「そうか、今日はデイの日だったんだ。」
謙三の場合、デイサービスに通う日は、週三回組まれている。子供達が、毎日学校に通うのと同じように、朝から夕方まで、デイサービスに通わなければならない。
あるおばあちゃんは
「ここは幼稚園と一緒。養老園だよ。」
と、いつも言っている。
謙三も、あまりデイサービスには行きたくないのだが、ケアマネージャーという人が、強引に組んでしまっている。本来は、自分で決めるものなのに、年寄りには判断能力がないということで、ほとんど、ケアマネージャーが決めてしまうのだ。
デイサービスの回数は、本人の必要性に応じて決められるものだが、現実には施設の利益が優先される事が多い。
医療保険とか介護保険は、点数で収入が決まっているので、競争相手と価格競争になることがないし、回数が多いほど利益が上がる。美味しい商売なのだ。
謙三が若いころ、病院に行った時
「ちょっと高すぎるよ。もっと安くできないか?」
と値切ったら、病院の受付の人が
「はあ?これは国が決めているので、安くはできないんです。病院で値切るなんて、初めてですよ。」
と小馬鹿にされた事があった。
これはいい商売だ。どの商売も、価格競争で苦しんでいるのに、この世界だけは定価で商売できるんだ。これは美味しい商売だ、とその時思ったものだ。
一階に降りると、まだ誰も来ていない、と思ったら、いつもの玄関のドアに窓際のよっこちゃんが立っていた。
「私、帰りたいの。うちに帰るの」
よっこちゃんは一人暮らしで、その家も子供たちが処分してしまい、帰ろうにも帰る家もないのだが、認知症の彼女には、そういう事情は分からない。毎日、一日中玄関のドアの前か、窓の前に立っている。玄関のドアは二重ドアになっており、内側のドアは、右端と左端のスイッチを、両方押さないと開かないようになっている。彼女にはそれがわからず、ただただ毎日ドアの前に立っている。
次に、眼鏡をかけた、背の低いかめさんことカメマツさんが、シルバーカーを押しながら、玄関にやってきて
「今日は、娘はまだ来ないですか?」
玄関横の、事務室の女性に向かって聞いた。
「今日は来ない日ですよ。さっき言ったばかりでしょ。今日もう三度目ですよ」
怒ったように、かめさんに言った。
かめさんの娘さんは、水曜と日曜にやって来て、一緒に出掛けることになっているのだが、彼女には、曜日の感覚はない。毎日、何度となく玄関に行っては、娘さんがやってくるのを待っている。
謙三が、デイルームの、いつもの席について待っていると、次から次に、デイ利用者の人たちがやって来て、それぞれの席に着いた。ここでは、毎日三十人の人たちが、デイを利用している。
「うわ~」
男性職員の叫び声が、デイルームに鳴り響いた。デイの入り口付近を見ると、車椅子に座ったおばあちゃんが、男性職員の股間を握っていた。
目のぎょろっとした、そのおばあちゃんは、リクライニング式の車椅子に、横たわるように乗り、体はほとんど動かないのだが、顔面と手だけは動き、理性は失われ、男性の股間ばかりを、いつも狙っている。
「油断した。忙しくて、そこにいるのに気が付かなかった」
と、苦笑いしながら、逃げるように、その男性職員は、別の利用者の送迎の為に、エレベーターに乗り込んだ。
九時二十五分から、デイサービスが始まる。血圧や体温を測ったりした後、まず、ラジオ体操をスクリーンを見ながらするのだが、どんなに認知症が進んでいても、ラジオ体操は皆、覚えているらしい。スクリーンを見なくても、皆、音楽に合わせて、手足を動かしている。
九十六歳のおばあちゃんが、
「ラジオ体操なんて、見なくても覚えているよ。私は記憶力がいいんだよ。私たちが小学一年生の時の教科書には、まず最初に、さいた、さいた、さくらがさいた、が書いてあったよ。」
と言うと、周りの利用者たちが
「こいこい、シロこい。すすめ、すすめ、兵隊すすめ」
と続きを合唱し、大笑いする。
昔の若い時に刷り込まれた長期記憶は、なかなか忘れないものらしい。
その九十六歳のおばあちゃんには、物盗られ妄想があり、財布などを置いたところを忘れ、誰かに盗まれたと、殆ど毎日、騒いでいるのだが。
体操が終わると、入浴の順番を待ちながらお茶タイムになる。皆、銘々にお茶を飲みながら、隣の人と談笑をする。
「私は、辞め金でヨーロッパを回ってきたよ。ベルサイユ宮殿やロマンチック街道に行って来た。トレビの泉で、また来れますように、と言って、後ろ向きでお金を投げたのに、もう行けなくなってしまった。あの時、行っといてよかった。近所の人たちは、辞め金を使って外国へ行って、いい身分だこと。と言っていたが、お土産を渡すと、よかったねえ、とコロッと変ったよ。人間、現金なもんだね」
小柄な、片麻痺のため歩行器でようやく歩く「よっちんがったんさん」と呼ばれるおばあちゃんがそう言うと、目の前に座っていた元美容師のおばあちゃんが、
「またその話をしてる。辞め金て退職金のことなんでしょう。その話はもう聞き飽きたよ!」
と叫んだ。そして
「私なんかね。昔、映画女優にスカウトされたんだよ。でも断った。映画女優も、いい時はいいけど、悪い時は何にも仕事が来なくなるから、手に職をつけなさいって、保険会社の支店長をしていたおじさんに言われて、美容師になったんだよ」
よっちんがったんさんが、手を横に振りながら
「その話も、何度も聞いたよ」
と反撃し、みんな大笑いした。
その隣にいた、八十歳ぐらいの、妄想の激しいおばあちゃんが、
「私の甥っ子は、石原裕次郎なんだよ。朴大統領も私の親戚だし、大統領選に出たヒラリーさんも、遠い親戚になるんだよ。」
と、言うと、
「そりゃすごい。今度、私にも会わせてちょうだい」
よっちんがったんさんが、手でグーチョキそして頭の上でパーをし、
「みんなこれだから、だからここにいるんだよね」
と言うと、皆で大笑いになった。
元美容師のおばあちゃんが、ふと横を見ると、昼はいつも寝てて、夜になると起きだし、徘徊を始めるおばあちゃんが、いつものように、椅子に座ったまま寝ている。
「また寝てる。ほら起きなさい。どうせ、もう少ししたら、永遠に眠れるんだから。」
「あああ、また寝てたね。でも、早く永遠に寝たいんだけど。」
と、言いながらまた寝てしまった。
皆、それぞれに言いたいことを言い、そして毎日、同じ話を繰り返しながら、時が過ぎていった。
「さちこさん、お風呂ですよ」
入居したばかりで、初めてデイサービスに来た、まだ七十代のさちこさんを、職員が迎えに来た。
お風呂に行くと、男性職員が、
「さあ服を脱いで、お風呂に入りますよ。」
と言うと、さちこさんは
「きゃあ!何をするの。男の人は出て行って。」
と叫んだ。
先に裸になっていた、隣のおばあちゃんが
「大丈夫。最初は恥ずかしいけど、直ぐに慣れるよ。自分で入れないんだから、しょうがないじゃない。」
さちこさんは、渋々、裸になって、男性職員に背中を洗ってもらう。男の人に体を洗って貰うなんて、考えられない。特に、男尊女卑の時代に育った人達には、あり得ないことなのだ。しかし、他の人達は当たり前のように、若い男の人に、体を洗って貰っている。今では慣れて、皆どうもないらしい。
「あ、またやっちゃった。」
職員が、眉をしかめながら言った。浴槽の中に、茶色いものが浮かんでいる。
「また、お風呂のお湯を替えないといけない。」
まだ良い方だ。ズボンを脱がすと便だらけとか、体を洗っている最中に、便が出る人もいるのだ。
お風呂も終わり、昼食も終わると、昼寝の時間になる。眠くもないのに寝ないといけないなんて、おかしい話だが、つまらないデイサービスに付き合っているよりは、まだ寝ている方が楽だと思い、謙三もベッドに横になる。
みんなが寝静まると、職員のヒソヒソ話が始まった。ここの職員は、元々声がでかいので、ヒソヒソ話にはならないのだが。
「俺はここを辞めるよ。ここの給料じゃ、家族を養っていけない。」
「本当だね。なんで介護の世界って待遇が悪いんだろうね。今から一番必要な職業なのに、こんな給料じゃ、なり手がないよ。パートのおばさんの為の職業だね」
「旦那の給料が入って、奥さんの小遣い稼ぎのための職業だね。毎月の給料が十五万もあればこの世界では高給取りだからね。」
「あべちゃんが、介護離職ゼロとか言っているけど、資格を取るのに入学金を安くするとか、再就職したらお金をあげる、とかじゃだめだよ。分かってないね。待遇をよくしないと、同じことだよ。」
「介護報酬は決まっているし、その介護報酬も減る一方だ。昇給なんてありえない。介護の世界なんて、お先真っ暗だよ。これでは、結婚することもできない。現場をよく見てほしいよ。あべちゃん。」
ベッドに横になったまま謙三は、
「なるほど、介護はそんなに待遇が悪いのか。きつい、汚い、それに給料が安ければ、誰もなり手がいない。これから、団塊の世代の人達が歳を取れば、一番必要な職業なのに。昔の若い人は、こんな仕事は絶対にしなかった。まったく頭が下がる。自然は水のように、高いところから低いところへと流れる。しかしお金は逆だ。持っている人の方へ、お金は集まる。経営者が儲かるばかりだ。きつい仕事を、一生懸命頑張っている人達の待遇を良くしないと、日本はおしまいだ。」
と思いながら、いつの間にか、夢の中へと入っていった。
午後は脳トレが始まった。二桁の足し算と、二桁の掛け算と割り算のプリントが渡された。
謙三は、
「馬鹿にするんじゃない。俺は大学も出てるんだぞ。こんな、小学生みたいな問題ができるか」
と、心で言いながら、プリントをやってみるが、足し算はできても、二桁の掛け算がなかなかできない。それでも掛け算を何とか終わらせたが、割り算となると、全くやり方が分からなくなっている。
謙三は
「これは脳トレなんかじゃない。自分が、これだけの能力しかないんだというのを、認識させるためのプリントだ。プライドを、ズタズタにするためのプリントだ。」
と思った。
その隣でも、九十二歳の元将校さんが怒っている。
しかし彼のプリントを見ると、全問答えが書いてある。職員が
「すごい、全問正解ですよ。」
と言うと、彼は
「こんなもん、できて当たり前だ。もっと、歯ごたえのある問題を持ってこい」
と言うと、改めて職員が持ってきた四字熟語の問題を解き始めたが、これも、あっという間に終わってしまった。
職員に答え調べを頼むと、職員は
「私にも分からない。解答を持ってきますね」
と言い、正解の書いた紙を持って来たが、やはり全問正解であった。
「おみそれいたしました。」
と、恥ずかしそうに、職員は退散していった。
このおじいちゃんは、昔の中学を出た後、幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、ビルマの戦地で将校として活躍して復員したのだが、つい先日、自叙伝を自費出版したばかりの方である。
謙三は、九十歳代のおじいちゃんに負けたことが恥ずかしく、悔しかった。
暫くして、デイサービスの、終わりの体操が始まった。それが終わると、階ごとに、エレベーターで部屋に帰ことになる。
しかし、体操がまだ終わっていないのに、数人が、エレベーターへと移動を始めた。
「まだデイサービスは終わっていませんよ」
と、職員が言っても、
「終わった終わった」
と言いながら、車椅子を漕いだり、杖で歩いたりしながら、我先へとエレベーターへと急いで行く。謙三は、エレベーターで自分の階に上り、食堂へ行くと、そこにはすけさんと、火山みたいに爆発寸前の社長が、顔を真っ赤にして立っていた。そして、その顔には、真っ白のガーゼが貼られていた。
「すけさん。あの山を見たまえ。紅葉で真っ赤に染まって綺麗だろう。だけど、あの紅葉も、もう暫くしたら、枯れて落ちてしまうだろう。枯れて落ちてしまう前は、あんなに鮮やかに、自分を輝かせるんだ。君はこのまま、ここで朽ち果てていいと、思っているのかい?」
「社長。社長は何を言っているの?」
すけさんは、不思議そうな顔で、社長の顔を覗きながら言った。
「俺はなあ。外出禁止になってしまったんだ。もうどこへも行けなくなってしまった。」
社長は、歩行は少し不安定ではあるが、ある程度の理解力はあるし、頑固で、言い出したら聞かない、ということで、タクシーを使っての外出は許されていた。
外出は、デイサービスがない日の週2~3回であるが、必ずと言っていいほど、昔ながらの老舗のデパートに出掛ける。お年寄りの共通の好きなものは、演歌と相撲、のど自慢、水戸黄門、そして老舗のデパートである。デパートに行くと、必ず帰りには、職員に名物の饅頭を買ってくる。
しかし、買ってくるのはいいが、職員が何も言わないと、
「あいつはお礼も言わない」
と、機嫌を悪くする。
しかし、いつからか、デパートの帰り、パチンコに行くようになったらしい。職員にも、今日はいくら負けたとか、いくら勝ったとかの話をしていたという。
その日、いつものようにデパートの帰り、パチンコ屋に寄ったら、入り口の階段で躓き、転んでしまった。そしてすぐに救急車で病院に運ばれてしまった。
病院から施設に連絡が入り、施設長が迎えに行った。しかし、幸いに怪我の程度はたいしたことはなかったものの、施設長から、外出は全面禁止、と言われてしまったのだ。
「すけさん、かくさん。君たちの人生はこのままでいいと思っているのか。この監獄みたいなところで縛られて、外を知らない籠の鳥のままで、人生を終わらせていいと思っているのかい?」
「私は終の住まいを探し回って、やっとここに決めたんだ。ここで朽ち果てる覚悟で入居したから、何の不満もないね」
いつの間にか、九十二歳の元将校が、悟りきったような顔で言った。
「あなたは、もう歳だから、それでいいと思っているだろうが、私はあなたの年になるまで、まだ十年ぐらいある。すけさんも一緒だ。かくさんなんか、まだ二十年ぐらいもあるんだ」
社長は、年寄りの出る幕じゃないね、と言わんばかりに元将校を睨んだ。
「私は嫌だね。前入院していた精神病院よりはまだましだけど、無理やり、子供たちにここに入れられ、たばこも吸えない、焼酎も飲めない、カラオケにも行けない、女も抱けない。まだやりたいことはいっぱいあるんだ。このまま何十年も、この中で、同じことの繰り返しで死んでいくなんて。何のために生きているんだ、と毎日思っているよ。」
すけさんは、全くその通りという顔で、社長に言った。
「ああうう、あああああ」
頭を縦に振り、左手で自分を指さしながら、かくさんも同意の表現をした。
「そうだろう、そうだろう。さあ、みんなで理想郷を捜しにいくんだ」
「理想郷を捜しにいくったって、社長。これは、どうしようもないことでしょう。ここから出るなんて有り得ない。行くところもないし、理想郷なんて夢の夢。」
すけさんがそう言うと、社長は
「そんなことはない。夢は叶えてこそ意味がある。このまま朽ち果てるなんて、死んでも死にきれない。俺に考えがある。今日の夜、ご飯が終わったら、みんなで打ち合わせすることにしよう」
と言うと、すけさんが
「さすが社長。頼りになるなあ。今着けている時計も、立派なもんだ。高そうですね」
「ああこの時計か。前の時計が壊れたもんで、職員に頼んで、買ってきてもらったんだ。なんだか、今どきのって感じで、恥ずかしいんだが」
照れくさそうに、それでも自慢げに、苦笑いをしながら社長は言った。
エレベーターが開き、夕食が運ばれてきた。
「もうこの話は後だ。職員にも、他の人にも、絶対に喋ったらだめだぞ」
職員の若い女の子が、配膳車からお膳を配りながら、
「あら、今日はみなさんお集まりが早いですこと。きっと、良からぬ話でもしていたんでしょう。職員の悪口とか」
と言うと
「ううああうう。」(そんなことはない)
と謙三が、頭を横に振りながら言うと
「この人たちは、良からぬ相談事をしているぞ。気を付けた方がいいぞ」
と元将校が言った。
みんなドキッとしたが、その職員は、どうせ他愛のない話だろうと、笑みを浮かべながら、他の階へと、配膳車を運んで行った。
胃瘻のおばあちゃんが、謙三にテレパシーを発した。
「羨ましい。私が五体満足だったら、真っ先に参加するよ。年をとっても夢を持つことは素晴らしいことだ。やるだけのことはやってみなさい。どうせだめでも、元の生活に戻るだけだ」
「ありがとうおばあちゃん。おばあちゃんも連れて行きたいけど。ごめんね」
謙三は、おばあちゃんに対し、何もできない自分を恥ずかしく思った。
皆、黙々とテレビも点けずに、夕ご飯を食べた。社長が小声で
「いいか。一緒に行きたい人は、今日の八時にここへ集合だ。分かったね」
みんな、コックリと頷いた。
謙三は、食事が終わり部屋に帰ると、社長の言葉を考えていた。
「どこかへ逃走するというのだろうか。そんなこと出来る筈がない。職員も何人もいるし、それに、どこへ行くというのだろうか?有り得ない」
考えても考えても、現実のこととは思えなかった。
八時になり食堂へ行くと、もう既に、社長とすけさんは席に座っていた。
「私の考えでは、メンバーはこの三人とみよちゃん、そして窓際のよっこちゃんの五人だ。どう思う?」
「みよちゃんは同じ階だし、窓際のよっこちゃんは、いつもドアの前に立っていて、可哀想だからね。それに、歩くのは普通だし、いいんじゃないの。でもかくさんは歩けないよ。車椅子だから無理じゃないの?」
とすけさんが言うと
「何を言ってる。同じ仲間じゃないか。それにかくさんの面倒を見るのは、あなた、すけさんに決まっている」
みよちゃんも、よっこちゃんも、まだ七十代で若く、みよちゃんは、顔だちも上品な感じで、社長のお気に入りだった。よっこちゃんは、いつもドアの前に立ち、誰しもどうにかしてあげたい、と思っていたので、全員納得をした。
「まず流れを説明しよう。決行に移すのは、明日の一時から二時の間の昼寝の時間だ。早い方がいい。この時間は、職員も休憩に入り、見守りは二人だけだ。おまけに見守りも、うとうとしていることが多い。ドアの前の事務室も誰もいない」
「なるほど、さすが社長。観察が鋭い。」
すけさんは、感心したように言った。
「俺がタイミングを探すので、合図があったら、すけさんは、かくさんの車椅子を押してドアを出る。みよちゃんは俺が連れに行く。よっこちゃんは、いつもドアの前にいるので、そのまま外に連れ出せばよい」
「うん、簡単なもんだ。だけど社長。どこへ行くんですか?」
すけさんが不思議そうに聞くと、社長は
「俺の本宅へ行くと、直ぐにバレてしまう。俺の別宅へ行こう。俺の妾に住まわせていたんだが、その妾も死んでしまった。そこだったら、誰も知らない。職員も絶対分かりっこない」
そう言うと、社長は自慢そうな顔をした。
「社長。そこは遠いんですか。僕は遠くまで車椅子を押せませんよ」
と、すけさんが聞くと
「車で、ほんの十分程度のもんさ」
と、社長が言うと
「いやいや、車は誰も持っていないし、車は車でも、車椅子だからねえ。一時間はかかるでしょう」
と、すけさんが、無理無理という顔しながら言った。
「大丈夫。近くにタクシー屋があるので、そこまでだ。そこからは、介護タクシーに乗っていけばよい」
「う~ん。なるほど。よく考えておられる。それだったらうまくいくよ。その別宅にさへ着けば、後は、主婦をしていた女が、二人もいるんだ。飯はどうにかなるだろう」
すけさんは、右手で左の掌を打ちながら、もう既に、成功したような顔で言った。
「よしそれで決まりだ。決行は早い方がいい。明日の昼だ。すけさん、かくさん。怠りなく準備をしておくように」
謙三は、準備といっても何を準備するべきなのか、皆目見当がつかなかったが、ともかく明日だということで、ワクワクしてきた。
「目の前の火山を見たまえ。ここの先人たちは、あの火山より燃えていた。だけど我々はいつまでも過去に頼っていてはいけない。いつまでたっても過去の歴史に頼っていては、先人たちも、さぞかし泣いていることだろう。我々も、老人たちの維新を起こすんだ。最後に、燃えるだけ燃えて、若者たちの心を変えるんだ。いいか、すけさん、かくさん」
社長は胸の前で腕を組み、山を見つめ、涙ぐみながら言った。
「ヘイ社長」
二人は社長に合わせるように、勢いよく返事した。まるで赤城の山、に三人ともなってしまっていた。
部屋に帰ると、謙三は興奮を抑えきれずにいた。何をしたらいいのか分からないが、なんとなく、本当にできるような気がして、興奮に酔いしれていた。次の朝、いつものように、職員にパッド交換と更衣をして貰うと、謙三は食堂へ向かった。
もう既に、この階の人たちは集まっていた。社長もすけさんも、少し興奮気味に見えた。社長は、いつもより背筋を伸ばし、すけさんは、きょろきょろあたりを見回し、落ち着きのないように見える。しかし一番興奮していたのは謙三だったかもしれない。うまく車椅子が漕げずに、あっちこっちの壁に、車椅子を当てながら、ようやく、自分の席に着くことができた。
席に着くと、胃瘻のおばあちゃんから、メッセージが届いた。
「ついにやるらしいね。うまくやるんだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ。頑張るんだよ。折しも、今日は真珠湾攻撃の日だね。」
「ありがとう、おばあちゃん」
朝食が終わると、社長からメモ用紙が回ってきた。
『ニイタカヤマノボレ一二〇八
一三時三〇分
鎌田:タクシーに電話連絡
橋のたもとにタクシーを待機させる
↓
鎌田:職員の隙ができたら、すけさんに合
図を送る
↓
全員:ドアの前に移動
↓
鎌田:ドアを開ける
↓
すけさん:かくさんを押して外へ
一目散に駐車場から外へ出る
↓
鎌田:よっこちゃんとみよちゃんを連れ、
すけさんを追いかける。
↓
橋のたもとまで、後を見ずに走る
↓
全員:タクシーに乗り込み蒲田の別宅へ
↓
脱出成功 』
と、とても単純なメモであったが、謙三は、胸の高まりを抑えることができなかった。
朝食が終わると、部屋に戻り、いつものようにデイサービスの荷物を持ち、車椅子の後ろには、一応オムツとパッドを一揃え入れ、一階へ降りて行った。
一階に降りると、いつものように、窓際のよっこちゃんがドアの前に立っている。
「よっこちゃんは、いつでも準備万端だな。よっこちゃんは、きっと、今日のこの日が来るのを、毎日、待っていたに違いない」
と、謙三は思った。
社長は、そのよっこちゃんを連れ、みよちゃんの所へ行くと、今日のことを説明している。
「今日は、お昼に、見守りの職員が寝たとき、外へ連れて行ってあげるから、昼寝はしないようにね。」
「え!おうちに帰れるの?やった!ばんざ~い」
二人とも大喜び
「静かに。これは内緒だから。それにおうちじゃなくて、私の家だからね。」
社長は、すけさんを呼ぶと
「タクシーはさっき連絡して、橋を渡ったところで待つようにしてある。そこまでは、かくさんを押して頑張ってくれ。」
「はい、分かりました。さすが、社長は抜かりがない。」
午前中の体操も終わり、入浴を社長もすけさんも断った。謙三は全く一人では風呂に入れないため、入浴はしたが、その間、社長もすけさんも落ち着きがなく、デイサービスの中でうろうろしている。
入浴が終わると、嚥下体操が始まり、あっという間にお昼ご飯となった。しかし、三人には、午前中の時間がとても長く思えた。
昼食が終わると、ついに昼寝の時間となる。社長もすけさんも、そして謙三さえも、昼寝を断った。
「夕べ寝過ぎたから、今は眠くない。」
と、社長が言うと
「おかしいわね~。いつも早く寝かせろとうるさい人たちが。」
職員が、怪訝そうな顔で言ったが、言い出したら聞かないし、いつもの我儘だろうと、みよちゃんに声をかけた。
「みよちゃん、さあ寝ますよ。」
と声をかけると、みよちゃんは
「今日はね、おうちに帰るの。だから今日は寝ないの。」
三人ともドキっとしたが、職員は
「いつものことか。いいですよ。じゃあ起きてて、テレビでも見といてください。」
よっこちゃんは、いつもの通り、寝ないでドアの近くに立っている。
五人を除いては、皆、ベッドに横になり、昼寝になった。灯りもすべて消され、遮光カーテンも閉められた。ホールは真っ暗になり、テレビだけが煌々と明るかった。
社長は、ホール内をうろうろし、逃亡のタイミングを探していたが、なかなか、事務室の女性も立ち去らない。見守りの職員達も、まだ、テレビを見ていて元気である。
「しょうがない。いましばらく様子を見るか。」
社長も椅子に腰かけ、テレビを見ることにした。テレビを見ながら、うとうとし始めたころ、ふと、ドアの方を見ると、窓際のよっこちゃんが、何やら右手の親指と人差し指で丸を作り、ドアの方から、こっちを見ている。
社長が、急いでドアの方へ行くと、玄関も事務室も真っ暗になり、誰もいなくなっている。そして見守りの職員も、二人ともテーブルにうつ伏せになり、寝てしまっている。
「今だ!」
社長は、すけさんに両手で丸を作り、合図を送った。すけさんは、職員に気付かれないように、そっと謙三の車椅子を押し、ドアの方へ向かった。
社長は、ドアの両側のスイッチを押し、ドアを開け、すけさんとかくさんを送り出すと、みよちゃんを迎えに行った。みよちゃんは
「どこへ行くの?まだみんな寝てるよ。」
「いいから、今は時間が無いんだ。」
朝説明したのに、もうとっくに忘れてしまっているみよちゃんだが、今はまた説明している暇はない。ドアの前で待っていたよっこちゃんと、みよちゃんの二人の手を引くと、ドアの外へ、一目散に飛び出した。
外へ出ると、もう既に、すけさんは駐車場の外へ出ていた。ここの施設は、人工の出島の中にあり、周りを海で囲まれ、人工島から出るには、一本しかない橋の袂まで、海沿いの凸凹した道を走らないといけなかった。
すけさんは、謙三の車椅子を一生懸命に押したが、足が石に躓いてしまい、転んでしまった。その拍子に、車椅子から手が離れ、車椅子は転がったまま、ブロック塀に突き当たってしまった。その衝撃で、謙三は、車椅子から前方へ、ずり落ちてしまった。
ブロック塀の反対側は塀もなく、落ちれば海の中に真っ逆さま、土左衛門となるところだったが、幸いにも車椅子は、塀の方へと転がっていき、命拾いをした。
「大丈夫か。」
社長達も追い付いて来て、すけさんと一緒に謙三を持ち上げ、車椅子に乗せようとしたが、謙三は体格がいいものだから、二人とも汗びっしょりになりながら、ようやく謙三を乗せることができた。
「遅くなった。早く行こう。」
社長は、みよちゃんとよっこちゃんの手を引き急いだ。女性二人は、足はどうもないので、走るのは社長より早く、逆に、二人の方が社長を引っ張る形になった。
「ねえ。私たち何をしているの?どこへ行くの?」
みよちゃんが言った。
「おうちに帰るのよ。やっと帰れるのよ。おうちに帰れば、お父さんも子供たちも待っているのよ。」
よっこちゃんが嬉しそうに言った。よっこちゃんの夫は、とうの昔に亡くなっているし、子供たちだって、みんなよそに行って、家には誰もいないのだが、よっこちゃんには、昔の記憶しか残っていない。
「ともかく、見つからないうちに、早くタクシーのところまで行くんだ。」
海沿いに角を曲がると、少し坂になったところに橋があった。この出島に唯一掛かっている橋で、台風の時など、波が高い時は通れなくなり、孤島となってしまうため、橋は少し高く架けてある。幸い今日は、波もなくスムーズに通れるのだが、そこまでの坂は、車椅子を押すのには結構力が要る。
すけさんが汗だくになりながら、ようやく車椅子を押して橋を渡ると、そこにはタクシーが二台待機していた。一台は普通のタクシーで、もう一台は、車椅子用の介護タクシーだ。
「遅かったですね、社長。さあ早く乗って。追手がすぐにやってきますよ。」
タクシーの運転手二人が、手際よく、車椅子の謙三を、車椅子に乗ったまま介護タクシーへ乗せ、すけさんを助手席へ乗せると、残りの三人を、もう一台の普通タクシーに乗せた。
運転手は、タクシーのエンジンをかけ、発車させると、
「ああ、これで一安心。駆け落ちのかた場を担いだとあっちゃ、我々もこの施設からの仕事が来なくなりますからね。」
「駆け落ちではない!我々は自由を求めて新天地に行くのだ。」
社長が怒って言った。
「へい。社長の別宅ですね。あのお妾さんも綺麗な方でしたからね。」
「分かった、分かった。どうでもいいから早く家に連れて行ってくれ。ところで君は個人情報保護法という言葉を、知っているかね」
社長が運転手に聞くと、
「もちろんですよ。我々運転手にも守秘義務というのがあるんです。絶対に、誰にも言いません。私は、口が堅いので有名なんですから。」
「自分で口が堅いという人で、ほんとに口が堅い人を、見たことがないけどね。」
と言って、みんなで大笑いをした。車に乗ったことで、みんなホッとした。
介護タクシーの助手席では
「いや~。やっぱり、シャバの空気はいいね。」
すけさんが首にかけたタオルで汗を拭くながら言った。
タクシーに乗ったことで、安堵感と落ち着きを取り戻した社長が、窓の外を見ながら
「ほら、歩いている人達を見てごらん。あと十年もすれば、歩いている人の殆どは認知症だ。皆、帰るところが分からず、迷子の年寄りだらけさ。車の運転手も、認知症だらけで、怖くてしょうがない時代になるよ」
タクシーの運転手は、ドキッとした顔で社長を見て言った。
「私はまだ六十代で若いし、認知症なんかじゃないですからね。安心してください。」
タクシーは、海岸線から約二十分位走ると、住宅街へと入って行った。
タクシーの運転手が
「社長。ここら辺でしたかね?」
と言うと、
「そこだ。その右へ曲がった所で降ろしてくれ。」
タクシーは、住宅街の細い道を右に曲がると、大きい屋敷の前で止まった。
タクシーから降り、目の前の家を見ると、そこは高い塀に囲まれ、庭には大きな柘植の木の聳える、二階建ての邸宅だった。
介護タクシーは、すけさんと謙三をおろすと帰っていった。普通タクシーの運転手が
「社長、代金をお願いします。」
と言い、両手を差し出すと、玄関先で、ポケットを探っていた社長が
「おかしいな。鍵が無い」
社長は運転手の方を向いて
「鍵を置いてきたみたいだ。施設に行って俺の部屋から、鍵をもって来てくれ」
慌てて、すけさんは、両手で社長の腕を掴むと
「社長、ちょっと待って。そんなことしたら直ぐにバレてしまうでしょう」
と言うと、社長は腕組みをし
「そうか、そうだよなあ。そうだ、妾は俺が来るだろうと、いつも二階のベランダの窓の鍵を、開けておいてくれた。若しかしたら、まだ鍵が開いているかも知れない」
二階の窓を指さしながら、そう言うと、家の裏に回り、脚立を担いで来た。
そして、運転手の方を向くと
「この脚立で屋根に上り、あのベランダの窓から、中に入ってくれ」
と言うと、運転手はびっくりした顔をして
「ええ! 私がですか?」
社長は、運転手をキッと睨みながら
「他にできる者がおらん。頼む」
と言い、両手を合わせた。
「しょうがないなあ」
運転手は、渋々、脚立を開いて伸ばし、一階の屋根にかけると、脚立を登って行った。
そして恐る恐る、脚立から屋根に移り、ベランダに上がると、二階のサッシを開けようとした。
運転手は五人の方を向くと、両手で大きく丸を作った。
「やった! 開いた。良かった!」
すけさんが大声で叫び、五人は手を取り合って喜んだ。
社長は、運転手に大きな声で叫んだ。
「中に入ったら、階段を降りて、右側の玄関の鍵を開けてくれ」
運転手がサッシから中に入ると、家の中から
「トントントン」
と、階段を降りる音がし、
「ガラガラガラ」
という音と共に玄関が開き、運転手が中から出て来た。
「ばんざ~い。ばんざ~い」
外の五人は抱き合って喜ぶと、すけさんが
「これで、天国の扉が開いた」
と、言った。
社長は、笑顔をきつい顔に変え、運転手を向くと
「ありがとう、おかげで助かった。でも分かってるな!このことは、絶対に誰にも言ったらだめだぞ。くれぐれも頼むぞ」
そう言いながら、社長は財布から千円札を二枚出した。
「釣りは要らん。とっとけ」
と、運転手に渡した。
「社長。千円札があと三枚足りません。介護タクシーなので高いんです。それに屋根に登った手数料」
運転手は、指を一本出しながら、両手の手の平を差し出した。
「何! 足元を見やがって。でもしょうがないか。おかげで助かったんだから」
渋々社長は、一万円札を一枚財布から取り出すと、二千円と交換に、運転手の手の上に置いた。
「有難うございます。くれぐれも、体に気を付けて頑張ってください。施設に帰る際には、また呼んでください」
と、運転手が言うと、社長は怒りながら
「何を! もう二度とあんな所に帰るもんか!」
と言うと、運転手はタクシーに乗り込み、逃げるように引き上げっていった。
社長は、玄関から中に入ると、裏口から顔を出し、手招きをしながら、四人を呼んだ。
「さあ、みんな入ってくれ。こっちにはスロープがあるから、車椅子も入れる」
四人が裏口に回ると、社長は外へ下りてきて
「俺は近くのコンビニに、買い物に行ってくる」
と言って、トコトコと出かけて行った。
すけさんは、謙三の車椅子を押しスロープを登ると、裏口から家の中へ入っていった。そして、女性二人も、その後ろから付いて中へ入っていった。
中に入ると、そこは二十畳くらいのリビングで、ここにも自分で書いた絵が、所狭しと飾ってあり、中央には中曽根・田中角栄・村山元首相の書が飾ってある。
「大したもんだ。さすが社長。なんであんな施設に入っていたんだろう?」
と、すけさんが、不思議そうな顔で言った。
程なくして、社長が帰ってきた
「みんな、ビールとつまみを買ってきたぞ。今日の成功を祝って乾杯だ。すけさん、音頭をとってくれ」
と言い、社長が皆にビールを手渡すと、すけさんが音頭をとった。
「それでは、みなさんの今日の労を労い、そして、全世界の老人たちの夢を、ここに叶えることが出来たことに対し、乾杯をいたします。かんぱ~い。」
みんなニコニコしながら、ビールを高々と天に上げ、乾杯をした。
謙三もうれしかった。感激した。こんなにも簡単に、事が運んでいいのだろうか。謙三は、車椅子を押して貰うだけだったので、簡単に思えたかもしれないのだが、大変だったのはすけさんだった。
施設では禁酒禁煙だったので、みなビールを飲むのは久しぶりだった。特に謙三は、脳梗塞になってから、禁酒を言い渡されていたので、十年ぶりくらいにビールを飲んだ。
「うまい。久しぶりだし、格別、今日のビールはうまい。」
すけさんは、汗をかいたのと、ことを成し遂げた満足感で、ビールのうまさが倍増しているようだった。
ほろ酔い気分の社長が、自分のことを喋りだした
「みんなは白菊会というのを知っているかい。身寄りのない人たちが献体をする大学の会だ。死んだら直ぐに、大学が引き取りに来る。葬式代もいらない。死ぬのに一銭も要らない。その代わりに、ホルマリン漬けにされて、学生たちに切り刻まれる。実は、俺もその会に入っているんだ。あの施設にも、その会に入っている人が、何人もいるよ。」
謙三はぞっとした。
「死んでから切り刻まれるなんて嫌だ。よく、生きているうちに、そんなことを決められるもんだ。考えられない。それに、社長は子供さんたちもいるだろうに。」
そう思った。
すけさんが、
「社長は、息子さんも娘さんもいらっしゃいますよ。どうして献体するんですか?」
と言うと、
「俺は、頑固そのものだった。社員にも子供たちにも。社員にはそっぽを向かれ、子供たちは、皆家を出て行った。だから、面倒を見てくれる人は誰もいない。俺は生涯孤独なんだ。でも、今はみんなが友達という気がしている。生涯の友だ。かんぱ~い。」
皆、ほろ酔い気分だった。
すけさんが、顔を真っ赤にしながら立ち上がって、両手で指揮をし、
「よし皆でいつもの歌を歌おう。せ~の」
♪僕らはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
僕らはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
手のひらを太陽に かざしてみると
真っ赤に流れる 僕の血潮
ミミズだって オケラだって
年寄りだって みんなみんな
生きているんだ 人間なんだ
家中に、皆の歌声が響き渡った。
歌い終わると、皆、拍手喝采した。
すけさんが、お腹に手を当てながら
「でも社長。お腹がすいてきたよ。飯はどうしましょうか。」
と言うと、
「主婦のプロだった女性が、二人いるじゃないか。後で材料を買ってくるよ。ねえ、みよちゃん。」
と、みよちゃんの方を向いて言うと
「私、家事はしたことないの。靴屋で自営業だったから、家事は、全部夫がしてくれたし、包丁も握ったことはないの。」
と、みよちゃんが恥ずかしそうに言った。
「ええ!じゃあ、よっこちゃんだったら。」
と、よっこちゃんを探すと、よっこちゃんは玄関に立っていた。
「ここは私の家じゃない。お父さんもいないし、子供たちもいないもの。私、家に帰りたいの。」
「ダメだこりゃ。また窓際になっている。結局、野郎だけでやるしかないな。」
すけさんは、観念したように言った。
「ん?何か匂うぞ。」
と、社長が鼻をクンクンさせながら、部屋の中の臭いを嗅いだ。
謙三が、自分のお尻を指さし
「えた。えた。」
と言っている。
「何?えた?臭いな。うんこが出たのかい?」
と、すけさんが言うと、謙三は頭を縦に振りながら、お尻を指さす。
「まいったな、こりゃ。社長どうしましょう。」
この家のトイレは洋式で少しは広いが、車椅子が入るには狭すぎる。
「仕方がない。二人でするか。」
社長は、謙三が乗った車椅子を、トイレの前に押して来て、すけさんと一緒に謙三を立たせ、ズボンを降ろし、リハビリパンツとパッドを外した。
「うわ!臭い。」
社長もすけさんも、こんなことやったことがない。右往左往しながら、社長がトイレットペーパーを探すと
「おかしいな。トイレットペーパーが無いぞ」
と、社長が言うと
「ごめんなさい。僕が取りました。」
と、すけさんが、ポケットの中からトイレットペーパーを出した。
「いつの間に。油断も隙もあったもんじゃないな。」
ある程度、お尻をトイレットペーパーで拭くと、謙三をトイレに座らせ
「後は、自分でできるだろう。ウォッシュレットをガンガンかけて、綺麗に拭くんだぞ。ところで、代わりのパッドとかリハパンはどうした?」
謙三は車椅子の後ろを指差し
「そこそこ」
と言うと
社長が、車椅子の後ろのポケットを探ると
「あった、あった。綺麗になったらこれをはけばいいか」
謙三がお尻を洗い終わると、すけさんは、リハパンとズボンを、謙三の足元から突っ込み、パッドを股間にあてた。そして謙三を立たせると、リハパンとズボンを、腰まで持ち上げ履かせた。
「よし、これで一丁上がりだ」
すけさんと社長は謙三を抱え、車椅子まで歩かせ座らせた。
ふと、社長がみよちゃんの方を見ると、足元がびっしょり濡れ、床に水がたまっている。
「あ!やられた。」
みよちゃんは、時々、尿失禁をする事があった。特にビールを飲んだ後だったので、尚更だった。
「すけさん。床を拭いてやってくれ。どうせ、みよちゃんは着替えとか持って来てないだろうな。」
と言うと、社長は奥の部屋に入り、妾のものと思われる、女性用の下着とパジャマを持って来た。そして浴室を指差し
「あそこが風呂だ。シャワーで体を洗って、この服に着替えて来なさい」
と社長が言うと、みよちゃんは服を受け取り、浴室へ向かった。
すけさんは、床を拭き終わると、
「社長。これからも、ずっとこんなことをするんですか。俺もう嫌。」
と言って、床に座り込んだ。すけさんは、全部、自分がしなければならないことに、うんざりしていた。そしてストレスで、近くにあった新聞紙を、破き始めた。いつもは丁寧に破くのに、今日は滅茶苦茶に破き始めた。
「でも、何とかなったじゃないか。そうか、疲れているし、お腹もすいたんだろう。ご飯にしよう。俺が弁当でも買ってくるよ。いや、今夜はお祝いだから、寿司でも取るか」
と言うと社長は、電話の方へ行こうとしたが、なにやら、外から物音が聞こえてくるのに気がついた。
車が何台も止まる音がして、
「バタン、バタン」
と、車のドアが閉まる音がする。そして、外のほうから
「社長。そこにいるのはわかっている。みんなを連れて出てきなさい。」
と、女性の施設長の大きな声がした。
「施設の連中だ。なんで此処にいるのがわかったんだ。きっとタクシーの運ちゃんだろう。あいつは口が軽そうだったからな。」
と、社長が言うと
「社長。あなたがそそのかしたんでしょう。あなた達に、もしものことがあったら、私はどうしたらいいの。」
施設長が、泣きながら外から叫んだ。
「我々は、もう施設には帰らない。我々は自由を手に入れたんだ。」
と、社長が言うと、
「そうだそうだ。もっと利用者を大事にしろ。」
と、すけさんが叫んだ。
「そうだ、そうだ。」
とみよちゃんもよっこちゃんも叫んだ。
「もっと利用者に自由を」
社長も叫んだ。
「もっと、職員の待遇を良くしろ。」
と、謙三は言いたかったが
「あうあうあう。」
としか、言葉にならなかった。
社長はタンスを開けると、手ぬぐいを取り出し頭に巻き、二階へ上っていった。
二階へ上りサッシを開け、ベランダに立つと、外の施設の人たちに向かって、演説をはじめた。
「介護の諸君。街を見たまえ。老人だらけだ。あと十年もしたら、街を歩いている人も、車を運転している人も、ほとんどが老人だらけになってしまう。その大半が認知症だ。行く処も分からない。帰る道も分からない。そういう人達を、どうしていけばいいのか。今、君たち若者は、真剣に考えて行かなければならない。老人を施設に縛り付ける。それじゃ老人の不満が増えるばかりだ。老人に自由を与え、可能性を与え、なおかつ安全に、幸せに暮らせるよう、君たちは、考えなければならない。老人を敬い、老人が、幸せに余生を過ごせる世の中を作らないと、あちこちで反乱が起こるぞ。君達より、老人の方が、圧倒的に数は多いのだ」
社長は、涙ながらに演説を始めた。頭の中では、自衛隊の市谷駐屯地で演説する三島由紀夫と、自分の姿が交錯していた。
「理想は、自分の家で、健やかに過ごすことだ。もしそれが出来ないとしたら、施設を快適に過ごせるようにすることだ。老人を敬いなさい。老人を子ども扱いするんじゃない。戦後の何もない時代から、今の日本を築いてきたヒーローたちなのだ。今は子供みたいかもしれないが、その皺には、ものすごい経験と、知識が刻まれているのだ。」
ビールと興奮とで、少し赤ら顔の社長の目からは、涙が流れ落ちていた。
「我々は、二度とあんな施設に帰るつもりはない。君達は、タクシーの運ちゃんに、ここを聞いたのかもしれないが、我々はここから一歩も外に出ない。」
と、社長が言うと
「社長、タクシーの運ちゃんは関係ないよ。社長は、いい腕時計をしているでしょう。それにはGPSといって、社長がどこにいるかわかる機械が、入っているんですよ。」
と、職員の一人が言うと、社長は訳が分からない顔で
「なんだ、そのデーペーエスというのは」
「人工衛星からの情報で、その時計の居場所が分かるようになっていて、インターネットを見れば、社長が、今どこにいるのかわかるんですよ」
「な、なんだと。ここがわかったのは、俺の腕時計のせいなのか!」
社長は、腕時計を外すと、床に叩き付けた。
「社長。ご飯はどうしてるの?みんなのオムツは有るの?介助できるの?」
と、施設長が言うと
「いや出来ません。僕はもう疲れました。僕は帰ります。」
と、すけさんは、ほとほと疲れた様子で、簡単に折れてしまった。
「何、もうあきらめると言うのか。お前はそれでも男か!」
と社長が怒鳴ると
「社長、もう無理だって。施設に帰れば上げ膳下げ膳。何とかみんなが生きていけるのは、介護の人たちが、世話してくれるお陰だよ。僕はもう疲れた、介護の大変さがわかった。施設に帰る。社長、後は頼みましたよ。」
と、すけさんは言って、とことこ外に出て行ってしまった。
後は頼んだと言われても、社長一人では、到底みんなの世話はできない。すけさんがいたからこそ、何とかここまでやってこれたのだ。
「さあ社長。すけさんがいなかったら、何にもできないでしょう。施設に帰りましょう」
と、施設長が家の中に入って来て、社長の手を取り、外へ連れて行こうとすると、
「分かった。もう観念したよ。ただ、一つだけお願いがある。たまには外出をさせてくれ。もうパチンコにはいかないから」
と言うと、施設長は
「分かりました。たまには許可しましょう。ただ出掛ける時は、必ずあの腕時計を持って行ってください。それと、こんなことは、もう二度としないでください。これで三度目なんだから」
と、言った 。
社長は苦笑いしながら
「わかった、わかった。もう疲れた。二度とこんなことはしない」
と言いながら外へ出ると、謙三は施設の車椅子用のリフト車に、そして、社長達は別の車に乗せられ、施設へと向かった。
車の後部座席に乗っていた社長は
「そうか、あのデーペーエスの付いた腕時計さへ無ければ」
と、心の中でつぶやくと、その目がきらりと光った。
車は、次々と施設の駐車場に到着した。玄関先では、施設の職員が大勢待っていた。
職員や社長達が車から降りると、職員の一人が駆け寄ってきて、社長の手を握り
「良かった。みんな無事で帰って来れた。みなさん、ご苦労様でした。」
と、笑顔で、それでも泣き出しそうな顔をしながら、みんなを労った。
もう回りは、夕焼けで真っ赤に染まっていた。
『陽が沈む
それでも、陽はまた昇る
老人の皺には、
知恵と経験が刻まれている
若者よ、老人から学べ
老人に、尊敬の念を持て
君達もすぐに、老人になるのだ』