「黄 昏」 ~平成・老人ホームの乱~

4.デイサービス

「そうか、今日はデイの日だったんだ。」

謙三の場合、デイサービスに通う日は週三回組まれている。子供達が毎日学校に通うのと同じように、朝から夕方までデイサービスに通わなければならない。

あるおばあちゃんは

「ここは幼稚園と一緒。養老園だよ。」

いつも言っている。

謙三もあまりデイサービスには行きたくないのだが、ケアマネージャーという人が、強引に組んでしまっている。本来は自分で決めるものなのに、年寄りには判断能力がないということで、ほとんどケアマネージャーが決めてしまうのだ。

デイサービスの回数は、本人の必要性に応じて決められるものだが、現実には施設の利益が優先される事が多い。

医療保険とか介護保険は点数で収入が決まっているので、競争相手と価格競争になることがない回数が多いほど利益が上がる。美味しい商売なのだ。

謙三が若いころ、病院に行った時

「ちょっと高すぎるよ。もっと安くできないか?」

 値切ったら、病院の受付の人が

「はあ?これは国が決めているので安くはできないんです。病院で値切るなんて初めてですよ。」

と小馬鹿にされた事があった。

これはいい商売だ。どの商売も価格競争で苦しんでいるのに、この世界だけは定価で商売できるんだ。これは美味しい商売だ、とその時思ったものだ。

一階に降りると、まだ誰も来ていない、と思ったら、いつもの玄関のドアに窓際のよっこちゃんが立っていた。

「私、帰りたいの。うちに帰るの」

よっこちゃんは一人暮らしで、その家も子供たちが処分してしまい、帰ろうにも帰る家もないのだが、認知症の彼女にはそういう事情は分からない。毎日、一日中玄関のドアの前か、窓の前に立っている。玄関のドアは二重ドアになっており、内側のドアは右端と左端のスイッチを両方押さないと開かないようになっている彼女にはそれがわからず、ただただ毎日ドアの前に立っている。

次に眼鏡をかけた低いかめさんことカメマツさんが、シルバーカーを押しながら玄関にやってきて

「今日は娘はまだ来ないですか?」

玄関横の事務室の女性に向かって聞いた。

「今日は来ない日ですよ。さっき言ったばかりでしょ。今日もう三度目ですよ」

怒ったようにかめさんに言った。

かめさんの娘さんは、水曜と日曜にやって来て、一緒に出掛けることになっているのだが、彼女には曜日の感覚はない。毎日、何度となく玄関に行っては娘さんがやってくるのを待っている。

謙三がデイルームのいつもの席について待っていると、次から次にデイ利用者の人たちがやって来てそれぞれの席に着いた。ここでは毎日三十人の人たちがデイを利用している。

「うわ~」

男性職員の叫び声がデイルームに鳴り響いた。デイの入り口付近を見ると車椅子に座ったおばあちゃんが、男性職員の股間を握っていた。

目のぎょろっとしたそのおばあちゃんは、リクライニング式の車椅子に横たわるように乗り、体はほとんど動かないのだが、顔面と手だけは動き、理性は失われ、男性の股間ばかりを、いつも狙っている。

「油断した。忙しくてそこにいるのに気が付かなかった」

と、苦笑いしながら逃げるように、その男性職員は別の利用者の送迎の為に、エレベーターに乗り込んだ。

九時二十五分からデイサービスが始まる。血圧や体温を測ったりした後、まずラジオ体操をスクリーンを見ながらするのだが、どんなに認知症が進んでいても、ラジオ体操は皆覚えているらしい。スクリーンを見なくても、皆、音楽に合わせて、手足を動かしている。

九十六歳のおばあちゃんが、

ラジオ体操なんて、見なくても覚えているよ。私は記憶力がいいんだよ。私たちが小学一年生の時の教科書には、まず最初に、さいた、さいた、さくらがさいたが書いてあったよ。」

と言うと周りの利用者たちが

「こいこい、シロこい。すすめ、すすめ、兵隊すすめ」

と続きを合唱し、大笑いする。

昔の若い時に刷り込まれた長期記憶はなかなか忘れないものらしい。

その九十六歳のおばあちゃんには盗られ妄想があり、財布など置いたところを忘れ、誰かに盗まれたと、殆ど毎日騒いでいるのだが。

体操が終わると、入浴の順番を待ちながらお茶タイムになる。皆銘々にお茶を飲みながら隣の人と談笑をする。

「私は辞め金でヨーロッパを回ってきたよ。ベルサイユ宮殿やロマンチック街道に行って来た。トレビの泉でまた来れますようにと言って、後ろ向きでお金を投げたのに、もう行けなくなってしまった。あの時行っといてよかった。近所の人たちは辞め金を使って外国へ行っていい身分だこと。と言っていたが、お土産を渡すとよかったねえとコロッと変ったよ。人間、現金なもんだね」

小柄な片麻痺のため歩行器でようやく歩く「よっちんがったんさん」と呼ばれるおばあちゃんがそう言うと、目の前に座っていた元美容師のおばあちゃんが、

「またその話をしてる。辞め金て退職金のことなんでしょう。その話はもう聞き飽きた!」

と叫んだ。そして

「私なんかね。昔、映画女優にスカウトされたんだよ。でも断った。映画女優もいい時はいいけど、悪い時は何にも仕事が来なくなるから、手に職をつけなさいって、保険会社の支店長をしていたおじさんに言われて美容師になったんだよ」

よっちんがったんさんが、手を横に振りながら

「その話も何度も聞いたよ」

と反撃し、みんな大笑いした。

その隣にいた、八十歳ぐらいの、妄想の激しいおばあちゃんが

「私の甥っ子は石原裕次郎なんだよ。朴大統領も私の親戚だし、大統領選に出たヒラリーさんも、遠い親戚になるんだよ

と、言うと、

「そりゃすごい。今度私にも会わせてちょうだい」

よっちんがったんさんが、手でグーチョキそして頭の上でパーをし、

「みんなこれだから、だからここにいるんだよね」

と言うと、皆で大笑いになった。

元美容師のおばあちゃんが、ふと横を見ると、昼はいつも寝てて、夜になると起きだし、徘徊を始めるおばあちゃんが、いつものように、椅子に座ったまま寝ている。

「また寝てる。ほら起きなさい。どうせ、もう少ししたら、永遠に眠れるんだから。」

「あああ、また寝てたね。でも、早く永遠に寝たいんだけど。」

と、言いながらまた寝てしまった。

皆、それぞれ言いたいことを言い、そして毎日同じ話を繰り返しながら、時が過ぎていった。

「さちこさん、お風呂ですよ」

入居したばかりで、初めてデイサービスに来た、まだ七十代のさちこさんを、職員が迎えに来た。

お風呂に行くと、男性職員が

「さあ服を脱いでお風呂に入りますよ。」

と言うと、さちこさんは

「きゃあ!何をするの。男の人は出て行って。」

と叫んだ。

先に裸になっていた、隣のおばあちゃんが

「大丈夫。最初は恥ずかしいけど、直ぐに慣れるよ。自分で入れないんだから、ょうがないじゃない。」

さちこさんは、渋々裸になって、男性職員に背中を洗ってもらう。男の人に体を洗って貰うなんて考えられない。特に男尊女卑の時代に育った人達にはあり得ないことなのだ。しかし、他の人達は当たり前のように、若い男の人に体を洗って貰っている。今では慣れて皆どうもないらしい。

「あ、またやっちゃった

職員が眉をしかめながら言った。浴槽の中に、茶色いものが浮かんでいる。

「また、お風呂のお湯を替えないといけない

まだ良い方だ。ズボンを脱がすと便だらけとか、体を洗っている最中に便が出る人もいるのだ。

お風呂も終わり、昼食も終わると昼寝の時間になるくもないのに寝ないといけないなんて、おかしい話だが、つまらないデイサービスに付き合っているよりは、まだ寝ている方が楽だと思い、謙三もベッドに横になる。

みんなが寝静まると、職員のヒソヒソ話が始まった。ここの職員は元々声がでかいのでヒソヒソ話にはならないのだが。

「俺はここを辞めるよ。ここの給料じゃ、家族を養っていけない

「本当だね。なんで介護の世界って待遇が悪いんだろうね。今から一番必要な職業なのに、こんな給料じゃ、なり手がないよ。パートのおばさんの為の職業だね」

「旦那の給料が入って、奥さんの小遣い稼ぎのための職業だね。毎月の給料が十五万もあればこの世界では高給取りだからね。」

「あべちゃんが介護離職ゼロとか言っているけど、資格を取るのに入学金を安くするとか、再就職したらお金をあげるとかじゃだめだよ。分かってないね。待遇をよくしないと同じことだよ。」

「介護報酬は決まっているし、その介護報酬も減る一方だ。昇給なんてありえない。介護の世界なんてお先真っ暗だよ。これでは、結婚することもできない。現場をよく見てほしいよ。あべちゃん。」

ベッドに横になったまま謙三は、

「なるほど、介護はそんなに待遇が悪いのか。きつい、汚い、それに給料が安ければ、誰もなり手がいない。これから団塊の世代の人達が歳を取れば、一番必要な職業なのに。昔の若い人は、こんな仕事は絶対にしなかった。まったく頭が下がる。自然は水のように、高いところから低いところへと流れる。しかしお金は逆だ。持っている人の方へ、お金は集まる。経営者が儲かるばかりだ。きつい仕事を、一生懸命頑張っている人達の待遇を良くしないと、日本はおしまいだ。」

と思いながら、いつの間にか夢の中へ入っていった。

午後は脳トレが始まった。桁の足し算と、二桁の掛け算と割り算のプリントが渡された。

謙三は

「馬鹿にするんじゃない。俺は大学も出てるんだぞ。こんな小学生みたいな問題ができるか」

心で言いながらプリントをやってみるが、足し算はできても、二桁の掛け算がなかなかできない。それでも掛け算を何とか終わらせたが、割り算となると全くやり方が分からなくなっている。

謙三は

「これは脳トレなんかじゃない。自分がこれだけの能力しかないんだというのを認識させるためのプリントだ。プライドをズタズタにするためのプリントだ。」

と思った。

その隣でも、九十二歳の元将校さん怒っている。

しかし彼のプリントを見ると、全問答えが書いてある。職員が

「すごい、全問正解ですよ

と言うと、彼は

「こんなもん、できて当たり前だ。もっと歯ごたえのある問題を持ってこい」

と言うと、改めて職員が持ってきた四字熟語の問題を解き始めたが、これもあっという間に終わってしまった。

職員に答え調べを頼むと、職員は

「私にも分からない。解答を持ってきますね」

と言い、正解の書いた紙を持って来たが、やはり全問正解であった。

「おみそれいたしました

と、恥ずかしそうに、職員は退散していった。

このおじいちゃんは、昔の中学を出た後、幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、ビルマの戦地で将校として活躍して復員したのだが、つい先日、自叙伝を自費出版したばかりの方である。

謙三は、九十歳代のおじいちゃんに負けたことが恥ずかしく、悔しかった。

暫くしてデイサービスの終わりの体操が始まった。それが終わると、階ごとにエレベーターで部屋に帰ことになる。

しかし、体操がまだ終わっていないのに、数人が、エレベーターへと移動を始め

「まだデイサービスは終わっていませんよ」

職員が言っても、

「終わった終わった」

と言いながら車椅子を漕いだり、杖で歩いたりしながら、我先へとエレベーターへいで行く

5.自由を求めて

謙三は、エレベーターで自分の階に上り、食堂へ行くと、そこにはすけさんと、火山みたいに爆発寸前の社長が、顔を真っ赤にして立っていた。そしてその顔には真っ白のガーゼが貼られていた。

「すけさん。あの山を見たまえ。紅葉で真っ赤に染まって綺麗だろう。だけどあの紅葉ももう暫くしたら枯れて落ちてしまうだろう。枯れて落ちてしまう前は、あんなに鮮やかに自分を輝かせるんだ。君はこのままここで朽ち果てていいと思っているのかい?

「社長。社長は何を言っているの?」

すけさんは、不思議そうな顔で、社長の顔を覗きながら言った。

「俺はなあ。外出禁止になってしまったんだ。もうどこへも行けなくなってしまった

社長は、歩行は少し不安定ではあるが、ある程度の理解力はあるし、頑固で言い出したら聞かないということで、タクシーを使っての外出は許されていた。

外出は、デイサービスがない日の週2~3回であるが、必ずと言っていいほど、昔ながらの老舗のデパートに出掛ける。お年寄りの共通の好きなものは演歌と相撲、のど自慢、水戸黄門、そして老舗のデパートである。デパートに行くと、必ず帰りには職員に名物の饅頭を買ってくる。

しかし、買ってくるのはいいが、職員が何も言わないと、

「あいつはお礼も言わない」

機嫌を悪くする。

しかし、いつからかデパートの帰り、パチンコに行くようになったらしい。職員にも今日はいくら負けたとか、いくら勝ったとかの話をしていたという。

その日、いつものようにデパートの帰り、パチンコ屋に寄ったら、入り口の階段で躓き、転んでしまった。そしてすぐに救急車で病院に運ばれてしまった。

病院から施設に連絡が入り、施設長が迎えに行った。しかし、幸いに怪我の程度はたいしたことはなかったものの、施設長から、外出は全面禁止と言われてしまったのだ。

「すけさん、かくさん。君たちの人生はこのままでいいと思っているのか。この監獄みたいなところで縛られて、外を知らない籠の鳥のままで人生を終わらせていいと思っているのかい?」

「私は(つい)の住まいを探し回って、やっとここに決めたんだ。ここで朽ち果てる覚悟で入居したから、何の不満もないね」

いつの間にか、九十二歳の元将校が悟りきったような顔で言った。

「あなたはもうだからそれでいいと思っているだろうが、私はあなたの年になるまでまだ十年ぐらいある。すけさんも一緒だ。かくさんなんかまだ二十年ぐらいもあるんだ」

社長は、年寄りの出る幕じゃないねと言わんばかりに元将校を睨んだ。

「私は嫌だね。前入院していた精神病院よりはまだましだけど、無理やり子供たちにここに入れられ、たばこも吸えない、焼酎も飲めない、カラオケにも行けない、女も抱けない。まだやりたいことはいっぱいあるんだ。このまま何十年も、この中で同じことの繰り返しで死んでいくなんて。何のために生きているんだ、と毎日思っているよ。

すけさんは、全くその通りという顔で社長に言った。

「ああうう、あああああ」

頭を縦に振り左手で自分を指さしながら、かくさんも同意の表現をした。

「そうだろう、そうだろう。さあみんなで理想郷を捜しにいくんだ」

「理想郷を捜しにいくったって、社長。これはどうしようもないことでしょう。ここから出るなんて有り得ない。行くところもないし、理想郷なんて夢の夢。」

すけさんがそう言うと、社長は

「そんなことはない。夢は叶えてこそ意味がある。このまま朽ち果てるなんて死んでも死にきれない。俺に考えがある。今日の夜、ご飯が終わったら、みんなで打ち合わせすることにしよう」

と言うと、すけさんが

「さすが社長。頼りになるなあ。今着けている時計も立派なもんだ。高そうですね」

「ああこの時計か。前の時計が壊れたもんで、職員に頼んで買ってきてもらったんだ。なんだか、今どきのって感じで恥ずかしいんだが」

照れくさそうに、それでも自慢げに、苦笑いをしながら社長は言った。

エレベーターが開き、夕食が運ばれてきた。

「もうこの話は後だ。職員にも他の人にも絶対に喋ったらだめだぞ」

職員の若い女の子が、配膳車からお膳を配りながら、

「あら、今日はみなさんお集まりが早いですこと。きっと良からぬ話でもしていたんでしょう。職員の悪口とか」

と言うと

「ううああうう。」(そんなことはない)

と謙三が頭を横に振りながら言うと

「この人たちは、良からぬ相談事をしているぞ。気を付けた方がいいぞ」

と元将校が言った。

みんなドキッとしたが、その職員は、どうせ他愛のない話だろうと、笑みを浮かべながら、他の階へと配膳車を運んで行った。

胃瘻のおばあちゃんが、謙三にテレパシーを発した。

「羨ましい。私が五体満足だったら、真っ先に参加するよ。年をとっても夢を持つことは素晴らしいことだ。やるだけのことはやってみなさい。どうせだめでも元の生活に戻るだけだ」

「ありがとうおばあちゃん。おばあちゃんも連れて行きたいけど。ごめんね」

謙三は、おばあちゃんに対し何もできない自分を恥ずかしく思った。

皆、黙々とテレビも点けずに夕ご飯を食べた。社長が小声で

「いいか。一緒に行きたい人は、今日の八時にここへ集合だ。分かったね」

みんなコックリと頷いた。

謙三は、食事が終わり部屋に帰ると、社長の言葉を考えていた。

「どこかへ逃走するというのだろうか。そんなこと出来る筈がない。職員も何人もいるし、それにどこへ行くというのだろうか?有り得ない」

考えても考えても、現実のこととは思えなかった。

八時になり食堂へ行くと、もう既に、社長とすけさんは席に座っていた。

「私の考えでは、メンバーはこの三人とみよちゃん、そして窓際のよっこちゃんの五人だ。どう思う?」

「みよちゃんは同じ階だし、窓際のよっこちゃんはいつもドアの前に立っていて可哀想だからね。それに歩くのは普通だし、いいんじゃないの。でもかくさんは歩けないよ。車椅子だから無理じゃないの?」

とすけさんが言うと

「何を言ってる。同じ仲間じゃないか。それにかくさんの面倒を見るのは、あなた、すけさんに決まっている」

みよちゃんもよっこちゃんもまだ七十代で若く、みよちゃんは顔だちも上品な感じで、社長のお気に入りだった。よっこちゃんはいつもドアの前に立ち、誰しもどうにかしてあげたいと思っていたので、全員納得をした。

「まず流れを説明しよう。決行に移すのは明日の一時から二時の間の昼寝の時間だ。早い方がいい。この時間は職員も休憩に入り、見守りは二人だけだ。おまけに見守りも、うとうとしていることが多い。ドアの前の事務室も誰もいない」

「なるほど、さすが社長。観察が鋭い。」

すけさんは、感心したように言った。

「俺がタイミングを探すので、合図があったら、すけさんはかくさんの車椅子を押してドアを出る。みよちゃんは俺が連れに行く。よっこちゃんはいつもドアの前にいるので、そのまま外に連れ出せばよい」

「うん、簡単なもんだ。だけど社長。どこへ行くんですか?」

すけさんが不思議そうに聞くと、社長は

「俺の本宅へ行くと、直ぐにバレてしまう。俺の別宅へ行こう。俺の妾に住まわせていたんだが、その妾も死んでしまった。そこだったら誰も知らない。職員も絶対分かりっこない」

そう言うと、社長は自慢そうな顔をした。

「社長。そこは遠いんですか。僕は遠くまで車椅子を押せませんよ」

と、すけさんが聞くと

「車でほんの十分程度のもんさ」

社長が言うと

「いやいや、車は誰も持っていないし、車は車でも車椅子だからねえ。一時間はかかるでしょう」

と、すけさんが無理無理という顔しながら言った。

「大丈夫。近くにタクシー屋があるので、そこまでだ。そこからは介護タクシーに乗っていけばよい」

「う~ん。なるほど。よく考えておられる。それだったらうまくいくよ。その別宅にさへ着けば、後は主婦をしていた女が二人もいるんだ。飯はどうにかなるだろう」

すけさんは右手で左の掌を打ちながら、もう既に成功したような顔で言った。

「よしそれで決まりだ。決行は早い方がいい。明日の昼だ。すけさん、かくさん。怠りなく準備をしておくように」

謙三は、準備といっても何を準備するべきなのか、皆目見当がつかなかったが、ともかく明日だということで、ワクワクしてきた。

「目の前の火山を見たまえ。ここの先人たちは、あの火山より燃えていた。だけど我々はいつまでも過去に頼っていてはいけない。いつまでたっても過去の歴史に頼っていては先人たちも、さぞかし泣いていることだろう。我々も、老人たちの維新を起こすんだ。最後に燃えるだけ燃えて、若者たちの心を変えるんだ。いいかすけさん、かくさん」

社長は胸の前で腕を組み、山を見つめ、涙ぐみながら言った。

「ヘイ社長」

二人は社長に合わせるように、勢いよく返事した。まるで赤城の山に三人ともなってしまっていた。

部屋に帰ると、謙三は興奮を抑えきれずにいた。何をしたらいいのか分からないが、なんとなく、本当にできるような気がして、興奮に酔いしれていた。

6.決行

次の朝、いつものように職員にパッド交換と更衣をして貰うと、謙三は食堂へ向かった。

もう既にこの階の人たちは集まっていた。社長もすけさんも、少し興奮気味に見えた。社長はいつもより背筋を伸ばし、すけさんはきょろきょろあたりを見回し、落ち着きのないように見える。しかし一番興奮していたのは謙三だったかもしれない。うまく車椅子が漕げずに、あっちこっちの壁に車椅子を当てながら、ようやく自分の席に着くことができた。

席に着くと胃瘻のおばあちゃんからメッセージが届いた。

「ついにやるらしいね。うまくやるんだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ。頑張るんだよ。折しも今日は真珠湾攻撃の日だね。」

「ありがとう、おばあちゃん」

朝食が終わると、社長からメモ用紙が回ってきた。

 

『ニイタカヤマノボレ一二〇八

 一三時三〇分

鎌田:タクシーに電話連絡

      橋のたもとにタクシーを待機させる

             

鎌田:職員の隙ができたら、すけさんに合

図を送る

            

全員:ドアの前に移動

       ↓

鎌田:ドアを開ける

       ↓

すけさん:かくさんを押して外へ

     一目散に駐車場から外へ出る

       ↓

鎌田よっこちゃんとみよちゃんを連れ、

すけさんを追いかける。

       ↓

   橋のたもとまで、後を見ずに走る

       ↓

全員:タクシーに乗り込み蒲田の別宅へ

       ↓

     脱出成功         

 

と、とても単純なメモであったが、謙三は胸の高まりを抑えることができなかった。

朝食が終わると、部屋に戻り、いつものようにデイサービスの荷物を持ち、車椅子の後ろには一応オムツとパッドを一揃え入れ、一階へ降りて行った。

一階に降りると、いつものように窓際のよっこちゃんがドアの前に立っている

「よっこちゃんは、いつでも準備万端だな。よっこちゃんは、きっと今日のこの日が来るのを毎日待っていたに違いない」

と、謙三は思った。

社長は、そのよっこちゃんを連れ、みよちゃんの所へ行くと、今日のことを説明している。

「今日は、お昼に、見守りの職員が寝たとき、外へ連れて行ってあげるから、昼寝はしないようにね。」

「え!おうちに帰れるの?やった!ばんざ~い」

二人とも大喜び

「静かに。これは内緒だから。それにおうちじゃなくて私の家だからね。」

社長は、すけさんを呼ぶと

「タクシーはさっき連絡して、橋を渡ったところで待つようにしてある。そこまではかくさんを押して頑張ってくれ。」

「はい、分かりました。さすが社長は抜かりがない。」

午前中の体操も終わり、入浴社長もすけさんも断った。謙三は全く一人では風呂に入れないため、入浴はしたがその間社長もすけさんも落ち着きがなく、デイサービスの中でうろうろしている。

入浴が終わると、嚥下体操が始まり、あっという間にお昼ご飯となった。しかし三人には午前中の時間がとても長く思えた。

昼食が終わると、ついに昼寝の時間となる。社長もすけさんも、そして謙三さえも昼寝を断った。

「夕べ寝過ぎたから、今は眠くない。」

社長が言うと

「おかしいわね~。いつも早く寝かせろとうるさい人たちが。」

職員が怪訝そうな顔で言ったが、言い出したら聞かないし、いつもの我儘だろうとみよちゃんに声をかけた。

「みよちゃん、さあ寝ますよ。」

と声をかけると、みよちゃんは

「今日はね、おうちに帰るの。だから今日は寝ないの。」

三人ともドキっとしたが、職員は

「いつものことか。いいですよ。じゃあ起きてて、テレビでも見といてください。」

よっこちゃんは、いつもの通り、寝ないでドアの近くに立っている。

五人を除いては、皆ベッドに横になり昼寝になった。灯りもすべて消され、遮光カーテンも閉められた。ホールは真っ暗になり、テレビだけが煌々と明るかった。

社長は、ホール内をうろうろし、逃亡のタイミングを探していたが、なかなか事務室の女性も立ち去らない。見守りの職員まだテレビを見ていて元気である。

「しょうがない。いましばらく様子を見るか。」

社長も椅子に腰かけ、テレビを見ることにした。テレビを見ながら、うとうとし始めたころ、ふとドアの方を見ると、窓際のよっこちゃんが何やら右手の親指と人差し指で丸を作り、ドアの方からこっちを見ている。

社長が、急いでドアの方へ行くと、玄関も事務室も真っ暗になり、誰もいなくなっている。そして見守りの職員も二人ともテーブルにうつ伏せになり、寝てしまっている。

「今だ!」

社長はすけさんに両手で丸を作り、合図を送った。すけさんは職員に気付かれないようにそっと謙三の車椅子を押し、ドアの方へ向かった。

社長はドアの両側のスイッチを押しドアを開け、すけさんとかくさんを送り出すと、みよちゃんを迎えに行った。みよちゃんは

「どこへ行くの?まだみんな寝てるよ。」

「いいから、今は時間が無いんだ。」

朝説明したのに、もうとっくに忘れてしまっているみよちゃんだが、今はまた説明している暇はない。ドアの前で待っていたよっこちゃんとみよちゃんの二人の手を引くと、ドアの外へ、一目散に飛び出した。

外へ出ると、もう既にすけさんは駐車場の外へ出ていた。ここの施設は人工の出島の中にあり、周りを海で囲まれ、人工島から出るには、一本しかない橋の袂まで、海沿いの凸凹した道を走らないといけなかった。

すけさんは謙三の車椅子を一生懸命に押したが足が石に躓いてしまい転んでしまった。その拍子に車椅子から手れ、車椅子は転がったまま、ブロック塀に突き当たってしまった。その衝撃で、謙三は車椅子から前方へ、ずり落ちてしまった。

ブロック塀の反対側は塀もなく、落ちれば海の中に真っ逆さま土左衛門となるところだったが、幸いにも車椅子は塀の方へ転がっていき命拾いをした。

「大丈夫か。」

社長達も追い付いて来て、すけさんと一緒に謙三を持ち上げ、車椅子に乗せようとしたが、謙三は体格がいいものだから、二人とも汗びっしょりになりながら、ようやく謙三を乗せることができた。

「遅くなった。早く行こう。」

社長は、みよちゃんとよっこちゃんの手を引き急いだ。女性二人は、足はどうもないので走るのは社長より早く、逆に二人の方が社長を引っ張る形になった

「ねえ。私たち何をしているの?どこへ行くの?」

みよちゃんが言った。

「おうちに帰るのよ。やっと帰れるのよ。おうちに帰れば、お父さんも子供たちも待っているのよ。」

よっこちゃんが嬉しそうに言った。よっこちゃんの夫は、とうの昔に亡くなっているし、子供たちだって、みんなよそに行って、家には誰もいないのだが、よっこちゃんには昔の記憶しか残っていない。

「ともかく、見つからないうちに、早くタクシーのところまで行くんだ。」

海沿いに角を曲がると、少し坂になったところに橋があった。この出島に唯一掛かっている橋で、台風の時など波が高い時は通れなくなり、孤島となってしまうため、橋は少し高く架けてある。幸い今日は、波もなくスムーズに通れるのだが、そこまでの坂は、車椅子を押すのには結構力が要る。

すけさんが汗だくになりながら、ようやく車椅子を押して橋を渡ると、そこにはタクシーが二台待機していた。一台は普通のタクシーで、もう一台は車椅子用の介護タクシーだ。

「遅かったですね、社長。さあ早く乗って。追手がすぐにやってきますよ。」

タクシーの運転手二人が、手際よく、車椅子の謙三を車椅子に乗ったまま介護タクシーへ乗せ、すけさんを助手席へ乗せると、残りの三人をもう一台の普通タクシーに乗せた。

運転手はタクシーのエンジンをかけ、発車させると、

「ああ、これで一安心。駆け落ちのかた場を担いだとあっちゃ、我々もこの施設からの仕事が来なくなりますからね。」

「駆け落ちではない!我々は自由を求めて新天地に行くのだ。」

社長が怒って言った。

「へい。社長の別宅ですね。あのお妾さんも綺麗な方でしたからね。」

「分かった、分かった。どうでもいいから早く家に連れて行ってくれ。ところで君は個人情報保護法という言葉を知っているかね」

社長が運転手に聞くと、

「もちろんですよ。我々運転手にも守秘義務というのがあるんです。絶対に誰にも言いません。私は口が堅いので有名なんですから。」

「自分で口が堅いという人で、ほんとに口が堅い人を見たことがないけどね。」

と言って、みんなで大笑いをした。車に乗ったことで、みんなホッとした。

介護タクシーの助手席では

「いや~。やっぱりシャバの空気はいいね。」

すけさんが首にかけたタオルで汗を拭くながら言った。

タクシーに乗ったことで、安堵感と落ち着きを取り戻した社長が、窓の外を見ながら

「ほら、歩いている人達を見てごらん。あと十年もすれば、歩いている人の殆どは認知症だ。皆、帰るところが分からず、迷子の年寄りだらけさ。車の運転手も、認知症だらけで、怖くてしょうがない時代になるよ」

タクシーの運転手は、ドキッとした顔で社長を見て言った。

「私はまだ六十代で若いし、認知症なんかじゃないですからね。安心してください。」

タクシーは海岸線から約二十分位走ると、住宅街へと入って行った。

タクシーの運転手が

「社長。ここら辺でしたかね?」

と言うと、

「そこだ。その右へ曲がった所で降ろしてくれ。」

タクシーは、住宅街の細い道を右に曲がると、大きい屋敷の前で止まった

タクシーから降り、目の前の家を見ると、そこは高い塀に囲まれ、庭には大きな柘植の木の聳える二階建ての邸宅だった。

介護タクシーは、すけさんと謙三をおろすと帰っていった。普通タクシーの運転手が

「社長、代金をお願いします。」

と言い、両手を差し出すと、玄関先で、ポケットを探っていた社長が

「おかしいな。鍵が無い」


社長は運転手の方を向いて


 「鍵を置いてきたみたいだ。施設に行って俺の部屋から、鍵をもって来てくれ」


 慌てて、すけさんは、両手で社長の腕を掴む

 「社長、ちょっと待って。そんなことしたら直ぐにバレてしまうでしょう


と言うと、社長は腕組みをし


「そうか、そうだよなあ。そうだ、妾は俺が来るだろうと、いつも二階のベランダの窓の鍵を、開けておいてくれた。若しかしたら、まだが開いているかも知れない」


二階の窓を指さしながら、そう言うと、家の裏に回り、脚立を担いで来た。

そして、運転手の方を向くと


「この脚立で屋根に上り、あのベランダの窓から、中に入ってくれ」

と言うと、運転手びっくりした顔をして


「ええ! 私がですか?」


 社長は、運転手をキッと睨みながら


「他にできる者がおらん。頼む」


 と言い、両手を合わせた。


 「しょうがないなあ」


 運転手、渋々脚立を開いて伸ばし、一階の屋根にかけると、脚立を登って行った。


 そして恐る恐る、脚立から屋根に移りベランダに上がると、二階のサッシ開けようとした。


運転手五人の方を向くと、両手で大きく丸を作った。


 「やった! 開いた。良かった!」


 すけさんが大声で叫び、五人手を取り合って喜んだ。

 社長は、運転手に大きな声で叫んだ。


 「中に入ったら、階段を降りて、右側の玄関の鍵を開けてくれ」


 運転手サッシから中に入ると、家の中から


 「トントントン」


 と、階段を降りる音がし、


 「ガラガラガラ」


 という音と共に玄関が開き、運転手が中から出て来た。


 「ばんざ~い。ばんざ~い」


 外の五人は抱き合って喜ぶと、すけさんが


 「これで、天国の扉が開いた」


 と、言った。


7.自由の地

社長は、笑顔をきつい顔に変え、運転手を向くと

「ありがとう、おかげで助かった。でも分かってるな!このことは絶対誰にも言ったらだめだぞ。くれぐれも頼むぞ」

そう言いながら、社長は財布から千円札を二枚出した。


「釣りは要らん。とっとけ」


と、運転手に渡した


 「社長。千円札があと三枚足りません。介護タクシーなので高いんです。それに屋根に登った手数料」


運転手は、指を一本出しながら、両手の手の平を差し出した。


「何! 足元を見やがって。でもしょうがないか。おかげで助かったんだから


渋々社長は、一万円札を一枚財布から取りすと千円と交換に、運転手の手の上に置いた。


「有難うございます。くれぐれも体に気を付けて頑張ってください。施設に帰る際にはまた呼んでください」


と、運転手が言うと、社長は怒りながら


何を! もう二度とあんな所に帰るもんか!」


と言うと、運転手はタクシーに乗り込み、逃げるように引き上げっていった。


社長は、玄関から中にると、裏口から顔を出し、手招きをしながら、四人を呼んだ


さあ、みんな入ってくれ。こっちにはスロープがあるから、車椅子も入れる」


四人が裏口に回ると社長は外へ下りてきて


「俺は近くのコンビニに、買い物に行ってくる」


と言って、トコトコと出かけて行った。


すけさんは、謙三の車椅子を押しスロープを登ると、裏口から家の中へ入っていった。そして、女性二人も、その後ろから付いて中へっていった。

中に入るとそこは二十畳くらいのリビングで、ここにも自分で書いた絵が所狭しと飾ってあり、中央には中曽根・田中角栄・村山元首相の書が飾ってある。

「大したもんだ。さすが社長。なんであんな施設に入っていたんだろう?」

と、すけさんが、不思議そうな顔で言った。

程なくして社長が帰ってきた

「みんな、ビールとつまみを買ってきたぞ。今日の成功を祝って乾杯だ。すけさん、音頭をとってくれ

と言い、社長が皆にビールを手渡すと、すけさんが音頭をとった。

「それでは、みなさんの今日の労を労い、そして全世界の老人たちの夢を、ここに叶えることが出来たことに対し、乾杯をいたします。かんぱ~い。」

みんなニコニコしながら、ビールを高々と天に上げ、乾杯をした。

謙三もうれしかった。感激した。こんなにも簡単に事が運んでいいのだろうか。謙三は車椅子を押して貰うだけだったので、簡単に思えたかもしれないのだが、大変だったのはすけさんだった。

施設では禁酒禁煙だったので、みなビールを飲むのは久しぶりだった。特に謙三は脳梗塞になってから禁酒を言い渡されていたので、十年ぶりくらいにビールを飲んだ。

「うまい。久しぶりだし、格別今日のビールはうまい。」

すけさんは、汗をかいたのと、ことを成し遂げた満足感で、ビールのうまさが倍増しているようだった。

ほろ酔い気分の社長が自分のことを喋りだした

「みんなは白菊会というのを知っているかい。身寄りのない人たちが献体をする大学の会だ。死んだら直ぐに大学が引き取りに来る。葬式代もいらない。死ぬのに一銭も要らない。その代わりにホルマリン漬けにされ、学生たちに切り刻まれる。実は俺もその会に入っているんだ。あの施設にもその会に入っている人が、何人もいるよ。」

謙三はぞっとした。

死んでから切り刻まれるなんて嫌だ。よく生きているうちにそんなことを決められるもんだ。考えられない。それに社長は子供さんたちもいるだろうに。

そう思った。

すけさんが、

「社長は、息子さんも娘さんもいらっしゃいますよ。どうして献体するんですか?」

と言うと、

「俺は頑固そのものだった。社員にも子供たちにも。社員にはそっぽを向かれ、子供たちは皆家を出て行った。だから面倒を見てくれる人は誰もいない。俺は生涯孤独なんだ。でも今はみんなが友達という気がしている。生涯の友だ。かんぱ~い。」

ほろ酔い気分だった。

すけさんが、顔を真っ赤にしながら立ち上がって、両手で指揮をし、

「よし皆でいつもの歌を歌おう。せ~の」

 

♪僕らはみんな 生きている

 生きているから 歌うんだ

 僕らはみんな 生きている

 生きているから 笑うんだ

 手のひらを太陽に かざしてみると

 真っ赤に流れる 僕の血潮

 ミミズだって オケラだって

 年寄りだって みんなみんな

 生きているんだ 人間なんだ

 

 家中に、皆の歌声が響き渡った。

 歌い終わると、皆、拍手喝采した。

 すけさんが、お腹に手を当てながら

 「でも社長。お腹がすいてきたよ。飯はどうしましょうか。」

 と言うと、

「主婦のプロだった女性が二人いるじゃないか。後で材料を買ってくるよ。ねえみよちゃん。」

と、みよちゃんの方を向いて言うと

「私家事はしたことないの靴屋自営業だったから、家事は全部夫がしてくれたし、包丁も握ったことはないの。」

と、みよちゃんが恥ずかしそうに言った。

「ええ!じゃあ、よっこちゃんだったら。」

と、よっこちゃんを探すと、よっこちゃんは玄関に立っていた。

「ここは私の家じゃない。お父さんもいないし、子供たちもいないもの。私家に帰りたいの。」

「ダメだこりゃ。また窓際になっている。結局、野郎だけでやるしかないな。」

すけさんは、観念したように言った。

「ん?何か匂うぞ。」

と、社長が鼻をクンクンさせながら、部屋の中の臭いを嗅いだ。

謙三が、自分のお尻を指さし

「えた。えた。」

と言っている。

「何?えた?臭いな。うんこが出たのかい?」

と、すけさんが言うと、謙三は頭を縦に振りながら、お尻を指さす。

「まいったな、こりゃ。社長どうしましょう。」

この家のトイレは洋式で少しは広いが、車椅子が入るには狭すぎる。

「仕方がない。二人でするか。」

社長は、謙三が乗った車椅子をトイレの前に押して来て、すけさんと一緒に謙三を立たせ、ズボンを降ろし、リハビリパンツとパッドを外した。

「うわ!臭い。」

社長もすけさんも、こんなことやったことがない。右往左往しながら、社長がトイレットペーパーを探すと

「おかしいな。トイレットペーパーが無いぞ」

社長が言うと

「ごめんなさい。僕が取りました。」

と、すけさんが、ポケットの中からトイレットペーパーを出した。

「いつの間に。油断も隙もあったもんじゃないな。」

ある程度、お尻をトイレットペーパーで拭くと、謙三をトイレに座らせ

「後は、自分でできるだろう。ウォッシュレットをガンガンかけて、綺麗に拭くんだぞ。ところで代わりのパッドとかリハパンはどうした?」

謙三は車椅子の後ろを指差し

「そこそこ」

と言うと

社長が、車椅子の後ろのポケットを探ると

「あった、あった。綺麗になったらこれをはけばいいか」

謙三がお尻を洗い終わると、すけさんは、リハパンとズボンを謙三の足元から突っ込み、パッドを股間にあてた。そして謙三を立たせると、リハパンとズボンを、腰まで持ち上げ履かせた。


「よし、これで一丁上がりだ」


すけさんと社長は謙三を抱え、車椅子まで歩かせ座らせた。

ふと、社長がみよちゃんの方を見ると、足元がびっしょり濡れ、床に水がたまっている。

「あ!やられた。」

みよちゃんは、時々、尿失禁をする事があった。特にビールを飲んだ後だったので、尚更だった。

「すけさん。床を拭いてやってくれ。どうせ、みよちゃん着替えとか持って来てないだろうな。」

と言うと、社長は奥の部屋に入、妾のものと思われる女性用の下着とパジャマを持って来た。そして浴室を指差し

「あそこが風呂だ。シャワーで体を洗って、この服に着替えて来なさい」

と社長が言うと、みよちゃんは服を受け取、浴室へ向かった。

すけさんは、床を拭き終わると、

「社長。これからも、ずっとこんなことをするんですか。俺もう嫌。」

と言って、床に座り込んだ。すけさんは、全部自分がしなければならないことにうんざりしていた。そしてストレスで、近くにあった新聞紙を破き始めた。いつもは丁寧に破くのに、今日は滅茶苦茶に破き始めた。


「でも、何とかなったじゃないか。そうか、疲れているし、お腹もすいたんだろう。ご飯にしよう。俺が弁当でも買ってくるよ。いや、今夜はお祝いだから、寿司でも取るか」

言うと社長は、電話の方へ行こうとしたが、なにやらから物音が聞こえてくるのに気がついた

車が何台も止まる音がして、

「バタン、バタン」

と、車のドアが閉まる音がする。そして、外のほうから

「社長。そこにいるのはわかっている。みんなを連れて出てきなさい。」

と、女性の施設長の大きな声がした。

「施設の連中だ。なんで此処にいるのがわかったんだ。きっとタクシーの運ちゃんだろう。あいつは口が軽そうだったからな。」

と、社長が言うと

「社長。あたがそそのかしたんでしょう。あなた達にもしものことがあったら、私はどうしたらいいの。」

施設長が、泣きながら外から叫んだ。

「我々は、もう施設には帰らない。我々は自由を手に入れたんだ。」

と、社長が言うと、

「そうだそうだ。もっと利用者を大事にしろ。」

と、すけさんが叫んだ。

「そうだ、そうだ。」

とみよちゃんもよっこちゃんも叫んだ。

「もっと利用者に自由を」

社長も叫んだ。

「もっと職員の待遇を良くしろ。」

と、謙三は言いたかったが

「あうあうあう。」

としか言葉にならなかった。

社長はタンスを開けると、手ぬぐいを取り出し頭に巻き、二階へ上っていった。

二階へ上りサッシを開け、ベランダに立つと、外の施設の人たちに向かって、演説をはじめた。

「介護の諸君。街を見たまえ。老人だらけだ。あと十年もしたら、街を歩いている人も、車を運転している人も、ほとんどが老人だらけになってしまう。その大半が認知症だ。行く処も分からない。帰る道も分からない。そういう人達を、どうしていけばいいのか。今、君たち若者は、真剣に考えて行かなければならない。老人を施設に縛り付けるそれじゃ老人の不満が増えるばかりだ。老人に自由を与え、可能性を与え、なおかつ安全に、幸せに暮らせるよう、君たちは、考えなければならない。老人を敬い、老人が、幸せに余生を過ごせる世の中を作らないと、あちこちで反乱が起こるぞ。君達より、老人の方が、圧倒的に数は多いのだ」

社長は涙ながらに演説を始めた。頭の中では自衛隊の市谷駐屯地で演説する三島由紀夫と、自分の姿が交錯していた。

理想は、自分の家で、健やかに過ごすことだ。もしそれが出来ないとしたら、施設を快適に過ごせるようにすることだ。老人を敬いなさい。老人を子ども扱いするんじゃない。戦後の何もない時代から、今の日本を築いてきたヒーローたちなのだ。今は子供みたいかもしれないが、その皺には、ものすごい経験と、知識が刻まれているのだ


ビールと興奮とで、少し赤ら顔の社長の目からは、涙が流れ落ちていた。

「我々は、二度とあんな施設に帰るつもりはない。君達は、タクシーの運ちゃんにここを聞いたのかもしれないが、我々はここから一歩も外に出ない。」

社長が言うと

「社長、タクシーの運ちゃんは関係ないよ。社長はいい腕時計をしてるでしょう。それにはGPSといって、社長がどこにいるかわかる機械が入っているんですよ。」

職員の一人が言うと、社長は訳が分からない顔

「なんだ、そのデーペーエスというのは」

「人工衛星からの情報で、その時計の居場所が分かるようになっていて、インターネットを見れば、社長が、今どこにいるのかわかるんですよ」

「な、なんだと。ここがわかったのは俺の腕時計のせいなのか

社長は、腕時計を外すと、床に叩き付けた。

「社長。ご飯はどうしてるの?みんなのオムツは有るの?介助できるの?」

と、施設長が言うと

「いや出来ません。僕はもう疲れました。僕は帰ります。」

と、すけさんは、ほとほと疲れた様子で、簡単に折れてしまった。

「何、もうあきらめると言うのか。お前はそれでも男か!」

と社長が怒鳴ると

「社長、もう無理だって。施設に帰れば上げ膳下げ膳。何とかみんなが生きていけるのは、介護の人たちが世話してくれるお陰だよ。僕はもう疲れた、介護の大変さがわかった。施設に帰る。社長、後は頼みましたよ。」

と、すけさんは言って、とことこ外に出て行ってしまった。

後は頼んだと言われても、社長一人では、到底みんなの世話はできない。すけさんがいたからこそ、何とかここまでやってこれたのだ。

「さあ社長。すけさんがいなかったら、何にもできないでしょう。施設に帰りましょう」

と、施設長がの中に入って来て、社長の手を取り、外へ連れて行こうとすると、

「分かった。もう観念したよ。ただ、一つだけお願いがある。たまには外出をさせてくれ。もうパチンコにはいかないから

と言うと、施設長

「分かりました。たまには許可しましょう。ただ出掛ける時は、必ずの腕時計を持って行ってください。それとこんなことは、もう二度としないでください。これで三度目なんだから」


と、言った


 社長は苦笑いしながら


 「わかった、わかった。もう疲れた。二度とこんなことはしない」


と言いながら外へ出ると、謙三は施設の車椅子用のリフト車に、そして、社長達は別の車に乗せられ、施設へと向かった。


車の後部座席に乗っていた社長は


そうか、あのデーペーエスの付いた腕時計さへ無ければ」


と、心の中でつぶやくと、その目がきらりと光った。


車は、次々施設の駐車場に到着した。玄関先では、施設の職員が大勢待っていた。


職員や社長達が車から降りると、職員の一人が駆け寄ってきて、社長の手を握り


「良かった。みんな無事で帰って来れた。みなさん、ご苦労様でした。」


と、笑顔で、それでも泣き出しそうな顔をしながら、みんなを労った。


もう回りは、夕焼けで真っ赤に染まっていた。


 広大な湾の背後は、夕日で赤く染まった山が、悠然とみんなを見守っていた。

陽が沈む


それでも、陽はまた昇る


老人の皺には、


知恵と経験が刻まれている


若者よ、老人から学べ


老人に、尊敬の念を持て


君達もすぐに、老人になるのだ』

なべ
作家:薬師丸 悟郎
「黄 昏」 ~平成・老人ホームの乱~
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