっこちゃんは、いつでも準備万端だな。よっこちゃんは、きっと今日のこの日が来るのを毎日待っていたに違いない」

と、謙三は思った。

社長は、そのよっこちゃんを連れ、みよちゃんの所へ行くと、今日のことを説明している。

「今日は、お昼に、見守りの職員が寝たとき、外へ連れて行ってあげるから、昼寝はしないようにね。」

「え!おうちに帰れるの?やった!ばんざ~い」

二人とも大喜び

「静かに。これは内緒だから。それにおうちじゃなくて私の家だからね。」

社長は、すけさんを呼ぶと

「タクシーはさっき連絡して、橋を渡ったところで待つようにしてある。そこまではかくさんを押して頑張ってくれ。」

「はい、分かりました。さすが社長は抜かりがない。」

午前中の体操も終わり、入浴社長もすけさんも断った。謙三は全く一人では風呂に入れないため、入浴はしたがその間社長もすけさんも落ち着きがなく、デイサービスの中でうろうろしている。

入浴が終わると、嚥下体操が始まり、あっという間にお昼ご飯となった。しかし三人には午前中の時間がとても長く思えた。

昼食が終わると、ついに昼寝の時間となる。社長もすけさんも、そして謙三さえも昼寝を断った。

「夕べ寝過ぎたから、今は眠くない。」

社長が言うと

「おかしいわね~。いつも早く寝かせろとうるさい人たちが。」

職員が怪訝そうな顔で言ったが、言い出したら聞かないし、いつもの我儘だろうとみよちゃんに声をかけた。

「みよちゃん、さあ寝ますよ。」

と声をかけると、みよちゃんは

「今日はね、おうちに帰るの。だから今日は寝ないの。」

三人ともドキっとしたが、職員は

「いつものことか。いいですよ。じゃあ起きてて、テレビでも見といてください。」

よっこちゃんは、いつもの通り、寝ないでドアの近くに立っている。

五人を除いては、皆ベッドに横になり昼寝になった。灯りもすべて消され、遮光カーテンも閉められた。ホールは真っ暗になり、テレビだけが煌々と明るかった。

社長は、ホール内をうろうろし、逃亡のタイミングを探していたが、なかなか事務室の女性も立ち去らない。見守りの職員まだテレビを見ていて元気である。

「しょうがない。いましばらく様子を見るか。」

社長も椅子に腰かけ、テレビを見ることにした。テレビを見ながら、うとうとし始めたころ、ふとドアの方を見ると、窓際のよっこちゃんが何やら右手の親指と人差し指で丸を作り、ドアの方からこっちを見ている。

社長が、急いでドアの方へ行くと、玄関も事務室も真っ暗になり、誰もいなくなっている。そして見守りの職員も二人ともテーブルにうつ伏せになり、寝てしまっている。

「今だ!」

社長はすけさんに両手で丸を作り、合図を送った。すけさんは職員に気付かれないようにそっと謙三の車椅子を押し、ドアの方へ向かった。

社長はドアの両側のスイッチを押しドアを開け、すけさんとかくさんを送り出すと、みよちゃんを迎えに行った。みよちゃんは

「どこへ行くの?まだみんな寝てるよ。」

「いいから、今は時間が無いんだ。」

朝説明したのに、もうとっくに忘れてしまっているみよちゃんだが、今はまた説明している暇はない。ドアの前で待っていたよっこちゃんとみよちゃんの二人の手を引くと、ドアの外へ、一目散に飛び出した。

外へ出ると、もう既にすけさんは駐車場の外へ出ていた。ここの施設は人工の出島の中にあり、周りを海で囲まれ、人工島から出るには、一本しかない橋の袂まで、海沿いの凸凹した道を走らないといけなかった。

すけさんは謙三の車椅子を一生懸命に押したが足が石に躓いてしまい転んでしまった。その拍子に車椅子から手れ、車椅子は転がったまま、ブロック塀に突き当たってしまった。その衝撃で、謙三は車椅子から前方へ、ずり落ちてしまった。

ブロック塀の反対側は塀もなく、落ちれば海の中に真っ逆さま土左衛門となるところだったが、幸いにも車椅子は塀の方へ転がっていき命拾いをした。

「大丈夫か。」

社長達も追い付いて来て、すけさんと一緒に謙三を持ち上げ、車椅子に乗せようとしたが、謙三は体格がいいものだから、二人とも汗びっしょりになりながら、ようやく謙三を乗せることができた。

「遅くなった。早く行こう。」

社長は、みよちゃんとよっこちゃんの手を引き急いだ。女性二人は、足はどうもないので走るのは社長より早く、逆に二人の方が社長を引っ張る形になった

「ねえ。私たち何をしているの?どこへ行くの?」

みよちゃんが言った。

「おうちに帰るのよ。やっと帰れるのよ。おうちに帰れば、お父さんも子供たちも待っているのよ。」

よっこちゃんが嬉しそうに言った。よっこちゃんの夫は、とうの昔に亡くなっているし、子供たちだって、みんなよそに行って、家には誰もいないのだが、よっこちゃんには昔の記憶しか残っていない。

「ともかく、見つからないうちに、早くタクシーのところまで行くんだ。」

海沿いに角を曲がると、少し坂になったところに橋があった。この出島に唯一掛かっている橋で、台風の時など波が高い時は通れなくなり、孤島となってしまうため、橋は少し高く架けてある。幸い今日は、波もなくスムーズに通れるのだが、そこまでの坂は、車椅子を押すのには結構力が要る。

すけさんが汗だくになりながら、ようやく車椅子を押して橋を渡ると、そこにはタクシーが二台待機していた。一台は普通のタクシーで、もう一台は車椅子用の介護タクシーだ。

「遅かったですね、社長。さあ早く乗って。追手がすぐにやってきますよ。」

タクシーの運転手二人が、手際よく、車椅子の謙三を車椅子に乗ったまま介護タクシーへ乗せ、すけさんを助手席へ乗せると、残りの三人をもう一台の普通タクシーに乗せた。

運転手はタクシーのエンジンをかけ、発車させると、

「ああ、これで一安心。駆け落ちのかた場を担いだとあっちゃ、我々もこの施設からの仕事が来なくなりますからね。」

「駆け落ちではない!我々は自由を求めて新天地に行くのだ。」

社長が怒って言った。

「へい。社長の別宅ですね。あのお妾さんも綺麗な方でしたからね。」

「分かった、分かった。どうでもいいから早く家に連れて行ってくれ。ところで君は個人情報保護法という言葉を知っているかね」

社長が運転手に聞くと、

「もちろんですよ。我々運転手にも守秘義務というのがあるんです。絶対に誰にも言いません。私は口が堅いので有名なんですから。」

「自分で口が堅いという人で、ほんとに口が堅い人を見たことがないけどね。」

と言って、みんなで大笑いをした。車に乗ったことで、みんなホッとした。

介護タクシーの助手席では

「いや~。やっぱりシャバの空気はいいね。」

すけさんが首にかけたタオルで汗を拭くながら言った。

タクシーに乗ったことで、安堵感と落ち着きを取り戻した社長が、窓の外を見ながら

「ほら、歩いている人達を見てごらん。あと十年もすれば、歩いている人の殆どは認知症だ。皆、帰るところが分からず、迷子の年寄りだらけさ。車の運転手も、認知症だらけで、怖くてしょうがない時代になるよ」

タクシーの運転手は、ドキッとした顔で社長を見て言った。

「私はまだ六十代で若いし、認知症なんかじゃないですからね。安心してください。」

タクシーは海岸線から約二十分位走ると、住宅街へと入って行った。

タクシーの運転手が

「社長。ここら辺でしたかね?」

と言うと、

「そこだ。その右へ曲がった所で降ろしてくれ。」

タクシーは、住宅街の細い道を右に曲がると、大きい屋敷の前で止まった

タクシーから降り、目の前の家を見ると、そこは高い塀に囲まれ、庭には大きな柘植の木の聳える二階建ての邸宅だった。

介護タクシーは、すけさんと謙三をおろすと帰っていった。普通タクシーの運転手が

「社長、代金をお願いします。」

と言い、両手を差し出すと、玄関先で、ポケットを探っていた社長が

「おかしいな。鍵が無い」


社長は運転手の方を向いて


 「鍵を置いてきたみたいだ。施設に行って俺の部屋から、鍵をもって来てくれ」


 慌てて、すけさんは、両手で社長の腕を掴む

 「社長、ちょっと待って。そんなことしたら直ぐにバレてしまうでしょう


と言うと、社長は腕組みをし


「そうか、そうだよなあ。そうだ、妾は俺が来るだろうと、いつも二階のベランダの窓の鍵を、開けておいてくれた。若しかしたら、まだが開いているかも知れない」


二階の窓を指さしながら、そう言うと、家の裏に回り、脚立を担いで来た。

そして、運転手の方を向くと


「この脚立で屋根に上り、あのベランダの窓から、中に入ってくれ」

と言うと、運転手びっくりした顔をして


「ええ! 私がですか?」


 社長は、運転手をキッと睨みながら


「他にできる者がおらん。頼む」


 と言い、両手を合わせた。


 「しょうがないなあ」


 運転手、渋々脚立を開いて伸ばし、一階の屋根にかけると、脚立を登って行った。


 そして恐る恐る、脚立から屋根に移りベランダに上がると、二階のサッシ開けようとした。


運転手五人の方を向くと、両手で大きく丸を作った。


 「やった! 開いた。良かった!」


 すけさんが大声で叫び、五人手を取り合って喜んだ。

 社長は、運転手に大きな声で叫んだ。


 「中に入ったら、階段を降りて、右側の玄関の鍵を開けてくれ」


 運転手サッシから中に入ると、家の中から


 「トントントン」


 と、階段を降りる音がし、


 「ガラガラガラ」


 という音と共に玄関が開き、運転手が中から出て来た。


 「ばんざ~い。ばんざ~い」


 外の五人は抱き合って喜ぶと、すけさんが


 「これで、天国の扉が開いた」


 と、言った。


7.自由の地

社長は、笑顔をきつい顔に変え、運転手を向くと

「ありがとう、おかげで助かった。でも分かってるな!このことは絶対誰にも言ったらだめだぞ。くれぐれも頼むぞ」

そう言いながら、社長は財布から千円札を二枚出した。


「釣りは要らん。とっとけ」


と、運転手に渡した


 「社長。千円札があと三枚足りません。介護タクシーなので高いんです。それに屋根に登った手数料」


運転手は、指を一本出しながら、両手の手の平を差し出した。


「何! 足元を見やがって。でもしょうがないか。おかげで助かったんだから


渋々社長は、一万円札を一枚財布から取りすと千円と交換に、運転手の手の上に置いた。


「有難うございます。くれぐれも体に気を付けて頑張ってください。施設に帰る際にはまた呼んでください」


と、運転手が言うと、社長は怒りながら


何を! もう二度とあんな所に帰るもんか!」


と言うと、運転手はタクシーに乗り込み、逃げるように引き上げっていった。


社長は、玄関から中にると、裏口から顔を出し、手招きをしながら、四人を呼んだ


さあ、みんな入ってくれ。こっちにはスロープがあるから、車椅子も入れる」


四人が裏口に回ると社長は外へ下りてきて


「俺は近くのコンビニに、買い物に行ってくる」


と言って、トコトコと出かけて行った。


すけさんは、謙三の車椅子を押しスロープを登ると、裏口から家の中へ入っていった。そして、女性二人も、その後ろから付いて中へっていった。

中に入るとそこは二十畳くらいのリビングで、ここにも自分で書いた絵が所狭しと飾ってあり、中央には中曽根・田中角栄・村山元首相の書が飾ってある。

「大したもんだ。さすが社長。なんであんな施設に入っていたんだろう?」

と、すけさんが、不思議そうな顔で言った。

程なくして社長が帰ってきた

「みんな、ビールとつまみを買ってきたぞ。今日の成功を祝って乾杯だ。すけさん、音頭をとってくれ

と言い、社長が皆にビールを手渡すと、すけさんが音頭をとった。

「それでは、みなさんの今日の労を労い、そして全世界の老人たちの夢を、ここに叶えることが出来たことに対し、乾杯をいたします。かんぱ~い。」

みんなニコニコしながら、ビールを高々と天に上げ、乾杯をした。

謙三もうれしかった。感激した。こんなにも簡単に事が運んでいいのだろうか。謙三は車椅子を押して貰うだけだったので、簡単に思えたかもしれないのだが、大変だったのはすけさんだった。

施設では禁酒禁煙だったので、みなビールを飲むのは久しぶりだった。特に謙三は脳梗塞になってから禁酒を言い渡されていたので、十年ぶりくらいにビールを飲んだ。

「うまい。久しぶりだし、格別今日のビールはうまい。」

すけさんは、汗をかいたのと、ことを成し遂げた満足感で、ビールのうまさが倍増しているようだった。

ほろ酔い気分の社長が自分のことを喋りだした

「みんなは白菊会というのを知っているかい。身寄りのない人たちが献体をする大学の会だ。死んだら直ぐに大学が引き取りに来る。葬式代もいらない。死ぬのに一銭も要らない。その代わりにホルマリン漬けにされ、学生たちに切り刻まれる。実は俺もその会に入っているんだ。あの施設にもその会に入っている人が、何人もいるよ。」

謙三はぞっとした。

死んでから切り刻まれるなんて嫌だ。よく生きているうちにそんなことを決められるもんだ。考えられない。それに社長は子供さんたちもいるだろうに。

そう思った。

すけさんが、

「社長は、息子さんも娘さんもいらっしゃいますよ。どうして献体するんですか?」

と言うと、

「俺は頑固そのものだった。社員にも子供たちにも。社員にはそっぽを向かれ、子供たちは皆家を出て行った。だから面倒を見てくれる人は誰もいない。俺は生涯孤独なんだ。でも今はみんなが友達という気がしている。生涯の友だ。かんぱ~い。」

ほろ酔い気分だった。

すけさんが、顔を真っ赤にしながら立ち上がって、両手で指揮をし、

「よし皆でいつもの歌を歌おう。せ~の」

 

♪僕らはみんな 生きている

 生きているから 歌うんだ

 僕らはみんな 生きている

 生きているから 笑うんだ

 手のひらを太陽に かざしてみると

 真っ赤に流れる 僕の血潮

 ミミズだって オケラだって

 年寄りだって みんなみんな

 生きているんだ 人間なんだ

 

 家中に、皆の歌声が響き渡った。

 歌い終わると、皆、拍手喝采した。

 すけさんが、お腹に手を当てながら

 「でも社長。お腹がすいてきたよ。飯はどうしましょうか。」

 と言うと、

「主婦のプロだった女性が二人いるじゃないか。後で材料を買ってくるよ。ねえみよちゃん。」

と、みよちゃんの方を向いて言うと

「私家事はしたことないの靴屋自営業だったから、家事は全部夫がしてくれたし、包丁も握ったことはないの。」

と、みよちゃんが恥ずかしそうに言った。

「ええ!じゃあ、よっこちゃんだったら。」

と、よっこちゃんを探すと、よっこちゃんは玄関に立っていた。

「ここは私の家じゃない。お父さんもいないし、子供たちもいないもの。私家に帰りたいの。」

「ダメだこりゃ。また窓際になっている。結局、野郎だけでやるしかないな。」

すけさんは、観念したように言った。

「ん?何か匂うぞ。」

と、社長が鼻をクンクンさせながら、部屋の中の臭いを嗅いだ。

謙三が、自分のお尻を指さし

「えた。えた。」

と言っている。

「何?えた?臭いな。うんこが出たのかい?」

と、すけさんが言うと、謙三は頭を縦に振りながら、お尻を指さす。

「まいったな、こりゃ。社長どうしましょう。」

この家のトイレは洋式で少しは広いが、車椅子が入るには狭すぎる。

「仕方がない。二人でするか。」

社長は、謙三が乗った車椅子をトイレの前に押して来て、すけさんと一緒に謙三を立たせ、ズボンを降ろし、リハビリパンツとパッドを外した。

「うわ!臭い。」

社長もすけさんも、こんなことやったことがない。右往左往しながら、社長がトイレットペーパーを探すと

「おかしいな。トイレットペーパーが無いぞ」

社長が言うと

「ごめんなさい。僕が取りました。」

と、すけさんが、ポケットの中からトイレットペーパーを出した。

「いつの間に。油断も隙もあったもんじゃないな。」

ある程度、お尻をトイレットペーパーで拭くと、謙三をトイレに座らせ

「後は、自分でできるだろう。ウォッシュレットをガンガンかけて、綺麗に拭くんだぞ。ところで代わりのパッドとかリハパンはどうした?」

謙三は車椅子の後ろを指差し

「そこそこ」

と言うと

社長が、車椅子の後ろのポケットを探ると

「あった、あった。綺麗になったらこれをはけばいいか」

謙三がお尻を洗い終わると、すけさんは、リハパンとズボンを謙三の足元から突っ込み、パッドを股間にあてた。そして謙三を立たせると、リハパンとズボンを、腰まで持ち上げ履かせた。


「よし、これで一丁上がりだ」


すけさんと社長は謙三を抱え、車椅子まで歩かせ座らせた。

ふと、社長がみよちゃんの方を見ると、足元がびっしょり濡れ、床に水がたまっている。

「あ!やられた。」

みよちゃんは、時々、尿失禁をする事があった。特にビールを飲んだ後だったので、尚更だった。

「すけさん。床を拭いてやってくれ。どうせ、みよちゃん着替えとか持って来てないだろうな。」

と言うと、社長は奥の部屋に入、妾のものと思われる女性用の下着とパジャマを持って来た。そして浴室を指差し

「あそこが風呂だ。シャワーで体を洗って、この服に着替えて来なさい」

と社長が言うと、みよちゃんは服を受け取、浴室へ向かった。

すけさんは、床を拭き終わると、

「社長。これからも、ずっとこんなことをするんですか。俺もう嫌。」

と言って、床に座り込んだ。すけさんは、全部自分がしなければならないことにうんざりしていた。そしてストレスで、近くにあった新聞紙を破き始めた。いつもは丁寧に破くのに、今日は滅茶苦茶に破き始めた。


「でも、何とかなったじゃないか。そうか、疲れているし、お腹もすいたんだろう。ご飯にしよう。俺が弁当でも買ってくるよ。いや、今夜はお祝いだから、寿司でも取るか」

言うと社長は、電話の方へ行こうとしたが、なにやらから物音が聞こえてくるのに気がついた

車が何台も止まる音がして、

「バタン、バタン」

と、車のドアが閉まる音がする。そして、外のほうから

「社長。そこにいるのはわかっている。みんなを連れて出てきなさい。」

と、女性の施設長の大きな声がした。

「施設の連中だ。なんで此処にいるのがわかったんだ。きっとタクシーの運ちゃんだろう。あいつは口が軽そうだったからな。」

と、社長が言うと

「社長。あたがそそのかしたんでしょう。あなた達にもしものことがあったら、私はどうしたらいいの。」

施設長が、泣きながら外から叫んだ。

「我々は、もう施設には帰らない。我々は自由を手に入れたんだ。」

と、社長が言うと、

「そうだそうだ。もっと利用者を大事にしろ。」

と、すけさんが叫んだ。

「そうだ、そうだ。」

とみよちゃんもよっこちゃんも叫んだ。

「もっと利用者に自由を」

社長も叫んだ。

「もっと職員の待遇を良くしろ。」

と、謙三は言いたかったが

「あうあうあう。」

としか言葉にならなかった。

社長はタンスを開けると、手ぬぐいを取り出し頭に巻き、二階へ上っていった。

二階へ上りサッシを開け、ベランダに立つと、外の施設の人たちに向かって、演説をはじめた。

「介護の諸君。街を見たまえ。老人だらけだ。あと十年もしたら、街を歩いている人も、車を運転している人も、ほとんどが老人だらけになってしまう。その大半が認知症だ。行く処も分からない。帰る道も分からない。そういう人達を、どうしていけばいいのか。今、君たち若者は、真剣に考えて行かなければならない。老人を施設に縛り付けるそれじゃ老人の不満が増えるばかりだ。老人に自由を与え、可能性を与え、なおかつ安全に、幸せに暮らせるよう、君たちは、考えなければならない。老人を敬い、老人が、幸せに余生を過ごせる世の中を作らないと、あちこちで反乱が起こるぞ。君達より、老人の方が、圧倒的に数は多いのだ」

社長は涙ながらに演説を始めた。頭の中では自衛隊の市谷駐屯地で演説する三島由紀夫と、自分の姿が交錯していた。

理想は、自分の家で、健やかに過ごすことだ。もしそれが出来ないとしたら、施設を快適に過ごせるようにすることだ。老人を敬いなさい。老人を子ども扱いするんじゃない。戦後の何もない時代から、今の日本を築いてきたヒーローたちなのだ。今は子供みたいかもしれないが、その皺には、ものすごい経験と、知識が刻まれているのだ


ビールと興奮とで、少し赤ら顔の社長の目からは、涙が流れ落ちていた。

「我々は、二度とあんな施設に帰るつもりはない。君達は、タクシーの運ちゃんにここを聞いたのかもしれないが、我々はここから一歩も外に出ない。」

社長が言うと

「社長、タクシーの運ちゃんは関係ないよ。社長はいい腕時計をしてるでしょう。それにはGPSといって、社長がどこにいるかわかる機械が入っているんですよ。」

職員の一人が言うと、社長は訳が分からない顔

「なんだ、そのデーペーエスというのは」

「人工衛星からの情報で、その時計の居場所が分かるようになっていて、インターネットを見れば、社長が、今どこにいるのかわかるんですよ」

「な、なんだと。ここがわかったのは俺の腕時計のせいなのか

社長は、腕時計を外すと、床に叩き付けた。

「社長。ご飯はどうしてるの?みんなのオムツは有るの?介助できるの?」

と、施設長が言うと

「いや出来ません。僕はもう疲れました。僕は帰ります。」

と、すけさんは、ほとほと疲れた様子で、簡単に折れてしまった。

「何、もうあきらめると言うのか。お前はそれでも男か!」

と社長が怒鳴ると

「社長、もう無理だって。施設に帰れば上げ膳下げ膳。何とかみんなが生きていけるのは、介護の人たちが世話してくれるお陰だよ。僕はもう疲れた、介護の大変さがわかった。施設に帰る。社長、後は頼みましたよ。」

と、すけさんは言って、とことこ外に出て行ってしまった。

後は頼んだと言われても、社長一人では、到底みんなの世話はできない。すけさんがいたからこそ、何とかここまでやってこれたのだ。

「さあ社長。すけさんがいなかったら、何にもできないでしょう。施設に帰りましょう」

と、施設長がの中に入って来て、社長の手を取り、外へ連れて行こうとすると、

「分かった。もう観念したよ。ただ、一つだけお願いがある。たまには外出をさせてくれ。もうパチンコにはいかないから

と言うと、施設長

「分かりました。たまには許可しましょう。ただ出掛ける時は、必ずの腕時計を持って行ってください。それとこんなことは、もう二度としないでください。これで三度目なんだから」


と、言った


 社長は苦笑いしながら


 「わかった、わかった。もう疲れた。二度とこんなことはしない」


と言いながら外へ出ると、謙三は施設の車椅子用のリフト車に、そして、社長達は別の車に乗せられ、施設へと向かった。


車の後部座席に乗っていた社長は


そうか、あのデーペーエスの付いた腕時計さへ無ければ」


と、心の中でつぶやくと、その目がきらりと光った。


車は、次々施設の駐車場に到着した。玄関先では、施設の職員が大勢待っていた。


職員や社長達が車から降りると、職員の一人が駆け寄ってきて、社長の手を握り


「良かった。みんな無事で帰って来れた。みなさん、ご苦労様でした。」


と、笑顔で、それでも泣き出しそうな顔をしながら、みんなを労った。


もう回りは、夕焼けで真っ赤に染まっていた。


 広大な湾の背後は、夕日で赤く染まった山が、悠然とみんなを見守っていた。

陽が沈む


それでも、陽はまた昇る


老人の皺には、


知恵と経験が刻まれている


若者よ、老人から学べ


老人に、尊敬の念を持て


君達もすぐに、老人になるのだ』

なべ
作家:薬師丸 悟郎
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