謙三の世話が終わると、職員のかよは、慌ただしく部屋を出て行った。
彼は三歳の時から描いているという絵を、色紙に毎日描いては、職員や入居者に配っているのだが、余りにも貰うのが増え過ぎてしまい、その殆どが本人にわからないようにゴミ箱行きとなってしまっている。それでも本人は、みんな喜んでいる、人の役に立っている、という自己満足を生きがいにし、毎日一生懸命絵を描いている。
なぜそういった行動をするのか、本人にも分からない。無意識に体が動いてしまうのだ。すけさんは皆に挨拶した後、冷蔵庫から自分の納豆を取り出し席に着いた。
暫くすると、上半身は殆ど動かさず、足だけを摺り足で歩くみよちゃんがやって来た。
彼女はまだ七十代で、上品な顔立ちをし、穏やかな雰囲気を持っているのだが、高度の認知症があり、自分の今の状況が、殆ど分からない。
「私、もうご飯は食べたかしら?」
「ご飯は今からだよ」
と、社長が言うと
「やっぱり。どうりでお腹が空いたと思ったもの。朝ごはんなの?昼ごはんなの?」
「朝ごはんだよ。早く椅子に座りなさい。」
と、社長に言われ、彼女はゆっくりと席に着いた。
職員が、リクライニング式の車椅子に乗ったおばあちゃんを連れて来て、席に着かせた。
彼女は殆ど動けない。車椅子に寝たきりで、一応席に着いたものの、ご飯は部屋でお腹に開けた穴から、職員が宇宙食みたいな、袋に入った流動食をチューブを通して胃に流しこむ。いわゆる「胃瘻」というやつだ。
最近、医者は手術で儲けるために、あるいは食事介助の手間を減らすために、少し嚥下が悪くなると、直ぐにお腹に穴を開けたがるらしい。しかし、実際に口から食べる練習をすると、食べられるようになる人も多く、ここの施設でも、口から食べられるようになった人が何人かいる。
大腸のS状結腸をお腹の外に出し、人工肛門を作り、便をパウチと呼ばれる袋に排泄する、いわゆるストーマの人も数人いる。
謙三は右麻痺になってから、言葉を喋れなくなり、悔しくてしょうがなかったのだが、ある日、目の前の、目だけが動いているそのおばあちゃんを見ていたら、どこからか声がする。
「お兄さん、お兄さん」
と、声が聞こえる。自分はお兄さんではないし、でも周りには誰もいない。
もう一度おばあちゃんを見ると、目が自分をみているし、確かに自分を呼んでいるように見える。
「そうだよ。貴方だよ。口がきけない者同士は、心で話ができるようになったりするんだよ。」
「そうなんだ。信じられない。でもうれしい。久しぶりに人と話ができる。」
謙三はうれしくてにっこりすると、顔の表情さえ作れない、無表情のおばあちゃんの顔も、少しうれしそうに見えた。
人間はある機能が失われると、違う機能が発達するというが、言葉を失ったおかげで、テレパシーの能力が発達したのだろうか。
謙三にとって理由はどうでもよかった。ともかく、謙三は喋れない者同士だけでも、意思疎通が出来るようになって嬉しかった。
「おばあちゃん、おはよう」
謙三が、おばあちゃんに挨拶をすると
「あなたは若くていいね。私は若いとき公務員をしてたんだよ。一生懸命に仕事を頑張ってきたのに、年金も子供たちに取られ、揚げ句の果ては、こんなところに入れられてしまった。それになんにも動けないし、話も出来ないもんだから、ここの職員にも子供扱いされるし、赤ちゃんと同じだよ。何のために生きているのか分からない。もうお迎えが早く来てほしいんだけど」
と、声が聞こえると、おばあちゃんの顔が悲しそうに見えた。
「おばあちゃん、おばあちゃん。そんなことを言うもんじゃないよ。僕なんか、まだ七十代なのに、こんなことになっちゃって。悲惨なもんだよ。言葉を喋れないもんだから、二十代三十代の職員たちにも、馬鹿にされる始末だ。だけど、嫌われないように気を使わないといけない。嫌われたら世話してもらえないからね。情けないもんだよ。」
謙三は情けない顔をしながら、目の前のおばあちゃんに語りかける。そしてみよちゃんの方を向き
「おばあちゃんは、一人暮らしだから、施設に入るのは、しょうがないとしても、あそこのみよちゃんなんか、この街に、子供さんが何人もいるのに、認知症になったとたん、誰も引き取ろうとしない。昔は汚い養老院があって、そんなところに入れようものなら、周りから、姥捨て山に親を捨てた、と言われそうで、しょうがなく、子供が面倒見なければならなかったのに、今は綺麗な施設が沢山出来、施設に入れるのが、抵抗なくできるようになったもんだから、みんな家族と離れ、見ず知らずの人達と一緒に、生活しなければならなくなった。会いに来ることも殆どないよ。きっと、今の子供たちも、歳を取れば親の気持ちがわかるだろう。おばあちゃんも寂しいだろうけど、何かあったら僕に言ってよ。何にもできないけど、聞いてあげることだけはできる。」
「あんたこそ自分一人で悩まないで、私に相談しなさいよ。ここは全く監獄と一緒なんだから。若いあんたには辛すぎると思うよ。」
暫くするととことこと、杖を突いた九十六歳のお婆ちゃん外園さんが、食堂にやってきた。この階では一番高齢ではあるが、頭も体も一番しっかりしている。
「みなさんおはようございます。今日もいい天気ですね。」
と言いながら席に着いた。
「外園さんはどうもないみたいだけど、なんでこの施設にいるの?子供さんもいるんだろうに。」
社長が聞いた。
「私は島にいたのよ。島の子供たちは、中学校を卒業したら皆、集団就職で東京や大阪に行っちゃうんだ。だけどね。私は、頑張って子供たちを、本土の高校へ出したんだよ。ほとんど食うや食わずの生活で、子供三人に仕送りをしてきたよ。ポンカンやサトウキビを作ったり、牛や豚を飼ったり。島で現金を作るって、大変なことだったよ。高校卒業したら、子供たちは、大学や就職で皆、都会に出て行ってしまった。主人も死んで、残された私は、一人ぼっちになってしまって。だからここに入ったのよ。」
田舎では、親が死に物狂いで子供を育て、都会に送り出してきた。その子供たちが、日本の高度成長を作り出してきたのだが、田舎では、年老いた親だけが残されているのだ。
最後に、九十二歳の元将校のおじいさんも、朝の挨拶をしながらやって来て
「ほら見てごらん。大きな豪華客船が入ってきたぞ。今日の船は、十一万七千トンだ。ここに入る船では、一番大きな船だ。」
と、皆に、外を指さしながら言った。
外を見ると大きな船が、朝日を受けキラキラ輝きながら、今まさに、港に入ろうとしていた。そこの波止場は、豪華客船の誘致のために、自然を破壊して作った人工島で、月に数回、豪華客船が入港する。
「あれはイギリスの船だ。一度でいいからあんな船に乗って、どこか遠くへ行ってみたいもんだ。天国へ行くとしたら、あの船で三途の川を渡りたい。しかし、ああいう豪華客船に乗って世界一周をしている人間もいれば、こんな箱の中で、回りに気を使いながら、死を待っている人間もいる。哀れなもんだ。」
元将校さんは、しみじみと言った。
「しかし、人工島にしても、原発にしても、あれだけ反対しておきながら、最近は、何事もなかったかのように、静かになってしまった。もちろん、お上も、それを見込んで強行するんだろうけど。」
と、社長が言った。
エレベーターが開く音が聞こえ、食膳を乗せた台車が到着し、職員が食事を配った。胃瘻のおばあちゃんは部屋に帰り、後のメンバーは、テレビを見ながら、黙々と朝食をとった。
朝食が終わり、部屋に帰って暫くすると、ドアをノックする音が聞こえ
「謙三さん、今日はデイサービスですよ。一階に下りてください。」
と、職員の声が聞こえた。
「そうか、今日はデイの日だったんだ。」
謙三の場合、デイサービスに通う日は、週三回組まれている。子供達が、毎日学校に通うのと同じように、朝から夕方まで、デイサービスに通わなければならない。
あるおばあちゃんは
「ここは幼稚園と一緒。養老園だよ。」
と、いつも言っている。
謙三も、あまりデイサービスには行きたくないのだが、ケアマネージャーという人が、強引に組んでしまっている。本来は、自分で決めるものなのに、年寄りには判断能力がないということで、ほとんど、ケアマネージャーが決めてしまうのだ。
デイサービスの回数は、本人の必要性に応じて決められるものだが、現実には施設の利益が優先される事が多い。
医療保険とか介護保険は、点数で収入が決まっているので、競争相手と価格競争になることがないし、回数が多いほど利益が上がる。美味しい商売なのだ。
謙三が若いころ、病院に行った時
「ちょっと高すぎるよ。もっと安くできないか?」
と値切ったら、病院の受付の人が
「はあ?これは国が決めているので、安くはできないんです。病院で値切るなんて、初めてですよ。」
と小馬鹿にされた事があった。
これはいい商売だ。どの商売も、価格競争で苦しんでいるのに、この世界だけは定価で商売できるんだ。これは美味しい商売だ、とその時思ったものだ。
一階に降りると、まだ誰も来ていない、と思ったら、いつもの玄関のドアに窓際のよっこちゃんが立っていた。
「私、帰りたいの。うちに帰るの」
よっこちゃんは一人暮らしで、その家も子供たちが処分してしまい、帰ろうにも帰る家もないのだが、認知症の彼女には、そういう事情は分からない。毎日、一日中玄関のドアの前か、窓の前に立っている。玄関のドアは二重ドアになっており、内側のドアは、右端と左端のスイッチを、両方押さないと開かないようになっている。彼女にはそれがわからず、ただただ毎日ドアの前に立っている。
次に、眼鏡をかけた、背の低いかめさんことカメマツさんが、シルバーカーを押しながら、玄関にやってきて
「今日は、娘はまだ来ないですか?」
玄関横の、事務室の女性に向かって聞いた。
「今日は来ない日ですよ。さっき言ったばかりでしょ。今日もう三度目ですよ」
怒ったように、かめさんに言った。
かめさんの娘さんは、水曜と日曜にやって来て、一緒に出掛けることになっているのだが、彼女には、曜日の感覚はない。毎日、何度となく玄関に行っては、娘さんがやってくるのを待っている。
謙三が、デイルームの、いつもの席について待っていると、次から次に、デイ利用者の人たちがやって来て、それぞれの席に着いた。ここでは、毎日三十人の人たちが、デイを利用している。
「うわ~」
男性職員の叫び声が、デイルームに鳴り響いた。デイの入り口付近を見ると、車椅子に座ったおばあちゃんが、男性職員の股間を握っていた。
目のぎょろっとした、そのおばあちゃんは、リクライニング式の車椅子に、横たわるように乗り、体はほとんど動かないのだが、顔面と手だけは動き、理性は失われ、男性の股間ばかりを、いつも狙っている。
「油断した。忙しくて、そこにいるのに気が付かなかった」
と、苦笑いしながら、逃げるように、その男性職員は、別の利用者の送迎の為に、エレベーターに乗り込んだ。
九時二十五分から、デイサービスが始まる。血圧や体温を測ったりした後、まず、ラジオ体操をスクリーンを見ながらするのだが、どんなに認知症が進んでいても、ラジオ体操は皆、覚えているらしい。スクリーンを見なくても、皆、音楽に合わせて、手足を動かしている。
九十六歳のおばあちゃんが、
「ラジオ体操なんて、見なくても覚えているよ。私は記憶力がいいんだよ。私たちが小学一年生の時の教科書には、まず最初に、さいた、さいた、さくらがさいた、が書いてあったよ。」
と言うと、周りの利用者たちが
「こいこい、シロこい。すすめ、すすめ、兵隊すすめ」
と続きを合唱し、大笑いする。
昔の若い時に刷り込まれた長期記憶は、なかなか忘れないものらしい。
その九十六歳のおばあちゃんには、物盗られ妄想があり、財布などを置いたところを忘れ、誰かに盗まれたと、殆ど毎日、騒いでいるのだが。
体操が終わると、入浴の順番を待ちながらお茶タイムになる。皆、銘々にお茶を飲みながら、隣の人と談笑をする。
「私は、辞め金でヨーロッパを回ってきたよ。ベルサイユ宮殿やロマンチック街道に行って来た。トレビの泉で、また来れますように、と言って、後ろ向きでお金を投げたのに、もう行けなくなってしまった。あの時、行っといてよかった。近所の人たちは、辞め金を使って外国へ行って、いい身分だこと。と言っていたが、お土産を渡すと、よかったねえ、とコロッと変ったよ。人間、現金なもんだね」
小柄な、片麻痺のため歩行器でようやく歩く「よっちんがったんさん」と呼ばれるおばあちゃんがそう言うと、目の前に座っていた元美容師のおばあちゃんが、
「またその話をしてる。辞め金て退職金のことなんでしょう。その話はもう聞き飽きたよ!」
と叫んだ。そして
「私なんかね。昔、映画女優にスカウトされたんだよ。でも断った。映画女優も、いい時はいいけど、悪い時は何にも仕事が来なくなるから、手に職をつけなさいって、保険会社の支店長をしていたおじさんに言われて、美容師になったんだよ」
よっちんがったんさんが、手を横に振りながら
「その話も、何度も聞いたよ」
と反撃し、みんな大笑いした。
その隣にいた、八十歳ぐらいの、妄想の激しいおばあちゃんが、
「私の甥っ子は、石原裕次郎なんだよ。朴大統領も私の親戚だし、大統領選に出たヒラリーさんも、遠い親戚になるんだよ。」
と、言うと、
「そりゃすごい。今度、私にも会わせてちょうだい」
よっちんがったんさんが、手でグーチョキそして頭の上でパーをし、
「みんなこれだから、だからここにいるんだよね」
と言うと、皆で大笑いになった。
元美容師のおばあちゃんが、ふと横を見ると、昼はいつも寝てて、夜になると起きだし、徘徊を始めるおばあちゃんが、いつものように、椅子に座ったまま寝ている。
「また寝てる。ほら起きなさい。どうせ、もう少ししたら、永遠に眠れるんだから。」
「あああ、また寝てたね。でも、早く永遠に寝たいんだけど。」
と、言いながらまた寝てしまった。
皆、それぞれに言いたいことを言い、そして毎日、同じ話を繰り返しながら、時が過ぎていった。
「さちこさん、お風呂ですよ」
入居したばかりで、初めてデイサービスに来た、まだ七十代のさちこさんを、職員が迎えに来た。
お風呂に行くと、男性職員が、
「さあ服を脱いで、お風呂に入りますよ。」
と言うと、さちこさんは
「きゃあ!何をするの。男の人は出て行って。」
と叫んだ。
先に裸になっていた、隣のおばあちゃんが
「大丈夫。最初は恥ずかしいけど、直ぐに慣れるよ。自分で入れないんだから、しょうがないじゃない。」
さちこさんは、渋々、裸になって、男性職員に背中を洗ってもらう。男の人に体を洗って貰うなんて、考えられない。特に、男尊女卑の時代に育った人達には、あり得ないことなのだ。しかし、他の人達は当たり前のように、若い男の人に、体を洗って貰っている。今では慣れて、皆どうもないらしい。
「あ、またやっちゃった。」
職員が、眉をしかめながら言った。浴槽の中に、茶色いものが浮かんでいる。
「また、お風呂のお湯を替えないといけない。」
まだ良い方だ。ズボンを脱がすと便だらけとか、体を洗っている最中に、便が出る人もいるのだ。
お風呂も終わり、昼食も終わると、昼寝の時間になる。眠くもないのに寝ないといけないなんて、おかしい話だが、つまらないデイサービスに付き合っているよりは、まだ寝ている方が楽だと思い、謙三もベッドに横になる。
みんなが寝静まると、職員のヒソヒソ話が始まった。ここの職員は、元々声がでかいので、ヒソヒソ話にはならないのだが。
「俺はここを辞めるよ。ここの給料じゃ、家族を養っていけない。」
「本当だね。なんで介護の世界って待遇が悪いんだろうね。今から一番必要な職業なのに、こんな給料じゃ、なり手がないよ。パートのおばさんの為の職業だね」
「旦那の給料が入って、奥さんの小遣い稼ぎのための職業だね。毎月の給料が十五万もあればこの世界では高給取りだからね。」
「あべちゃんが、介護離職ゼロとか言っているけど、資格を取るのに入学金を安くするとか、再就職したらお金をあげる、とかじゃだめだよ。分かってないね。待遇をよくしないと、同じことだよ。」
「介護報酬は決まっているし、その介護報酬も減る一方だ。昇給なんてありえない。介護の世界なんて、お先真っ暗だよ。これでは、結婚することもできない。現場をよく見てほしいよ。あべちゃん。」
ベッドに横になったまま謙三は、
「なるほど、介護はそんなに待遇が悪いのか。きつい、汚い、それに給料が安ければ、誰もなり手がいない。これから、団塊の世代の人達が歳を取れば、一番必要な職業なのに。昔の若い人は、こんな仕事は絶対にしなかった。まったく頭が下がる。自然は水のように、高いところから低いところへと流れる。しかしお金は逆だ。持っている人の方へ、お金は集まる。経営者が儲かるばかりだ。きつい仕事を、一生懸命頑張っている人達の待遇を良くしないと、日本はおしまいだ。」
と思いながら、いつの間にか、夢の中へと入っていった。
午後は脳トレが始まった。二桁の足し算と、二桁の掛け算と割り算のプリントが渡された。
謙三は、
「馬鹿にするんじゃない。俺は大学も出てるんだぞ。こんな、小学生みたいな問題ができるか」
と、心で言いながら、プリントをやってみるが、足し算はできても、二桁の掛け算がなかなかできない。それでも掛け算を何とか終わらせたが、割り算となると、全くやり方が分からなくなっている。
謙三は
「これは脳トレなんかじゃない。自分が、これだけの能力しかないんだというのを、認識させるためのプリントだ。プライドを、ズタズタにするためのプリントだ。」
と思った。
その隣でも、九十二歳の元将校さんが怒っている。
しかし彼のプリントを見ると、全問答えが書いてある。職員が
「すごい、全問正解ですよ。」
と言うと、彼は
「こんなもん、できて当たり前だ。もっと、歯ごたえのある問題を持ってこい」
と言うと、改めて職員が持ってきた四字熟語の問題を解き始めたが、これも、あっという間に終わってしまった。
職員に答え調べを頼むと、職員は
「私にも分からない。解答を持ってきますね」
と言い、正解の書いた紙を持って来たが、やはり全問正解であった。
「おみそれいたしました。」
と、恥ずかしそうに、職員は退散していった。
このおじいちゃんは、昔の中学を出た後、幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、ビルマの戦地で将校として活躍して復員したのだが、つい先日、自叙伝を自費出版したばかりの方である。
謙三は、九十歳代のおじいちゃんに負けたことが恥ずかしく、悔しかった。
暫くして、デイサービスの、終わりの体操が始まった。それが終わると、階ごとに、エレベーターで部屋に帰ことになる。
しかし、体操がまだ終わっていないのに、数人が、エレベーターへと移動を始めた。
「まだデイサービスは終わっていませんよ」
と、職員が言っても、
「終わった終わった」
と言いながら、車椅子を漕いだり、杖で歩いたりしながら、我先へとエレベーターへと急いで行く。謙三は、エレベーターで自分の階に上り、食堂へ行くと、そこにはすけさんと、火山みたいに爆発寸前の社長が、顔を真っ赤にして立っていた。そして、その顔には、真っ白のガーゼが貼られていた。
「すけさん。あの山を見たまえ。紅葉で真っ赤に染まって綺麗だろう。だけど、あの紅葉も、もう暫くしたら、枯れて落ちてしまうだろう。枯れて落ちてしまう前は、あんなに鮮やかに、自分を輝かせるんだ。君はこのまま、ここで朽ち果てていいと、思っているのかい?」
「社長。社長は何を言っているの?」
すけさんは、不思議そうな顔で、社長の顔を覗きながら言った。
「俺はなあ。外出禁止になってしまったんだ。もうどこへも行けなくなってしまった。」
社長は、歩行は少し不安定ではあるが、ある程度の理解力はあるし、頑固で、言い出したら聞かない、ということで、タクシーを使っての外出は許されていた。
外出は、デイサービスがない日の週2~3回であるが、必ずと言っていいほど、昔ながらの老舗のデパートに出掛ける。お年寄りの共通の好きなものは、演歌と相撲、のど自慢、水戸黄門、そして老舗のデパートである。デパートに行くと、必ず帰りには、職員に名物の饅頭を買ってくる。
しかし、買ってくるのはいいが、職員が何も言わないと、
「あいつはお礼も言わない」
と、機嫌を悪くする。
しかし、いつからか、デパートの帰り、パチンコに行くようになったらしい。職員にも、今日はいくら負けたとか、いくら勝ったとかの話をしていたという。
その日、いつものようにデパートの帰り、パチンコ屋に寄ったら、入り口の階段で躓き、転んでしまった。そしてすぐに救急車で病院に運ばれてしまった。
病院から施設に連絡が入り、施設長が迎えに行った。しかし、幸いに怪我の程度はたいしたことはなかったものの、施設長から、外出は全面禁止、と言われてしまったのだ。
「すけさん、かくさん。君たちの人生はこのままでいいと思っているのか。この監獄みたいなところで縛られて、外を知らない籠の鳥のままで、人生を終わらせていいと思っているのかい?」
「私は終の住まいを探し回って、やっとここに決めたんだ。ここで朽ち果てる覚悟で入居したから、何の不満もないね」
いつの間にか、九十二歳の元将校が、悟りきったような顔で言った。
「あなたは、もう歳だから、それでいいと思っているだろうが、私はあなたの年になるまで、まだ十年ぐらいある。すけさんも一緒だ。かくさんなんか、まだ二十年ぐらいもあるんだ」
社長は、年寄りの出る幕じゃないね、と言わんばかりに元将校を睨んだ。
「私は嫌だね。前入院していた精神病院よりはまだましだけど、無理やり、子供たちにここに入れられ、たばこも吸えない、焼酎も飲めない、カラオケにも行けない、女も抱けない。まだやりたいことはいっぱいあるんだ。このまま何十年も、この中で、同じことの繰り返しで死んでいくなんて。何のために生きているんだ、と毎日思っているよ。」
すけさんは、全くその通りという顔で、社長に言った。
「ああうう、あああああ」
頭を縦に振り、左手で自分を指さしながら、かくさんも同意の表現をした。
「そうだろう、そうだろう。さあ、みんなで理想郷を捜しにいくんだ」
「理想郷を捜しにいくったって、社長。これは、どうしようもないことでしょう。ここから出るなんて有り得ない。行くところもないし、理想郷なんて夢の夢。」
すけさんがそう言うと、社長は
「そんなことはない。夢は叶えてこそ意味がある。このまま朽ち果てるなんて、死んでも死にきれない。俺に考えがある。今日の夜、ご飯が終わったら、みんなで打ち合わせすることにしよう」
と言うと、すけさんが
「さすが社長。頼りになるなあ。今着けている時計も、立派なもんだ。高そうですね」
「ああこの時計か。前の時計が壊れたもんで、職員に頼んで、買ってきてもらったんだ。なんだか、今どきのって感じで、恥ずかしいんだが」
照れくさそうに、それでも自慢げに、苦笑いをしながら社長は言った。
エレベーターが開き、夕食が運ばれてきた。
「もうこの話は後だ。職員にも、他の人にも、絶対に喋ったらだめだぞ」
職員の若い女の子が、配膳車からお膳を配りながら、
「あら、今日はみなさんお集まりが早いですこと。きっと、良からぬ話でもしていたんでしょう。職員の悪口とか」
と言うと
「ううああうう。」(そんなことはない)
と謙三が、頭を横に振りながら言うと
「この人たちは、良からぬ相談事をしているぞ。気を付けた方がいいぞ」
と元将校が言った。
みんなドキッとしたが、その職員は、どうせ他愛のない話だろうと、笑みを浮かべながら、他の階へと、配膳車を運んで行った。
胃瘻のおばあちゃんが、謙三にテレパシーを発した。
「羨ましい。私が五体満足だったら、真っ先に参加するよ。年をとっても夢を持つことは素晴らしいことだ。やるだけのことはやってみなさい。どうせだめでも、元の生活に戻るだけだ」
「ありがとうおばあちゃん。おばあちゃんも連れて行きたいけど。ごめんね」
謙三は、おばあちゃんに対し、何もできない自分を恥ずかしく思った。
皆、黙々とテレビも点けずに、夕ご飯を食べた。社長が小声で
「いいか。一緒に行きたい人は、今日の八時にここへ集合だ。分かったね」
みんな、コックリと頷いた。
謙三は、食事が終わり部屋に帰ると、社長の言葉を考えていた。
「どこかへ逃走するというのだろうか。そんなこと出来る筈がない。職員も何人もいるし、それに、どこへ行くというのだろうか?有り得ない」
考えても考えても、現実のこととは思えなかった。
八時になり食堂へ行くと、もう既に、社長とすけさんは席に座っていた。
「私の考えでは、メンバーはこの三人とみよちゃん、そして窓際のよっこちゃんの五人だ。どう思う?」
「みよちゃんは同じ階だし、窓際のよっこちゃんは、いつもドアの前に立っていて、可哀想だからね。それに、歩くのは普通だし、いいんじゃないの。でもかくさんは歩けないよ。車椅子だから無理じゃないの?」
とすけさんが言うと
「何を言ってる。同じ仲間じゃないか。それにかくさんの面倒を見るのは、あなた、すけさんに決まっている」
みよちゃんも、よっこちゃんも、まだ七十代で若く、みよちゃんは、顔だちも上品な感じで、社長のお気に入りだった。よっこちゃんは、いつもドアの前に立ち、誰しもどうにかしてあげたい、と思っていたので、全員納得をした。
「まず流れを説明しよう。決行に移すのは、明日の一時から二時の間の昼寝の時間だ。早い方がいい。この時間は、職員も休憩に入り、見守りは二人だけだ。おまけに見守りも、うとうとしていることが多い。ドアの前の事務室も誰もいない」
「なるほど、さすが社長。観察が鋭い。」
すけさんは、感心したように言った。
「俺がタイミングを探すので、合図があったら、すけさんは、かくさんの車椅子を押してドアを出る。みよちゃんは俺が連れに行く。よっこちゃんは、いつもドアの前にいるので、そのまま外に連れ出せばよい」
「うん、簡単なもんだ。だけど社長。どこへ行くんですか?」
すけさんが不思議そうに聞くと、社長は
「俺の本宅へ行くと、直ぐにバレてしまう。俺の別宅へ行こう。俺の妾に住まわせていたんだが、その妾も死んでしまった。そこだったら、誰も知らない。職員も絶対分かりっこない」
そう言うと、社長は自慢そうな顔をした。
「社長。そこは遠いんですか。僕は遠くまで車椅子を押せませんよ」
と、すけさんが聞くと
「車で、ほんの十分程度のもんさ」
と、社長が言うと
「いやいや、車は誰も持っていないし、車は車でも、車椅子だからねえ。一時間はかかるでしょう」
と、すけさんが、無理無理という顔しながら言った。
「大丈夫。近くにタクシー屋があるので、そこまでだ。そこからは、介護タクシーに乗っていけばよい」
「う~ん。なるほど。よく考えておられる。それだったらうまくいくよ。その別宅にさへ着けば、後は、主婦をしていた女が、二人もいるんだ。飯はどうにかなるだろう」
すけさんは、右手で左の掌を打ちながら、もう既に、成功したような顔で言った。
「よしそれで決まりだ。決行は早い方がいい。明日の昼だ。すけさん、かくさん。怠りなく準備をしておくように」
謙三は、準備といっても何を準備するべきなのか、皆目見当がつかなかったが、ともかく明日だということで、ワクワクしてきた。
「目の前の火山を見たまえ。ここの先人たちは、あの火山より燃えていた。だけど我々はいつまでも過去に頼っていてはいけない。いつまでたっても過去の歴史に頼っていては、先人たちも、さぞかし泣いていることだろう。我々も、老人たちの維新を起こすんだ。最後に、燃えるだけ燃えて、若者たちの心を変えるんだ。いいか、すけさん、かくさん」
社長は胸の前で腕を組み、山を見つめ、涙ぐみながら言った。
「ヘイ社長」
二人は社長に合わせるように、勢いよく返事した。まるで赤城の山、に三人ともなってしまっていた。
部屋に帰ると、謙三は興奮を抑えきれずにいた。何をしたらいいのか分からないが、なんとなく、本当にできるような気がして、興奮に酔いしれていた。次の朝、いつものように、職員にパッド交換と更衣をして貰うと、謙三は食堂へ向かった。
もう既に、この階の人たちは集まっていた。社長もすけさんも、少し興奮気味に見えた。社長は、いつもより背筋を伸ばし、すけさんは、きょろきょろあたりを見回し、落ち着きのないように見える。しかし一番興奮していたのは謙三だったかもしれない。うまく車椅子が漕げずに、あっちこっちの壁に、車椅子を当てながら、ようやく、自分の席に着くことができた。
席に着くと、胃瘻のおばあちゃんから、メッセージが届いた。
「ついにやるらしいね。うまくやるんだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ。頑張るんだよ。折しも、今日は真珠湾攻撃の日だね。」
「ありがとう、おばあちゃん」
朝食が終わると、社長からメモ用紙が回ってきた。
『ニイタカヤマノボレ一二〇八
一三時三〇分
鎌田:タクシーに電話連絡
橋のたもとにタクシーを待機させる
↓
鎌田:職員の隙ができたら、すけさんに合
図を送る
↓
全員:ドアの前に移動
↓
鎌田:ドアを開ける
↓
すけさん:かくさんを押して外へ
一目散に駐車場から外へ出る
↓
鎌田:よっこちゃんとみよちゃんを連れ、
すけさんを追いかける。
↓
橋のたもとまで、後を見ずに走る
↓
全員:タクシーに乗り込み蒲田の別宅へ
↓
脱出成功 』
と、とても単純なメモであったが、謙三は、胸の高まりを抑えることができなかった。
朝食が終わると、部屋に戻り、いつものようにデイサービスの荷物を持ち、車椅子の後ろには、一応オムツとパッドを一揃え入れ、一階へ降りて行った。
一階に降りると、いつものように、窓際のよっこちゃんがドアの前に立っている。
「よっこちゃんは、いつでも準備万端だな。よっこちゃんは、きっと、今日のこの日が来るのを、毎日、待っていたに違いない」
と、謙三は思った。
社長は、そのよっこちゃんを連れ、みよちゃんの所へ行くと、今日のことを説明している。
「今日は、お昼に、見守りの職員が寝たとき、外へ連れて行ってあげるから、昼寝はしないようにね。」
「え!おうちに帰れるの?やった!ばんざ~い」
二人とも大喜び
「静かに。これは内緒だから。それにおうちじゃなくて、私の家だからね。」
社長は、すけさんを呼ぶと
「タクシーはさっき連絡して、橋を渡ったところで待つようにしてある。そこまでは、かくさんを押して頑張ってくれ。」
「はい、分かりました。さすが、社長は抜かりがない。」
午前中の体操も終わり、入浴を社長もすけさんも断った。謙三は全く一人では風呂に入れないため、入浴はしたが、その間、社長もすけさんも落ち着きがなく、デイサービスの中でうろうろしている。
入浴が終わると、嚥下体操が始まり、あっという間にお昼ご飯となった。しかし、三人には、午前中の時間がとても長く思えた。
昼食が終わると、ついに昼寝の時間となる。社長もすけさんも、そして謙三さえも、昼寝を断った。
「夕べ寝過ぎたから、今は眠くない。」
と、社長が言うと
「おかしいわね~。いつも早く寝かせろとうるさい人たちが。」
職員が、怪訝そうな顔で言ったが、言い出したら聞かないし、いつもの我儘だろうと、みよちゃんに声をかけた。
「みよちゃん、さあ寝ますよ。」
と声をかけると、みよちゃんは
「今日はね、おうちに帰るの。だから今日は寝ないの。」
三人ともドキっとしたが、職員は
「いつものことか。いいですよ。じゃあ起きてて、テレビでも見といてください。」
よっこちゃんは、いつもの通り、寝ないでドアの近くに立っている。
五人を除いては、皆、ベッドに横になり、昼寝になった。灯りもすべて消され、遮光カーテンも閉められた。ホールは真っ暗になり、テレビだけが煌々と明るかった。
社長は、ホール内をうろうろし、逃亡のタイミングを探していたが、なかなか、事務室の女性も立ち去らない。見守りの職員達も、まだ、テレビを見ていて元気である。
「しょうがない。いましばらく様子を見るか。」
社長も椅子に腰かけ、テレビを見ることにした。テレビを見ながら、うとうとし始めたころ、ふと、ドアの方を見ると、窓際のよっこちゃんが、何やら右手の親指と人差し指で丸を作り、ドアの方から、こっちを見ている。
社長が、急いでドアの方へ行くと、玄関も事務室も真っ暗になり、誰もいなくなっている。そして見守りの職員も、二人ともテーブルにうつ伏せになり、寝てしまっている。
「今だ!」
社長は、すけさんに両手で丸を作り、合図を送った。すけさんは、職員に気付かれないように、そっと謙三の車椅子を押し、ドアの方へ向かった。
社長は、ドアの両側のスイッチを押し、ドアを開け、すけさんとかくさんを送り出すと、みよちゃんを迎えに行った。みよちゃんは
「どこへ行くの?まだみんな寝てるよ。」
「いいから、今は時間が無いんだ。」
朝説明したのに、もうとっくに忘れてしまっているみよちゃんだが、今はまた説明している暇はない。ドアの前で待っていたよっこちゃんと、みよちゃんの二人の手を引くと、ドアの外へ、一目散に飛び出した。
外へ出ると、もう既に、すけさんは駐車場の外へ出ていた。ここの施設は、人工の出島の中にあり、周りを海で囲まれ、人工島から出るには、一本しかない橋の袂まで、海沿いの凸凹した道を走らないといけなかった。
すけさんは、謙三の車椅子を一生懸命に押したが、足が石に躓いてしまい、転んでしまった。その拍子に、車椅子から手が離れ、車椅子は転がったまま、ブロック塀に突き当たってしまった。その衝撃で、謙三は、車椅子から前方へ、ずり落ちてしまった。
ブロック塀の反対側は塀もなく、落ちれば海の中に真っ逆さま、土左衛門となるところだったが、幸いにも車椅子は、塀の方へと転がっていき、命拾いをした。
「大丈夫か。」
社長達も追い付いて来て、すけさんと一緒に謙三を持ち上げ、車椅子に乗せようとしたが、謙三は体格がいいものだから、二人とも汗びっしょりになりながら、ようやく謙三を乗せることができた。
「遅くなった。早く行こう。」
社長は、みよちゃんとよっこちゃんの手を引き急いだ。女性二人は、足はどうもないので、走るのは社長より早く、逆に、二人の方が社長を引っ張る形になった。
「ねえ。私たち何をしているの?どこへ行くの?」
みよちゃんが言った。
「おうちに帰るのよ。やっと帰れるのよ。おうちに帰れば、お父さんも子供たちも待っているのよ。」
よっこちゃんが嬉しそうに言った。よっこちゃんの夫は、とうの昔に亡くなっているし、子供たちだって、みんなよそに行って、家には誰もいないのだが、よっこちゃんには、昔の記憶しか残っていない。
「ともかく、見つからないうちに、早くタクシーのところまで行くんだ。」
海沿いに角を曲がると、少し坂になったところに橋があった。この出島に唯一掛かっている橋で、台風の時など、波が高い時は通れなくなり、孤島となってしまうため、橋は少し高く架けてある。幸い今日は、波もなくスムーズに通れるのだが、そこまでの坂は、車椅子を押すのには結構力が要る。
すけさんが汗だくになりながら、ようやく車椅子を押して橋を渡ると、そこにはタクシーが二台待機していた。一台は普通のタクシーで、もう一台は、車椅子用の介護タクシーだ。
「遅かったですね、社長。さあ早く乗って。追手がすぐにやってきますよ。」
タクシーの運転手二人が、手際よく、車椅子の謙三を、車椅子に乗ったまま介護タクシーへ乗せ、すけさんを助手席へ乗せると、残りの三人を、もう一台の普通タクシーに乗せた。
運転手は、タクシーのエンジンをかけ、発車させると、
「ああ、これで一安心。駆け落ちのかた場を担いだとあっちゃ、我々もこの施設からの仕事が来なくなりますからね。」
「駆け落ちではない!我々は自由を求めて新天地に行くのだ。」
社長が怒って言った。
「へい。社長の別宅ですね。あのお妾さんも綺麗な方でしたからね。」
「分かった、分かった。どうでもいいから早く家に連れて行ってくれ。ところで君は個人情報保護法という言葉を、知っているかね」
社長が運転手に聞くと、
「もちろんですよ。我々運転手にも守秘義務というのがあるんです。絶対に、誰にも言いません。私は、口が堅いので有名なんですから。」
「自分で口が堅いという人で、ほんとに口が堅い人を、見たことがないけどね。」
と言って、みんなで大笑いをした。車に乗ったことで、みんなホッとした。
介護タクシーの助手席では
「いや~。やっぱり、シャバの空気はいいね。」
すけさんが首にかけたタオルで汗を拭くながら言った。
タクシーに乗ったことで、安堵感と落ち着きを取り戻した社長が、窓の外を見ながら
「ほら、歩いている人達を見てごらん。あと十年もすれば、歩いている人の殆どは認知症だ。皆、帰るところが分からず、迷子の年寄りだらけさ。車の運転手も、認知症だらけで、怖くてしょうがない時代になるよ」
タクシーの運転手は、ドキッとした顔で社長を見て言った。
「私はまだ六十代で若いし、認知症なんかじゃないですからね。安心してください。」
タクシーは、海岸線から約二十分位走ると、住宅街へと入って行った。
タクシーの運転手が
「社長。ここら辺でしたかね?」
と言うと、
「そこだ。その右へ曲がった所で降ろしてくれ。」
タクシーは、住宅街の細い道を右に曲がると、大きい屋敷の前で止まった。
タクシーから降り、目の前の家を見ると、そこは高い塀に囲まれ、庭には大きな柘植の木の聳える、二階建ての邸宅だった。
介護タクシーは、すけさんと謙三をおろすと帰っていった。普通タクシーの運転手が
「社長、代金をお願いします。」
と言い、両手を差し出すと、玄関先で、ポケットを探っていた社長が
「おかしいな。鍵が無い」
社長は運転手の方を向いて
「鍵を置いてきたみたいだ。施設に行って俺の部屋から、鍵をもって来てくれ」
慌てて、すけさんは、両手で社長の腕を掴むと
「社長、ちょっと待って。そんなことしたら直ぐにバレてしまうでしょう」
と言うと、社長は腕組みをし
「そうか、そうだよなあ。そうだ、妾は俺が来るだろうと、いつも二階のベランダの窓の鍵を、開けておいてくれた。若しかしたら、まだ鍵が開いているかも知れない」
二階の窓を指さしながら、そう言うと、家の裏に回り、脚立を担いで来た。
そして、運転手の方を向くと
「この脚立で屋根に上り、あのベランダの窓から、中に入ってくれ」
と言うと、運転手はびっくりした顔をして
「ええ! 私がですか?」
社長は、運転手をキッと睨みながら
「他にできる者がおらん。頼む」
と言い、両手を合わせた。
「しょうがないなあ」
運転手は、渋々、脚立を開いて伸ばし、一階の屋根にかけると、脚立を登って行った。
そして恐る恐る、脚立から屋根に移り、ベランダに上がると、二階のサッシを開けようとした。
運転手は五人の方を向くと、両手で大きく丸を作った。
「やった! 開いた。良かった!」
すけさんが大声で叫び、五人は手を取り合って喜んだ。
社長は、運転手に大きな声で叫んだ。
「中に入ったら、階段を降りて、右側の玄関の鍵を開けてくれ」
運転手がサッシから中に入ると、家の中から
「トントントン」
と、階段を降りる音がし、
「ガラガラガラ」
という音と共に玄関が開き、運転手が中から出て来た。
「ばんざ~い。ばんざ~い」
外の五人は抱き合って喜ぶと、すけさんが
「これで、天国の扉が開いた」
と、言った。